春の川には白い花
とんでもねえ祟り神だったそうである。
私の曾々お婆さんの話だ。
時はシャンタール歴1717年。王立貴族学院の卒業パーティの場で、曾々お婆さんは当時の婚約者である第一王子から散々な罵倒を受け、婚約を破棄され、あまつさえ「最近仲いい可愛いのがいるからこっちにするわ」と宣言されたらしい。
なんだそりゃそんなことあるかいな、というような素っ頓狂な出来事だが、実際にあったらしいので仕方ない。
そして、当時公爵令嬢だった曾々お婆さんは流刑になった。
なんで?というような流れだが、実際にそうなったので仕方がない。
しかし曾々お婆さんはただでは起きなかった。その有り余る魔法と経営の才覚で流刑先の荒れ果てた土地をこの世の楽園に再生。一方、曾々お婆さんを追い出した王国はものすごい勢いで崩壊。世はまさに天国と地獄の二極化の時代に突入したのである。
そんなことあるわけないだろたかだか学校を卒業するくらいの年の小娘ひとりがどんだけ世界に対する影響力を持っとるんじゃ、という疑問も大変ごもっともであるが、まあ、あの、とりあえず傍から見た感じでは事実なので仕方がない。
そういう何ともおかしな過去を、この国、この土地、そしてこの私は抱えていて。
今の私は、その曾々お婆さんの七光りのおかげで、日々穏やかに暮らせている。
以上、事前説明は一旦終わり。
ここから先は、最近の私に起こった印象深い出来事を、頭から。
つまり、ちょっとした春の始まりから。
゜+。*゜+。。+゜*。+゜
「毒味なら私にお任せください、お嬢様!」
それはもういい笑顔で彼は親指を立てていて、明らかに私の身の安全よりもこれから自分の舌に訪れる味覚の素晴らしさに期待していることは間違いなかった。
春。
デイグラッド公爵邸。
私、ユノ=デイグラッドの部屋。
所狭しと並べられているのは、今年のデイグラッド追放領の初摘みの果実だった。
「どれから食べますか!? やっぱり去年のデイグラッド最高作物賞受賞作品であるノールーカさんのイチゴからですか!?」
「それ、あなたが食べたいだけでしょ」
部屋の調度は、それなりに質素。これは曾々お婆さんが「キラキラしているものを見ていると腹が立ってくる」とたびたび溢していたのが原因らしい。ただ、当然ながらそこは公爵邸。地味なりに机も椅子もチェストも何も品が良くて、大きな窓からは陽の光がたっぷりと差し込んでいる。
お皿の上のグレープフルーツ。一筋、その皮の表面を水滴がきらめいた。
「いえ、そんなまさか! でも、任せてください。私はなんでも食べますよ」
「なんでも食べたいの間違いでしょ」
「それこそまさかです! 私が食べたいものは美味しいもの、ただそれだけですから……」
部屋の中にいるのはふたりだけ。
ひとりは当然、私。ユノ=デイグラッド。
例の曾々お婆さんの直系の子孫にして十七歳。なんとこの若さで(というか曾々お婆さんが十五歳から頭角を現したことで作り上げられたジンクスのために)すでにデイグラッド家当主。銀髪青目の華奢お嬢、歩く姿は水晶のようと領内で噂――されているかは定かではないけれど、とりあえずそんな感じの、この土地の領主。
もうひとりは目の前でにこにこ何の悩みもなさそうな顔をしている彼、イルッカ=レイズ。
例の曾々お婆さんの流刑の際に唯一ともについてきたメイド――のちに『大忠義』『メイドクイーン』『手袋を投げた女』『大博打』『ちゃっかりレイズ』と称された大家令の子孫。背が高くて、髪の毛は赤みがかった茶色。年は私の二個上で、つまり、幼なじみ兼生まれてから大体ずっと一緒にいる付き人。
春祭の準備期間中のことだった。
冬の終わりと新たな一年の始まりを祝う領内のお祭り。その中でイベントとして行われる『領主が選ぶ! 春グルメグランプリ』の果実部門の下準備を行っていたときのこと。つまり、これからふたりでいかにも貴族とその付き人らしく、この春の味覚を贅沢に堪能しようとしていたときのこと。
「た、大変ですぜ、お嬢!」
そんな言葉とともに、厄介事はドアからやってきた。
私もイルッカも目を丸くしていた――部屋に入ってきたのは、祖母の代からこの屋敷で働いてくれているベテランの庭師のバラディスさんだったからだ。
普段は「汚しちゃいけねえからな」と必ず正装に着替えてから屋敷の中に入ってくる彼が、何と作業着のまま。右手に高枝切バサミまで抱えているのだから、よほど慌ててきたのは間違いがなかった。
「て、手紙が……」
「手紙?」
門からここまで走ってきたらしい。バラディスさんは膝に手を突いてはあはあと息を切らしている。すかさず動き出したイルッカに濡れタオルで額の汗を拭かれて、それに「すまねえです」とお礼を言ってから、左手に持っていた問題のそれを私の前に差し出してくれた。
「げ」
思わずデイグラッド公爵らしからぬ――いや、むしろいかにもデイグラッド公爵的な声を私は上げてしまう。
だって、それは。
「王家紋の封筒ですね」
「そ、そうなんだ。いきなり使いの野郎がやってきやがって……」
「使いの方はまだ当家に?」
「いや、引き留めたんだがさっさと帰っちまった……」
イルッカとバラディスさんが話している横で、私はたいそう渋い顔をしている。自分で言うのもなんではあるけれど、この反応は仕方のないものだと思う。この家に生まれて、王家に対して警戒心を持たずに生きるというのは、結構至難の業だ。
しかし、ぽいっとそのへんに捨てておくわけにもいかない。
バラディスさんから封筒を受け取って、イルッカにペーパーナイフで開けてもらって、密書とも書いていないので構いやしないだろうとふたりにも見える形で中の手紙を取り出して広げてみる。
そこには、こんなことが書いてあった。
「『つきましては、そちらの春祭に第一王子アーノルドの参加をお許しいただけるでしょうか』……」
顔を上げる。
三人で、顔を見合わせて。
「来るらしいよ」
「来るんですね」
「く、来んのか」
来ないでほしいけれど。
まさか『来ないで。一昨日にすら来ないで』とお返事するわけにもいかないので。
とりあえず、ペンと紙を借りて、一筆送り付けて差し上げることにした。
『どうぞ』
と一言だけ。
そのあとは、未来の不安を忘れるために、バラディスさんも含めて三人、たらふく春の味覚を堪能した。
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さて、実を言うと今の王家というのは、かつて曾々お婆さんを追放した王家とは直系の繋がりを持ってはいない。
曾々お婆さんの凄まじい怨念パワーによって王国が一時ガッタガタに傾いたとき――結局、当時の王家はその座を退くことになったのだ。
代わりに現れたのは、いわゆる『悪運王』。
ちょうどその追放騒動のときに海外留学に出ていたために曾々お婆さんのお怒りを買わずに済んだ、当時デイグラッド家の他に存在したもう一つの公爵家、サヴィホルクス家の跡取り。
彼に続く系譜が、現在の王家を構成しているのだ。
