婚約者様と新たな門出4
御者の隣にローズも腰掛けて、自分の荷物が入っている小さなバッグぎゅっと抱きしめながら、ぼんやりと街並みを眺めていたが、聖女宮まであと少しの距離まできたところで、視界に飛び込んできた姿に、ローズは思わず座面から腰を浮かせる。
ちょうど店から出てきたジェイクと、しっかりと目があったのだ。
「危ないです。ちゃんと座っていてください」と御者に怒られ、ローズは御者台から飛び降りてしまいたい気持ちをぐっと堪えて、「はい」と返事をした。
それから五分ほど進んだところで、馬車が停止する。精霊たちの姿が所々彫り込まれた聖女宮の立派な白い門の前に、ローズたちの他にも幾つもの馬車が停まっていて、そこから新入生の荷物がどんどん運び下ろされている。
ローズが御者台から降りて、複雑な気持ちで門を見つめていると、自分と同じ女中服を着た誇らしげな顔の女性が、両手で荷物を抱えた状態でくぐり抜けていった。
「わたくしは、あのような明るい顔は出来そうにもありません」
聖女宮の門はまるで地獄への入り口かのように、ローズの目に映っていた。
この中へ足を踏み入れたら、もう引き返せない。本当にそれで良いのか。この場から逃げ出せば、自分にはもっと違う人生が待っているのではないだろうか。
行きたくない。ローズの思いが、どんどん膨らみ、強固なものになっていく。
馬車から降りてきたエドガルドが、聖女宮の門番と言葉を交わしてから、立ち尽くしているローズに行くぞと声を掛けた。
「叔父様! お伺いしたいことがございます」
先に歩き出していたエドガルドが、ローズの呼びかけに振り返る。ローズは自分に向けられた冷めた眼差しにわずかに息をのんだ。
「それは今でないとだめなのか?」
体が竦み、頭の中も真っ白になるが、ここで一歩を踏み出さないと後悔すると、なんとか勇気を振り絞り、自分の思いを言葉にする。
「わたくしも、十八歳になりましたら、聖女宮の試験を受けてみたいと考えておりまして……」
エドガルドの眉が不機嫌にひそめられ、ローズは不快にさせてしまったと体を強張らせるが、言ってしまった以上、もう引き返せず、喉の渇きを感じながら続きを口にする。
「私も聖女になりたいのです。今、ミレスティの付き人として入ったとしても、時期が来たら、その役目を誰かと交代してもらえますか?」
「……聖女か」
お前になれると思っているのかと小馬鹿にされるかとも思ったが、意外にもエドガルドは噛み締めるように呟いた。
「そういえば、ミレスティが光の魔力の使い方を学び初めたばかりの頃、お前は既に動物の怪我を治していたな」
「……あっ、あれは……まぐれです」
「それから、ミレスティが国守りの精霊を助けた時、精霊の居場所はお前が見つけたともミレスティから聞いている。どうしてわかった?……まさか、国守りの精霊の声が聞こえたのか?」
ローズは本当のことを言いたくなくて黙り込んだが、エドガルドからずばり指摘されたことで表情を強張らせる。自分に向けられる鋭い眼差しから、誤魔化し通すのは無理だと思い、力なくこくりと頷き返した。
「なるほど、お前の母親も元聖女だったな。これまであまり感じなかったが、娘のお前もそれなりに能力があるようだ」
聞いたことのない高揚した声でエドガルドは独り言のように呟くと、ローズに対してニヤリと笑いかけた。
それが獲物を見つけ、嬉しさで目を輝かせた獣のようにローズには見え、ぞくりと背筋が震える。
「お前はこれからもずっと、ミレスティのそばにいなさい。ミレスティが無事に大聖女になれるように、そして大聖女になった後も、お前がミレスティを支え、手助けをしろ」
「これからもずっと……ですか?」
それはつまり、死ぬまでずっとと言う事かと、ローズの中で不安が渦を巻き始める。そんなことになれば、自分は一生自由など得られないと、焦りや動揺も膨らみ、ローズは先ほど示した自分の気持ちをもう一度、必死に言葉にする。
「で、ですから、わたくしもいずれ聖女になり……」
