歩き出した道2
「お嬢様にお会いしたいという方が来ております」
「わたくしに? どのようなご用事かしら」
「子供が狂った獣に噛まれたらしく、診ていただきたいようです。お嬢様はまだ本調子ではありませんし、お帰りいただきましょうか?」
「平気です。わたくしでよければ、診て差し上げますわ……ジェイク様、お屋敷の中に入ってもらってもよろしくて?」
ローズの確認を受け、ジェイクは「もちろん構わない」と力強く頷き返す。それにローズは柔らかく微笑んでから、「お呼びしてくださいな」とアーサにお願いした。
アーサが玄関へ戻ると、程なくして泣きべそをかいている小さな女の子を抱きかかえた母親が居間に姿を現す。
話を聞くと、この屋敷の近くに小さな畑を借りていて、母は娘をあやしながら畑仕事に精を出していたらしい。作業もひと段落し、暗くなる前に帰ろうとしたところに、穢れの森から狂った獣が飛び出してきた。なんとか逃げることができたが、子供が腕を噛まれ、そこに穢れが残ってしまった。
穢れを払ってもらうとなると、王立医院ではもちろんのこと、町医者でも高い費用を請求される。
親ひとり子ひとりで暮らしているため、金銭的に余裕がなく、どうしようかと途方に暮れている時、先日のあの親子から声をかけられ、穢れの森の横に住んでいる女性なら力を貸してくれるかもとローズの話を聞き、こうして訪ねてきたのだ。
しかし、ローズが何者かということまでは聞いていなかったようで、ローズの傍に寄り添うように立っているジェイクの姿に気がつくと、すぐに唖然とし、無礼をしでかしてしまったと母親は娘を抱きしめたまま、顔を青ざめさせた。
「ここがジェイク様の別宅だとは知りませんでした。……と、ということは、もしかしてあなたが、ジェイク様がアルビオンで恋に落ちたという婚約者様ですか? 私のような身分の低い者が、突然押しかけてしまい、本当に申し訳ございません」
「お気になさらないで。わたくしは婚約者ではなく、ただの候補に過ぎませんから」
ジェイクに物言いたげな視線を向けられていることなど全く気付かぬまま、ローズは「ほほほ」と笑いながら椅子を移動させ、「抱っこしたままで良いので、どうぞ座ってくださいな」と母親に笑顔で求めた。
ローズは母娘と向き合うと、実際はまだ少し体の中に残っている疲れを吐き出すように息をついて、そして「失礼します」と呟いてから、腕の傷口を確認し、穢れが蠢く患部へと手をかざす。
穢れを引っ張り出し、苦戦することもなく消滅させてから、光の魔力で傷の回復を促進させ、アーサに持ってきてもらった薬箱の中にある薬を塗りつける。
穢れを払うのは三回目ということもあり、そこまでは手際よく進んだのだが、包帯を巻くのだけは何度やっても緩くて不恰好となってしまい、見かねたジェイクがしっかりと巻き直した。
「完全に穢れを払っていただけるなんて、ローズ様、ありがとうございます。……あの、今はこれだけしか持ち合わせがなく……もちろん足りない分は時間がかかっても払いますから」
一連の流れを間近で目にしていた母親は、感謝で涙を浮かべる。そして、財布から取り出した紙幣を渡そうとするが、ローズは両手を軽く振って拒否した。
「わたくし、医療に関する免許を何も持っておりませんし、お代などいただけませんわ! 今夜はそれで、この子と一緒に美味しい物でも食べてくださいな」
母親はボロボロと涙を流し、「ありがとうございます」と声を震わせながら感謝の言葉を述べた。すると、母親から思いの結晶が浮かび上り、ふわふわと瓶に向かって飛んでいった。穢れを払って人々から思いの結晶を得る。それが自分にできる最良の方法だと、ローズは心の中で確信する。
「無免許ですけど、お役に立てることがありましたら、いつでも力をお貸ししますので、また何かありましたら、いらしてくださいね。他にも困っている方がいたら声をかけてあげてくださいな」
「なんて慈悲深い。ローズ様が次の王妃様になるのを、心より願っております」
玄関まで見送ろうとするローズを母親は丁重に断り、「今度、新鮮なお野菜を届けさせてください」と笑顔で申し出てから、涙の乾いた娘と手を繋いで屋敷を後にした。
居間の窓から遠ざかっていくふたつの背中を見送りつつ、移動させた椅子を元の場所に戻してくれたジェイクのそばへとローズは舞い戻る。
「とは言え、待っているだけではいけませんね。明日から、私もどんどん町に出て、困っている方のお役に立てるように、全力で向き合いますわ」
ジェイクも今さっきの親子とのやりとりで瓶の中の思いの結晶が増えたことに気づいていたようで、納得するように頷く。
「なるほど。さっき言っていた思いの結晶をためる方法とはそういうことか。……でも、フェリックスが言うには、ローズの噂は結構広まっているみたいだぞ。待っていても、向こうからどんどんやってくるかもしれない」
「まあ、本当にそうなりましたら嬉しいですわ」
ジェイクの予言めいた言葉に朗らかに笑ってみせたローズだったが、迎えた翌日、それは現実のものとなった。
のんびりと朝食を済ませ、ジェイクが城に向かうのと同時に自分たちも町に出ようかと、ローズがミアと話をしていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
やって来たのは、穢れを纏った年老いた男性で、ブラウンの穢れがなくなっているのを見て理由を尋ねたところ、ローズのことを教えてもらったらしく、すがるような思いで訪ねてきたと言う。
快く屋敷の中へ迎え入れ、すぐさまローズは穢れ払いに取り掛かる。見事な手腕と乗り越えられない不器用さを発揮しつつ、治癒を進めていると、次から次へと呼び鈴が鳴り始めた。
男性の包帯を巻き終えたところで、すでに屋敷の外にローズと話をしたいという人が十人ほど集まってきていて、それぞれに穢れや何らかの怪我を負っている状態だった。
これまであまり人に必要されたことがないローズは、自分を頼りにやってきた人の多さに唖然とするが、すぐに目を輝かせ、やる気をみなぎらせていく。
「屋敷にいらした順に中へお呼びしてくださいな!」
ローズはアーサにそうお願いした後、外の様子に動揺しつつジェイクを迎えに屋敷の中に入ってきた御者に、時間があったら薬や包帯を購入してきてほしいとお願いする。
ジェイクは張り切っているローズに苦笑いした後、窓側に立って外の様子を眺める。すると、人だけでなく、精霊や動物も集まってきているのがわかり、つい渋い顔となった。
「ジェイク、そろそろ時間だぞ」
声をかけると、ジェイクが迷うような仕草をみせたため、フェリックスは呆れたように肩をすくめた。
「まさか城に行かないなんて言い出さないよな? 今日はアルビオンから帰国してきた商人と会談の予定が入ってるぞ」
「わかってる。でも……ローズがまた倒れてしまわないか心配だ」
穢れの森の脇道を通って屋敷に向かってくる民の姿が、いくつも見える。まだまだ人数が増えるかもしれないと予想すれば、ローズが張り切りすぎて倒れる心配も出てくる。
ローズがベッドで眠り続けている間、ジェイクがどれほど心配していたかは、言葉はなくても表情から伝わってきていた。わかっているからこそ、フェリックスは心を鬼にして言い放つ。
「気持ちはわかるが、手を貸してはいけない以上、ジェイクがここに残ってもやれることはない。そばで見ていたら歯痒くなるだけだから、さっさと屋敷を離れた方がいい」
相棒からの言葉にジェイクはハッとしたように目を見開き、「……そうだな」と納得するように呟く。