第一話
突然、日本人だった前世を思い出した。交通事故で死んでしまった両親、馴染めなかった親戚の家、社会の何ひとつ知らなくて苦労した就職先。それから──……それから?
頭の中がぐるぐるする。だ、だめだ……前世と今世の記憶がごちゃ混ぜになって、なにも考えられない。頭の中がぐるぐるしているのに、どうしてこんな状態のことを『頭が回らない』なんて言うんだろう。どちらかというと回りすぎているんですが。
「セラフィーナ? どうかした?」
思考が妙なところへ行きかけたとき、隣から声がかかった。セラフィーナ、セラフィーナ……って、今のわたしのことだ!
慌ててぱっと顔を上げると、目の前にはとんでもないイケメンがいた。えっ、眩し……誰……?
心配そうにこちらを覗き込むイケメンは、明るすぎない茶髪を後ろで一つに束ねている。わたしの感覚ではイケメンにしか似合わない丸眼鏡が完璧に似合っていて、その向こう側には優しそうな垂れ目。髪色だけなら日本人でも不思議じゃないけど、灰色がかった青い瞳が、どう見ても日本人じゃないですと教えてくれる。そしてセラフィーナと呼ばれたわたしも当然日本人ではないだろう。ないだろうけど……こ、ここ、どこ?
王子様のようなイケメンに返事もできずに、視線だけでぐるりと周囲を見渡す。綺麗なドレスを着た自分が、お城みたいに豪華な場所の、すごく大きな扉の前にいることだけはわかった。
「セラフィーナ……?」
早く、早く今の状況を思い出さなきゃ! そう思えば思うほど混乱して、ますます何も考えらない。
「具合でも悪い? それとも、この兄のエスコートじゃ不満かな?」
──……兄。そうだ。隣のイケメンは、わたし……セラフィーナのお兄様!
「い、いいえ。お兄様」
なんとか首を横に振って、引きつりそうな口角を上げて見せた。するとお兄様は安心したように目を細める。
「ふふっ、それじゃあ緊張しているのかな? 大丈夫だよ、実質的なデビュタントと言ったって、ただの入学式なんだし」
「入学式……」
そうだった、ありがとうお兄様。ほんのわずかだけれど思い出せた。このパーティーは、わたしがこれから通う貴族学園の入学式。今のわたしはたしか十六歳で……ええと、これが社交界デビューのようなもの。たしかそう、うん。
「たくさん友達できるといいね」
「え、ええ」
「さて、行こうか」
召使みたいな人たちが、大きな扉を開ける準備をしている。ま、待ってほしい。友達たくさんもなにも、まだ混乱していて……マナーもなにも思い出せていない!
「お、お兄様、ちょっと待っ……」
引き留めようとするわたしの声に被せるように、会場の中から大きな声が響いた。
「セラフィーナ・ベネット公爵令嬢!」
どうして呼び出し方式なの……! 待ってもらえないやつだ!
突っ込むこともままならないまま、お兄様のエスコートで足が前に進んだ。名前を呼ばれて返事をするって、どちらかというと卒業式でやるものでは……!? いや、今日は大きな声でお返事なんてしていないけど!
着飾った大勢の人々、煌びやかなシャンデリア。どこを見ても眩しいホールに眩暈すら覚えながら、もはやほとんどパニック状態で足だけを動かしている。
いや、でも、わかったこともある。公爵令嬢って言った。ということはたぶん、わたしの身分は高い方。前世の知識が活きたと一瞬喜んだけど、冷静に考えると前世を思い出したせいでこんなことになっているので、良いのか悪いのかはわからない。
どうやらわたしが最後の入場だったようで、やがて偉い人のお話が始まった。顔を見たってまったくなんにも思い出せないので、正確に言うと「おそらく偉い人」だ。
お祝いの言葉だとか学園での有意義な過ごし方だとか、全然頭に入ってこない。右から左に聞き流してしまうのは、まあ、前世の入学式でも同じだったかも。
普通は長く感じるはずのありがたいお話は、気が付くと終わってしまった。は、早すぎるよ……! 相変わらず混乱したままだというのに、どうやらこの後はご自由にご歓談を、みたいな感じらしい。入学式というか、入学パーティーだ。な、なにをすれば……?
