悪役令嬢と「正しい夫婦」 3
汽笛を上げて汽車が動き出せば、ランドールはしめていた窓の帳をあけた。
遠くに見える山の頂上付近は、雪で白く覆われている。
一等客室は暖炉で温かく保たれてはいるが、窓ガラスからは冷気が伝わってきて、ソフィアはストールを肩にかける。あっという間に白く曇った窓ガラスを手のひらでぬぐうと、日の落ちかけている空を見やった。
王都まで半日ほどかかるため、汽車の中で一泊する必要がある。一等客室にはふかふかの寝台がついているが、上下二段になっていて、ランドールと同じ部屋ですごすと考えると少し恥ずかしい。
ヴェルフントから帰国するときに乗船したクイーン・アミリアーナ号では、ランドールッは一つしかない大きなキングサイズのベッドをソフィアに譲って、自分はソファで眠っていた。行きの船でソフィアが同じベッドを拒絶したことを覚えていたらしい。そのため、ソフィアは寝室、ランドールは別の部屋で眠っていたため、同じ部屋で眠るのはこれがはじめてだ。しかも、一等客室とはいえ、汽車の室内は狭い。
カイルの件が心配で、自然と二人の間の会話は少なくなってしまったため、難しい顔で黙り込んでいるランドールが、今何を考えているのかはわからない。
(……恥ずかしいのはわたしだけっぽいなぁ)
ランドールはたとえソフィアが隣で眠っていても何も思わないだろう。なぜなら、行きの船で同じベッドで眠ることを拒絶したソフィアを怒ったくらいなのだから。
(夫婦だけど……、それとこれとは違うというか……)
そういえば、ランドールは「正しい夫婦」になると言った。つまりは、いずれ同じベッドで眠るような日が来るのだろうか?
うっかり同じベッドでランドールとともに眠る姿を想像してしまったソフィアは、真っ赤になってうつむいた。
カイルがこんなときに不謹慎だろうが、顔に集まった熱はなかなか引かない。
ランドールがどういうつもりで「正しい夫婦になろうと思う」と言ったのかはわからないが、彼がそういうことも想定ずみで言ったのであれば、ちょっと困る。なぜならソフィアの心臓が破裂しそうになるからだ。
「どうした、熱でもあるのか?」
ソフィアが赤い顔をしていたからだろう、ランドールが心配そうに訊ねてきた。彼は手を伸ばしてソフィアの額に触れ、顔を覗き込んでくる。
「熱はなさそうだが、体調が悪いのか? 汽車の揺れで酔ったとか……」
グラストーナの汽車は石炭を燃料にしている。線路も、ソフィアの前世の電車や新幹線のように整っていないため、まあまあ揺れる。だが、乗り物酔いの少ないソフィアは、この程度の揺れで酔うことはない。
「だ、大丈夫」
至近距離で顔を覗き込まれて、ソフィアはさらに赤くなる。
これまでランドールが冷たいのが少し寂しかったけれど、急に優しくされてもどうしたらいいのかがわからない。ゲームだと彼がデレた瞬間に「きゃー!」と歓声を上げられたが、現実世界ではちょっと優しくされただけで恥ずかしくなって、照れて戸惑う。ソフィアは、恋愛二次元体質なのかもしれない。現実世界のランドールはかっこよすぎる。
「寒いか? 温かい飲み物でも用意してもらおうか」
ランドールが部屋の扉をあけて、外にいる客室係に飲み物を頼む。
温かいミルクティーが運ばれてくると、ソフィアはティーカップに角砂糖を一つ落としてかき混ぜながら、ちらりとランドールを見上げた。
彼はまだ心配そうにこちらを見ている。
まさか、同じベッドで眠る想像をして恥ずかしくなったなんて言えるはずもなく、ソフィアはミルクティーをゆっくりと飲み干した。
ソフィアが重ねて大丈夫だと告げると、ランドールはようやくほっとしたようだ。
「夕食まで時間があるから、少し横になっていてもいいぞ。食事の時間になったら起こしてやる」
