婚約者様と新たな門出1
国守りの精霊を助けたハシントンの誕生日から、ミレスティの立場が大きく変わり出す。
自分が到着する前にローズがあの場所で何をしていたかなんて、ミレスティは想像すらせず、むしろ国守りの精霊を助けたのは自分であると信じて疑わなかった。
光の魔力を備えているミレスティは、元々、聖女宮の規則に則って十八歳になったら入宮し、聖女として鍛錬を行うことになっていた。
しかし、まだ十七歳ではあるが、国守りの精霊に望まれたことから、あと一年を待たずに、ミレスティを入宮させるべきではという声が上がり始めたのだ。
その声の発端は、エマヌエラの功績によって聖女宮の長を任されているエドガルドから発せられ、それに続くように、現大聖女だけでなく、聖女宮の役職の多くを占めているパーセル家も同調したのだ。
そのため、当然のように、聖女見習いとしてではなく、最初から大聖女候補としての扱いでの入宮で、という流れになっていった。
もちろん自分の光の魔力に自信を持っているミレスティにとって、この流れは誇らしいことだったが、それ以上に、ミレスティの気持ちを舞い上がらせる事柄があった。
大聖女は王の、もしくは王子の妃となることが決まっていて、現大聖女も先代国王の四番目の妃の座を得ている。
このままミレスティが大聖女になれば、年齢的にハシントンと婚姻を結ぶことになるのだ。しかも、まだハシントンは独身で、このまますんなり物事が進めば、彼の最初の妃になることができるのだ。
幼い頃からハシントンの花嫁になることを望んでいたミレスティにとって、絶対にこのチャンスを逃すわけにはいかず、彼女自身も一年早い入宮を強く希望したのだった。
半年が経ち、ミレスティの入宮まであと一週間と迫った昼下がり、ローズはセレイムル邸の一階廊下を、汚れた水が入ったバケツを持って歩いていた。
「そこ、埃が溜まってるじゃない! ハシントン様の視界に入ったら、恥をかくのは私よ! もうすぐお越しになる時間なんだから、今すぐ綺麗にして!」
応接間の扉の前に差し掛かった時、壁の向こうからミレスティの苛立った声が聞こえてきて、ローズは思わず足を止める。
精霊もローズの肩に腰掛けて、ごきげんな様子で歌っていたが、ひびいた怒声に驚き、パッとその場で姿を消してしまう。
大聖女見習いどころか入宮も済ませていないミレスティは、もちろんまだハシントンの婚約者に正式に決定したわけではない。
しかし、国守りの精霊や、パーセル家の力関係などの様々な要因から、ミレスティが大聖女になる可能性が大であると予想がされるため、ここ三ヶ月の間、頻繁に王子が親睦を深めようと会いにやって来ているのだ。
「……そうでしたわ。今日は、ハシントン様がお見えになる日でした。大変だわ」
訪問日の朝には、ローズは決まって、ミレスティから王子の滞在中は部屋から出ないようにと言い付けられる。今朝もそうだったのだが、床掃除に精を出しすぎてしまい、うっかり頭から抜け落ちていたのだ。
訪問時間が迫っている今、神経質になっているミレスティと廊下で鉢合わせでもしたら、「さっさと部屋に行きなさいよ!」と怒鳴られるに決まっている。
急がなくてはと、ローズはバケツを持ち直してから、屋敷の外の手洗い場に向かうべく、足早に歩き出した。
勝手口から外に出て、庭の奥にある広めの手洗い場へ向かっていたところで、セレイムル家の門から一台の馬車が入ってきた。馬車に獅子の模様を型取った金細工が入っていて、その立派さにローズは目を奪われる。
数秒後、それが王家の紋章だと気づいたところで、自分は身を隠すべきかとその場で右往左往し始める。
木の影にでも隠れようとしたところで、ローズは石に躓いてしまい、小さく悲鳴をあげた。倒れると同時に、持っていたバケツの水もぶちまけてしまい、濁った水は地面だけでなく足にもしっかりかかってしまい、ローズは己の惨状に苦笑いを浮かべた。
「……もしかして、そこにいるのはローズかい?」
悲鳴やバケツを落とした音を耳にして様子を見にきたハシントンから、不思議そうに声をかけられた。
「は、はい、その通りです。ハシントン様に、このような見すぼらしい格好でお目にかかってしまい、申し訳ございません」
着ている服は普段着のドレスを着古したもので、所々、ほつれや破れもあり、つぎはぎだらけになってしまっている。その上、足元は汚れた水を浴びたせいで、わずかに黒く変色している。
従者を引き連れて近づいてきたハシントンに対して、ローズは地面に両膝をついて頭を下げて謝罪する。すると、ハシントンの手がそっとローズの華奢な肩に触れた。
「ローズ、顔をあげてください。いったい、君はどうしてそんな格好をしているのですか? ……まるでそれじゃあまるで、召使いだ」
ローズは強張った顔を恐々と上げて、怪訝そうなハシントンと目を合わせた。
「わ……わたくし……お、お掃除が生きがいですの」
咄嗟にローズはそう答え、ぎこちなく微笑みかけると、ハシントンはローズの肩に触れたその手を差し出してくる。
「立てますか?」
手を貸してくれようとしてくれるハシントンの優しさが嬉しくてローズが微笑むと、ハシントンはわずかに目を見開いた後、つられるように笑みを浮かべた。
厚意は嬉しいが、綺麗なハシントンの手に自分の手入れの行き届いていない傷だらけの手を乗せるのが申し訳なくて、ローズが微笑みを顔に入りつけたまま固まっていると、ハシントンの後ろから駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
「ハシントン様、お待ちしていましたわ!」
喜びを堪えきれないように声をかけてきたのは、もちろんミレスティで、ローズはしまったと顔を青ざめさせた。
「こんなところで何をなさっているのですか?」
地面に座り込んでいるローズと、そんなローズに手を差し出しているハシントンを見て、ミレスティは気に障ったかのように一気に眉間を寄せるも、すぐにハシントンの視線を気にして、笑顔を取り繕った。
「ローズ、あなたもここでいったい何をしていたのよ。やだ、ものすごく汚れているじゃない。大丈夫?」
ミレスティは静かにローズへ歩み寄って、支えるように腕を掴み、「立てる?」と労りの言葉をかける。
ゆっくりと立ち上がったローズと、それを気遣うミレスティの様子を見て、ハシントンは「仲がいいね」とにこやかに思いを述べた。
しかし実際は、そばで目にしたミレスティの口角が弾き攣っているため、彼女が苛立ちを堪えているのが丸わかりで、今夜のわたくしの夕食はないかもしれませんと、ローズは項垂れそうになるのを必死に我慢した。
「そんな格好では風邪をひいてしまいますね。早く着替えた方がいい……あぁ、そうだ。今日は隣国シェリンガムで美味しいと評判の紅茶を一緒にいただこうと、その茶葉を土産として持ってきました。ローズもぜひ」
「まぁ、お土産だなんて、ハシントン様、ありがとうございます。シェリンガムは美味しいものが多いですものね。どのようなお味か楽しみですわ」
ミレスティはパッとローズから離れ、ハシントンの隣へと移動し、すでに彼の婚約者のような顔で、寄り添うように立った。
「ローズもぜひ」と誘われたが、それへの返答の時間をローズに与えずに、ミレスティは「さぁ、中へ」と先導するように歩き出す。