免疫と心情
辺境伯領に戻ったわたしは今回の諸々に疲れ、聖域の大木(自称おじい)の下で夏の日差しを避けながらダラダラと怠惰を貪っている。
旦那さまはもちろん仕事だ。さすがのタフネスだ。わたしはちょっと精神的に疲れたのもあり、癒しが必要なのでお休み。サイトーも出張していて帰ったらいなかったからサエトリアンの仕事もないのだ。
ゴロンと仰向けで木漏れ日に目を細める。
「しっしょー」
「なんじゃーばかでしー」
珍しく師匠も一緒に怠惰を貪ってくれている。久々の師弟水入らずだ。タニアと毛玉は珍しく用事があるとかでここにはいない。さみしい。帰ってきてから思いっきり甘えてやったけどまだタニア成分が足りない。おでこに手を当ててもらってそれにスリスリしたいし、タニアの手拍子で歌もうたいたい。鞭も見たい。
色々足りない。今から色々と補充しよう。
はーそれにしてもー。
「きつかったー」
「そだろなー」
師匠はゴロンと草の上に寝転び適当な相槌を返してくる。
もー。
「ひとごとー」
「だってひとごとじゃろー?」
えー。他人事じゃないでしょう?
わたしは草の上から体を起こし、ハイハイの姿勢で寝転んでいる師匠の横まで行って、被さるように顔を覗きこんだ。
「師匠だって暗躍してくれてたじゃないのよう! 当事者よう!」
「おん? あんなん適当じゃ適当じゃ。久々の惰眠の時間を邪魔するでない」
目も開けずに面倒そうに答える。
でも本当は違う事を知っている。師匠の声はなんらかのプロテクトがかかっていて心を読み取ることはできないけど、今までの色々でわたしはこの人に守られていた事を知っている。
「ありがとね。師匠」
感謝の気持ちを込めて、さっきから呼吸で上下している腹に軽く頭突きを落とす。
「ぐほう」
「師匠大好き」
そのままぐにぐにとおでこを腹に押しつける。やらけー。腹肉やらけー。
「痛いじゃろうが。やめえ」
そう言ってわたしの頭を自分の腹に押し付けるようにホールドしてくる。
ぐふ。いい匂い。師匠の匂いと草の匂いと土の匂いがまざって夏の匂いだ。
大人しく抱きしめられてやろう。
「ししょう。ほんとにありがと」
「ばかが余計な事を考えるでないばかはばからしく笑っとれ」
ぬふふん。ししょー大好きー。
しばらく師匠の腹肉を堪能していると脳裏にふと疑問が浮かんだ。
腹肉を貪るのはやめて顔を上げる。
「師匠、真面目な質問いい?」
「おん?」
細くうっすらと開けた目で師匠はわたしをみるだけにとどめた。
「帰り道の馬車で旦那さまから聞いたんだけど」
「許諾の前に話しだしおったの」
「いいからいいから。でさロゼリアの指輪なんだけどさ。旦那さま曰く触られて名前を呼ばれた途端に意識を持っていかれたっていうのよ。どういう仕組みなの?」
まだ目を細めたままの師匠にわたしは右手を小さく上下させる。
「なんでわしに聞くんじゃ」
「だって師匠あれ解析したでしょ?」
少しだけ目が開く。
「む。なんでしっておる」
「ひみつー」
「さてはトシゾウの小僧じゃな。魔導具を作ってやった恩を仇で返しおって。今度キャン言わせてやる」
師匠は上半身を起こし、どこかで聞いているであろうトシゾウに向かって宣戦布告である。
しーらないっと。
「わたしはノーコメントで。でさでさ、あれってどういう仕組みだったのよう?」
「お主が技術の話に首を突っ込むなんて珍しいな。いつもならふーん。ほーん。で終わってるじゃろ」
それは確かに。前世で師匠が仕入れてきたオートチューンやらMPCやら。ソフトハード通じて、いくら説明されても、ふーん。ほーん。で済ませてた気がするわ。いつも説明が長いのよ。
でも今回はちょっと知りたいのよねえ。
「いやあ、あれには迷惑かけられたしさ、今後旦那さまに似たような事が起こらないとも限らないじゃない? 対策が取れればなあなんて思ってたり思ってなかったり……」
「その対策なら簡単じゃ」
「え!? マジで?」
ドドドと師匠の眼前まで顔をよせる。
「近い! 近いのじゃ! ちょっと離れい!」
迷惑そうな師匠に顔をむぎゅうと押されて距離をとられる。むぎゅう。距離をとって落ち着いた師匠は続ける。
「あれの仕組みはな、名前を呼ぶ事で精神を支配をするというシンプルなもんじゃ」
「なまえ?」
まいねーむいずとむです。
いいえ。あたなはサーシャてす。
はいそうですか。
むぎゅうとされた顔のわたしの思考が中学生英語の教科書一ページ目に飛んだ。
おっと危ない。ただいま。おかえり。
なおも師匠の説明は続く。
「しかもあの魔導具はな元来あそこまで精神をしばれる代物じゃないのじゃ。せいぜいフラットな状態から、うっわこの娘きゃわわってなるくらいじゃ」
「なんで!? じゃあなんで旦那さまだけ?」
再度顔を寄せるが、事前に察知していた師匠に近づく前にむぎゅうとされて押し返される。
「落ち着けい。ちゃんと説明してやるから」
「うん」
「辺境伯殿はな名前を呼ばれる事に耐性がないのじゃ」
「耐性?」
名前に耐性もなにもなかろう?
