寂しい熱帯魚
(一)
原島恭子は横で寝ている安居光雄の顔をちらっと見た。薄っぺらなカーテンから透けた夜光が、勉強と仕事の両立に疲れ、泥のように眠る光雄の今を浮き上がらせている。時々、重い吐息が狭い部屋のそこかしこに沈殿していくようだった。安普請のアパートを象徴するかのような低く煤けた天井は、かつての住人たちの苦渋の人生が雨漏りの滲みと化し、随所に刻み込まれている。部屋の一角を陣取る机の回りは、おびただしい本に占拠されている。それらに押し潰ぶされたような隙間に敷いてある一組の布団に寄り添って寝ていた恭子は、光雄を起こさないように身体を捻りながら擦り抜けると、布団の足元で乱雑に脱ぎ捨てられていた衣服を抱えて隣の台所へ行き、音を立てぬよう注意深く仕切りの襖を閉めた。灯りも点けず薄暗い部屋で、全裸の身体を震わせながら急いで服を身に着け、台所の隅に置いてあった黒いバッグを持って外に出た。夜明け前の薄墨色の空に月がぼうっと霞んで見える。一月の寒風が容赦なく恭子の冷え切った身体と心を突き抜けていく。アパートを出た恭子は一度振り返り、ありがとうと小さく呟いて足早に立ち去った。
首筋にひやりとした空気が入り込み、ぞくりとした冷気で目覚めた光雄は、掛布団を思いっきり引っぱり上げた。その瞬間昨夜のことが甦り、あわてて隣を見たが恭子の姿はない。急いで襖を開けて台所へ行っても、ガランとした空間に湿った空気が澱んでいる。合板を張り合わせたドアの鍵は掛かっておらず、恭子の茶色いロングブーツも消えていた。光雄は鍵を掛けると震える身体を抱えて再び布団に潜り込んだ。昨夜のことが夢でない証拠に微かな恭子の温もりと体臭が残っている。首を捻って枕元の置時計を見ると針は六時を少し回っていた。今日の授業は十時からだったと思い、ゆっくり目を閉じ昨夜の出来事を反芻してみた。幼馴染の恭子と出会う確率は、大都会である東京でどの位だろう。それは奇跡的数値になるのではないだろうか。
昨日、授業もなくコンビニでのバイトも休みで、久し振りに新宿で映画を見た。どうしても見たい映画ではなかったが、時間潰しにフラフラと板橋から新宿へやって来た。この一年、ほぼ学校とコンビニの往復に費やしていた時間を少しだけ取り戻したい気分だった。歌舞伎町の映画館を出て新宿駅へ向かってぶらぶらと歩き出した。午後四時過ぎの新宿は、まだゆったりと動いている。折角出て来たのだから夕飯でも食べて帰ろうとアルタの前を通り過ぎ、新宿駅の南口に向かって裏通りを歩いて行った。その先、この寒空に黒い大きなバッグを抱え、ビルの門口に背中を預けて佇む娘の顔に見覚えがあった。幼馴染の原島恭子に違いない。光雄は思わず娘の前に行き、長身の身体を屈め覗き込むようにして顔を見た。
「ひょっとして原島じゃない?」
気だるそうに顔を上げた娘は、一瞬戸惑ったような表情で光雄を見返した。
「安居君?本当に?」
「まさかこんな所で会うなんて」
光雄は、ちょっと興奮気味に言った。恭子は家が近所で、それこそ子供の頃から遊んでいた仲間だった。可愛かった恭子は、小学校でも中学校でも人気者で、男子達の憧れの的だった。勿論、光雄も御多分に洩れず、初めての恋心を燃やしていた。光雄が県外の高校で寮生活を始めると滅多に会う機会はなかった。
「誰かと待ち会わせ?」
光雄は大きなバッグに目を向けながら聞いた。
「ううん」
恭子は力なく首を横に振った。
「僕は、これから夕飯を食べに行くけど一緒にどう?奢るよ」
「本当?嬉しいわ。丁度お腹が空いてたの」
「何が食べたい?」
「何でもいいわ」
光雄は目に付いた洋食屋へ行くことに決めた。二人ともハンバーグセットを注文した。久し振りに会った恭子は以前より綺麗に、そして色香を身に纏っていた。
「今、何してるの?」
光雄は運ばれてきたハンバーグをぱくつきながら聞いた。
「化粧品会社に入ったけれど、女ばかりの仕事場だからいろいろ面倒くさいこともあるのよね。だから今日辞めちゃったの」
光雄は恭子の足元に置いてある黒いバッグをチラッと見た。
「で、どこ行くの?」
