悪役令嬢と小さな違和感 2
ソフィアは鏡に映る自分の顔を、じーっと凝視していた。
ソフィアのふわふわと波打つ金髪を彩っているのは赤いサンゴの髪飾りである。赤いサンゴが花のように削り出された、かわいらしい髪飾り。これは、ランドールがプレゼントしてくれたものだった。
ソフィアは顔を動かし、鏡の中に映る自分の顔の角度を変えてはサンゴの髪飾りに触れる。
ランドールはどうしてこの髪飾りをくれたのだろうか。
ランドールの意図はわからないが、髪飾りに触れていると、なんだか心がぽかぽかしてくるような気がする。
「ソフィア」
「うきゃはい!」
鏡の中の自分と見つめあっていたソフィアは、扉が叩かれる音を聞いて飛び上がらんばかりに驚いた。
鏡の前から立ち上がり、扉を開けると大好きなダルターノが立っている。
ダルターノは先ほどまでシリルとランドールとともにラッカと打ち合わせをしていた。ラッカがただの画家の卵ではなく、ダルターノを追いかけているサラドーラの海軍の一員だと聞いたときは驚いたが、ダルターノが捕らえられないようにシリルが義賊の許可証を発行したらしいのでほっと一安心である。
ダルターノはマラナの奪われたアザラシの皮を探すために、ディルバ子爵の持つ船の内、現在に出ている船を捜索するそうだ。
ソフィアはここでオリオンたちとともにマラナのそばについていることになっている。
まどろっこしいが、セルキーのアザラシの皮を奪ったという理由でディルバ子爵を捕らえるわけにもいかないのである。また、龍神の花嫁であるマラナのアザラシの皮をディルバ子爵が奪って、そのせいで怒り狂った龍神がカイザルーズの町を沈める――なんて話を、町の人たちにして回ることもできない。誰も信じてくれないからだ。
「マラナのアザラシの皮、見つかるかしら……?」
「見つからねぇと困る。さすがに町一つ海の底に沈むのを黙って見ているのもな」
「そうよね」
ソフィアも龍神のことはわからないが、カラナの言う通りカイザルーズの町を沈めるというのなら、なんとしても防ぎたい。なにより、好きでもない人の妻にされたマラナも可哀そうである。
ソフィアが表情を曇らせると、ダルターノに頭をぽんぽんと撫でられた。
「そんな顔すんな。犯人はわかってるんだ。どうにもならなきゃ、最悪、ぶん殴ってでも吐かせるさ。何せ、俺は海賊だからな」
冗談だか本気なんだかわからないことを言うダルターノに、ソフィアは思わず笑ってしまった。彼の言う通り、犯人はわかっている。マナラも見つかった。あとはディルバ子爵が隠しているアザラシの皮を探すだけ――、なるほど、そう考えると少しは気持ちが軽くなる。
ダルターノが朗報を待っていろよと言って部屋から出ていくと、ソフィアは部屋の窓を開けて下を見下ろした。
しばらくすると、ダルターノが宿の玄関を出て、白い石の敷き詰められた道を歩いていくのが見えた。
ダルターノの姿が見えなくなると、ソフィアは遠くに見える海に目を凝らす。
嵐が来て、あの海にこの町が飲み込まれてしまうなんて信じられないほどに、遠くに見えるエメラルドグリーンの海は静かである。
潮の香りを含んだ柔らかい風がソフィアの髪を揺らして――、ソフィアは祈るように、目を閉じた。
マナラの様子を見に行くと、彼女はベッドから起き上がれるまでに回復して、窓際の椅子に座って本を読んでいた。
マナラのそばにいるはずのオリオンの姿が見えないので訊ねたところ、小腹がすいたから女将のところに食べ物をもらいに行ったらしい。
「あまり窓際に座ってると、外から姿が見えちゃうわよ? ディルバ子爵に見つかったら大変だわ」
ソフィアが言えば、マナラはサッと顔色を変えて、窓を閉じてカーテンまで閉めてしまった。
ソフィアはマナラのそばに腰を下ろすと、彼女が呼んでいる本を覗き込んだ。
「それは、恋愛小説?」
「ええ。女将さんが貸してくれたの」
「どんな話?」
「大好きな人と幸せになれる話」
ずいぶんと大雑把な説明である。恋愛小説は一部の悲恋を描いた小説を除いて、概ね最後には大好きな人と幸せになれるものではないだろうか?
マナラは本を閉じて、カーテンの閉められた窓を見やった。
「龍神様は、まだわたしを待っていてくれるかしら?」
「龍神様のこと、好きなの?」
ソフィアが訊ねると、マナラは花が咲いたように笑った。
「もちろん! 素敵な方よ。ちょっと気難しいけど優しいの。龍神様の花嫁になれると聞いたときは、本当に嬉しくて。……まさか、こんなことになるとは思わなかったけど」
「大丈夫よ。きっと海に戻れるわ」
大好きな人と離れ離れになるのはつらい。ソフィアだって、ディルバ子爵の船を捜索にいったダルターノが早く戻ってきてくれればいいのにと思う。先ほど離れたばかりでそう思うのだから、アザラシの皮を奪われて海に戻ることができなくされたマナラはどれほど心細いだろうか。
マナラは「ありがとう」と言って微笑むと、ソフィアの髪飾りに目を止めた。
「その髪飾り、素敵ね。それは恋人からの贈り物かしら?」
ソフィアは髪飾りに触れながら、どう答えたものかと考えた。ランドールはまだソフィアの夫だが、恋人ではない。彼はソフィアのことを愛してはいないし、ソフィアはダルターノのことが大好きだ。では、ソフィアとランドールの関係は何と答えればいいだろう。仮面夫婦? いや、何かが違う。
「これは、ランドールが……」
「ああ、あの親切な人ね! あの人はソフィアの恋人だったのね!」
違うと否定しかけたけれど、どうしてか声に出せなかった。
ランドールは恋人ではない。ソフィアのことも好きではない。彼は嫌々ソフィアと結婚させられた被害者だ。……それならばなぜ、ランドールはソフィアに髪飾りを贈ったのだろう?
(まただわ。胸の当たりがもやもやする……)
ランドールのことを考えると、どうしてか胸がもやもやして、ときにちくりと痛む。
この髪飾りをもらった時もそうだった。
「そうね、ランドールは……親切だわ」
恋人だとは言えなくて、ソフィアはただ曖昧に笑ってごまかした。