首が右に倒れるぞ。
「おう。古来名前を呼ばれるというのは魂を支配される事と同義じゃった。そこから人間はお互いに名前を呼び合う事で耐性を得てただ名を呼ばれただけでは支配されなくなった。これは魂の根幹部分に人類共通の防御機構として組み込まれたためみんな持っておる」
また師匠のオカルトが始まった。
魂だのなんだのってすぐやるからなあ。天才ってそれ系多いよねえ。
まあいいか。
「なんで旦那さまだけそれがないの? おぎゃあと生まれて耐性があるんでしょ?」
「もちろんある。しかし生まれたての防御機構はタネみたいなもんじゃ。本来は親から名前を呼ばれ、友から名を呼ばれ、他人から名を呼ばれ、その耐性を強化していくんじゃ。じゃがあの男は基本的に名前を呼ばれる事がない。よく考えてみい」
あごに手を当てて考えてみる。名探偵サーシャのポーズ。
わたしは旦那さま。トシゾウはご主人。マーサは坊ちゃん。他の人間は大体辺境伯様って呼ぶか。
「ほんまや!」
「そして数少ない名前を呼ぶ人間も悪かった」
「だれえ?」
「先代辺境伯じゃな」
「パパ上? 何がダメなのう?」
会ってみたかったなあ。厳しい人だったろうか?
「辺境伯殿はな、父親に厳しく教育されたような事を言っていただろう? 生まれながらにして辺境伯として教育されたと」
「うん言ってた」
今の愚直さはきっとそこからきているのだろうと思っている。
はー旦那さまに会いてえ。
「それがダメだったんじゃな。名前を呼ぶ人間がイコールで支配者という認識になっているのじゃ」
「やっば」
「そうじゃのう。じゃがなその分、今回のようなケースへの対処は簡単じゃ」
「ああ」
……そういう事か。
「お察しの通り、馬鹿弟子が辺境伯殿の名前を呼ぶようになればいいだけじゃ」
「んー」
んー。
「なんじゃその顔は。渋っておるのか?」
「んー」
んー。
「顔が梅干しみたいになっとるぞ。そういえばこの世界梅干しないんじゃが!」
「んー」
んー。ちょっと無理かもお。
「どしたバカ? 悩んどるなら言ってみい」
「ちゃんと弟子をつけてよう師匠」
憤慨したふりで誤魔化してみようか。
どうだ。可愛い弟子のぷんすこやぞ。それ愛でるがいい。
「いいから言うのじゃあ!」
師匠がわたしの脇やら腹やらに手を差し込み、わたしをくすぐってくる。
そ、そういう愛で方は求めてないのよう。ぎゃあ。
「や、あ、やめ。どふふふ。言う。いうからやめどふふふう」
「ほれさっさと言うのじゃ。今世のばかは肉が少ないのう。もっと食え」
くすぐりの手をとめて師匠は勝ち誇る。
は、肺が苦し、死ぬかとおもた。
軽く深呼吸で息を整えてから、師匠の顔を真面目に見つめる。師匠もじゃれていた時とは違って真剣にわたしをみてくれている。
……しゃーなし。
「名前なんだけどさ。ちょっと怖くて呼べないかも」
「何が怖いんじゃ」
くしけずるように頭を撫でてくれる。少しうねった髪を丁寧に丁寧に。
落ち着く。
「師匠なら知ってると思うけど。わたしってこんな感じでバカだけどさ。実は奥の方にほんっと臆病な子がいるのね」
「おん」
「そこがさ。旦那さまを名前で呼ぶ事を怖がってる」
「なにがこわい?」
なにが? うーん。
「えっと言葉にするのが難しいからゆっくりでいい?」
「ああ」
わたしはゆっくりと語り出した。
師匠はずっと頭を撫で、髪をくしけずってくれる。
絡んだ髪がほどけるように感情がひとつひとつと言葉に変わる。
「旦那さまを失うのがこわい」
「わたしはね。わたし以外の人間が、わたしから離れていく事を許容してるの」
「じゃないと多分生きていけなかったから」
「誰であっても」
「でも旦那さまだけはダメだった」
「旦那さまがわたしから離れたらきっと生きていけないと、本能で感じている」
「だからね、……旦那さまって呼んでいるの」
「旦那さまって呼んでいる間はあの人はわたしの旦那さまで」
「わたしは旦那さまの妻でいられる」
「でも名前で呼んだら旦那さまから、わたしの旦那さまから一人の人間になってしまう気がするの」
「それがこわい」
師匠の頭を撫でる手が止まり、わたしの言葉も止まる。
「ふむ。難儀じゃのう」
隣に座り、頭を撫で、無言でうなづいてくれていた師匠が、そう静かに言った。
否定も肯定も共感もない言葉に今は救われる。
剥き出しのわたしにはそのどれもが傷をつけていただろう。
「うん」
ありがとう師匠。
「いつか、名前を呼べるようになるといいのう」
「うん」
大好き師匠。
師匠は立ち上がり、豊かなお尻をパンパンと叩いて草や土を落とす。
「わしは行くがお主はまだここにおるか?」
「うん」
「ゆっくりと自分と話してみるといい」
優しく頭を撫でて師匠は聖域から出て行った。残されたわたしは大木に手を当てる。
「ねえ、おじい……」
呼びかけから続く言葉は出てこない。またおじいから返る言葉もない。
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