「今まで化粧品会社の同僚と一緒にアパートを借りてたけれど辞めたでしょう、何となく帰りづらくてね。実はこの前、原宿でモデルにならないかってスカウトされたの。明日、そのプロダクションへ行くことになっているんだけどね。それに部屋も借りてくれるらしいの。やっと、希望通りのモデルになれるのよ、嬉しいわ。だから、今日思い切って会社を辞めちゃったんだけど、よく考えたら今晩泊まるところがないのよね。ホテルは贅沢だしって悩んでいたとき安居君に声を掛けられたの。ねぇ、一晩泊めてくれない?」
光雄は安普請のアパートを思った。とてもじゃないが恭子を泊めることは出来ない。大体狭いし、布団も一組しかない。
「ごめん。汚いし狭いし布団も一組しかないんだ。原島も去年の我が家がどんな状況だったか知ってるだろう。今もバイトしながら大学へ通ってる状況なんだ」
光雄は到底恭子を泊められる部屋ではないと思った。
「事件のことは知ってるわ。おばさんが、お金を持って駆け落ちするような人じぁないのは、町の誰でも分かってるって。今、安居君が大変なのもね。でも今晩は泊めて、お願い、部屋の隅っこでもいいから。じゃないと路上で夜を過ごすことになるわ」
何度も懇願する恭子に根負けして、光雄はアパートへ連れて来た。
(二)
光雄が東京大学法学部に合格したのが一年前。光雄の東大合格を両親ともども狂喜したのも束の間、G県のとある町で父の治が経営していた小さな農機具の部品工場が倒産した。愚直のきらいもある父だが、それ故に堅実な経営で関連会社からの信頼も厚かった。その会社が一夜の内に暗転した原因は、経理全般を任されていた母の伸子が多額の運営資金を持ち出し、蒸発したからだ。人望厚く、しっかり者の伸子がと、治や光雄はじめ周囲の人達もまさかの言葉さえ発せず青天の霹靂であった。治は、機械等の借金や二人いた従業員への給与や退職金の支払いに工場と自宅を手放した。すでに東大に合格していた光雄には、以前から伸子が国立でも私立の大学でも大丈夫なように四年間の授業料をコツコツと貯金し、光雄名義の通帳に入れていた為、学費などに対する心配は無かった。
「金は残せないが知識という財産は残すよ」
治は生活費の足しにしてくれと、僅かな残金を光雄に渡そうとした。
「父さん、大丈夫だよ。国立は私立より授業料が格段に安いから。それより、一緒に東京へ行って暮らそうよ」
治を説得している最中、伸子が若い男と駆け落ちしたとの噂が流れた。人の口に戸は立てられず、小さな町であっという間に広がった。光雄はいよいよそんな町に治を一人にしておけないと、東京での同居を強硬に言い張ったが、治は頑として首を立に振らなかった。
「この町にいないと母さんの帰る場所が無くなるんだ。この金は父親としての最後の意地だ受け取ってくれ。本当だったら毎月生活費を送ってあげるつもりだったが、情けないが今はそれが出来ない。足りない分はアルバイトで何とかしてくれ」
「情けないなんて言わないで。寄宿舎のある進学校へ入れてくれたお蔭で勉強に専念できたんだ。僕は感謝の言葉しかないよ。分かった、父さんがそこまで言うなら喜んでお金を貰うよ。ありがとう」
光雄は薄っすらと涙を浮かべて、自分より小柄な治を抱きしめた。光雄が東京へと旅立つ前の週、治は地元のアパートに引っ越した。以前住んでいた三LDKの一軒家からすると考えられない狭さだが、-DKのアパートが広く感じる程、荷物が少なかった。光雄も数少ない荷物の搬入を手伝った。台所には小さなテーブルと二客のイス、六畳の隅に置かれた小さな整理タンスと小ぶりの卓袱台。押し入れには自分と光雄用にと二組の布団。
「荷物が少ないと引っ越しも楽だし、掃除も楽だな」
笑いながら言う治は過去に背負っていた荷物を下ろし、後は伸子を待つだけだと決めていたのだ。すぐにガードマンの仕事を見つけて、翌日から働き始めた。無口の自分には合っていると言う。
光雄は東京へ行くと少しでも節約しようと、板橋の裏通りに面した古いアパートを捜した。一年でも早く司法試験に合格し、治を少しでも楽にさせたいとコンビニのアルバイトをしながら、必死で勉学に取り組んだ。
(三)
二年になり、法学部の御子柴教授のゼミへ参加したことを切っ掛けにコンビニのアルバイトを辞め、御子柴教授の勧めで研究室での仕事を得た。光雄は実家での事情を御子柴教授の仕事をする際、打ち明けた。勿論、母が若い男と駆け落ちしたとの噂は省いて。
