番外編III.最愛の子 アイリス視点
キードゥル87年12月
(……あぁ、わたくしはなんて子を産んでしまったのでしょう?なんて子に育ててしまったのでしょう?)
どんどんと重いものが肩にのしかかってくるような感覚。
彼女はアイリス・ワイフ・ヒサミトラール。クリスティーネの母である。
(……そんなこと、考えたくもありません)
クリスティーネ・ヒサミトラールは残忍な子だ。そんな子を産んでしまったアイリスはルネーメヌに恨まれているのだろうか。
あれはクリスティーネが四歳の頃だっただろうか。
クリスティーネが気弱な武官を連れて来たときの話だ。あまり裕福ではない家の息子だが、顔立ちは整っていて、とても才のある武官だった。
「お母様、わたくし、コレが欲しいのですけれど?よろしいですわよね?」
「駄目です。それと、人のことをコレなどと、いうものではありませんよ、クリスティーネ」
「ハァ!説教なんか結構でしてよ。コレがどうなろうと、どうしようとわたくしの勝手ですもの。第二領女という身分があるのですからね。失礼しますわ」
「クリスティーネ、待ちなさい!」
クリスティーネは勝手にお部屋を出ていってしまい、あの武官はあの後、ストレスで倒れたと聞いた。もちろん、お見舞いにも行き、お詫びしてきたが。
五歳になった近頃。歩けば物やお金を強請るようになってしまった。いつのまにか、買った覚えのない宝石を見につけていたり、誰かが見につけていた気がするドレスを着ていたり。
何度言っても、誰から言っても、あの子は聞かない。あの子の耳には届かない。それどころか、どんどんエスカレートしていく。ならば、あの子には――なのだ。
自身の側近から選んだ、仮介添えであるフィルオーナには悪いことをしてしまったこと、深く悔やまれる。
「アイリス様、お呼びですか?」
「えぇ、フィルオーナ。城内にいたというのに、ちゃんと話すのは久しぶりね」
「はい」
フィルオーナは見るたび、どんどん顔色が悪くなっている。隈もできているのではないだろうか。
「フィルオーナ、クリスティーネは?」
「眠っていらっしゃいます」
「……そういうことじゃなくてね」
「クリスティーネを――と思うの」
「本気……ですか?」
「えぇ。……わたくしの使命は『ヒサミトラールを守り、ミカエル様と――様を守ること』ですから。あの子はそれに反します」
「……」
「わたくしは貴女に話したけれど、貴女まで巻き込むつもりはないわ」
「……何故、ですか?わたくしは貴女の側近です」
少し悲しそうにフィルオーナはじっとアイリスの紫紺の瞳を見つめる。
そして、目の前で跪いてアイリスを見上げた。
「……フィルオーナ?何を――」
「アイリス様」
「……」
「わたくしの主は貴女だけです。それ以外の誰でもありません。共犯くらい、やってやろうじゃありませんか」
フィルオーナが悪戯をする子供のように笑う。考えていることは、とても凶悪なことだというのに。
「えぇ、ありがとう。貴女はわたくしの一番の側近です」
そういうと、フィルオーナは幸せそうに笑った。
◇◆◇
「アイリス様っ!」
大きな音を立てて扉を開けたのはフィルオーナだった。フィルオーナは所作が丁寧な人物だ。そんなことをすることはほとんどない。
(何かあったのかしら?)
「フィルオーナ?何の御用ですか?クリスティーネ様のことですか?」
走ってきたのか息が切れているフィルオーナにマイナが冷静に問いかける。
「フィルオーナ、ゆっくりでいいわ。話してちょうだい」
「クリスティーネ様が、おそらくですが、記憶喪失になりました」
(……記憶喪失?)
「どうなさいますか?ご指示を」
フィルオーナのお顔は真剣そのものだ。あんなことをたくらんでいるのだから、当然だろう。
(でも、わたくしはあの子に会いに行く勇気がありません)
どれだけ注意しても、人を傷つける子になってしまったあの子が、記憶喪失程度で変わるはずがない。
アイリスはフィルオーナに背を向けて、命じた。
「仕事が少し忙しく、今すぐに会いに行くのは難しいわ。クリスティーネの就寝後、また貴女に状況を伺います。申し訳ないけれど、ミカエル様にお願いしてもよろしいかしら?」
「かしこまりました、アイリス様」
その後、仕事が終わってしまったので、久しぶりに夕食に向かった。
そこにいたクリスティーネは別人だった。臆病で、人を恐れる子供。おそらく、その場にいた誰もがそう思ったことだろう。それどころか、「書類仕事をお手伝いいたします。何十枚でも、何百枚でも」とそんなことを言い放ったのである。
レトルートは任せると言ったが、あの子にそんなことができるはずがない。フィルオーナによると、ペンすら握るのを嫌がるのだから。
夕食後、レトルートは「どうせ、できぬ」とそう言った。
(……わたくしも同意見です)
「一応、提出期限の長いものを渡すつもりだ。……あと、ラシェルを借りてもかまわぬか?」
「ラシェルですか?ラシェル・ヴァソールですか?」
ラシェルはきっぱりとした性格で、聡明で冷静な文官だ。よく書類仕事の確認をさせていて、アイリスの側近でもある。ラナという娘がいるのだとか。
「あぁ。確認をするのが早いと前に褒めていただろう?私の側近にはあまり適役がおらぬ」
「なるほど。分かりました。明日の朝、ラシェルを向かわせます」
「ありがとう。助かる」
レトルートは踵を返し、お部屋を出ていった。
(魔力。お部屋の外ね)
レトルートが出ていってから、急に魔力が大きくなる。まるで、見つかってほしいと主張するかのように。
「フィルオーナ、入っていいわよ」
「残念。見つかりましたね」
扉の隙間からフィルオーナの姿が見えた。ふふ、と笑いながら、フィルオーナがお部屋に入ってくる。
「それで、クリスティーネは?」
「クリスティーネ様は朝から本当に変わってしまいました。見ての通り、あれではただの臆病な子供です」
「演じている、という可能性は?」
「限りなくゼロに近いかと。わたくしをフィルオーナ様と敬称で呼ぶのです。あの、クリスティーネ様ですよ?」
(……臆病で、人を怖がっている様子は分かりましたが、流石にフィルオーナを敬称にするのはあのクリスティーネです。あり得ないでしょう)
「計画は?」
「とりあえず、先延ばしね。ヒサミトラールに害がないならば、生かしておいて構わないわ」
「かしこまりました」
◇◆◇
「花?」
「はい、クリスティーネ様からですわ。クリスティーネ様は本当に変わられましたね。それに、賢くなられたようだわ」
マイナに花束を手渡される。かつてアイリスの主であったマイナもルネーメヌも、そしてアイリス自身も好んでいた花ばかりだ。そして、色は〈花の女神〉フラローリンスの紫。
「……光の加護?」
よく見ると、花には光の加護がついていた。今このヒサミトラールの城に、光の魔力保持者はクリスティーネのみ。加護はその属性を持つ者にしか、与えることはできない。
(クリスティーネが与えたの?)
クリスティーネは魔力操作が苦手だったはずだ。魔力量はそれなりにあるはずなのに、魔石に魔力を込めるのすら、苦戦していたのだから。
(なんて、綺麗な花なのかしら)
口角が自然と上がっていくのを感じる。
(……わたくしは最低ね。クリスティーネが記憶喪失になって良かった、と思ってしまったのだもの)