一応、例の追放王子と血縁自体はある。悪運王は彼の従兄だった。
が、それを言うならデイグラッド家だって多少はある。家系図を三百年くらい遡れば。
だから、追放領主も私で早五代目を数えるようになった今では、現在の王家をそこまで毛嫌いする理由もない――そもそも『悪運王』の時代に曾々お婆さんも諸々例の騒動の始末はつけていて、だからこそデイグラッド追放領は公国として独立することなく、いまだ王国内の一領地として収まっているのだ。
だけど、ほら。
気持ちの問題があるからね。
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「『うあー……緊張してきた……』」
隣に立つイルッカが突然そんなことを言ったので、不思議に思って振り向いた。
彼はいたずらっぽく笑いながら片目を閉じて、椅子に座る私を見下ろしていた。
「当たりでしょう、今の気持ち」
「今の、私の声真似?」
「お嬢様のことは何でもお見通しですからね」
「ねえちょっと。今の間抜けな声って私の声真似のつもりなの?」
ねえってば、と袖を引っ張っても、いつもの目を線にするようないっぱいの笑顔を浮かべて「ははは」と言うばかりで、イルッカは全てを誤魔化そうとしていた。
春祭。
普段はまだかまだかと待ちわびるこの日も、嫌なことが抱き合わせで起こると知っていれば、嬉しいやら悲しいやら、さっさと私の下に訪れてしまった。
屋敷の近くのがらんとした広場が、今日ばかりは目いっぱいにとテントを広げている。
子どもも大人も、商人も買い物客も。春の抜けるような青空の下で、わいわいがやがや大遊び。元々この追放領は賑やかな場所ではあるけれど、春祭の日はよりいっそう。祭りのたびに私はこの土地、この人々に対する責任を自分が背負っていること……そのことを改めて思い出して、背筋が伸びるやら、誇らしいやら、くすぐったいやら、不思議な気持ちに浸っている。
でも、今日ばかりは、それと拮抗してしまうくらいに、緊張が。
「ねえ、本当に私、そんな喋り方してる?」
「まあそれはともかくとしてですね」
ははは、ともう一度笑って、イルッカは言った。
「アーノルド王子のことなら心配しなくて大丈夫ですよ。前もお伝えしましたが、結構気持ちのいい人ですから」
私は、生まれてこの方ほとんどこの領地から出たことがない。
普通の貴族だったら、それなりの年齢になったら王立貴族学院に進学することになる。が、残念ながら私は普通の貴族ではない。曾々お婆さんは晩年やや穏やかになり恨みつらみパワーも減衰したと伝えられているが、しかし貴族学院にだけは行くな、行ったやつは破門と最後まで力強く断言してきた。
よって、私は領内の学校を普通に出たくらい。
一方、実はイルッカは、ちょっとだけ貴族学院に籍を置いたことがある。
元々イルッカの家――レイズ家自体が伯爵家、貴族なのだ。
そしてかの大メイド『ちゃっかりレイズ』は曾々お婆さんの激怒にもかかわらず「まあまあ、こういうのは子どもの自由ですから……」とか何とか適当にだまくらかして自分の子孫は別に貴族学院に通ってもいいよ、と前例を作ってしまったのである。
イルッカは私の付き人の役割があったから一年くらい交換留学(?)に行っただけだけれど、彼の兄弟姉妹なんかは丸々六年、入学から卒業までを貴族学院で過ごしていたりする。
ということで、面識があるらしいのだ。
これから来る、アーノルド第一王子と。
「剣よし、筆よし、性格よし……三方美点まみれですからね。私もお友達というわけではありませんが、お嬢様がブルってるほど怖い人じゃないと思いますよ」
だからほら、リラックス、と。
イルッカに肩を揉まれて「うあー……」と脱力の声を出して、「私……間抜けな声を出してる……!」と驚きの気づきを得て。
でもなあ、と思ってしまってはいる。
何も私の代に来なくてもよかったと思う。
もう少しなんというか、遅くても……もしくは早くても、よかったんじゃないかと思う。
私は自分で言うのもなんだけれど、領地経営には結構向いているタイプだと思う。数字が好きだし、人が豊かになっていくのを見るのが好きだからだ。
でも、政治は。
政治は……。
「『自信ない~! いやだ~!』」
「……当たり」
「でしょう」
にこっと笑って、イルッカは言う。
「ご安心ください。何かあっても、私も、領地の皆さんもついていますから」
「…………うん」
「あと、高祖さまの怨念も」
「それはあんまりなくてもいい」
ふ、と笑って応えれば、にわかに私たちの待つところまで驚きが波になってやってきた。
どうやら、到着したらしい。
立ち上がって、はあ、とひとつ、心を落ち着けるための溜息を吐いて。
「よし。じゃあ、行きます」
「はい。行きましょう」
一体何を目的として、第一王子はこの領地に訪れたのだろう……。
敵対的な目的なんて、どこにもありませんようにと祈りながら、私はアーノルド王子の下へと向かっていった。
゜+。*゜+。。+゜*。+゜
緊張して損した。
「こ、これはデイグラッド公爵。わざわざお迎えいただきまして、あ、いや、このたびはお日柄もよく、春祭の晴れやかなる開催を心よりお祝い申し上げ……」
向こうの方がブルっていたからだ。
どういうこと?と隣のイルッカに訊きたかった。
けれど流石に、ブルっているとはいえ相手は第一王子。付き人は向こうもこっちも顔を上げることはせず控えているような状態だから、こっちのだけを引き起こして作戦会議……なんてわけにはいかない。
でも、聞いていた話と違う、ということは強く思ってもいいと思う。
見目麗しい人ではあった。
金髪金目。小顔ですらりとしているから身長が実際よりも高く見える。剣よし筆よし性格よし……三方美点まみれの人と言われたら、まあ確かにそんな感じの人だという印象を受ける。
が、顔面が蒼白だった。
春の空よりも青い。鮮やかなコバルトブルーで、きっとどこかの画家だってこの色の絵の具があると聞いたらそれなりの額を財布から取り出してしまう。もうすぐ死ぬのか、と思わず察してしまいそうになる。
「いえ、こちらこそ遥々お越しいただいて……」
しかしまさか初対面の王子相手に「もうすぐ死ぬんですか?」と訊ねるわけにもいかない。
とりあえず、教科書通りの社交挨拶。
それから本題。
「本日はどのように過ごされるおつもりですか?」
いくつかのパターンは考えてあった。
春祭に他の貴族が来るということ自体は、やはり多少なりある。
祭りの中を自分で巡り歩きたいという方、あるいは少し見物の案内をしてほしいという方、もしくは初めから祭りにかこつけてこちらと何らかの会合をするつもりで来ている方……大きく分けると、まあ大体そんなところだ。
おそらく三番目だろうと睨んではいた。
というか、今までほとんど交流が断絶していた王家がいきなりここに来る理由なんて、それ以外には考えられない。
しかし、やんわりとプランを提示しつつ訊ねてみれば、アーノルド王子の答えは違った。
「ええ。お忙しいところ恐縮ですが、少しこの春祭を案内していただければと……」
