第九話
「失礼します」
古びた扉を開けると、背の低い老年の男性が振り返った。
「やあやあ」
来たねえ、と笑ったその人は、わたしが履修している魔法薬学の教授だ。魔法薬学は、この貴族学園の授業の中でも断トツで不人気らしく、なんと生徒はわたし一人だけ。けれど一人しかいないぶん丁寧に教えてもらえるし、いつもにこにこしている小さいおじいちゃん先生とのこの時間が、わたしはとても好きだ。
授業は詰め込めるだけ詰め込んだ。何かしらお父様やお兄様の役に立つ知識を身に着けることができればという思いと、どうせ友達もできないだろうからという理由でそうしたけれど、今は単純に学ぶことが楽しいと思っている。知らなかったことを知ったり、わからなかったことを理解していくのは純粋に面白くて、前世でも大学に行けていたらこんな感じだったのかなと思う。レポートやテストが被るとちょっとつらいけど、後悔はしていない。
魔法に関する授業を多く取っているわたしは、お父様が言った通り少しずつ魔法が使えるようになっていた。魔法に関する授業はどれもこれもあまり人気がないので、魔法薬学以外にも丁寧に教えてもらえることが多かったし、先生方は意欲的に魔法を学ぼうとするわたしを歓迎してくれたのだ。中でも魔法薬学のこのおじいちゃん先生は、わたしのお母様も学生時代に教わっていたらしく、一際親切にしてくださっている。
「今日は実際に調合をしてみようねえ。もう随分と魔力をコントロールできるようになってきたと、魔法技術の先生に聞いたよ」
「まだまだ未熟です。でも、調合はやってみたかったので楽しみですわ」
「うんうん。向上心があるのはいいことだねえ」
のんびり屋の先生を手伝って、調合の準備を進めていく。薬草と魔力を用いた伝統的な手法で、基礎的な魔力回復薬を作ってみるそうだ。
薬草を刻んだり、木の実を炒ったり、果実を潰して果汁を漉したり。たしかに手間だなあと思う。初体験のわたしにとってはこの工程自体が新鮮で面白いけれど、量産できるかと言われると無理だろう。ここまでの工程を機械で行えるようになったとしても、結局この後には人の手で魔力を流し込まなければいけない。
魔力回復薬はその名の通り、魔力を使いすぎてしまった場合の栄養剤みたいなもの。今のところ、どろどろしていて見るからに味もまずそう。
「鍋を大きく右回りに混ぜながら、ゆっくり魔力を注いでいきなさい。あまり一気に入れ過ぎないことと、属性を付与しないように気を付けてねえ」
「はい」
言われたとおりに、どろどろした液体が入った鍋を混ぜながら慎重に魔力を注いでいく。属性を付与させないというのは、要は「火を起こそう」とか「水を出そう」としてはならないということ。純粋な魔力だけを体外に出すのはなかなか難しく集中力が必要で、五分もすると薄っすら汗をかいてきた。
鍋を混ぜ続けるだけでもそれなりに大変だ。でも、最初はどろどろして重たかった鍋の中の液体は、次第になめらかになってきた。薄力粉を牛乳で伸ばしてホワイトソースを作っているような感じがする。
やがて完全にさらさらした液体に変わったころ、先生から「そろそろいいでしょう」と声がかかった。不思議なことに、最初は泥のようだった色も今は綺麗に澄んでいる。
「うんうん、うまくいったねえ。よくできている」
「あ、ありがとうございます」
「初めからこれだけ澄んだ色にできるのは才能だよ」
さすがベネット公爵家の子だねえ、と笑顔で言われてむず痒くなる。自身の力ではなく血筋だと言われることは、人によってはあまり気分がよくないだろうけど……公爵家の娘なのに魔法が使えないと思っていたわたしは素直にうれしかった。お世辞ではなく本当にそうだったらいいな。
「これだけあれば小瓶に十本は取れるでしょう。一本は今飲んでみても構わないよ」
「いいんですか?」
「もちろん。少し疲れているでしょう」
言われてみると、少しの倦怠感がある。十五分は鍋を混ぜ続けていたし、かなり集中していたから当然と言えば当然かもしれない。
鍋の中の魔力回復薬を漏斗で小瓶に移し替え、先生はそのうちの一本をわたしに差し出した。恐る恐る一口飲んでみると、薄いレモン水のような味がする。
「……飲みやすいです、とても」
「回復薬を飲んだのは初めてかな?」
「はい」
「飲みやすいと思ったなら、それだけうまくできているってことだよ。下手な人の作った回復薬はおいしくないからねえ」
先生はけらけら笑いながら残りの小瓶に蓋をしていく。その間に残りの回復薬を飲み切ってしまうと、あっという間に体が軽くなった気がする。
「……なんだか楽になった気がします」
「即効性も充分みたいだねえ」
「魔力回復薬で体力が戻る感じがするのはちょっと不思議なんですが……」
魔力が回復している感覚も確かにある。でも、それだけではなくて……鍋を混ぜていたことや集中し続けていたことによる疲労が抜けていく感じがした。
「魔力と体力は繋がっているんだよ。根本は同じ体に宿るものだからね、切っても切り離せない」