夕食は部屋に運ばれてくることになっている。運ばれてくるまで、あと二、三時間はありそうだ。
「うん、じゃあ、少しだけ……」
起きていると、また余計な想像をするかもしれない。それに、今夜は緊張して眠れないかもしれないから、仮眠をとっておいた方がいいだろう。
ソフィアは分厚いカーテンで仕切られている寝台の方へ向かった。
カーテンを開けると、小さなスペースの奥に二段ベッドがある。
ソフィアは下の段のベッドに横になった。広さは充分で、ふかふかしていて気持ちがいい。
しかし、目を閉じても寝付けそうにない。少し冷静になれば、今度はまたカイルのことが心配になって、そればかり考えてしまう。
ランドールは、カイルは有罪判決のあとはどこかに幽閉されている可能性が高いと言っていた。グラストーナでは、高位の貴族は牢には入れられないらしい。だから、この凍えそうな季節に、城の地下牢で震えているということはないはずだとのことだが、それでも幽閉先でひどい扱いを受けていないかと不安になる。
新聞記事だけの情報だと、詳細がわからないせいで余計に不安になる。カイルは今どこに幽閉されているのだろう。会うことはできるのだろうか。ソフィアは彼のために何ができるだろう。
(ランドールが大丈夫だって言ったから、きっと大丈夫)
けれどもランドールが言った「はめられた」という言葉が気になる。
カイルが誰かにはめられたのならば、それは誰だろう。王家と縁のあるレヴォード公爵家の嫡男を陥れることのできる人間が、この国にいったい何人いるだろうか。
それはカイル――レヴォード公爵家の政敵なのか、それとも――
(わたしを消し去りたい、誰かなのかしら……)
ソフィアは『グラストーナの雪』の悪役令嬢という自分の立場を甘く見すぎていたのかもしれない。ゲームのはじまりを変えさえすれば、破滅エンドを迎えることはないだろうと思っていた。
だが、こうは考えられないだろうか。本来のゲームのストーリーを変えてしまったその結果、ストーリーとは違う別の力によってソフィアを破滅に導こうとする力が働きはじめ、それによってカイルが巻き込まれた。
ソフィアはぞっとした。
自分が幸せになりたいがためにあがいて、そのせいで大切な友人がひどい目にあうことになったのならば――
どくどくと心臓が嫌な音を立てる。
そのせいで大切な人たちが巻き込まれ、それが今後も続いたとしたら? カイルの次は、ランドールかもしれない、オリオンかもしれない。国王やヨハネスやイゾルテだってあり得る。
ソフィアは両手で顔を覆った。
頭の隅で、こういうことは考えてはダメだという自分がいる。考えても仕方がない。考えれば考えるほど、思考は最悪の方へと傾いていくものだ。けれども不安は募って、視界がにじんでくる。
カイルを陥れた犯人よりも、なにより自分が許せなくなりそうだった。
(やっぱり起きていよう……)
このままだと泣き出してしまいそうだ。泣けばランドールに気付かれる。心配した彼はきっと問いただしてくるだろう。けれども、ソフィアは答えることができない。自分が転生者だと、どうして言えるだろうか。信じてもらえるはずもない。
ソフィアがベッドから起き上がり、ランドールのいる座席へ戻ろうとしたときだった。
突然機体が大きく揺れて、ピーッというけたたましい音が鳴り響く。
左右の大きな揺れに、ソフィアの体は投げ出されて、壁に激突した。
あまりの痛みにうずくまったとき、「ソフィア!」という焦り声とともにランドールが飛び込んでくる。
車体の揺れはおさまったが、どういうわけか車体は斜めになって止まっていた。
床が斜めになっているので、ソフィアは立ち上がることもできなかったが、ランドールは器用なもので、ソフィアのそばにやってくると彼女を助け起こす。