驚きを顔に出してしまったのだと思う。
その表情をどう解釈したのか、アーノルド王子がぎょっと仰け反ったから。
「申し訳ない、ご迷惑でしたら――」
「いえ、とんでもありません。そういうことでしたら、私がご案内させていただきます」
あらかじめ、頭の中にタイムスケジュールは組んである。
問題ない。いくつかのイベントには主催者として出演する必要があるけれど、向こうだって年は十八、学院を卒業してすでに公務に携わっている第一王子だ。多忙だろうし、長くここに留まる理由もないはず。他の貴族たちの平均的な滞留時間から推測していけば、これからの自由時間だけで十分に対応可能だろう。
「では、こちらからご案内します」
「え、ええ。よろしくお願いします」
というわけで、業務開始。
゜+。*゜+。。+゜*。+゜
全然帰らない。
私はそろそろ、自分がポンコツ政治音痴なのではないかという恐れを抱き始めていた。
本当に全然帰らない……早朝から来て、まあせいぜい一回りもすれば帰るだろうと思っていたのが、もう太陽がすっかり真上にある時間だった。領主特権でどこの出し物もすいすい通って、最終的に「もう回るようなところはありませんよ」と遠回しに伝えたにもかかわらず、アーノルド王子はそれでも居座る。
おかげで、ついさっきは『領主が選ぶ! 春グルメグランプリ』のステージでモグモグやってはニッコニコでその美味しさを解説する姿をまじまじと見られてしまった。
会場は大盛り上がりだったし、このイベントも曾々お婆さんから続く由緒正しいものなので特にこれまでそれに尻込みしたこともなかったのだけれど、たまたま目が合った貴賓席のアーノルド王子のまじまじっぷりがあまりにもまじまじとしていたので、「私ってちょっと変なことしてるのか……?」という恥じらいが芽生えてしまう始末だった。
満場の拍手に背を押されるようにしてステージを下りて、「これには領主様も思わず笑顔!」の売り文句とともに会場が販売所に変わっていく音を聞きながら、「お嬢様、お見事でしたよ!」というイルッカの満面褒め言葉に「でもさっき私が一回噛んだとき横で俯いて笑ってたよね」と返しつつ、ううん、と悩んだりしていると、
「公爵様」
「あれ、」
このイベントの責任者であるイズミラル商会長――この領地で最も大きな影響力を持つ商会の長である中年男性が、姿を現した。
珍しいと思う。
確かに愛想の良い人ではあるけれど、春祭の間は鬼気迫ることになっているから毎年全てが終わったあとにしか挨拶を交わさないのだ。実際、今だって整髪料や化粧で誤魔化してはいるけれど、明らかに疲れ果てている。
「素晴らしいグルメリポートでしたよ。これなら今年もデイグラッド公爵領の商品はバカ売れです」
「ははは……。領主としての役目を果たせたなら何よりです」
とりあえず、ワンクッション置いて。
本題。
「アーノルド王子ですが……」
「ああ、そうですね」
もちろん、彼が来ることはあらかじめ商会長には伝えていた。当日にいきなり王族が来たら春祭の運営スタッフ一同ショック死してしまいかねない。
「まだ何かご用件があるようで……。やっぱり、よくわかりません」
そう、素直な本音を私は伝えた。
あらかじめの伝達の時点で、私たちはそれぞれアーノルド王子の意図を探ろうと、表裏問わずいくらかの手段を試みてはいたのだ。そして「わかんないねー」「ねー」みたいな言葉を交わしていた――なにせ、流石に喋ったっていいだろうというかむしろこっちに伝えておいてくれればお互いそっちの方が都合がいいだろうという滞在予定の話ですら、結局本人に会うまでわからずじまいだったのだ。
だから「困ったもんですよ、とほほ」というくらいの気持ちでそう言えば。
しかし商会長は、私に輪をかけて――おそらく疲れだけではないらしい――困惑したような顔で、そのまま黙っていた。
「……どうかしました?」
「いえ、実は、目的なんですが……」
ちらり、と商会長はイルッカを見た。
おや、とイルッカもそれに応える。
「お邪魔ですか?」
「や、申し訳ありませんが……」
一人で大丈夫です?とイルッカに訊ねられて、私は「平気」と短く答えた。
商会長との付き合いも代を跨いでかなり長い。今更、ボディカードがいないと会えないような仲ではないのだ。
では、とイルッカが少し離れたところまで下がってくれて、だから商会長は小さく彼に頭を下げて、それからこそこそと私に内緒話を始める。
「実は、うちの婆様が今朝方情報を掴みましてね……」
「先代さんが?」
「ええ。ま、どうしてもあの年代は外に対して警戒心が強いものですから。独自に動いて情報を集めてくれていたようでして……」
きょろきょろと商会長が辺りを見回す。
だから、私もそれに倣って周囲に人影がないことを確認して、ちょっと背中を丸めて縮こまるようにして、さらに声を潜めて、
「それで? なんだったんです?」
「いえ、目的ははっきりとはしなかったんですが、なんでも買い物の履歴を掴んだらしいんです」
「買い物? それが一体……」
それがね、と商会長は言う。
ほとんど囁くみたいな、うっかりすると私自身の呼吸の音に紛れて消えてしまいそうな……そのくらい、微かな声で。
とんでもないことを、言った。
「指環を買ったみたいなんです。婚約指環」
゜+。*゜+。。+゜*。+゜
「正直に申し上げると、いままで僕は、あなたのことをもっと怖い人だと思っていました」
終わった。
そのたった一言の語り始めの時点で私は気付いてしまった――というか、気付けないほど鈍感にはなれなかった。
なるほど、そういうための指環、と。
なるほど、この王子、求婚しに来てる!と。
「なにせあのデイグラッド公爵家ですから。ときに火を吐き、毒を噴き、その歪み切った圧倒的な怨念が通った後には向こう二百年はぺんぺん草ひとつ生えやしないと……」
「言い過ぎです」
「ええ。私もこれが『悪運王』の日記に『実際にデイグラッド公爵に遭遇したときに言われて怖かったことシリーズ』として書き込まれていなければ、言い過ぎだと笑い飛ばしたものですが……」
そんなこと言ってたのか、曾々お婆さん。
ていうかそれ、脅迫とか通り越して宣戦布告になってないか。
「『子々孫々、七代まで我が怨念の火を灯し続けよう』……臆病と笑ってください。かの方の発言録を紐解いてしまっては、どうしても恐怖感は拭えませんでした」
勝手に巻き込まれてるし。
ていうかもう、それ公爵の言うことっていうか魔王の言うことみたいになってるし。
私たちは今、イチゴ農園にいた。
広場近くの直轄地。アーノルド王子が「できれば、ふたりきりで、誰にも聞かれずに話がしたい」と言い出したのを受けて、一旦春祭の会場を離れることにしたのだ。
直轄地だから、そもそも人はいない。
そして周囲、私たちの会話が届かないあたりには王子のお付きが散らばって、またイルッカも控えているから、突発的に誰かがやって来て話が途中で止まることもない。
つまり、逃げ場がない!