「安居君、人間生きてきて過去の無い者などいないよ。どんな過去でも、それをプラスに捉えるかマイナスに捉えるかで、その後の人生が変わることがある。ただ、法律を学ぶ者として、そのことに縛られると公正な判断の障害になりうる場合もある。そのことを肝に銘じておくように」
御子柴教授は光雄に言い置いた。司法に関する研究資料を整理する仕事は、光雄の知識を更に豊かなものにしてくれた。
「安居君、君に紹介したい人がいるんだがいいかな。あっ、でも女性じゃないから期待するなよ」
「期待なんかしていませんよ。私は今、女性どころじゃありませんし」
「いや、それもどうかな若い男として。私は大学生の時に結婚したんだよ、妻に騙されて」
御子柴教授は冗談とも取れるような言い草で笑った。光雄は、一瞬驚いて思わず御子柴教授の顔を凝視した。
「先生、私をからかっていませんか?」
「いや、本当の事だよ。東大の一年先輩でね。学部は違うが、駒場祭で会ったんだ。あの時は可愛く見えたんだがね。でもまあ、三十年以上一緒に暮らしていると騙されて良かったかなと思っているよ。ただ、騙されるときは気をつけなさい。公正な判断が揺らぐからね」
御子柴教授は、ごほんと咳をして続けた。
「ところで、さっきの話、紹介したいのは医学部の学生なんだ、君と同期だから話しやすいと思うけど。将来、法律家として、どの分野に進むにせよある程度の医学的知識は役立つと思うよ」
その後、御子柴教授から夕食の誘いがあり、その席で木戸祐太朗を紹介された。祐太朗は百七十八センチの光雄より少し低いが、なかなかのイケメンだ。
「今日は夕食にお招きいただき、ありがとうございました。お腹を空かせて参りました」
祐太朗は、御子柴教授に臆する事なく笑いながら挨拶した。
「おいおい、それって最初から奢ってもらう気満々か?まったく、優実の指導がなってないな」
「いえ、優実先生から二人してたっぷり食べてくるようにとの指示をいただきました」
光雄は驚いたように祐太朗を見つめると、祐太朗は光雄に片目を瞑って見せた。
「優実先生は御子柴先生の奥様で、医学部で僕が講義を受けているんです。やさしいけれど、怖い先生ですよ。この前、学生が先生に美人ですねって言ったら、それはセクハラですよ、気を付けなさいって怒られていました。それはそうと、同期でも学部が違うと学内で会うことがないですね。木戸です、宜しく」
父に似て生真面目な光雄からすると、あっけらかんとした祐太朗は、知り合いの中にはあまりいないタイプの男だった。
「あっ安居です、宜しく。と、言うことは御子柴先生の奥様は、医師なんですか?」
御子柴教授は、少し照れたように笑った。
「まあいいじゃないか。今日は思いっきり食べてくれ」
それからは、芸能界などのゴシップネタや御子柴教授の唯一の趣味である釣りなどの話。光雄は、これといった趣味もなかったので聞き役に徹した。この出会いを切っ掛けに、光雄は祐太朗と構内で会って話したり、夜に飲みに行くなど会う機会が増えた。光雄は祐太朗と親しく付き合うようになり、実家での事情も話した。祐太朗は光雄の話しを聞き、父が開業医をしている事を少し言いずらくなった。でも、友達として、そのことは大したことではないと思い至り話した。光雄も変に気を使わせて悪かったと謝った。光雄は、父や母の事を話したことで肩の荷が少し軽くなり、祐太朗と気楽に付き合えるようになった。
ある日、光雄は祐太朗の家に初めて呼ばれ、食事を振舞われた。祐太朗の父、雄大は豪放磊落な人物で、人の気持を解すことに長けている。流石、いつも患者に接する医師だ。緊張気味だった光雄も初対面とは思えないほど寛いだ気分になった。会話の中でも祐太朗に病院を継いで欲しいとは言わないし、自分の進路は自分で決めろと。最も食えなくなったら雇ってやってもいいぞと笑いながら言ってるのを聞いて、祐太朗の性格は父親譲りだと思った。それに反して祐太朗の妹、花緒里は中学生にしては大人しい。物腰の柔らかな母親似らしい。来年、高校受験を控える花緒里の家庭教師をしてもらえないかと頼まれた光雄は、自分で良ければと即答した。このことで、木戸家との繋がりもより密になった。
