婚約者様と新たな門出3
「なぁ、シェリンガムに興味はないか?」
「シェリンガム国でございますか? そうですね……首都はとっても綺麗で、洗練された街並みだとか。いつか見てみたいとは思いますけど……」
「ここから飛び出して、独り立ちしてみたいとは思わないか?」
「独り立ち、ですか?……わたくし、そういうことは全く考えたこともなくて、正直よくわかりません」
ミレスティが入宮後は、厄介払いとして叔父が選んだ男性の元に自分は嫁ぐことになるかもしれないとはぼんやり考えたことはある。しかし、自分の意思で出ていくというのは想像すらしたこともなく、戸惑いが膨らむ。
男性は、視線を足下に落としたローズの肩を掴んで、真摯に力強く続けた。
「いつまであの従姉妹の小間使いを続けるつもりだ? あなたの能力は評価に値する。あの従姉妹の影なんかではなく、あなた自身がもっと認められるべきだ。育ててもらった恩はあるかもしれないが、その人生は従姉妹のためではなく、あなたのもの。誰にも気兼ねせず、もっと自由に、自分の望む未来を進んだって良いはずだ……あなたはどう生きたい?」
男性からかけられた言葉にローズは顔をあげ、心を掴まれたように大きく目を見開いた。
自分の意見など通らないのが当たり前で、気持ちを押し殺して生きてきた。しかし、今、自分の気持ちを問われたことで、ひとりの人間として認められたように感じ、少しだけ世界が広がったように思えた。
「ジェイク様、やっと見つけました。……いかがなさいましたか?」
少し離れたところから声がかけられる。ローズもつられて振り返ると、丸眼鏡をかけた執事風の四十代くらいの男が、足早に歩み寄ってくる姿が視界に入る。
知り合いがやって来たのなら自分はこの辺で失礼しようと、ローズは改めてジェイクと呼ばれた男性へと深く頭を下げた。
「そんな風に言ってもらえたのは初めてで、わたくし、なんて言っていいか……言葉が見つかりません」
感動で心が震えているのを感じながら、ローズはしみじみとした口調で気持ちを述べ、そしてにこりと笑いかける。
「大事にいただきます。本当にありがとうございます。……ジェイク様」
もう一度、ジェイクに頭を下げ、そして肩にいる精霊ににこりと笑いかけてから、踵を返しぱたぱたと走り出した。
執事の男、イヴァンテはローズを振り返り見ながら、ジェイクの元へとやって来る。
「ジェイク様が、女性に贈り物をされたのですか? いったい彼女はどこのどなたです。お名前は?」
「……さぁな」
興味津々のイヴァンテにジェイクはあっさりと言い放ち、何事もなかったかのような顔で、ひとり歩き出す。歯痒そうに「ジェイク様!」と声を上げた後、イヴァンテは口惜しそうにもう一度だけローズを振り返り見てから、ジェイクを追いかけた。
指示されたのとは違うものを買ってしまったが、ハシントンがマロンクリームのタルトを「渾身の新作だと聞いて、気になっていたんです」とたいそう喜んでくれたため、ローズは大目玉をくらわずに済んだ。
精霊と分け合いながら、ジェイクからもらったマロンクロームタルトをこっそりと食べ、美味しさに悶絶してから四日が経ち、その間中ずっと、ジェイクから言われた言葉が、ローズの心をざわつかせていた。
自分はどうしたいのだろう、どのように生きていきたいのだろうと自問自答するうちに、繰り返し思い出すようになったのは、昔、自分の世話をしてくれた侍女、アーサの言葉だった。
『精霊たちが困っていたら、力を貸してあげましょう。精霊はローズお嬢様の良き友であり、仲間であるのですから』
本当にその通りで、ローズにとって友や仲間と呼べる存在は精霊だけだった。わたくしは精霊たちの力になれるような存在になりたいと、ローズは考えるようになっていった。
ミレスティの入宮もあと三日と迫り、ローズが彼女の荷造りをしていた時、爪の手入れに精を出していたミレスティがさも当然のように命じた。
「あなたは大して持っていく物もないだろうし、もうとっくに荷造りは終わっているのよね?」