「しかし、あなたを見て考えが変わりました」
じっと、王子は私を見つめながら言う。
そして残念ながらそれに応えるだけの余裕はこっち側にはないので、目を逸らしながら応える羽目になる。
「ど、どんな風に、ですか?」
「今のデイグラッド公爵は――あなたは、領民に愛される、優しい人です」
今や顔色は逆転の様相を呈していた。
どんどん王子の肌は艶がよくなってきている。一方で――鏡を見なくたって自分でわかる――私の顔からはどんどん血の気が引いてきている。
こんなことなら。
変に普通の対応なんてするんじゃなかった。
それこそ、曾々お婆さんを見習って「ケケケ、生きて帰れると思うなよ」とか言っておくべきだった。いや、そんなこと言う人なのか知らないけど。
「おそらく、デイグラッド家の情報収集能力を以てすれば、すでに私の目的は知れていることでしょう。そしてあなたが予想されているとおり、この申し出は確かに、政治的な思惑から生まれたものです」
しかし、と。
王子は一歩、前に踏み出してきて。
懐から、小さな箱を取り出して。
「けれど今は、それだけじゃない。……壇上で、領民に見せたあの笑顔。僕は、気持ちの上でも確かにあなたに惹かれたのです」
ぱかっと開けば。
思った通りのものが、そこに。
「僕と、婚約してくれませんか」
゜+。*゜+。。+゜*。+゜
日付が回って少ししてからのことだった。
書斎でひとりでうんうん唸っていると、コンコンコン、と扉がノックされた。
どうぞ、と迷わず言ったのは、その音の感じだけで誰が来たのかわかったから。
「夜更かしばかりする悪い人には――」
苦ーい飲み物の差し入れです、と。
コーヒーを手に、イルッカが部屋に入ってくる。
「机に置きますよ」
「うん。ありがと」
顔も向けないままでそう応える――何せ、全くもって問題解決の糸口がつかめていない。
ごめんね、先に寝ちゃっていいよ。
そう私が伝える前に、彼が椅子を引き出して近くに座った音が耳に届いた。
「それから、春祭を成功させた偉い人には――」
言って、紙箱の擦れる音。
ようやく、私はイルッカの方を見て。
「わ、」
「ショートケーキの差し入れです」
イズミラル商会長からねぎらいの品ですが、と。
机の上に広げられたのは、白い肌に、赤い果物を載せた、魅惑のお菓子。
単純な話だけれど。
ちょっとだけ、気持ちが前向きになった。
「お返しは私があとで手配しておきますね」
「うん。ありがと。……え、夜なのに、こんなに食べちゃっていいの? お昼も結構食べたのに?」
「今日だけは特別です。……秘密ですよ? こんなの母上たちに知られたら私、殺されちゃいますからね」
ひみつね、と私が笑えば。
ひみつですとも、とイルッカも笑った。
一口食べれば、夢の味。
二口食べれば、幸せの味。
舌や口を通り越して、額いっぱいに「美味しい」が広がって――ああ。頑張ってよかった、とさっきまでは頭の端にも上ってこなかった、春祭の感想がようやく浮かんでくる。
そう、頑張ったのだ。
準備期間、たくさんの計画と打ち合わせ、実際の作業――当主になってから三回目のこの行事を、表面上は大過なく、また領民のみんなにも満足してもらえるくらいには盛大に、成し遂げることができたのだ。
頑張った。
私は、頑張った。
なのに……。
「なんでこうなるかなあ……」
「お、手強いですね」
ケーキでもまだ勝てないとは、とイルッカ。
だってさ、と私はすかさず言った。
「吹き飛ぶよ。いきなりだもん」
婚約、とアーノルド王子は言った。
けれど、歴史を振り返ってみればわかる……デイグラッド公爵と王族が婚約して、それが成就されないということが起こった場合、連想されるパターンのことを。
私が王族だったら、絶対に婚約を成し遂げる……つまり、結婚までは絶対に行くつもりでいる。たとえ円満解消だったとしてもあまりにも縁起が悪すぎるからだ。
つまり、この婚約を受けるということは、アーノルド王子との結婚の確定とほとんど同じ意味を持っていて――。
はあぁあああ、と深く溜息。
ああ、幸せが逃げていく。
「何が不満なんです?」
イルッカがケーキを口に運びながら訊いてくる。
「……私のことは何でもお見通しとか言ってなかったっけ」
「いえ。お嬢様の口から聞きたいなーと」
上手く躱された気がする、と思いながらも。
しかし言葉にしないことも全部察して、というのも子どもみたいなので、言うがままに乗せられて。
私はひとつ、指を折る。
「まず、不吉」
あはは、とイルッカが笑った。
でも、笑い事じゃないと私は思う。
「いやもう、本当に不吉だから。王族と……しかも第一王子と婚約って。どう考えても嫌な未来が訪れるとしか思えないもん」
「結婚だったらいいんですか?」
「うーん……まだ、そっちの方がマシかなあ……?」
でも、と彼は言う。
「高祖さまのときとは状況が違うでしょう。今回は婿入りです」
「……それが実は、二つ目の理由に繋がるんだけど」
指をもう一本折って、
「リスクとリターンのバランスが微妙かな、って」
「おお。お嬢様がデイグラッド家の伝家の宝刀『あなたと結婚するメリットは?』を使いこなして……」
「そんなのあるの?」
「あるらしいです。レイズ家では『ご当主がこれを言い始めたら相手にアフターフォローを入れるように』と代々語り継がれて……」
いや本人には言わないけど。
たぶん。
「でも実際、メリットはそこまでないと思う。こっち側には」
「王家と繋がりができる、ということにそこまでメリットは感じないと?」
「うん。デイグラッド公爵家、っていう名前だけで十分勝負できると思う。というか、王家を取り込んだって見られても、王家に取り込まれたって思われても、どちらにしてもイメージはダウンするかもって……」
手厳しいですね、とイルッカが呟く。
もっともこれは私自身、この公爵家に対する愛着とか自負とか、そういうものが混ざり込んだ、あんまり客観的じゃない分析だと思ってはいたけれど。
「向こうからすればうちの資力は欲しいと思うし、国内にいつでも独立できるような規模感の区域があったら結びつきを強めておきたいって言うのは理解できるんだけど……」
「こちらにはそれに応える理由はない、と」
「うーん……」
うぅうううううん、と唸っていると、「おや、眉間に皺が」とイルッカがうるさいことを言ってくる。私はそれを指の先で揉みほぐしながら、これ喋ってもいいかな、いやダメかな、と悩みつつ、
「……今から私が言うこと、忘れる準備しておいて」
「わかりました」
「……準備できた?」
「いつでもどうぞ」
気楽そうな顔で座っている伯爵家の人間に。
爆弾。
「貴族制度って、そのうちなくなると思う」
さすがに。
イルッカも、ものすごく驚いた顔をしていた。
「……大丈夫? 忘れられそう?」
「……ええ。大丈夫です。なんでもどうぞ。まだ余裕はありますので」
それじゃあ、と続けて私は。
指は一応、もう一本折っておいて。
「そもそも曾々お婆さんの頃から予兆はあったんだよね――」
シャンタール歴1717年の婚約破棄騒動。
あのとき、追放王子の婚約者として曾々お婆さんの後釜に座ったのは、平民の特待生だった。
「1600年代にそんなことしたら、どう考えても曾々お婆さんが追放されるなんてことはなかったと思う。貴族制度に陰りが出てる」
「……しかし、それから100年以上経ちますよ? それでもまだ、こうして続いてます」