正月は治と迎える為、治のアパートに行った。母さんが戻らなければ、父さんは正月を祝う気にならないだろう。それは光雄も同じ気持ちだった。それでも正月土産にと、お酒やおせちを用意した。片隅に置いてあるタンスの上に家族写真が飾ってある。小学五年の時、三人で海水浴に行った時のものだ。登山にはよく連れて行ってもらったが、海なし県で海水浴に行くのは滅多に無かったので、光雄は嬉しそうにピースしている。今はここが光雄の実家となるのだろうかとふっと考えた。実家とは生まれ育った家か?家族が集う家か?母の行方が分からない家は中途半端な場所かも知れない。いつか自分が家族の居場所を造りたい。父さんがいて、母さんがいて、自分の新しい家族がいる家。
料理を前にして、光雄は治に話し始めた。
「父さん、二年になって御子柴教授の勧めで研究室での仕事や家庭教師のアルバイトなど収入も増えたから、今度アパートを引っ越そうと思っているんだ。大学の近くだから便利だし、部屋も二部屋あるんだよ。父さんがくれたお金は手付かずだから、二人で十分暮らしていけるよ。勿論、勉強も仕事も頑張るから一緒に住もうよ。母さんが帰ってきたら三人で住めばいいし」
「ありがとな。でも、この町には母さんとの思い出が一杯詰まっているんだよ。ここで母さんを待ちたいんだ。母さんが帰ってきたら、お前の所で三人で暮らそう。そう考えると俺にも楽しみが増えたよ」
治は、おせちを摘まみながら、日本酒を盃でチビチビと飲んだ。元々あまり強くはないが、光雄の優しさに嬉しくて酔いが早く回ったのか、暫くすると布団にゴロリと横になり、軽く鼾をかいた。布団を掛けてやりながら、ここ二年で治が一回り小さくなっているようで寂しかった。相変わらず、一緒に住むとは言わない。きっと治の今を支えているのは、伸子が戻ってくると信じることだけのように思えた。
久し振りに地元へ戻った光雄だが、誰にも会わなかった。いや、会えなかった。栄枯盛衰を突きつけられる視線が嫌でも感じてしまう自分がいる。ただ、ふっと一年前、偶然に出会った幼馴染の原島恭子とのことが思い浮かぶ。初めて知った女として、光雄の身体に沁み込んでいる。大都会の東京で出会う確率は、ほぼ無い。今でも、あの一夜が夢幻の狭間を彷徨っている。
年が明け、木戸家では花緒里の高校合格を祝い、食事会が開かれた。光雄も呼ばれ、花緒里の努力の賜物だと言う光雄に、先生のお蔭だと感謝された。
(四)
光雄も祐太朗も三年になり、それぞれ忙しい日々を過ごしていた、光雄は研究室で一層勉学に猛攻を仕掛け、祐太朗は外科を選択し精進を続けている。光雄は猛攻の成果を発揮、予備試験を通過して五月の司法試験を受けた。後は、九月の発表を待つのみだ。少し余裕の出来た光雄は、無事難関高校を突破した花緒里の夏休みに付き合って、海や山に出掛けた。女子高生と二人で出掛けるのを躊躇する光雄に、引っ込み思案の花緒里をぜひ連れ出してほしいと頼んだのは雄大だった。可愛い顔の花緒里は高校でモテるらしい。雄大曰く、変な虫が付かぬように頼むと言っていたが、俺は余程安全な男と思われたのか。どっちにしろ花緒里には妹としての感情しかない。恭子に抱く女としての感情は、今でも心の隅でくすぶっている。九月の発表で、光雄は遂に三年で司法試験を突破した。御子柴教授は、流石我が弟子だと大いに喜んでくれ、祐太朗初め木戸家の人達も喜び、光雄を呼んで食事会を開いてくれた。
秋めいた日、治は御祝いにと初めて光雄のアパートに泊まりに来た。そして、この日少ない給料から貯めていたお金で、光雄に高級なスーツを買ってくれた。
「父さん、ありがとう」
光雄は一瞬遠慮した方がいいかなと思ったが、きっと感謝して受け取るほうが、親孝行かも知れないと治の嬉しそうな顔を見ていた。
「ああ、お前は父さんや母さんの誇りだよ。ありがとな。いつか母さんが戻ってきたら嬉し涙を流すぞ、母さんは泣き虫だからな」
「そうだね。早く戻ってくるのを楽しみにしてるよ。ただ、父さんとすぐに住もうと言わないけど、時々泊まりに来てくれよ。俺が嬉しいからね」
「何なんだ、いい年して。もうすぐ弁護士先生になるんだろう」
「まだ、卒業まで一年はあるよ。それにまだ弁護士になるかどうか決めてないし」
光雄自身、司法官か弁護士か決めていない。治は一泊した翌日アパートに戻り、相変わらずガードマンとして働いていた。年末年始は、いつものように治のアパートで過ごした。光雄はいつものようにが続いてくれることを思うことが、正しいのか自問自答するときがある。
(五)