「どうして、わたくしも荷造りを?」
聖女宮にはミレスティがひとりで行くものだとばかり思っていたため、ローズはほんの数秒、ポカンとする。
「……もしかして、わたくしも入宮するということでしょうか!」
聖女宮に入り、光の魔力の使い方をしっかり学ぶことができたら、精霊を助けられる存在となれる。
思い描くようになっていた「なりたい自分」に近づくことができるかもと、思わず声を弾ませたローズを、ミレスティは呆れたように鼻で笑い飛ばす。
「そんなわけないじゃない。一般の入宮は十八歳からと決まっているわ。今回、私が特別なの」
「……それなら、どうしてわたくしも?」
当然のように否定されたことで心が痛み、ローズは嫌な予感に表情を強張らせていく。
「あなたは聖女見習いとしてじゃなくて、私のお世話係としてついてくるのよ」
「セレイムル家には優秀な侍女が何人もいらっしゃいますし、何もわたくしでなくても」
「あなたじゃなきゃ意味がないのよ。私が入宮したあと、あなたが私の婚約者であるハシントン様に擦り寄らないように、連れていくの。私の目の届くところにいてもらった方が安心だわ」
お目にかかったことも言葉を交わしたのも数える程度で、もちろんハシントンに擦り寄ろうと考えたことなど一度もない。それなのに、どうしてそんな勘違いをされてしまったのかと、ローズの中で困惑が膨らむ。
「誓って、わたくしそんなこといたしません!」
「ハシントン様は、私に会いに来て下さっている時、あなたとも話がしたいって、よくおっしゃるの。それって、あなたがあの方の気を引くような態度をとっているからでしょ?」
「それは完全なる誤解ですわ!」
なんとか分かって欲しくて、ローズは声高に訴えかけるも、ミレスティは全く聞く耳持たずで、そうに違いないとばかりに怒りの眼差しをむけてくる。
「彼の正妃に、そして大聖女にもなる私の世話をさせてあげるんだから、これ以上に名誉なことなどないでしょ? 私に感謝してちょうだい」
上から目線で放たれた言葉に、ローズは完全に言葉を失い、自分の思い描いた夢が音を立てて崩れ落ちていくのを感じ、絶望する。
「誤解だと言うのなら、私のお付きとして共にくることになんの問題もないわよね?」
いくら期待されているとはいえ、聖女のトップである大聖女に上り詰めることなど、たやすく成し遂げられることではないはずだ。
五年後か、十年後か、はたまた二十年後、なんてこともあり得る話だ。まだまだずっと、ミレスティにこき使われる生活が続くことになる。
『その人生は従姉妹のためではなく、あなたのもの。あなたはどう生きたい?』
ジェイクの言葉に胸を締め付けられ、ローズは悔しそうに唇を噛んだ後、ミレスティの問いかけに応えるように、小さく頷いた。
それにミレスティは満足げに微笑んで、「さっさと荷物をまとめてちょうだい」と命令し、自分の爪へと視線を戻したのだった。
きっとこの先の人生も今と何も変わらないんだろうなとローズが気落ちしているうちに、とうとうミレスティの入宮の日がやってきた。
聖女宮に入るための試験は一年に一度行われる。難しいことで知られている筆記試験を通過し、実技試験を兼ねた面接にも見事合格すれば、晴れて聖女宮で学ぶ権利を得られる。
それが通常の流れだが、今回のミレスティは特別枠での入宮のため、行われたのは簡単な面接のみ。しかも面接官もパーセル家の血筋の者ばかりで、「ただの雑談で終わったわ」と、試験後にミレスティが母親のエマヌエラに笑って話す姿をローズは見かけていた。
経緯はどうあれ、ミレスティに入宮の許可が降りたのは事実である。
他の合格者たちと共に入宮式に臨むべく、真新しい制服に身を包んだミレスティは、着飾ったエマヌエラと一緒に、十分ほど前に屋敷をでた。
そして、ようやくミレスティの荷物を馬車に積み終わり、聖女宮で付き人が身につける黒の女中服に着替えたローズも、エドガルドと共に聖女宮へと出発する。