プロローグ
第四話目開始いたします!
よろしくお願いいたします(#^^#)
インクを落としたように暗い海は、今まさに人を飲み込んだとは思えないほどに静かだった。
ランドールは手すりから上半身を乗り出すように海面に目を凝らしたが、どこにもそれらしい人影はない。
背後ではカイルがセドリックを押さえつけて、ランドールに向かって叫んだ。
「間違っても飛び込むなよ! 早く船長に報告に行け! 海のことは海の男に訊くのが一番いい! 俺もこいつを引き渡した後に合流する!」
大声で怒鳴っているはずのカイルの声が、ひどく遠くに聞こえる。
海の音も、風の音も、すべてが遠い。
壊れそうなほどに大きな音を立てる心臓の上に爪を立てて、ランドールは暗い海面の中に妻の姿が見えないだろうかと、必死に目を凝らした。
「ソフィア―――!」
ランドールは、声の限りに絶叫した。
☆ ☆ ☆
「少し行けばリバデルの町がある。つらいだろうが、そこまで頑張ってくれ」
オレンジに近い色の髪をした男――前世でやりこんでいた乙女ゲーム『グラストーナの雪』の攻略対象者の一人である海賊ダルターノ・フェルドラード・マッキールは、そう言ってソフィアを振り返った。
すぐそばで波の音を立てている海と同じマリンブルーの色をしたきれいな瞳は、さすがに疲れた色をしている。
無理もない。いくら海を知り尽くした男とは言え、夜の海に落ちたソフィアを助けて、彼女を抱えたまま泳ぎ続けたのだ。ソフィアは立っているのもつらいほどにふらふらだったが、助けてもらった自分がここで音を上げるわけにはいかない。
ソフィアは近くに落ちていた流木を杖にして、半乾きのドレスの重さに悲鳴をあげそうになりながら、必死に足を動かした。
照りつける日差しがジリジリと痛い。
けれども、ダルターノがいなければ海の底に沈んでいたと思えば、つらく苦しい方が何倍もましだ。
(でも……、どこに行くのかしら?)
生きていることには感謝したいソフィアであるが、ダルターノに素直にお礼を言いづらいのは、彼が「借り」の返済を求めたからだ。
ソフィアの命を助けた彼は、ニヒルに微笑んで「借りは三倍にして返せ」と言い出した。
彼がソフィアに何をさせようとしているのかはわからないが、海賊することである。警戒するに越したことはない。しかし、ソフィアは無一文で体力も底をついており、さらに相手は海賊。もっと言えば命を助けてもらった借りもあって――、嫌な予感がしたところで、逃げ出すことはできそうもなかった。
だが、おそらくこれはダルターノルートには突入していないはずだ。
そもそもゲームのはじまりはソフィアが十八になった秋。今から二年弱先の未来である。もっと言えばソフィアは悪役令嬢なので、攻略対象の恋愛ルートに突入することはないだろう。
ダルターノの攻略ルートは、彼の正体を知ってしまったヒロインが、無理やり海賊船に乗せられるところからスタートする。二年後のゲームスタート時点では、彼は海賊でありながらヴェルフント国に許可証を発行されている義賊となっている。
しかし、彼は自分の顔は仲間以外にはさらしておらず謎に包まれた海賊として登場する。その彼の正体を知ってしまったから、ヒロインは攫われてしまうのであるが、途中でそのヒロインがグラストーナ国の第一王女キーラだとわかり、王女を攫ったせいで義賊の地位を追われてしまう。その後紆余曲折あって、ダルターノが滅亡したフェルドラード国の王族であることが判明したり、ヴェルフントの敵国と渡り合ったりなどして、最終的にヒロインと結ばれるのである。
(一応警戒しておくことは、わたしがダルターノの正体を知っているって知られないことよね)
ソフィアは悪役令嬢でヒロインではないが、ゲームのストーリーから考えて、彼の正体を知っていることがばれるとまずい展開に陥るはずだ。
ここは、彼の言うところの「借り」を速やかに返して、なんとかしてランドールたちと連絡を取る必要があるだろう。
幸い、ダルターノは、ソフィアがまだ彼のことを、オペラ俳優のマッキールだと信じていると思っているはずだ。
へまさえしなければ、海賊船で連れ去られるようなことはない――、はずである。
それにしても、喉が渇いた。
海に落ちたときに、海水をたくさん飲んでしまったらしい。
「おい、大丈夫か?」
ダルターノが足を止めて振り返ったが、ソフィアは流木に体重を預けたまま顔をあげる気力もない。
ダルターノが舌打ちして、ソフィアのそばまで歩いてきた。
「あとちょっとなんだがな、しょーがねぇ」
ダルターノはソフィアに背を向けてしゃがみこむと、「乗れ」とぶっきらぼうに言った。
ソフィアがきょとんとしていると、強引に背中に乗らされて、彼が立ち上がる。おんぶされたとわかったソフィアは慌てたが、彼は危なげない足取りでさくさくと砂浜を進んだ。
「寝れそうなら眠ってろ。さすがに海に落ちたあとに歩くのは女にはきつかったな。悪かった」
ダルターノは何も悪くない。海に落ちたソフィアを助けてくれただけだ。
これ以上迷惑をかけられないので、自分の足で歩くと伝えたかったが、自分が思っているよりもずっと消耗していたらしい。ダルターノの背に揺られながら、ソフィアは半ば気を失うように眠りに落ちてしまったのだった。