光雄は決して治の前で口が裂けても言い出せないが、四年の歳月に伸子から何の音沙汰がないのは、事件に巻き込まれたのではと内心危惧していた。そして、その恐れは台風によってもたらされた。
ある日、治の元に警視庁の多摩署から、台風による大雨で土石流が発生し、その中から白骨体が出てきたとの連絡が入った。以前、治が提出していた家出人捜索願から伸子の可能性があるという。慌てた治からの電話を受けた光雄は新宿駅で待ち合わせ、二人で多摩署に向かった。DNA鑑定には、治が大切にしていた以前伸子が長い髪を切った記念にと地毛で作ったウィッグ、それに光雄とのDNA鑑定で、伸子の白骨だと決定付けられた。伸子が行方不明になって四年。その間、土中に埋められていたのかと思い至り、光雄は嗚咽を漏らした。隣の治は号泣するのかと見やったが、「やっと戻ってきたな」と、ほっとするように呟いた。
その後、治と光雄は多摩署の会議室に案内された。そこには、刑事課の小野刑事課長と笹川刑事それと総務課の山田課長がいた。小野刑事課長初め三人が二人にさっと頭を下げた。
「この度はご愁傷様でした」
その後、山田課長が白骨体の発見に至る状況を説明した。そして、一拍置いてから言った。
「この度の状況を鑑みるに当たり、伸子さんは殺害され遺棄されたと思われます。殺人事件として警視庁と合同捜査本部を立ち上げることに致しました。死因を初め、失踪当時の事など伺うこともありますので、ご協力をお願いします」
「伸子は、すぐに返していただけないのですか?」
治は、突然声を張り上げた。さっきは涙も見せずにシャキッとしていた治が身体を震わせて泣いた。すぐにでも伸子を連れて帰れるものだと思っていたのだ。事情を察知した光雄は、ここに来た時に予約していた近くのホテルに帰したいと申し出て、事情聴取は私が受けますのでと言った。やや、強引に三人を納得させて治を帰した。
「父さん、大丈夫だよ。ここで話しをしてからホテルに行くからね」
光雄は、多摩署にホテルまでタクシーを頼んだ。すると、若い警察官がホテルまでお送りしますから大丈夫ですよと頷いた。
多摩署の会議室に戻ると、警視庁の捜査一課の管理官が刑事二人を従えて入ってきた。光雄はテーブルを挟んで、横田管理官と刑事二人、それに最初の三人と向かい合った。
「この度はご愁傷様でした。安居さんは去年、司法試験に合格なさったんですよね」
横田管理官は、光雄を見るなり話し出した。光雄は、一瞬驚いたが頷いた。
「さすが、警察ですね。人を丸裸にするのはお手の物だ」
光雄は、皮肉を込めて横田管理官に言った。
「気を悪くなさったなら申し訳ない。ただ、殺人事件となったら関係者を調べるのは捜査の基本です。普通なら手の内を見せるような事は言いませんよ。でも、あなたなら分かっていただけると思っています。そして、その方が協力していただけると考えました。勿論、お母さんをあのような姿にした犯人は許せませんでしょう?」
最初に会った三人の警察官は、光雄が去年司法試験に合格していることを知り、少し驚いた表情を浮かべ、迂闊な事言えないと三人で顔を見合わせた。光雄は、母が行方不明になる直前、父の工場の運転資金を持ち出し蒸発したこと、町では若い男と駆け落ちしたとの噂が流されたことを等々と話した。
「しかし、二人して辛苦を舐めて工場を立ち上げてきた母が若い男と駆け落ちするなど考えられません。ましてや運転資金を持ち出すなんて」
光雄は、言葉を切った。
「流石、司法に携わる覚悟が出来ている方ですね。理路整然とお話ができる。お辛い時にお話していただいてありがとうございました。死因の特定を急ぎ、一刻も早くお父さんの元に戻せるように致します。今日は、お帰りいただいて結構です。何かありましたら、ご連絡させていただきます」
横田管理官は光雄に頭を下げて言った。光雄がホテルに着くと、治はベッドで横になっていた。
「父さん、大丈夫か?」
「ああ、済まなかったな、少しパニックって。すぐにでも伸子を連れて帰れるものだと思ったんだ。でも、そうだよな。伸子は誰かに殺されたんだから、警察が動くのは当たり前なんだよ。俺だってガードマンとして何かあったら警察に連絡するんだから。ただ、骨になってしまった伸子を、みんなの前に晒しておけないと思ってな。あんな酷いことをした犯人は許せない。捕まって欲しい気持ちと伸子の事を暴かれるような気がして怖いんだ。伸子が若い男と蒸発したなんて信じられないが、ひょっとして伸子が不満を抱えていたんじゃないかと」
