プロローグ
お気に入り登録、評価などくださった方ありがとうございます!!
五話目開始いたします!
大切なものをどこかに落としてきてしまったような違和感――
それが何かを考えようとすると、思考が黒く塗りつぶされて、なにもわからなくなる。
――ソフィア。
誰かがわたしの名前を呼んだ気がしたけれど――、その声もノイズがかっていて、誰のものなのかがわからない。
わからないけれど――
なんだか、ひどく泣きたいような気になった。
☆
ソフィアがああなってしまった以上、このまま黙っていられないと判断したシリルによって、ソフィアがシリルの恋人のふりをしていたこと、記憶喪失を装っていたことを聞かされたランドールは茫然としていた。
シリルはすでにこのと次第を国王へ報告に行き、カーネリアは他国の王女に怪しげな薬を盛ったため、サラドーラに強制送還が決まっている。
シリルからも国王からも詫びを告げられたが、ランドールは怒っていいのかどうかもわからない。
惚れ薬を飲まされたソフィアは、まるで猫がマタタビを与えられたかのようなふわふわした様子で、ダルターノにしがみついて離れようとしない。
(頭がおかしくなりそうだ……)
なぜかソフィアが飲まされた惚れ薬のことを知っていたオリオンによれば、ソフィアの飲んだ惚れ薬は死ぬまで効果のあるもので、解毒するには魔女の作る解毒薬が必要とのことだった。
オリオンに心当たりのある魔女は、ヴェルフントとサラドーラの国境付近にあるマゼラン山脈のふもとに住んでいるらしい。
その魔女を見つけて惚れ薬の解毒薬を作ってもらうよりほかに、この状況をどうにかする術はないようである。国王もシリルも、責任をもってそのマーブルという魔女を捜索するとは言っているが、果たしてそう簡単に見つかるものなのだろうか。
「旦那様。奥様が見つかったことは陛下やカイル様達にご報告したほうがよろしいのでは?」
「そう……だな。ソフィアの様子については触れず、ただ見つかったとだけ連絡を入れてくれ。さすがに惚れ薬を飲まされて様子がおかしくなったなんて言えない」
「かしこまりました」
ヨハネスが頷いて、手紙を書くために部屋から下がる。
ランドールはくしゃりと髪をかき上げると、ソファから立ち上がる。
「少し歩いてくる」
部屋にいるイゾルテとオリオンに告げて部屋を出ると、何となく庭に下りた。
海に沈んだかもしれないと思っていたソフィアが目の前に現れたことへの安堵感と、わけのわからない薬を飲まされて、すっかりダルターノに心を奪われてしまっている妻の様子への焦燥感。
ソフィアの無事を喜んでいいのか、惚れ薬などという妙な薬を飲まされて夫以外の男に甘える彼女を怒っていいのか、わからない。
ただ不思議と、怒鳴りたくなるような衝動よりも、彼女が正しく「ソフィア」であったことへの安堵と、ダルターノを好きだという彼女を見て感じる寂寥感の方が強い。
ランドールには、自身の妻を連れ帰る権利があるけれど、今のソフィアを無理やり国に連れ帰ったらどうなるだろう。
ぼんやりと庭を歩いていたランドールは、ふと視界の先にソフィアの姿を見つけて足を止めた。
ソフィアは、頬を紅潮させて、鋏を手に薔薇の花を切っていた。
ランドールが近づくと顔を上げて、ふわふわした様子で微笑む。
「こんにちは、ランドール」
ランドールを「ランドール」と呼ぶ当たり、彼女の中で「ランドール」の存在は他人にはなっていないようだった。けれども本来のソフィアは、ランドールにこんなに無防備に微笑みかけない。今の彼女の中で「ランドール」がどういう位置づけにいるのかは定かではないが、ただの知人のような認識なのだろうか。
「……そんなにたくさん薔薇を摘んでどうするんだ?」
ソフィアが手に持っているかごの中を見下ろしてランドールが問えば、ソフィアは照れたようだった。
「あのね、ダルターノにあげるの」
「ダルターノに?」
ちくり、とランドールの心に針を刺したような痛みが走る。
思わず胸の上を押さえたランドールに、ソフィアは笑顔で白の八重咲の薔薇を差し出した。
「ランドールにもあげるわ。この前ピンクの薔薇をくれたでしょ? って、これはお城の薔薇だから、わたしが偉そうにあげるなんて言うのもおかしいけど」
「……ありがとう」
ランドールはおずおずと、丁寧に棘の落とされた白い薔薇を受け取った。
薔薇を見つめながら、ランドールはどうしても訊いてみたくなって口を開く。
「ソフィア。お前にとって俺は、いったいどんな人間だ?」
ソフィアはきょとんとして、それから考えるように首をひねり、そして何を思ったのか深々と頭を下げた。
「そうだったわ。わたし、きちんとお礼も言っていなかったのね」
「お礼?」
「うん。あのね、ランドール。わたしのことが大嫌いなのに、結婚してくれてありがとう。おかげでわたし、お城から離れて暮らすことができて幸せだったわ。お城は居心地が悪くて……、息苦しかったの。でもね。もう、嫌々わたしとの結婚生活を続けなくても大丈夫よ。わたしにはダルターノがいるもの。だから――、離婚しましょう」
「………っ」
ランドールは薔薇を握り締めたまま硬直した。
どうやらソフィアの中の「ランドール」は彼女の夫であったらしい。結婚した記憶は確かに彼女の中に残っている。そう――、これまでのランドールの彼女に対する態度もすべて、彼女の中に残っているのだ。
わかっている。
これは惚れ薬が言わせたことであって、彼女の本心でないことも、わかっているけれど――
(離婚……)
その言葉に、ランドールは言いようのないショックを受けてしまった。
ランドールだって、結婚当初、ソフィアが偽物だと証明できれば離縁してやると思っていたのに、どうしてソフィアの口からそれを聞くと、こんなにも心が苦しくなるのだろうか。
離婚という選択肢は、ランドールの中にしかなくて、彼女が選択しうるはずはないと、そう、思っていたとでもいうのか。
ソフィアがいずれ別の誰かを好きになって、自分のそばからいなくなってしまう可能性を、どうして考えなかったのだろう。
(落ち着け。これは薬のせいだ。ソフィアの本心じゃない……)
ふわふわと酩酊したような顔で微笑むソフィア。
彼女の意思は今、惚れ薬というランドールには未知の薬によって支配されている。
だから、これは彼女の意志ではない。本心ではない。そう自身に言い聞かせようとしている自分が、ランドールはひどく情けなく滑稽に思えた。
それでも――
「ソフィア、薔薇をありがとう」
これが、ソフィアの本心ではないとわかっていても、ランドールは微笑むことはできなかった。
ただ、薔薇の礼を言って、相変わらず酩酊したように微笑んでいるソフィアのそばを離れるしか、できなかった。