「どんどん弱まっていくような形でね」
たぶんだけど、と。
今までひっそり温めていた考えを、この機会だからと、イルッカに。
「曾々お婆さんも、そのことには気付いてたんじゃないかな。……というか、あの時代の誰よりも、そのことがわかってたんじゃないかなと思う」
「それは、どういう根拠で?」
「だって、緩すぎるでしょ、この家」
付き人が異性。
平民の庭師が自室に作業着のまま入ってきてもおとがめなし。敬語が使えなくたって敬意さえ感じられるなら特に誰も気にしない。
そして領主である自分が、平民の経済活動に春祭のイベントとして積極参加――しかも、かなり親しみやすい形で。
身分も、あるいはかつて言われていたような貴族的な気位の高さも。
この家からほとんど消えかかっているのは、もちろん当主になってたかだか二年そこらの私の個人的な性質によるものじゃない――。
そして、厳しい王妃教育を受けていた曾々お婆さんが、ただ無闇にそうした状況を作り出したわけはないはずだと、私は思う。
「なるほど? つまり、高祖さまはそのあたりの時流を先読みして、デイグラッド家の体制を整えていたと……しかし、」
何のために?とイルッカが訊くから。
さらに、予想を口にする。
「急激な変化は、痛みを伴うから……」
曾々お婆さんは見ていたはずだ。
自らの流刑――それに端を発して、当時の王家の腐敗が露見し、自壊していく様を。それに人々が苦しむ様を。
平和な時代に生まれた私には想像もつかないような、壮絶な光景を。
荒野を切り拓いて、様々な移民を受け入れながら――彼女は、見つめてきたに違いない。
急激な体制の変化は、犠牲者を生む。
そのことを、理解していたのだろう。
「だから、段階的に貴族という制度が廃れていくことを祈った……。子孫を学院に入れないで、領内の同年代と交流させることで、同階級同士で閉じた循環を繰り返す価値観に染まらないようにした。経済活動に積極的に参加することで、特権的政治階級から経済的なステークホルダーにイメージの移行を図った」
それから、それから――。
考え始めれば、いくつもの辻褄が合っていく。
「たぶん、特権階級自体は貧富の差の中で存続していくと思う。相続っていう制度がすぐに消えていくとは思わないから。でも、教育基盤が整っていくうちに少しずつ階級同士の壁は薄くなっていく……だから政治的なそれは、たぶんどこかでその正当性が失われる。……もしくは、初めからなかったことに気付かれる。
生まれと能力の相関が見えなくなったとき、私みたいな……ただそこに生まれただけの人間は、その場所に座り続ける意味をなくす」
だから。
「現状、デイグラッド家を再び王家と結びつけることで貴族的な性質を強化することも、王家がデイグラッド家と再び結びつくことでその権力を取り戻すことも、どちらも私には、良い道だとは思われない。
――――政治権力としての立場から段階的に貴族を降ろしていくこと。次の政治体制への移行を最もスムーズに行えるように準備しておくこと。それが、デイグラッド家が持つ意義だと思うから」
ことん、とイルッカがカップを置いて。
やべえことを言い過ぎた、と私は気が付いた。
でも、彼は。
「――――何言ってんのか全然わかりませんでした! 馬鹿なので!」
「……あ、そ」
力が抜けて、椅子からずり落ちそうになった。
「忘れたところで大した意味があるとは思えませんが……とりあえず全部忘れておきます! 任せてください。忘れるのが唯一私の特技と言っても過言ではありませんから」
「ああ、うん。そうして……」
「あれ、私のショートケーキが……まさかお嬢様、ふたつとも食べちゃったんですか!?」
「自分で食べたものは覚えといて」
ははは、これはうっかりです。
なんて、とぼけた笑顔のままで。
「ところで、じゃあ結局お断りするんですよね?」
「え?」
「いえ、なんだか否定的な意見ばかりが並んでいたので。それなら、こんなに悩まなくてもいいじゃないですか」
文面に悩んでるんだったら、私が代筆しますよ。
なんて、イルッカは言うけれど。
「……イルッカって、手紙上手なんだっけ。ちなみに、なんて書くつもり?」
「『うちのお嬢はどこにもやらん! 文句あるならかかってこいってんでえイェーイ』とかですかね……」
「絶対やらないで」
恐ろしく頼りにならない。
コーヒーの最後の一口を飲み干して。
「うーん……。さっきみたいな過激なことは絶対に言わないにしても、政治的なバランス調整の問題はあるからね。あんまり無下に断っちゃうと溝が深くなって国体が不安定になるし」
「ふんふん」
「それに、どうにかそのあたりをクリアできても『でも好きです! 気持ちの問題です!』とか言われたら……うーん……」
「難しいですか」
「いや、純粋に向けられた好意をそういう風に断るのってどんなもんかなと思って……。うち、結局政略結婚がしづらくて恋愛結婚の家になってるし」
ちょっとだけ、イルッカは珍しく笑顔以外の顔を作ってから。
不意に一言。
「……特にそういうのがなければ、お嬢様的にはアーノルド王子って、アリなんですか?」
その質問に、私はちょっと考えて。
それから。
「四つ目」
指を折った。
「……この家で結婚って基本的に遅いものだと思ってたから、そういうの後回しにして、まだ考えたことすらなかった……」
しばらくイルッカはその指をきょとん、と眺めてから。
あはははは、と堰を切ったように笑い出して。
私が「やめろ、笑うな」とその肩を小突くまでには瞳に涙まで貯めるような有様で。
それを長い指で拭ってから、素晴らしい笑顔を披露してこう言った。
「わかりました。私に万事、お任せください。小さなお嬢様」
゜+。*゜+。。+゜*。+゜
で。
なんで、ふたりで王宮にいるんだろう。
「お嬢様、珍しく落ち着きがありませんね」
「いや、だって……」
深くローブを被っているのは、曾々お婆さんからの伝統だった。
敵地に行くのに生顔晒していくとは何事か……いやそうはならないでしょという感覚だが、曾々お婆さんにとってはそうだったらしい。
デイグラッド公爵家の者が王宮にどうしても行かなくてはならないときは、その顔と身分を隠して行くことになっている。アポイントはその都度、レイズ家が付き人に『当主代行権』を一時的に付与し、レイズ伯爵名義で設定することになっている。
だからつまり、イルッカ=レイズ伯爵代行が王宮に訪れて。
私がそれに、ついてきたような形になる。
どうするつもりなのか、馬車の中で何回も訊いたのに結局教えてくれなかった。
「大丈夫ですよ。突然壁から矢が飛んできたりなんてしませんから」
「いや、それはそうだけど。というか、そんなことあってたまるかっていう思いだけど……」
アーノルド王子がデイグラッド公爵領に顔面蒼白で訪れた理由が、ようやくわかった。
応接間で待っているだけでこんなに肝が冷える――歴史が私に恐怖をもたらしている。いまどきそんなことになるはずがないと思いながらも、いやひょっとすると……という気持ちが拭えない。
早く来てくれ、と思っていたら。
本当に早く来てくれた。
「イルッカ!」
ばん、と勢いよく扉が開いて。
アーノルド王子が、両手を広げて現れた。
「久しぶりだな……!」
「お久しぶりです、アーノルド王子」
あれ、と思った。
立ち上がって頭を下げるイルッカの顔は、いつもの曇り一つないやつだけど。