僕も貰っていいかなあと言われて頷くと、先生は小瓶の蓋を一つ開けて、おいしそうにそれを飲み干した。
「魔力が回復すれば体も楽になる。鍛えて体を強くすれば体内に留めておける魔力も増える。逆もしかりだねえ」
逆、か。そういえば幼いころのわたしは体が弱かったので、魔力でそれを補おうとしていたとお父様が言っていた。
「わたしは小さいころ体が弱くて、魔力を外に出せなかったんですけど……当時も回復薬を飲んでいれば、魔法が使えたんでしょうか?」
「うーん……使えただろうけど、子供に回復薬を飲ませるのはお勧めできないねえ」
「どうしてですか?」
「幼いころから回復薬を飲んでいるとそれ頼りになってしまって、自分で魔力を作る機能が衰えてしまうんだよ。依存とでもいうのか……それに伴って体力もつきにくくなるから、子供の成長によくないんだよねえ」
「なるほど……」
だから小さいころに飲んだ記憶がなかったんだ。魔術師の家系であるうちが、回復薬について知らないわけもないし。
「魔力回復薬はあくまで一時的な疲労緩和や、自力で魔力が回復するまでのつなぎのようなものだねえ。とはいっても、今の若い子は回復薬が必要なほど魔力を消耗することもないだろうけど」
大昔の魔法戦争時代には、回復薬は重宝されたらしい。今回作ったものなんて目じゃないくらい強力な回復薬も流通していたけれど、それらは体への反動が大きかったと先生は言う。
「戦時中はねえ、そんなこと言っていられなかったんでしょうけど。魔力を使い切るほど戦って、回復薬で無理矢理魔力を補ってまた戦いに行って……そうして体を壊した魔術師も多かったようだねえ。魔力欠乏症も多く出たと記録があるよ」
「魔力欠乏症……」
ぽつりと呟いたわたしを見て、先生は少し慌ててしまった。
「おやおや、ごめんねえ。気が回らなくて」
「いえ、大丈夫です」
わたしは首を振ったけれど、先生はもう一度ごめんねえと言った。魔力欠乏症は、お母様の命を奪った病気だからだ。
「むしろ知りたいくらいです。母はわたしが一歳になる前に亡くなってしまって……父が悲しい顔をしてしまうので、病気のことはあまり聞いたことがなくて」
「ふふ、君のお父さんは学生時代からお母さんにメロメロだったものねえ」
「ご存じだったんですか?」
「もちろん。有名だったもの」
お父様ったら。少し恥ずかしい気もするけれど、わたしと同じ年ごろからずっとお母様を愛していたのだと思うと心がぽかぽかする。
「魔力欠乏症はねえ……基本的には、魔力が本人の意思に反して体外に放出され続けてしまい回復が追い付かない病気なんだけど、思うように魔法が使えなくなるだけではなく、たいてい体も壊してしまうんだよねえ。魔力欠乏に陥った人のほとんどが、魔力を失ったこと自体というより、それに伴って体が弱くなったことや、弱くなったせいで他の病気にかかって死んでしまう」
さみしいねえと言って、先生は窓の外に目をやった。先生の年齢なら、お母様以外にもこの病気で見送った人がいるのかもしれない。
「さっきも言ったように、魔力と体力は繋がっているからねえ。魔力が失われた状態が続けば身体に不調が出てくるのは当然なんだけど、長年有効な対処法がなかった。昔はそれこそ無理に魔法を使いすぎることが原因で放出を制御できなくなるのだと思われていたけれど、必ずしもそれだけが原因ではないとわかってきたし」
確かに使いすぎだけが原因なら、戦争が終わって魔法自体が廃れつつある今でさえ罹患者が減っていないのはおかしい。解明できていない他の原因があるんだろう。
「魔力回復薬を飲ませれば一時的に楽にはなるけれど、結局その魔力もすぐ体外に出てしまう。飲みすぎると自力での魔力回復が見込めなくなり基礎体力も低下するし、そもそも費用も馬鹿にならないから、最初から回復薬には頼らない人も多くてねえ。魔力欠乏に陥って弱っていくだけの人も、それを見ている人もつらい病気だった」
日に日に弱っていくお母様。どうすることもできずに傍にいたお父様。記憶はないけれど、想像するだけで胸が痛む。
「まあ、近年はだいぶよくなったよねえ。君のお兄さんのおかげだ」
窓の外を見ていた先生が視線を戻して、にこっと微笑んだ。
「お兄さんが開発した魔力補助薬はねえ、疑似魔力というか……魔力に似た成分で、しかもそれを一定時間体内に留めておける。魔力の放出自体を止めるものではないから根本的な治療にはならないし、毎日薬を飲み続ける必要があるけれど、疑似魔力が体内にあることで体力の低下を防ぐことができる。画期的だった」
すごいことだよと言われ、なんだかわたしまで鼻が高い。やっぱりお兄様はすごいんだ、シスコンだけど。
「魔法ではできないことができるようになる。難しい問題が解決する。時代だねえ……。それ自体は素晴らしく、喜ばしいことだけど……寂しくも思ってしまうねえ」
僕は魔法が好きだから、と先生は空になった小瓶を撫でた。お兄様を誇らしく思う気持ちの一方で、自分の魔法で回復薬を作った今のわたしは、先生のその気持ちも少しわかる気がした。