「いや、だめだ。お前はミレスティの影となれ! ここまで育ててやった恩を、ミレスティの役に立つことで、私に返してもらおう」
強く放たれた言葉にローズは衝撃を受け、数秒、呆然とする。しかし、心にぽっと生まれたモヤモヤが徐々に大きくなり、ローズはぎゅっと拳を握りしめる。
「親を亡くしたわたくしを引き取って、育ててくださったことには、恩を感じております」
言葉にしながら頭に浮かぶのは、これまでの思いと、自分が置かれていた環境。
祖父母を含め、周りには「弟の代わりに私たち夫妻が、ローズを大切に、そして立派に育てる」とエドガルドやエマヌエラは言っていた。しかし実際には、召使いを雇う金が勿体無いからと、ローズをタダ働きの召使いとしてこき使っていたようなものだ。
「……叔父様、わたくし、これ以上は嫌です」
ローズが心の声を発した瞬間、我慢の糸がぷつりと切れた。
「わたくしは、もう誰かの影でなんていたくありません。自分のための人生を歩んでいきたいのです」
「なんだって! お前はなんて恩知らずなんだ。見捨てず、ここまで育ててやったというのに」
「でしたら、今、わたくしをお見捨てください!」
声を荒げたエドガルドと、凛とした態度で言い放ったローズに、周囲の人々が何事かといった視線を投げつけてくる。
それにエドガルドはほんの一瞬ばつの悪そうな顔をしたものの、ローズに歩み寄り、ローズにだけ聞こえる程度の声量で凄んだ。
「いいや、お前にはまだまだ役に立ってもらう。まずはミレスティが立派な大聖女となるようにしっかり支えて、そしていずれはセレイムル家にとって有益となる位の高い男の元に嫁ぐんだ」
そのままエドガルドはローズの腕を掴もうとするが、捕らえられるよりも早く、ローズは大きく後退し、強い意志を持ってエドガルドをまっすぐ見つめる。
「叔父様が決めた相手に嫁ぐのも嫌です。婚姻を結ぶ相手も、わたくしが自分で決めます!」
「勝手なことを言うな!」
エドガルドはカッとして怒鳴りつけると同時に、乱暴にローズの腕を掴み取り、そのまま聖女宮の門へと歩き出した。
「わたくし、絶対に嫌です! どうかわかってください! 叔父様!」
ローズがいくら拒否しても、叔父に全て無視され、悔しくて目に涙が浮かぶ。
どんどん近づいてくる聖女宮の門を見て、ローズの中で小さな諦めの気持ちが生まれた時、
眼前を黒い影が横切った。
突然の目の前に現れたのはジェイクと共にいたあの精霊で、エドガルドがローズを掴んでいる手に向かってかざした手から、小さな火球が放たれた。
「熱いっ! ……精霊がなぜ?」
火球は見事にエドガルドの手に命中し、エドガルドは反射的に視線を向ける。足を止め、そこにいた精霊に怪訝そうな顔は浮かべたものの、それでもローズの手を離すことはなかった。
エドガルドは気を取り直して、再びローズを引き連れて歩き出そうとするが、前に進むのを邪魔するように精霊がエドガルドの周りをぐるぐると回り始める。
「なんなんだこの精霊は、どけ!」
空いている手で精霊を必死に払い落とそうとしていると、今度はローズを掴んでいた手を誰かに捕まれ、エドガルドは先程よりも強い痛みに襲われる。
慌てて振り返り、自分に対し鋭く睨み、敵意を露わにしている黒髪の男の迫力に、ほんの数秒、言葉を失う。
代わりに、ローズは現れた男性に対し、一気に目を輝かせた。
「ジェイク様!」
「一週間ぶりだな、ローズ……って、さっきは気づかなかったけれど、それは聖女宮の女中服だな」
ローズに対して表情を柔らかくしたのも束の間、気づいた事実に、ジェイクはすぐに表情から笑みを消す。
「見かけない顔だな。ローズ、知り合いか?」
ジロジロと不躾な眼差しでジェイクの身なりを見ているエドガルドから問われ、ローズは「はい」と素直に返事をする。すると、先ほど火球を投げつけてきた精霊が、ジェイクの肩に慣れた様子で腰掛けたのを目にし、エドガルドは苛立ったように小さく舌打ちした。