それを迎え入れるアーノルド王子は王子で、なんかこう、ふにゃっとしているというか。
親しみが、すごいというか。
「まさか君がレイズ家だったとはな……人が悪い。そうと教えてくれればあんなにデイグラッド領で緊張することもなかったのに!」
「ははは、すみません。悪目立ちしないように家名は隠しておきなさい、というのがうちの伝統ですから」
「いや、しかし私も悪かった。あのとき――公爵殿と面会したときもどうも見知った顔がいるのではないかと疑ってはいたんだ。思い切って声をかけて顔を確かめてみればよかったよ」
私はとりあえず立ち上がって、後ろの方で大人しくしている。
話の流れがどうなるかわからないけれど、イルッカにはイルッカの考えている流れがあるだろうと思ったから。
とりあえず、静観。
「ところで、君が来たということは、その……」
「ええ。お嬢様に対する婚約の申し出――その回答を、私がお持ちしました」
「そうか! では、公爵はなんと――?」
期待あらわに喜色満面の王子。
それに、イルッカは同じくらいの笑顔で応えて。
手袋をするっと脱いで。
バーン、と叩きつけた。
「『うちのお嬢はどこにもやらん! 文句があるのでかかっていくぜイェーイ』
――――つまり、決闘です」
何言ってんだこいつ。
゜+。*゜+。。+゜*。+゜
アリーナでふたりの決闘の準備が整えられていく。
観客席にこそこそ移動しながら、私は混乱する頭の中を整理して、無理矢理の納得を引き出そうとしていた。
確かに、全く自分では思いつかなかったけれど、合理的な手段ではあるのだ。
私――つまり、デイグラッド公爵が自ら王家との婚約を断るのは、どうやっても多少の角が立つ。
曾々おばあさんの威光はいまだに五代目の私のことまでぴっかぴかに照らし上げるほど強く眩く、その一挙手一投足に強烈な政治的意味合いをくっつけてしまうからだ。
でも、レイズ伯爵家が断るなら。
デイグラッド公爵家と全く関係のない場所で、レイズ伯爵家が代わりにその縁談を断ってしまうなら――王家にその求婚を撤回させられれば、デイグラッド公爵としては何らの意思態度を見せないままで、この件を収めることができるのだ。
そんなめちゃくちゃなことができるかよ、と問われれば。
実は、できる。
シャンタール歴1206年くらいに成立した法で、現王国が引き継いでいるものに『決闘法』があるからだ。
内容はシンプル。
要求がある。決闘で勝ったなら、それを受け入れろというもの。
当然こんなもの、乱用されたら大変なことになるから、多くの縛りがある。
家格が下の者から上の者にしか要求を行うことはできないとか、下の者が決闘に敗北した場合は、反対に上の者からの『爵位返上』『領地全併合』をはじめとしたあらゆる要求を受け入れなければならないとか……。
リスクが大きすぎるからすぐに誰も使わなくなったし、そもそも使用自体をタブー化した。
ということで、わざわざ廃止することもないとそのまま現代にまで残ってしまった。
実質の死法と化したシャンタール歴1220年から現在までの600年ちょっと。実はこの『決闘法』、使ったのはたったひとりだけ。
伯爵家令嬢にして、忠実なメイド。
シャンタール歴1717年の王立貴族学院の卒業パーティの場で、主である公爵令嬢が理不尽に婚約を破棄され散々に罵倒され、流刑を決められ、私財没収までされそうになったとき。
婚約破棄はいい、と彼女は言った。
お前みたいなのとくっついても不幸になるだけだから、と。
流刑もいい、と彼女は言った。
こんなところにしがみついていても仕方のない人だから、と。
が、私財だけはやらん、と。
手袋を、勢いよく叩きつけた。
のちについた異名は『大忠義』『メイドクイーン』『大博打』『ちゃっかりレイズ』『手袋を投げた女』――
あるいは。
『騎士団長を素手でボコした少女』。
イルッカ=レイズの、曾々おばあさんのことだ。
゜+。*゜+。。+゜*。+゜
「でも勝てなかったらどうすんの~……」
観客席の喧騒に紛れて、弱音を堂々と溢してしまった。
いや、やりたいことはわかるのだ。
『決闘法』を使うのは普通の貴族家には許されない。が、レイズ家だけは「まあ、レイズ家だしな……」みたいな感想でなんとなく許される雰囲気がある。実際、見物に集まってきた周囲の人たちの多くは貴族だと思うけれど、「けしからん」とかそういう意見はほとんどなくて、「これはすごいな」なんて感心の声ばかりが上がっている。
キャラの問題だ。
私が恐ろしい怨念公爵だといまだに思われていたり、あるいはこの王宮を敵地だと思っているのと同じ。
曾々おばあさんの私財を確保することでこの王国の完全な崩壊を未然に防いだ『ちゃっかりレイズ』の一族は、突拍子のないことをしても結果オーライになるからまあいいか、と見逃されがちなところがある。
そういう博打打ちだもんね、という家柄に対する信頼の一種だ。
……ちょっと特殊だけれど。
このあたりをイルッカが上手く使いこなせるとは思わなかったからちょっと驚いたけれど、実はこの手法には、いや実はじゃない。明らかに目に見えている問題がある。私も常に似たようなものに悩まされているからわかる。
キャラは家柄が保証してくれても。
実力は、自分で証明するしかないのだ。
勝てなかったら、全部終わりなのだ。
「相談してよ~……ほんと、前もって……」
そうしなかった理由も、わからないでもないけれど。
事前に自分に話を通していなかったということで、責任の所在を操作するためなんだろうけれど。
「おっ、ふたりが……」
隣で見物していた騎士の人の言葉に、ハッと顔を上げた。
いつの間にか、アリーナの真ん中に二人が立っている。
ふたりの持つ武器を見て安心した――どうやら、刃引きはしてあるらしい。
危ないことには変わりないけど、真剣でやるよりかは幾分マシのはずだ。
「意外だった」
そう、アーノルド王子が言うのが聞こえてきた。
「温厚な君がここまで大胆な手段を取るとはな。……まるで、1717年の再現だ。訊くのも無粋かもしれないが、これはやはり公爵殿の……?」
「いいえ」
王子の探りに、イルッカは堂々と首を横に振って。
「溢れ出る忠義と情熱が、私にこんな手段を取らせてしまったんです――」
さっきから何を言ってんだこいつは。
いや、やりたいことはわかる。
このあと自分が取るべき動きとかも、なんとなくわかってきた。
だけど、こっぱずかしくてとても聞いていられない……。
「……そうか。そこまでか」
王子も王子で、(好都合だけど)真正面からそんな言葉を受け止めてしまって。
「ならばこの剣で確かめてもらおうか――僕が、彼女に相応しい人間かどうかを!」
なんか勝手に私が結婚相手を剣で選ぶちょっと変わった人みたいなレッテルを張られながら。
審判がふたりの間に入っていって。
ルールを確認して。
睨み合って。
初め、の言葉と同時に、剣が交わった。
「おお」
「あっちの男、やるなあ」
頑張れがんばれ負けたら終わり!と私が必死になって応援していると、そんな声が聞こえてくる。
耳を澄ますと、こんなことを言っていた。
「アーノルド王子だってよほど強いんだろう?」
「馬鹿者。強いどころの話ではないわ」
「『大陸三剣』の一人に数えられるお方だからな……。並の騎士では十人がかりでも数秒と保たんよ」
内心、私はとても焦った。
何かかっこいい名前をつけられてる……平和な世の中にあるまじき強さを誇ってる!
