第39話 祓い屋の仕事
「まずは、その扇子を見せてもらってもいいですか?」
「あ、はい。今出しますね」
紫呉に聞かれた野田は、慌てた様子で手にぶら下げていた紙袋の中身を取り出した。
出てきたのは、桐箱である。中には黒地のシンプルな扇子が収められていた。見るからに高そうである。
(こういう扇子って、いくらくらいするのかな?)
それを何気なく見つめた湊だったが、ふと何か黒いもやのようなものが見えて、目を見張った。
思わず両目を手で擦る。それからまた見直してみるが、やはり変わらなかった。
どうやら扇子の色が黒いから、というわけではないらしい。
湊はつい首を傾げそうになる。だが次の瞬間、背筋に冷たいものが走って、反射的に自身の身体を抱き締めた。
「……っ!」
そんな湊の様子に気づき、顔を覗き込んできたのは紫呉である。
「何か感じるのか?」
「……これ、何だかすごく嫌な感じがします。気配はまだ探ってないんですけど」
顔を青ざめさせた湊は、小さな声でそれだけを答えた。
湊がもう一度、改めて確認するようにちらりと扇子を見やる。やはりそれは黒いもやに包まれていた。
周りの空気が一気に冷えたような、そんな錯覚に陥る。実際にはそんなことはないのだろうが、少なくとも湊にはそう感じられた。
自身をかき抱く手のひらには嫌な汗が滲み始めている。全身が小さく震えているのが、自分でもはっきりとわかった。
その場に座り込んでしまいそうになるのを、必死に堪える。それが湊に今できる精一杯だった。
「うん、これは悪霊の気配だね」
シュウが声を低めた時である。
「うわっ」
突然吹いた一陣の風に全身が煽られて、湊はとっさにキャップを押さえながら目を閉じた。
ほぼ同時に、何かが落ちるような音が聞こえてくる。予想もしていなかったその音に、両肩がびくりと大きく跳ねた。
湊がゆっくり瞼を開けて、音のした方へと顔を向ける。
風が吹いた時に野田が取り落としたのだろう、桐箱が地面に落ちて、中に収まっていた扇子が飛び出していた。
しかし、音の正体を知ってほっとしたのも束の間、落ちている扇子の上に見えたものに、湊は思わず息を呑んだ。
双眸に映っているのは、真っ黒な塊だった。
中型犬くらいの大きさだが、それは明らかに禍々しいものである。その姿に、湊は漠然とこれが悪霊なのだと悟った。
「野田さんはこっちに!」
紫呉がすぐさま野田の腕を引く。
「は、はい!」
野田は言われた通りに後ろに下がり、紫呉の背中に隠れた。
どうやら、今は紫呉にもこの黒い塊が見えているようだった。
紫呉の目にも見えているということは、やはり霊なのだろう。しかも善ではなく、悪だ。
ということは、当然シュウにも見えているはずである。
「シュウさん……っ!」
湊が傍にいるシュウの方に目をやると、シュウはすでにバッグから数珠のようなものを取り出していた。
※※※
シュウがバッグから取り出したのは、青い石でできた数珠のようなものだ。青い石は、ぱっと見ではあるが、ラピスラズリのように見える。
「シュウ、頼んだ!」
野田を背後にかばっている紫呉が、シュウに向けて声を上げた。
扇子に憑いている悪霊に対抗できるのは、悪霊専門の祓い屋であるシュウだけだろう。
「任せて」
シュウは静かに頷くと、数珠のようなものを左手で掲げる。
悪霊を祓おうとしているその姿に、湊の目が釘付けになった。
「──我、今こそ邪を断ち、祓い清めん──」
決して大きくはないが、シュウの凛とした声が響く。
すると次には、小さな雷雲が悪霊の頭上に現れた。
「──天雷!」
シュウが声と同時に掲げていた手を勢いよく振り下ろすと、雷雲から発生した細い稲光が、悪霊に向かってまっすぐに落ちる。
途端に、辺りは白に覆われた。
湊はその眩しさに、きつく目を閉じることしかできない。
少ししてからそっと瞼を上げると、そこにはもう悪霊の姿はなかった。
「シュウ、やったか?」
「表の方には他の観光客がいるから、あまり見えないように少し控えめにしたけど、悪霊はちゃんと祓ったよ」
紫呉の確認に、シュウはそう答えて笑みを浮かべる。
その姿を見て、全員が安心したように息を吐いた。
「やっぱり悪霊だったか。シュウを呼んで正解だったな」
「悪霊ってあんなに禍々しいものなんですか……?」
湊が思わず独り言ちるように零すと、シュウは湊の方に顔を向ける。
「湊くんは初めて見るんだっけ」
「あ、はい……」
「今回のはそこまで大きくなかったけど、悪霊であることには変わりないからね。やっぱり怖かった?」
シュウの優しい言葉に、湊は無言で、けれど正直に頷いたのだった。




