悪役令嬢と父を名乗る男 4
ランドールが国王から渡されたチョコレートを持ってヴォルティオ公爵家に帰った時、ちょうど玄関から一人の少年が出ていくところだった。
少年は薄汚れたシャツとズボンをはいており、一目で貴族でないとわかる。年のころは十代半ばほどだろうか。短い黒髪に、ほっそりとした少年だった。
いったい何の用事なのだろうと思っていると、少年はランドールを見つけて深く頭をさげ、足早に去っていった。
「あれは誰だ?」
玄関に入るなり執事のヨハネスに問えば、彼は少年がソフィアの知り合いらしいとだけ告げた。
「ソフィアの知り合い?」
「ええ。突然訪ねてこられたのですがね、奥様とずいぶん仲の良いご様子でしたよ。そうそう、二人きりにはしておりませんから、大丈夫ですよ」
ヨハネスが、まるでからかうように薄く笑うから、ランドールはむっとした。
「そんなことは訊いていない。余計なことは言わなくていい」
「これは失礼いたしました」
「それで、ソフィアは?」
「今はオリオン様と部屋にいらっしゃると思いますよ」
「……オリオンと?」
「ええ。何か不都合でも?」
「先ほどの少年とは二人きりにしないというのに、オリオンとは二人きりにするのか」
「はい?」
ヨハネスはきょとんとしたが、ランドールは彼の脇を通りすぎると、無言で階段を上っていく。
(なんなんだ、どいつもこいつも!)
ランドールは理由のわからない苛立ちに、そのあたりの壁を蹴飛ばしたい衝動に駆られた。
ソフィアの部屋に入ると、彼女はオリオンと顔を突き合わせて難しい表情を浮かべていた。
ランドールが部屋に入るとソフィアは驚いたように顔を上げて、立ち上がった。
「お帰りなさい」
ランドールが帰ってきたことがよほど不思議だったのだろう。小さく首を傾げている。ランドールはよくわからないが、イラっとした。
(ここは俺の家だぞ。俺が帰ってくるのがそんなに珍しいのか!)
普段城で寝泊まりをしてちっとも邸に寄り付かない自分のことをすっかり棚に上げて、ランドールは勝手なことを思う。
ランドールは無言でチョコレートの箱を差し出した。
「陛下からだ。それから、たまには城へ遊びに来いとおっしゃられていた」
「お父様から?」
ソフィアは箱を受け取り、それから嬉しそうに笑った。ソフィアの笑顔に、不覚にもランドールの心臓がどきりと音を立てる。彼女はランドールの前ではあまり笑わない。顔立ちが華やかなソフィアが笑うと、大輪のバラが開いたかのように、はっと目がひきつけられる。
ソフィアの笑顔に、ささくれ立っていたランドールの感情が少し浮上しかけたが、彼女が笑顔でオリオンを振り返って、気分は一気に急降下した。
「オリオン! チョコだって! イゾルテ、お茶をお願いできる? イゾルテも一緒に食べましょう!」
また「オリオン」。オリオンは城で暮らしていたときからソフィアの護衛だったが、この二人は仲がよすぎるのではないだろうか?
ソフィアが、ソファに座ってチョコレートの箱を開けはじめたので、ランドールは無言でその真向かいに座った。するとソフィアは、不思議そうに顔を上げた。
「ランドールもチョコレート食べるの?」
「……いらん」
「じゃあ、まだ何か用事?」
「俺がいたら問題でも?」
「え? ううん、そんなことはないけど……」
ソフィアは何度も首をひねりながら、イゾルテにランドールの分の紅茶も頼む。
ソフィアの背後からチョコレートの箱の中身を確認しながら、にやにやと笑うオリオンにランドールは腹が立った。
「オリオン、俺に何か言いたいことでも?」
「いえ、何もないですよ~。あ、ソフィア、そのアーモンドの乗ったチョコがほしい」
「これ? いいわよ」
ソフィアが箱の中からチョコレートをつまんで、「はい」とオリオンに差し出す。するとオリオンが口を開けたから、ソフィアはその口にチョコレートを放り込んだ。
ランドールは片眉を跳ね上げた。
今、ソフィアは何をした? オリオンにチョコレートを食べさせなかったか?
ランドールのむかむかがひどくなる。
オリオンは調子に乗っているのか、ソフィアに二つ目のチョコレートも要求した。それを当然のごとくソフィアの手から口に入れてもらっている。
ぷちっとランドールの脳の血管が音を立てた。
「何をしている!」
ランドールが声を上げると、ソフィアが目を丸くした。
「なにって、なにが?」
「何がじゃない! 俺の目の前でオリオンにチョコレートを食べさせるなど、お前はふざけているのか!」
「あ……、ごめんなさい、行儀が悪かったかしらね」
「そうじゃない!」
ソフィアはランドールが何が言いたいのかがわからないらしい。
(みなまで言わないとわからないのか!)
ソフィアはランドールの妻だ。その妻が夫の目の前でほかの「男」にチョコレートを食べさせるなど、もってのほかである。こそこそされるのも腹が立つが、堂々とほかの男と仲良くするなど、何を考えているのだ。
「お前は俺の妻だろうっ」
「え、まあ、そうだけど……」
きょとんとしていたソフィアの顔が、だんだん訝しそうになる。まだわからないのかと、ランドールが声を荒げかけた、そのとき。
「ぶっ! もうだめ……! おかしすぎる……!」
突然オリオンが腹を抱えて笑い出して、ランドールの怒りの矛先がそちらへ向いた。
「何がおかしい!」
「なにって、そりゃ……」
けたけた笑いながら、オリオンが束ねていた髪をほどいて、ソフィアの隣に座った。
「旦那様、わたし、女ですよ?」
「――は?」
「あ、ランドールに言ってなかったかしら? オリオンは女性よ」
「――なに?」
ランドールは思わずイゾルテを振り返った。すると彼女も知っていたのか、「オリオン様は女性ですよ」と頷いている。
「………」
ランドールは押し黙り、おもむろに立ち上がると無言で部屋を出て行った。
部屋を出て行ったあとで、先ほど見かけた黒髪の少年のことを訊ね忘れたことを思い出したが、再びソフィアのもとを訪れる気力は、残っていなかった。