「セラフィーナ? 本当に大丈夫? 顔色が悪いけど」
「だ、大丈夫……です……」
大丈夫じゃないけど!! でも、大丈夫じゃない理由を話せるわけもなく。
「なにか飲み物を取ってこようか」
「お、お願いします……!」
そうだ。むしろ具合が悪いことにして、飲み物でも飲みながら壁際でこっそりやり過ごそう!
どこか必死なわたしの様子に、お兄様は小さく笑った。
「ふふっ、そんなに喉が渇いていたのかい?」
「は、はい、とっても。やっぱり緊張してしまっているみたいで」
「セラフィーナはずっと領地で療養していたから、こんなに人が大勢いる場所も初めてだもんね」
領地で療養……言われてみればそんな気がする。ますます具合が悪い設定でいける、と内心ガッツポーズをする。
すぐに取ってくるよ、とお兄様は離れていった。よし、こっそり端の方に移動して……と、空いていそうな壁際を探していると突然声をかけられた。
「せ、セラフィーナ様!」
「へっ?」
びくっと大げさに反応してしまいながら声の主を見れば、ピンク色のドレスに身を包んだ可愛らしい女の子。お兄様よりも明るい茶髪に、焦げ茶色の瞳。頬は薄っすら赤らんでいたけれど、それがメイクではなく緊張のせいだとわかるくらい……見るからにガッチガチだ。
「わっ、わたくし、エミリアと申します! わたくしも新入生で……っえ、ええと、今日からよろしくお願いします!」
緊張のせいで、声が上擦っている。視線も微妙に合っていない。両手も、スカートを摘まむというよりは掴む勢いで握っていて……明らかにわたしより様子がおかしい。
自分より緊張している人を見ると冷静になるというのは本当なのか、自分が少しだけ落ち着いたのがわかった。それから──……おそらく周囲が、エミリアと名乗った少女の挙動を馬鹿にしていることも。
な、なにこれ……感じ悪っ!!
さっと見渡しても、露骨に笑っている人はいない。けど、こっちを見るたくさんの視線とか、こそこそした囁き声に、悪意を感じずにはいられない。
思わずむっとしかけたところでお兄様が戻ってきた。
「おや。えーっと……たしか、トーマス男爵家のご令嬢だったかな」
「ひゃっ、はい!」
お兄様、ナイス。男爵家……ということは、たぶん身分が高くない。だからみんな馬鹿にしてるってこと?
そんなのって、ない。だってさっき、おそらく偉い人が「学園では誰しもが平等に……」とかなんとか、言っていた気がするのに……!
たしかにエミリアはすごく緊張していて様子もおかしいけど、がんばって声をかけてくれたんだってわかる。声をかけられた瞬間は「どうしよう、なんとか逃げたい」と思ったものの、このまま彼女が笑い者にされるのはだめだ。
──……応えよう。お兄様だって、たくさん友達ができるといいねと言っていた。最初が肝心に決まってる。混乱して隅っこにいる場合じゃない。
ええい、と腹をくくってしまえば、案外あっさり体が動いた。流れるようにスカートの裾を持ち上げて、僅かに膝を折る。前世では一度もやったことがないはずの仕草だけれど、きっと今のわたしの……セラフィーナの体に、お嬢様の仕草は染みついているんだ。
「エミリア様。はじめまして、セラフィーナです。声をかけてくださってありがとう。どうか仲良くしてね」
よし! 笑顔も完璧に決まった、はず!
目の前のエミリアが大きく目を見開いて固まっている。お兄様がこの顔面なのだから、今のわたしもきっと美少女だろうし……もしかして、わたしの微笑みに見惚れちゃったのかも? なーんて!
そう思ってちらっとお兄様を見ると、なぜかお兄様も驚いた顔でこちらを見ていた。周囲のざわめきも心なしか大きくなった気がするし。え、なんで……?
愛想笑いなら、前世でもたくさんやったはずだ。それこそ体に染みついているはず、日本人だし。おかしなことあったかな、と焦ったけど、もう後にも引けない。
仕方がない、このまま愛想笑いで入学式を乗り切ってみせる! やってできないことはない、とこっそり気合を入れ直し、わたしはもう一度微笑んだ。