ハミントンの黙劇
エムスタル校に春が来た。
春は出会いと別れの季節。芽吹き、そして良くも悪くも行動を起こす時。
街で不審者が捕まったというニュースもチラホラと。
そして、この学園内にも大それたことをしでかす者がいた。
彼の名はハミントン。
小柄で内気。スポーツや勉強など優れた部分、特筆すべき点はない。
しかし彼は今、この学園の誰よりも高みにいる。
それもそのはず。彼が立つ場所はこの学園の時計塔、その文字盤の前だからである。
一応、補足しておくと我らが学園の安全性は信頼に足るものであり
時計塔の入り口は鍵が掛けられている。
新入生は学校見学の際、その中に入り
遥か上まで続く階段を見上げることができるが
それ以降は立ち入る機会はないといっていいだろう。
ではなぜ彼は今、時計塔の上にいる?
それは愚問である。人間、その気になればなんだってできるものだ。
尤も、彼がやりたかったことはこの時点では不明ではあるが。
さて、前述で少し触れたハミントンについてもう少し掘り下げようか。
彼は虐められていた。
クラスメイトからである。内訳は実行者、嘲笑者、傍観者。
その割合は三、三、四。あるいは三、四、三とここが悩ましいところである。
時に嘲笑者は実行者になり、傍観者は嘲笑者になり得る。
何にせよ、ハミントン本人からすれば十対零で全員、敵であろう。
と、ここまで言えば彼がこれから何をしようとしているのか
わかりそうなものであるが、ここもまた微妙なところである。
もったいぶらずに言うならばハミントンは落ちた。
時計塔の上から真っ逆さまに。
しかし、それが始業の鐘の直後だったため、自分の意思で落ちたのか
それとも音に驚いて落ちたのか分からないのである。
あれもそれも本人に聞けば済む話だが、ハミントンはこの件について何も語らなかった。
死人に口なし。いや、そうではない。
冷凍の大きな牛肉。本がギッシリ詰まった段ボール。とにかく大きな音がした。
悲鳴が青空へ昇り、入れ違いにハミントンは地に落ち
そして血だまりを作り、ビクッビクッと痙攣した。
水槽から飛び出た魚のようであったが
あまりのショックで誰も、集まっていた彼のクラスメイト
同学年、上級生、先生さえも近づけずにいた。
そして、そうしている間にハミントンは起き上がったのだ。
ここでまたも悲鳴が上がった。落ちた瞬間よりも、もっと大きな声だ。
ハミントンの顔右半分は凹んでいた。
空気がほとんど抜け、柔らかくなったボールのようであるが、その嫌悪感は比ではない。
鼻も半分が潰れ、もう半分からは呼吸の度に血がビュッ、ビュッと飛んだ。
口を開けると歯がボロボロと零れだし、赤煉瓦の上でカンコンと跳ねた。
悲鳴が上がった、上がり続けた。喉が嗄れても。
駆けつけた救急隊員にハミントンが連れられるまで。
しかし、事件はこれで終わりではない。むしろ始まったばかり。
第二部開幕の合図はやはり悲鳴。
場所は教室。ただし、息を呑んだためヒッと短い悲鳴である。
ハミントンは例の件から約一月後に復学した。
低学年生。その若さゆえか体が柔らかく
衝撃のほとんどを体の外に逃がすことができたためだろうか、怪我はそれほどではなかった。
無論、顔を除いての話である。
ハミントンの顔半分にはぐるぐると縦と斜めに包帯が巻かれていた。
しかし、どうにも左側が突き出ているように見える、いや、逆だ。
右側が凹んでいるように見えた。
あの一件を目の当たりにした者たちの精神同様、凹んだままだったのである。
尤も、治そうにもそう簡単に行かないのだろう。
時間をかけ、手術を重ねればまたそれも可能なのかもしれないが
とにかく、ハミントンは教室に帰ってきた。
面白いもの、あるいは怖いもの見たさで他のクラスや学年の生徒で
教室の外に人だかりができた。
ハミントンは手を振ることなどもしなければ、ただじっと前を見据えたまま
何もしなかったが、その必要もなかった。
ちょうど凹んだ右側が廊下側だったため
そのままでも動いてもらわずともよく見えたからである。
凹んだ部分とそうでない部分の対比がくっきりと。
クラスメイトがこれを良く思うはずがなかった。
ただでさえ、虐めの噂が広まっていた上に珍獣と同じ檻など。
しかし、さすがに怪我人に暴力など振るえるはずもない。
無事な左側を殴るなどということもできない。ただ、言うことはできる。
『怖い』『なんで来たの』『入院してればいいのに』
『近寄りたくない』『見たくない』『来ないで欲しい』
『来るな』『あっち向いてろよ』
『左側も凹ませてバランスを取ってやろうか?』
『バケモノ』『キモイ』『帰れ』『ウザイ』
子供というのは残酷だ。気の趣くまま雰囲気のまま迫害も厭わない。
腫れ物に触るような扱いが前とそう変わらなくなったのは
ハミントンが教室に戻って来てまだ十日足らずのことであった。
よって、とでも言うべきか、ハミントンは再び時計塔の上に立った。
時刻は前と同じく朝。風は穏やかである。
そしてこれも前と同じように、生徒、教師が下に集まり、時計塔を見上げた。
無論、前と同様、止めようと何人かは時計塔の階段を上がるわけだが
こちらも前と同様、徒労に終わる。