「父さん、それは絶対にない。母さんは、いつでも父さんや俺の事を第一に考えていてくれたよ。もし、不満があったなら母さんが黙っている訳がないよ。あの母さんが性格的に大人しくしているはずがないだろう」
「光雄、それは言い過ぎじゃないか?母さんは、しっかり者で豪傑なところがあるが、常に従業員にも細かい気遣いをしていたんだ」
「だろう?だったら父さんが母さんを信じないでどうするんだ。今後の捜査は警察に任せて、父さんは母さんのことだけを思ってくれればいいよ。俺は今後、司法に携わる者として警察に協力していこうと思う。母さんを侮辱するような刑事がいたら訴えてやるよ」
翌日、笹川刑事から連絡があり、伸子の遺骨を返還するとのことであった。治と光雄は多摩署に行って伸子の遺骨を受け取った。光雄は一旦、治を駅まで送り、多摩署に戻って横田管理官に会った。
「私は捜査に口出しするつもりはありませんが、一つだけ母の死因を聞かせて貰えませんか?」
横田管理官はちょっと考えてから言った。
「そうですね。今後、捜査にご協力していただくこともあるかもしれませんから。死因は頭蓋亀裂骨折です。今のところ殺害場所は特定できておりません」
「土石流に巻き込まれたときにできたとは考えられませんか?」
「それは考えにくいと思います。何しろブルーシートに包まれた状態でしたからね。これ以上は捜査に関わりますので」
横田管理官は、そう言って踵を返した。
光雄は父のアパートに戻る間、電車の中で考え続けていた。ブルーシートに包むのは、殺害後車で運ぶのに人目を避ける為か、面識のある親しい人物。多分、横田管理官は面識のある親しい人物像を描いているだろう。光雄も同意見だった。母が多額のお金を治に話さず渡す人物。
(六)
治のアパートに着いたのは、六時過ぎだった。治は木箱に紫の風呂敷を敷き、その上に伸子の骨壺と写真を置いて、急遽買ってきた線香を焚き、じっと伸子の写真を見ていた。光雄も写真を凝視し、その前に座り手を合わせた。
「父さん、途中で駅弁を買ってきたから食べようよ。昼飯食べてないんじゃないか。父さんが倒れたら大変だよ。母さんが心配するよ」
治はゆっくりと立ち上がり、台所のテーブルに付いた。口数少なく、静かな室内に二人の食む音だけが響いた。食べ終わり、光雄がお茶を入れていると治がポツリと言った。
「義男に連絡したが、繋がらなかった」
光雄は電車内で恐れていたことに、心がざわついた。義男は治の血の繋がらない弟だった。治の母親は、治が五歳の時に心臓麻痺であっけなく死んだ。父親は寂しさを紛らわす為かスナックに通った。そこのホステスの女と深間になり、二歳の連れ子とともに一緒に暮らし始めた。治が十二歳の時だった。一人っ子だった治は弟が出来たことが嬉しく、義男を可愛がったし、義男もお兄ちゃんと懐いてくれた。それから七年後、治の父親が事故で亡くなると女は義男を連れて出て行った。一緒に暮らし始めた時、籍を入れようと言った父親に女が別れた男は高齢で籍に入っていた方が年金を貰えるし、生命保険も貰えるので籍を抜くことはないと言った。だから、それから七年後、治の父親が事故で亡くなると女は妻ではないからと義男を連れて出て行った。保険金などは父親の弟が治の貯金通帳に入れたらしい。勿論治は父親が亡くなり、可愛がっていた義男もいなくなり寂しかった。ただ、治も十九歳で手に職をという叔父に従って、板金工として働いた。その後、叔父がとっておいてくれた貯金を元手に小さい工場を立ち上げた。それから二十八歳で伸子と結婚、二年後光雄が産まれた。伸子と一緒に頑張って、二名の工員を雇うまで工場を大きくしていった。工場も順調な軌道に乗っていた頃、突然、義男が訪ねて来た。三十五歳になっていた義男は、他県で居酒屋をやっていると言った。二十六年振りに会った義男は別人のような男だった。ただ、一緒に暮らした七年間は懐かしかった。あれから女は九歳だった義男を祖母に押しつけ、男と雲隠れしたらしい。押し付けられた祖母は、義男に辛く当たったという事だった。もしも、父親が生きていたら義男とはずっと兄弟として暮らしていただろう。それから、義男は時々訪ねてきては、「兄さん」と呼びながら夕食などをしていった。治も昔を思い出し「義男」と呼び、懐かしがった。何度も家族を連れてこいと言っても、恥ずかしがり屋だからと答えをはぐらかした。そんな事が三年も続くと、伸子も「義男さん」と呼び、義男も「姉さん」と呼んで懐いていった。伸子が行方不明になったと義男に言うと、「姉さんが」と、絶句し来なくなったという。
