悪役令嬢と「正しい夫婦」 1
ガラス越しにロイヤルスイートルームの客専用のプールを見ながら、ソフィアはゆったりとしたティータイムをすごしていた。
クイーン・アミリアーナ号がヴェルフントのカサルス港を出立したのが二日前。
行きと同じように五日かけてグラストーナへ向かう航路である。
まだ船はグラストーナよりも南の当たりにあるからか、ガラス越しに差し込む日差しは暖かい。
ソフィアはティーカップをおくと、サイドテーブルの上においていた本を手に取った。
オリオンは昼寝をすると言って部屋にいるし、イゾルテは今夜のオペラ鑑賞のためのドレスを選んでいる。
ランドールは昼食後、ヨハネスと何やら小難しい話をはじめてしまった。長く邸を離れていたため、帰ったらいろいろやることがあるのだろう。
ソフィアが本を開くと、ロイヤルスイートルーム専用のサービススタッフが、紅茶のお代わりと、一口サイズの焼き菓子をテーブルにおいてくれた。
前回海に落とされたため、正直船旅は少し怖い部分もあるが、グラストーナへ帰国するにはどうしても船が必要だ。それならば、ほかの船を使うよりも、クイーン・アミリアーナ号のロイヤルスイートの方が安全だろうという結論になった。
「ソフィア、あまり一人になるなと言っているだろう」
ソフィアが本を読んでいると、わずかに焦燥の混じった声が聞こえてきて顔を上げる。
振り返れば、ランドールの姿があって、ソフィアは思わずどきりとしてしまった。
――これからは、正しく夫婦であろうと思う。
ランドールにそう言われてからもう何日もたったけれど、ソフィアはいまだに「正しい夫婦」が何なのかがわからないし、ランドールが何を言いたかったのかもわからない。
だが、あの発言からだろうか。それともその前からだっただろうか。そのあたりはよくわからないが、ランドールが優しくなったように感じるのは、ソフィアの気のせいではないだろう。
ランドールはソフィアの隣のデッキチェアに座ると、サービススタッフにコーヒーを頼んだ。
「ここなら、部屋のすぐ近くだし、大丈夫かと思ったんだけど……」
ふらふらと一人で出歩いたことを怒られるだろうかと少しびくびくしながら答えると、ランドールは小さく息をついた。
「近くてもできれば声をかけてくれ。心配になる」
「う、うん……」
ランドールが「心配」という言葉を使ったことに、うっかりどきっとしてしまう。
今までは「ヴォルティオ公爵家に泥を塗るな」とか「勝手な行動をとるな」とか言われていたけれど、最近はその言葉のかわりに、彼はよく「心配」という言葉を使うようになった。
(なんだか、大切にされているような……、気がする)
ランドールにどのような心境の変化があったのかはわからない。だが、あれほど避けられて、それこそ滅多に家にも帰って来なかったようなランドールなのに、最近はソフィアを気にかけてくれている。
ランドールが来たのでソフィアは本を閉じた。
「あと三日もすればグラストーナだ」
「うん。カイルにも迷惑をかけちゃったから、帰ったら謝らないとね」
カイルはソフィアが海に落ちたあと、状況報告のために一足先にグラストーナに帰っていた。カイルの旅行を台無しにしてしまって、本当に申し訳ないことをしてしまったと思う。
ソフィアがカイルの名前を出せば、ランドールはむっと眉を寄せた。
(あ、久しぶりに見た、眉間の皺)
少し前まではいつも仏頂面だったランドールは、最近機嫌がいいらしくて、毎日穏やかな表情を浮かべていた。彼の眉間の皺を見るのは、何日ぶりだろう。
「……カイルがそんなに気になるのか」
「え?」
ぼそりと言われたので聞き取れなかったソフィアが訊き返せば、「なんでもない」と顔を背けられる。
もしかして、怒らせてしまったのだろうか。
謝った方がいいかと不安になっていると、ランドールが顔をそむけたまま、またぼそりと言う。
「お前は、カイルが好きなのか?」
ぼそぼそ言われても、今度は聞き取ることができたので、ソフィアは首を傾げながら答えた。
「それはもちろん、カイル、いい人だもの」
カイルは大切な友達だ。何気なく答えると、ランドールの表情が急に曇った。
「……そうか」
(な、なんで落ち込んでるの?)
明らかに元気がなくなってしまったランドールに、ソフィアの頭の中は「?」でいっぱいになる。
ランドールのコーヒーを持ってきたサービススタッフのリアナが、カップをテーブルにおきながらくすくす笑って、ソフィアにそっと耳打ちした。リアナは二十代半ばほどの小柄で明るい女性だ。
「奥様。旦那様の前でほかの男性が好きだと言われたので、やきもちをやかれているのですわ」
(やきもち?)
なんだか、ランドールに不似合いな言葉が出てきた。
まさかランドールがやきもちなど焼くはずがない。だが、確かに落ち込んでいる。
ソフィアが助けを求めるようにリアナを見れば、彼女は微笑みながらまたソフィアに小さく耳打ちした。
(これを言えばいいの?)
視線で訊ねると、リアナは大きく頷いて見せる。
ソフィアは首を傾げながら、表情の暗いランドールに言った。
「もちろんランドールのことも、好きよ?」
リアナに指示されたままのことを言ったのだが、これはこれで恥ずかしい。
言ったあとで急に恥ずかしくなったソフィアが視線を彷徨わせていると、ランドールが顔を上げた。
「……そうか」
(あれ? 機嫌なおった?)
よくわからないが、機嫌がよくなった気がする。
リアナを見れば、親指を立てて「ほらね?」と言わんばかりの笑顔だ。
いったいなんだったのだろう。
ランドールがやきもちなど焼くはずはないと思っているソフィアは、まだよくわからないが、とりあえず彼の機嫌が治ったようなのでよしとすることにした。
コーヒーカップを傾けるランドールに、焼き菓子の乗った皿を渡して食べるかと訊いてみると、彼はその中からアーモンドのクッキーを一つ手に取った。
「今日の夜はオペラなんだって」
「そうらしいな」
あのランドールと、ただの雑談がにこやかにできるなんて、本当に不思議だ。
(もしかしなくても、ラブラブ夫婦に向かって、前進してる?)
好感度ゼロどころかマイナススタートだったはずのソフィアなのに、いつの間にかマイナス分が埋まって、プラスになっているような気がする。
ソフィアは嬉しくなって、ピスタチオのマカロンを口に入れると、ランドールににこりと微笑みかけた。
その直後、ランドールの頬がうっすらと染まったような気がしたけれど、それはきっと日差しのせいだろう。
そんな二人の様子を見ていたリアナは、小さく笑って、新婚夫婦の邪魔をしないように、そっと壁際へと下がったのだった。