ハミントンは飛んだ。今回も始業の鐘が鳴った瞬間の事であった。
そこから先も全て前と同様である。
そう、ハミントンは起き上がった。
前と違うのは凹んだ場所。今度は左側。つまり顔面が完全に陥没したのである。
元々していた包帯は血で赤く染まり、皮膚と同化。顔との区別がつかなくなった。
それと前と違う点がもう一つ。泣きだした生徒の数と悲鳴の量であった。
狂ったように泣き叫ぶ。嘔吐。過呼吸。それは伝播し気絶する者まであった。
しかし、これで終わりではないのも前と同じ。
そう、ハミントンはまたもやその一月後に復学した。
クラスメイトはただただ押し黙った。
『ハミントンくんが戻って来てくれました』と黒板の前で紹介した教師もである。
ハミントンはすたすたと歩き、自分の席に着いた。
そして、気を取り直してさあ授業をといったところで
ハミントンの前の席の生徒が嘔吐した。
ここで注釈を入れておきたいのがハミントンは何もしなかった。
ただ呼吸しただけである。
しかし、それは呼吸というよりかは空気が穴から漏れ出る音。
包帯でグルグル巻きにされたハミントンの顔にある
三つの穴の内の一つから出た音である。
残り二つの穴。そこが時折、日の光に反射してキラリと光る。
それが血の塊なのか奥に入り込んだ眼球なのか、見えているのかも
やはりハミントンが何も語らないから分からない。
クラスメイトの反応、対応はというと無視の一択であった。
ほとんど幽霊や透明人間のような扱いである。
近づいて来ればサササッと逃げ、悪口も嘲笑も何一つない。
教室はまるで葬式場。そしてその空気はハミントンが生きている限り続くと
クラスの誰もが思っていた。
以前よりだいぶ平たくなったハミントンの頭部。
それと同様に彼の学園生活も平たいものになった。
暴力も嘲笑も、傍観もない。彼がそれをどう思ったかはわからない。
もしかしたらこう考えたのかもしれない。
一度飛んで暴力はなくなった。
二度飛んで嘲笑もなくなった。
じゃあ三度飛べば?
英雄か? 友達ができるのか?
何にせよ、ハミントンは再び時計塔の上に立った。
ザワザワガヤガヤと生徒と教師が集まる。前と同様だ。
その中には今にも泣き出しそうな顔の者たちがいる。ハミントンのクラスメイトだ。
もう見たくないと拒絶しているが、この騒ぎは元々、お前たちが始めた事だろう
責任を取れと牧羊犬に追い立てられた羊のように一塊になっている。
そうやった他のクラスや学年の者たちにあるのは単純な好奇心。
『またかよ』『どうせ死なないんだろ?』という空気はない。
『ただ死ぬだけだ』『幸運、あるいは不運も三度は続かないだろう』
そう考えた者が大多数だろう。しかし、あるものはこう考えた。
『今度は顔ではなく、後頭部から落ちれば顔も元に戻るのではないか』
愚かな考えだ。ただ今回、ハミントンは衆人側に背を向けた。
そして、始まりの鐘が鳴った。
ハミントンは落ちた。
三度目の落下である。
前と違う事は多数ある。
まず、ハミントンの脳漿と脳の一部が飛び出た事。
それはギリギリまで絞り出した歯磨き粉の最後の最後の一絞り。
思えば、ハミントンの頭部はほんの少しだけ上の伸びていた気がした。
前後両方からの圧迫によってとうとう飛び出したのである。
そしてそれを見た生徒。主に彼のクラスメイトが泣き叫び、そして吐いた。
ぶくぶくと口から泡を吹き、尿を垂れ流した。脱糞した生徒もいよう。
しかし、誰も記憶に残さなかったであろう。それどころではなかった。
ハミントンは再び起き上がったのである。
ハミントンが目の前の惨憺たる光景を目にしたかどうかは分からない。
なぜなら彼の目玉は左右両方とも飛び出していたからである。
下手なブドウの皮むきのように実は潰れボトッと下に落ちた。
鼻の部分からはブクブクと蟹のように血の泡を噴き上げていた。
そして口からは相変わらずヒュ、ヒュと空気が漏れていた。
しかし、その漏れ方はまるで笑っているようだった。
そう、彼はこの光景を見ていた。
今だけではない。何度も、何度も思い描いていたに違いない。
衝撃的な事柄の連鎖で目を眩みがちだが
事件の動機というものはシンプルであることが多い。
ハミントンの望みは復讐であった。
この光景、自分の姿はクラスメイトたちの心に深く深く刻まれたであろう。
自身が受けてきた傷が深いように。
が、それも結局のところ憶測。なぜならハミントンが語らないからである。
それは彼がこの後、死んだからではない。
そうかもしれないがわからない。
ハミントンは学園を去った。
だがどこかで生きているとも言われている。
そして時折、あの空気が漏れるような音で笑っているのだ。
その音は耳の奥に居つき、彼のクラスメイトたちを苦しませるのだ。
彼らが生きている限りずっと。幽霊に取り憑かれたように。
と、この話を図書室のノートの中に見つけた僕は
語り部として少しだけ、物語を脅かさない程度に足しつつ
完成したこの話を新入生交流会で聞かせてやろうと思う。
いやはや、この話がいつのことでそして事実であるかは不明だが
なんにせよ、頭は大事にしたいものである。
以上、語り手は僕、ボーバトンであった。