一体大丈夫なのか、レイズ家だって確かに『ちゃっかりレイズ』の頃は異様に強かったらしいけど、今や私の隣で美味しいものを掠め取ってはニコニコしてるだけのイルッカが、果たしてそんな相手と渡り合えるのだろうか。
残念ながら私には剣の素養は全然ない(経営を覚えるだけで精いっぱいだった)。
だから、一体どちらが押してるのかもわからないまま、とにかく頑張れがんばれと祈っていたら。
「レイズ家か? 流石に強いな……」
「というかあれは、『鋼の門』のイルッカだろう?」
なんかイルッカまでかっこいい名前を付けられてることが発覚した。
「『鋼の門』?」
「知らないのも無理はないな。貴族学院に滞在していた期間もごく僅かだったから……」
「聞いたことがあるな。一年の間、生徒、教官、それこそアーノルド王子まで相手取って、たった一つの攻撃も通したことがないとか」
「陰流の武門の麒麟児と思われていたが、そうか、レイズ家か……」
よくわからないけど聞いてる限り評判は互角だ!
よし! がんばれっ! いけっ! そこだっ! 勝てなかった場合の後処理を考えるだけで眩暈がする! たのむ! 勝って!
「どうした! 消極的だな、イルッカ!」
「これが私の持ち味ですから、ねっ!」
「よく言う……全力を出せなかったなどと、後で文句を言うなよ!」
カン、と刃と刃がバインドして。
それから王子が、素早く左右の脚の前後を入れ替えて、イルッカの剣を抑え込むように、横に動いて。
おおっ、と周囲がどよめいたので。
これはピンチなんだ、と流石の私にもわかって。
大声を出して、自分がここにいることを知られてはいけないからと。
ただ、目の前の――アリーナと客席を隔てる壁を叩いて、心の中で、力いっぱい叫んだ。
言葉は、とてもシンプル。
がんばれ!!
「――――は?」
そのとき、どういうわけか。
ぎょっとした青い顔で、アーノルド王子が、私の方をハッと振り向いた。
その一瞬が、決着だったらしい。
キン、と大きく音を立てて、一本の剣が宙を舞う。
アリーナの中にあった剣は二本。
王子の手の中には、すでに何の影もなく。
だから、残りの一本の剣を握っているのは――。
にこっ、とイルッカが笑う。
私に笑いかけたら台無しでしょ、肝心なところで詰めが甘いなもう、なんて思いながら、私は知らんぷりをして、一体誰のことを見ているのかな~なんて白々しさで、自分の周りに視線を配ってみる。
するとどういうわけだか。
周囲一帯、私を遠巻きにするようにものすごく距離を取っていて。
最初に見たときのアーノルド王子みたいに、みんな顔を真っ青にしていたのが、わかった。
゜+。*゜+。。+゜*。+゜
「遺伝か呪いか、どっちかですよね」
帰りの馬車の中で、非常に失礼なことをイルッカは言った。
流石に日帰りは厳しかったので、王都にあるレイズ家の別荘に一泊してから(察することは容易だと思うけれど、デイグラッド家は王都に別荘を持っていない。曾々おばあさんが力づくで解体した)その次の日に、のんびりと領地までの道を揺られている。
空は青く、春の風は桃色に色づいて、高く飛ぶ鳥の羽を膨らませている。
そんな、暖かな日だった。
「うそ。そんなの今まで言われたことなかったもん」
「そりゃあ、領地のみなさんはもうすっかりお嬢様のことを可愛い人だとわかってますからね。でも、いきなりあれをぶつけられたら、あんな感じの反応になると思いますよ」
怖いらしい。
私は。
真剣勝負の途中で、横から人を睨みつけるだけで相手を恐怖させてしまうくらいには。
……まあ、確かに曾々おばあさんの逸話に、荒れ地の暴れ猪を睨みつけただけで気絶させた、なんてものがあったりはしたけれど。
流石に、盛りに盛った話だろうと、そう思っていたのに。
「お嬢様は言っては何ですけど、剣も魔法も大したことはないので、魔力に特殊な性質があるか、本当に高祖さまが七代先まで怨念を憑りつかせているかどっちかなんでしょうね」
「……役に立つ、といえば役に立つけど」
「何を言ってるんです」
大役立ちだったじゃないですか、と。
いつもの笑顔で、イルッカは私を褒めそやした。
そののんきな顔を見ていると、なんだか色々とどうでもよくなってしまって。
はあ、と面倒ごとの片付いた安堵に、肩の力を抜いてしまった。
昨日のうちに、アーノルド王子との話は済ませてきた。というか、現王とまでそのまま面会を漕ぎつけて。
そして私は言った。
すみません、たまたま来たらうちの伯爵が何やらはしゃいでいるようでしたので……。しかし決闘は決闘。大変恐縮ですが、その結果については、そのまま受け入れようと思っています。
ただ、私たちはもっと別の方法で繋がることができるのではないでしょうか、と。
イルッカの、あのこっぱずかしい小芝居を、最大限利用して、提案した。
彼のあの浮ついた言葉の数々……あれはつまり、馬鹿馬鹿しさの演出だったのだ。
王家と公爵家の縁談の話を、1717年のあの婚約破棄騒動の輪郭を致命的な政治エラーが出ない範囲でなぞることで、『いかにも私情の話』であるかのように、周囲に印象付けたのだ。
あるいは、曾々おばあさんのあの執拗なまでの怨念アピール……それすらも、この状況へとつなげるための、布石だったのかもしれない。
つまり、婚約という政治的な契約を。
恋と愛が支配する、ごく私的な約束に過ぎないように、見せかけきった。
身分と世襲、家族制度との融合による特権階級の強化アクション――それを、平民同士のそれと同じ地平にまで、落とし切った。
代わりにと、私はいくつか王家に契約を提示した。
純粋に経済的なものだ。……そして、そうした形で目的が果たせるならと王もそれを受諾してくれた。
この前例も、見る人が見ればきっとわかる。
婚姻というイベントを、経済協定で代替したこと。
政治領域から、それを分離させたことの意義。
政治の世俗化。
あるいは、貴族階級の経営者階級への移行。
少しずつ変わり始めるこの世界の在り方……それに対応するための、一つのモデルケースを作ったのだと。
「……って言っても、実際は完全に婚約の制度を排除したわけでもないし、微々たるものだけどね。でも、婚約破棄の賠償金とか、そういう名目とも分けた契約を代替的に結べたっていうのは、それなりの収穫かな……」
「微々たる、というのも自信なさすぎかもしれませんよ」
すかさず、イルッカが言った。
「高祖さまの時代から、理不尽な婚約破棄の発生件数は如実に減ったようです。……高祖さま自身が恋愛結婚じみたことになったおかげで、いわゆる『真実の愛』ブームも来てしまったようですけど、契約締結とその履行に関する手続きの誠実さは、それらと反発し合うことなく、また階級問わずよく浸透しています。王都を眺めてきた限り、今でも」