「ランドール、いったいどうしたの?」
「わからない。それよりも、けがはないか?」
「うん、ちょっとぶつかっただけ」
ちょっとではなく激突したが、それを言うと心配をかけてしまうので薄く笑ってそういえば、ランドールにたんこぶの有無を確かめられるように頭を撫でられる。そしてだ丈夫そうだと判断したランドールはほっと息を吐き出して、それからソフィアを支えたまま顔を上げた。
「脱線を起こしているのは間違いなさそうだな。車外に出たほうがいいかもしれない。廊下の窓から出られるかもな」
ランドールの言う通り、車体が斜めになっているので脱線しているのは間違いなさそうだった。廊下側の方が下になって傾いているので、窓さえ開けば外に出られるかもしれない。
オリオンたちのことも心配だった。一度客室から廊下に出て、それから考えたほうがよさそうだ。
ランドールが傾いて開きにくくなっている客室の扉を無理やりこじ開けると、ソフィアは彼に支えられながら廊下に出る。すると、ちょうど隣の部屋からヨハネスが出てきたところだった。
「旦那様、奥様。ご無事ですか?」
「ああ。そっちはどうだ?」
「問題ございません」
ヨハネスのあとから、オリオンと、オリオンに支えられるようにしてイゾルテが出てくる。廊下にいた客室係の姿が見えないので、状況確認に向かったのかもしれない。
ランドールが廊下の窓を開けようとすると、すでに外には避難している乗客たちの姿が見えた。
ランドールは窓をこじ開けると、まず自分が下りて、それからソフィアに手を差し伸べた。
「降りれるか?」
ソフィアは頷いて、窓の外に身を乗り出せば、ランドールが抱きかかえるようにして外に出してくれる。
急いでいて外套を持ってこなかったので、冷たい風に身がすくみそうだ。
オリオンたちも外に出ると、ようやく、外で状況を確認していた客室係の一人がこちらに気付いて駆けてきた。
「大変申し訳ございません! お怪我はございませんか?」
対応に追われて駆け回っているのか、彼の息は上がっていた。
何度も何度も頭を下げる客室係に「大丈夫ですよ」と答え、状況を訊ねてみれば、線路に何かがおかれていて、それによって脱線事故を起こしたらしいことを教えてくれる。ブレーキをかけたが間に合わず、運転手も怪我を負っているため、詳しいことはまだ確認中とのことだった。
「これは簡単には復旧しそうにないな」
「そうね……」
けれども、周囲をブドウ畑に覆われた場所に放りだされて、どうすればいいのだろう。
ランドールはヨハネスを振り返った。
「近くに町があるはずだが、わかるか?」
「詳しい距離までは……。社内に戻れば地図がございますが」
ヨハネスが背後の傾いた汽車に視線をやれば、ランドールが首を振った。
「いや、今戻るのは危ないだろう」
「リーベンの町でしたら、おそらく歩いて三十分ほどかと」
客室係が答えれば、ランドールは「三十分か」と眉を寄せた。
「ソフィア、歩けるか?」
女性の足で三十分はつらいと思っているのだろう。けれどもソフィアは、市井で走り回って育ったし、体力にもそこそこ自信がある。
オリオンも大丈夫だろう。問題はイゾルテだが、彼女も「もちろんです! 奥様がつらければおんぶして運びます!」と鼻息荒く答えた。イゾルテはソフィアが惚れ薬を飲まれされていたとき、ヴェルフント城のクローゼットに閉じ込められて置いてきぼりを食らったことを根に持っていて、仲間外れにされてなるものかと意地になっているようだった。
ソフィアが苦笑して、「大丈夫みたい」とランドールに答えると、彼も小さく笑う。
ソフィアたちは、車内に残ったままの荷物を、復旧したら届けてほしいと客室係に頼んで、リーベンの町に向けて出発した。