悪役令嬢と船の上の陰謀 3
シガレットルームの室内は、くゆる紫煙で少しだけだが視界がぼやける。
群がる女性たちから逃げるために、ランドールとカイルはシガレットルームを隠れ家とし、暇をつぶすためにチェスに興じていた。
ソフィアは休憩室でデザートを食べているようだったから、まだかかるだろう。ソフィアさえ隣にいれば女性たちも遠慮して声をかけてこないのだが、女よけのためにソフィアをそばに行くのも申し訳ない。
「お前、船を下りたあともついてくるつもりなのか?」
盤上で白熱した戦いを繰り広げながら、ランドールが問えば、カイルは飄々と笑った。
「もちろん」
「……俺たちは新婚旅行だぞ」
「お前、『新婚旅行』という言葉を辞書で調べたことがある?」
「何が言いたい」
「少なくともお前の様子を見る限り、これは『新婚旅行』には遠く及ばないと思うんだけどな」
「意味がわからない。新婚旅行とはすなわち結婚した男女がはじめて行く旅行だろう。どこが違うと言うんだ」
「はあ……、つくづく、ソフィアがかわいそうになるよ」
カイルはクイーンの駒を手の内でもてあそんだ。
「俺さ、チェスは好きだけど、チェスのルールで一つ気に入らないところがあるんだ。それは、クイーンがキングを守るために動くことだよ。逆だと思うんだよね。夫は妻を守るべきだろう? 妻をおとりにしてキングが最後まで残っても、それってどうなんだろう。夫は死ぬまで妻を愛して敬い、身を挺してその存在を守るべきだと思うね」
「だから、何が言いたい」
「お前は、もっとソフィアを愛し敬い、そして心を砕くべきだって言ってるんだ」
カイルはクイーンをもとの位置におくと、ビショップを動かしてランドールのナイトを討ち取る。
言われてみれば確かに、カイルがクイーンをおとりに使って相手を取りに行くことはほとんどなかった。基本、彼が勝つときは必ずクイーンも残っている。最後まで、クイーンを安全なところにおいておくのが彼のチェスのスタイルだ。
「お前さ、ソフィアをきちんと見たことある? 目で見るという意味じゃないよ。きちんと彼女に向き合ったことがあるのかって意味だ。お前、端からソフィアを偽物と決めつけて、悪者にしているだろう。実際に、彼女がお前に何かしたことがあるのか?」
「ソフィアはキーラに悪意を持って接している」
「それをお前は実際に見たことがあるのか?」
「……キーラがそう証言しているんだ」
「あっそ。じゃあ仮にソフィアが『キーラにいじめられた』と言ったら、お前は同じようにソフィアの証言を信じるわけだな」
「それは……」
「ふん。お前はソフィアの言い分を信じたりしないさ。お前にとってキーラ王女は生まれたときから知っている可愛い妹のような存在なのかもしれない。でもな、お前はソフィアと結婚したんだ。その意味を考えろ。少なくともそうやって、真実かもわからない妹の話だけを信じてソフィアをないがしろにしている間は、俺は容赦なくお前の『クイーン』を奪いに行く。あとで気づいて、手遅れにならないといいな」
ランドールはナイトを持ったまま手を止めた。ようやく、自分の置かれている状況に気がついた。このナイトをどこに動かそうと、次の一手でカイルにクイーンを討ち取られる。宣言通りに、だ。
クイーンとソフィアが重なって見えて、ランドールはナイトを手にしたまま躊躇った。ナイトをおいて別の駒を動かしたところで、この位置からではクイーンを守れない。ランドールはキングを守ることしか考えていないから、クイーンの守りは手薄どころか、現在は皆無に等しい。
行動範囲の広いクイーン自らを動かすと、今度はキングが討ち取られる。ランドールが勝つためにはこのままクイーンをおとりに使って、カイルがキングを討ち取る前に、彼のキングを落とすしかない。
ランドールは大きく息を吸った。これはゲームだ。目の前にあるのはただの駒で、ただの駒のクイーンだ。ソフィアじゃない。
(馬鹿馬鹿しい)
これはゲームだ。勝てばいい。カイルの無駄な騎士道精神に惑わされるな。クイーンはソフィアじゃない。キングが残ればいい。カイルのキングがチェックできればそれでいい。ただの駒のクイーンが討ち取られたところで、勝てさえすればいいのだ。
(ちっ)
ランドールはナイトを戻すと、クイーンを手に取った。
(……何をしているんだ、俺は)
心の中に自嘲に近い思いを感じながら、クイーンをできるだけ安全なところへ動かした。
当然、カイルはその隙を見逃すはずもなく、あっさり攻め入ってくる。
「チェック」
ランドールは負けを認めて、天井を仰いだ。
カイルは楽しそうにランドールのキングを手に取った。
「お前、頭が堅いんだよなぁ、昔から。物事はもっと広く柔軟に見たほうがいい」
「大きなお世話だ」
「ソフィアはいい子だと思うよ」
「………」
「せっかくの旅行だ。きちんと向き合ってみるといい。今まで見えなかったものが見えてくるかもしれない」
「……でも、お前はついてくるんだろう」
「もちろん。邪魔をしないとは言ってない」
「邪魔をしている自覚はあったんだな」
ランドールは嘆息した。
カイルは駒を正しい配置に戻して、二戦目の準備をはじめる。
ランドールが、気分転換に給仕にウイスキーを頼もうとしたときだった。
「ここにいたんですね」
シガレットルームにマッキールが入ってきた。彼はどこか困惑したような表情を浮かべていた。
「ソフィア嬢は、こちらへいらっしゃいましたか?」
「いや……、ソフィアは、休憩室で甘いものを食べていたと思うが……」
ランドールが答えると、マッキールは顔をしかめて、ちっと舌打ちした。その様は、いつも穏やかな様子の彼からは想像できないほどに、荒々しかった。
「やっぱりおかしいと思ったぜ……!」
マッキールはそう毒づくと、くるりと踵を返して走り去った。
ランドールとカイルは顔を見合わせて、様子のおかしいマッキールのあとを追うことにした。