勿論、光雄も義男の事は知っていた。ただ、光雄の高校は、県外の進学校で寄宿舎に入っていたので、殆ど会うことはなかった。二人が弟のように思っているのを、家に戻ってきた時に聞く位だった。治も内心、義男を疑っているのでは。伸子は義男の為なら、治に黙って少しの間だけ貸した可能性もある。でも、弟のように可愛がっていた義男に限ってという気持ちがあったに違いない。
光雄は、思い切って治に聞いた。
「義男さんの連絡先は分かっているの?」
「お店の電話番号だけ」
「そもそも、居酒屋が本当にあるの?行ったことは?」
「ないんだ。一度二人で行ってみたいよって言ったら、小さな店だから恥ずかしいよ。その内、広げるつもりだから、そうしたら招待するからって」
治は、小さな声で言い訳した。
「ねえ、父さん。俺は義男さんに一回位しか会ってないから、彼がどんな人かよく分からないけど。このこと警察に言っては駄目かな。義男さんが関係なければ、その方がスッキリすると思うよ。もし、違っていたら俺が謝るからさ」
治は俯いていたが顔を上げると、光雄に向かって頷いた。
「光雄、父さんは内心恐れていたんだ。伸子が若い男と逃げたという噂はあり得ないと思いつつ、ひょっとすると義男とって。父さんが義男は弟だから可愛がってくれと無言のプレッシャーを伸子に与えていたんじゃないか。だから、義男に聞くのが躊躇われた。今度、母さんが見つかって、母さんを疑っていたことを、母さんに詫びなくてはいけない、父さんが悪かったってね。父さんは捜査については分からないし、お前はプロだから、お前に任せるよ」
「ありがとう、俺も勘違いであることを祈るよ」
その夜は、母さんと父さんの三人で寝た。
(七)
次の日、光雄は多摩署に電話を入れると、横田管理官が出た。前日、父から聞いた話を正直に言った。母が失踪してすぐに家出人捜索願を出せなかったのは、噂通り何処かで義男と幸せに暮らしているのではないかと考えたからだ。義男に確認してから慌てて家出人捜索願を提出した。
「俺は三年間、高校の寄宿舎にいたので義男さんとは一回しか会っていません。ただその時、両親が嬉しそうに義男さんと話していたことは覚えています。義男さんを疑う証拠はありません。ただ、父に聞いても経営していた居酒屋の場所もはっきりせず、そもそも居酒屋を本当に経営していたのかも分かりませんし、警察のほうで調べていただいたら分かるのではないかと。結果は兎も角はっきりしてほしいと思っています。内心、全くの勘違いであったら父も救われるのだと思っております。よろしくお願いいたします」
「分かりました。お父さんはお母さんが白骨体で出て来たことは、非常にショックだったと思います。早速、義男さんについては、調べさせていただきます。何か分かりましたら早急に安居さんへ連絡を入れます。お父さんには、はっきりした段階で安居さんから知らせたほうが宜しいかと思います」
光雄は警察に連絡したので後は知らせを待つだけだと思い、治に自分のアパートで一緒に住もうと言った。今度は三人でと。
「ありがとな、父さんも一緒に住むことに異存はないんだ。ただ、やっと母さんが帰ってきてくれたんだ、もう少し二人だけで暮らしたい。それに仕事を辞めることにしても、今までお世話になった会社のほうに、きちんと説明をしなくてはいけないからな」
光雄は治の几帳面な性格からして、会社に礼を尽くして退職したいのだろう。光雄は、また来るよと言い残して自分のアパートに帰った。一週間後、治はアパートで伸子の骨壺を抱えて倒れているのを、出勤してこないと不審に思ったガードマンの同僚が発見した。光雄は連絡を受けて急遽病院に駆け付けたが意識は無く、脳溢血と診断された。伸子が発見されたことで一気に緊張が緩んだのではないかと、医師は話した。三日後、治の葬儀を済ませた。横田管理官他三人が参列してくれた。管理官が、自ら被害者家族の葬儀に出席してくれるのは例外だろう。