「……それは」
「いつの時代もエピソードは強い、ということです。案外、百年ちょっとも過ぎれば、私たちのこれも語り草になっているかもしれませんよ」
ふと、思い出すことがあった。
経済協定の調整後、王が調印のために応接室を出ていって、アーノルド王子と二人きりになったとき。
このことだけは、筋を通さなければならないと思って、私は言ったのだ。
お気持ちは大変嬉しかったのですが、と。
恨み言をいくらかけられても仕方ない、と覚悟しつつ。
「いえ、僕の考えが甘かったのです」
しかし予想に反して、殊勝な感じで王子は言った。
「たかだか一日行動をともにしたくらいであなたを知った気になっていた……。あんなに顔を青くして、情けない限りです」
「い、いや、そんなことは……」
「恋愛というものを、甘く見ていたのだと思います。これからはもっと真摯に相手を見て決めていきたい。……おふたりのように十数年、というのはちょっと、自分の年からして難しいかもしれませんが」
おふたり、とオウム返しすれば。
ええ、と彼は頷いて。
「恋する人のために決闘を挑む覚悟、それからその人のピンチにあれほどの威圧を発する情の深さ……僕が言うのも変な話かもしれませんが、憧れました。これから僕自身、色々と勉強していきたいと思います」
そんなことを、ふと思い出して。
意識は戻って、目の前のイルッカに、試しに。
「……どんな話として?」
「それはもちろん、婚姻と生まれは政治ではありませんと先進的な思想で次世代への布石を敷いた若き公爵と、それに賭けた向こう見ずのへぼ従者の話ですよ」
「……私たち、生まれには頼りっぱなしだけどね。曾々おばあさんたちにつけてもらった道を辿ってばっかり」
「それはそれ。後世への宿題に残しておきましょう。私たちが全部片づけてしまったらやることがなくなって可哀想ですよ」
ははは、とイルッカは笑った。
どこまで本気で言ってるんだか、と私は呆れて。
ふと、ほのかな匂いが鼻先に香った。
なんだろう、と思ったときにはすでに、イルッカが馬車の窓を開けて、こう教えてくれている。
「川ですね」
「川?」
ええ、と頷く彼の横に詰めるようにして、私もその窓の先を覗きこむ。
確かにそれは、川だった。
穏やかに風に吹かれて、水面に波を立てる、春の川。
その川に、ちらほらと真っ白な花が浮いていた。
「あれって……」
「イチゴの花でしょう。領地が近くなってきましたから。散ったのがいくらか、流れてきたんだと思います」
へええ、と感心していれば、くすりとイルッカが笑うので。
「……なに、その笑いは」
「え? いやですね、いつものニコニコ笑顔じゃないですか。私のトレードマーク」
「自分で言う? しかも、そうじゃないから。なんかちょっと馬鹿にした感じだった」
「そんな! 私はこんなにお嬢様のことを尊敬しているというのに……!」
両手を顔で覆って、泣き真似。
本当にすごいことだと思うけど、全く顔が見えないのに完全に笑っていることがわかる。こんなにうれしそうな雰囲気を全身で表現できる人間は、おそらく古今東西そういない。
ああ、そ。
溜息を吐いて、元の位置。
そういえば、とイルッカが言った。
「イチゴの花言葉って、知ってますか?」
「……逆に、そんなの知ってるの?」
「ええ。貴族学院ではお花のお洒落な言い方を覚えるための授業があったんです」
うそつけ、と思いながら。
「……知らない」
「お、珍しいですね。この私がお嬢様に知識で勝る部分があったとは……」
「いいの。もっと大事な部分は知ってるんだから」
売り方とか、育て方とか。
そういう仕事に必要な部分は、と言いつつ。
実は。
「そうですか、そうですか」
「……普通、そこまで言ったら教えてくれたりしない?」
「ええっ? そんな、もったいなくてとても私には……」
「何が」
「貴重じゃないですか。私は知っていて、お嬢様は知らない。そういうことが世の中に一個くらいあってもいいと私は思います」
知ってたり、するけれど。
「あ、そ……」
なんとなく、今言うことではない気がしたから。
「それならまあ、いいけど」
とりあえず、今日のところは、そんな調子で。
「いずれ時が来たらお教えしますよ」
「それ、いつ?」
「それはもちろん、この知識が貴重じゃなくなったときですね。つまり、お嬢様は知らないけど私は知ってる……そんなことが、もうひとつ見つかった日です。たったひとつなら大切にしまっておきますが、ふたつになったら、いつか三つ四つと増えるはずだと信じられますから。そのときは惜しみなく、お教えしますよ」
そんな日が来るのか、と訊ねてみれば。
妙に自信満々の表情で、イルッカは。
「来ますよ。私の見立てでは、必ず」
そして、いつもの明るい笑顔。
ふとそのとき、私は言っておいた方がいいのかと思った。
なんとなく、そのイルッカの自信の源に気付いてしまったから、この場で。
もしもなんでもかんでもお見通しのあなたが、私の気持ちの話をしているなら。
残念だけど、それはそんなに長持ちしない秘密だよ、と。
だって、もう、自分で気付き始めているから。
「そのときのお嬢様の驚く顔が、今から楽しみでなりません!」
「はいはい……」
でも、興味があったから。
イルッカがどんな馬鹿げた言い方で「お嬢様は実は私が好きなんです!」なんて口にするのか。
それに私が「知ってたよ」なんて答えたとき、反対に彼は、一体どんな顔で驚くのか。
その日のことを、私だって楽しみにしていいと思うし。
それに。
「……つかれた」
ちょっと、大きなことを片付けた後で、そんな感じだったから。
今すぐ何かをして、それがそのあとどんな影響を及ぼすか、どう処理するのが一番いいのか。
政治と恋愛。
そういうことを考えるのは、ちょっと休憩しておきたかったから。
「ちょっと寝ていい? 屋敷に着いたら起こして」
「ベッドまでお運びしますよ。起きたら明日の朝です」
「そんなに寝れないから。夜中の間違いでしょ」
「そのときはコーヒーとケーキをお持ちします」
あの日だけが特別じゃなかったの?と訊けば。
お嬢様は毎日頑張っているので、毎日が特別な日なんです、なんて彼は笑って。
どうせ私のことが好きなんだろうな、とか。
一生傍にいるつもりなんだろうな、とか。
そういうことを、珍しく私の方が、お見通しな気持ちになって。
「……あ、そ」
まぶたを瞑る。
馬車の道行きが穏やかに身体を揺らす。
イチゴの花の匂いが、ゆうらり香って。
となりに、温かな気配がある。
デイグラッド追放領。
私の故郷。
「イルッカ」
「なんでしょう」
「ありがと」
はい、とやさしい声がする。
少しずつ家が近づいてくることに安らぎをおぼえながら――私は浅く、春の眠りに心をひたした。
(了)