「義男について、はっきりした事が分かりました。居酒屋経営どころか、チンピラで女の紐になったり、コソ泥で捕まった前もありました。今、懸命に義男の行方を追っています。こういう輩は、東京や大阪など大都市に逃げ込むと厄介な場合もあるんです。裏社会に精通していることもあるし、都会は他人に無関心なので隣にどんな人が住んでいるの分からない。でも全国に指名手配を掛けまし、指紋その他の情報も流しています。お父さんが、このようなことになる前に、逮捕の連絡をしたかった。残念です」
横田管理官は光雄に頭を下げた。光雄は首を振った。
「お世話をおかけしてます。これからも宜しくお願いします。義男が犯人だとしたら、逮捕に向けて動いている警察官の皆様には申し訳ありませんが、義男が捕まるところを父が見なくて良かったと思ってしまいます。父が弟として可愛がっていた義男の姿を」
父のアパートを整理した光雄は両親の骨壺と位牌を持って、アパートに戻り、仏壇を買って二人の位牌他を収めた。二人の骨壺は、その前に置き犯人が逮捕されたら墓を買い、納骨しようと決めた。
義男が大阪で強殺事件を起こし、大阪府警に逮捕されたとの一報が横田管理官から光雄にもたらされたのは、一か月後だった。
「強殺では二人の人間を殺害しているので覚悟を決めたのか、お母さんの殺害も認めています。まずは、大阪府警の方で取り調べを行い、その後、東京の警視庁に移送して、お母さんの事件の調書をきっちりと取ります。もう少し、時間がかかるかもしれませんが、お待ち下さい」
光雄は、思わずほっとして溜息が出た。
「墓を買ったので、四十九日の法要を執り行うことにしました。墓前で両親に報告出来ます。ありがとうございました。それから、今度のことを鑑みて、検事になりたいと思いました。これから司法修習生などなすことは山積みですが、被害者や被害者家族の無念さや保護に寄り添いたいと思っています」
光雄は言いました。
「それはそれは。この度の事で、被害者と被害者家族の無念さを是非とも司法の場で発揮していただきたい。それは、我々現場で駆けずり回る者たちの励みになります」
(八)
光雄が、刑事局の検事になり二十年以上の月日が流れていた。その間、学生時代アルバイトで教えていた花緒里と所帯を持ち、一男一女にも恵まれ、公私共に充実した時を過ごしていた。仕事は、当然刑事事件の按検が多く、繁雑さに埋もれそうな時間を丁寧に過ごしていた。
ある日、積まれたファイルの中から光雄の過去が零れ出た。
氏名 / 原島恭子
罪名 / 殺人
光雄は驚愕し、一瞬で二十七年前のあの夜に連れ戻された。初恋の女性と奇跡の出会いを果たし、光雄に初めて女との営みを教えてくれた人。あの時の光雄は貧しく、引き留めるすべさえなかった。あれから茫々とした時が流れ、今がある。
濱埜検事長に原島恭子が幼馴染であることを申し出て、この按検から外して貰うように頼んだ。
「了解した」
濱埜検事長は、詳細を訊ねることなく頷いた。
ここに至るまでの原島恭子の人生が、一冊のファイルに収められていた。
「原宿でモデルにならないかってスカウトされたの。明日そのプロダクションに行くことになっているんだけど、部屋も借りてくれるらしいの。希望通りモデルになれるのよ、嬉しいわ」
恭子が嬉々と話していた事が、訝しいのではないかと一瞬光雄の頭をよぎったが口には出せなかった。いや、アルバイトと学業に追われていた光雄には、口を挟む余地がなかった。むしろ相変わらず美しく輝いていた恭子ならモデルのスカウトもあるのかもしれないと自分を納得させた。
恭子の転落人生は、甘美な夢から始まったと、調書の行間から垣間見えた。モデルにと誘ってきた男は豹変し、ヒモとなり薬でがんじがらめにさせられ、キャバクラのホステスからいかがわしい仕事に就かされてはお金を搾り取り、挙句の果ては暴力を振るわれる。恭子がその地獄から抜け出す手立てが、そのヒモ男を殺す事だった。
大都会東京の中に煌びやかな水槽があり、華やかに彩られた熱帯魚たちが優美に泳いでいる。その中で、男も女も寂しさを内包しつつ、したたかに生き抜いている。
調書に滲んでいる恭子の人生の中で、寂しい熱帯魚がフラフラと泳いでいた。