脱糞記念日
その日は学院の創立記念日だった。
講堂に集められた学生たちは学長やら市長やらのありがたい話をあくび混じりに聞いていた。
僕もその一人だった・・はずだったのに。
『う・・おなかが・・』
僕は一人、顔を真っ青にして耐え忍んでいた。
ここで話は変わるが、我がザルザ寮のそばには通年赤い実を実らせている青々した高木が植わっている。
真っ赤で張りがあり、離れた所まで甘い香りを漂わせるその実は、背の高い木の中でもさらに高い位置に実るため、容易にとることはできない。
寮母から、寮生は実を取ることが禁止と言い渡されているため、大きな音のする風魔法で堂々と実を落とすことはできそうもないし、木によじ登るのは落下の危険性が伴うこともあってか、誰もその実に手出しをしようとはしていなかった。
僕もその実に興味こそ抱けど、罰を受ける危険を冒してまで食べようとは思わなかった。
寮ではたくさんの食事が提供されることだしね。
だがその日、寝坊して寮の朝飯を食い損ねた僕は、日頃の興味も相まってその実を食してみようと、そう思い立ったわけだ。
その頃にはすでに黒いのの毛を乾かすので風を操る魔法は人並み以上になっていたので、割合簡単に、かつ静かに、その実をとることができた。
手に入れた実は芳醇な香りを漂わせてはいたものの、一口齧ってみたら甘みは薄く渋みのほうが強かった。
期待外れもいいところな実は再び齧る気にはなれず、残りは茂みの奥に捨てた。
それからしばらくは何もなかった。
症状が出てきたのは、ちょうど創立記念式典が始まったあたりか。
『やばいやばいやばいやばい』
キュルルルルルルル
腹で胃袋がダンスをし、腸はそんな胃袋に押されてのたうち回っている、正にそんな感じだった。
『あばばばばば』
既に壇上にはみっしりとした正装で現れた学長が挨拶をしており、とても席を立てる雰囲気ではない。
この時、一年次だった僕は奇しくも最前列中央という立ち位置で、今席を立とうものなら学生、教師、来賓の方々の衆目を集めること間違いなし。
最悪。
『ぬおおおおおおお』
僕は腹に手を当てて必死に温めようと試みるも、その程度では暴走は止まらず。
この感じは下痢というには少々おさまりの付かないもので、腹にある固形物は朝に食べた赤い実のみであるにもかかわらず腹がパツパツに張っており、今にも破裂せんばかりだった。
『うう、この感じ・・水??』
胃と腸が空っぽに近い状態であるにもかかわらずこの張り具合。
何をもって胃腸を張らせているのかと問われれば、それは水というしかあるまい。
証拠に、こんな状況だったら冷や汗のひとつでもかきそうなもんだがそれもなく、口の中はからからに乾いている。
これはまるで身体中の水分を根こそぎ奪って胃腸に集結させたかのようだった。
『やばい、これはやばいぞ・・』
胃腸に水が充満している、この事実が示す結果は一つだけ。
『今立ったら、漏れる』
肛門の括約筋がその役割を果たすには腸の内容物が固体である必要がある。
なぜなら、どんなに鍛えられた括約筋でも穴を密閉することはできないから。
しっかり穴を引き締めていても必ず生じる極僅かな隙間から水が漏れ出てしまう。
『今僕が耐えられているのは、椅子に座って広がった尻たぶの肉で水漏れが防がれているから・・・立ったらダメだ、立ったら・・』
恐ろしいことになる。
ただでさえ恵まれてない僕の学校生活、今漏らしたら完全に終わるナリ。
だがしかし。
『ずっと座っているわけにはいかない・・・式が終わったら否応にも立たざるを得ないし、今こうしている間にも、刻一刻と下っていく内容物の量が増えている・・これは時間がたてばたつほど大惨事になるぞ・・どうする、僕』
脳の神経が焼き切れるほど思考し、最適解を何とか導こうとしている間にもお水さんが肛門をノックする強さが上がってきている。
考えろ、考えろ・・
そして導き出した結論は、式が終わるまで何とか持ちこたえさせるというものだった。
間違いなく流出する内容物の量はすさまじいことになっているだろうが、厳粛な式のさなかに注目を集めるよりは、皆が席を立って講堂内の人口が減ってから漏らした方が、総合的に考えてダメージが少ないと判断したのだ。
そして一時間後・・・
式も終盤を迎え、それまで何とか耐えきった僕は安堵のため息を漏らした。
もうこの時の僕の頭には腹痛の苦しみから解放されることしか頭になかった。
どんなに悲劇が起きようが、その時はその時。
取り合えず、この苦痛を早く終わらせたい・・・
「・・・これを持ちまして、創立記念式典を終了します・・・」
や、やっとだ。やっと終わる・・・・
学長の姿が神々しい輝きに満ちているようだ・・・
おっさんの低い声も、今は天使が祝福を告げる囁きに聞こえる・・・・・
「・・・それでは皆さん、起立してください」
は?
*******
目を丸くして僕を見るお偉方や教師たちの視線から僕を守ったのは、入学初日から人と関わろうせず空気だった僕に、学院生活3日目あたりから何故か妙にフレンドリーになった同学年の人たちだった。
総勢50名の学友が一斉に立ち上がり、僕の周りを取り囲んだ。
何故かみんな、何かに憑かれたような妙な表情をしていた。
顔は笑っているのだが、目が逝っちゃってるのだ。
怖い。
学友の一人が僕の前に立ち満面の笑みでこう言った。
「リバ、君にあだ名をつける時が来たみたいだ」
別の奴が言う。
「お前は俺たちと接点を持とうとしなかったし、これといった特徴がなかったからあだ名のつけようがなかったけど」
また別の奴。
「これであだ名がつけられるわ!今日という日に祝福を!!」
そして最初の奴が腕をあげ、高らかに宣言する。
「よし、みんな!今日からリバは“漏らした奴”だ!!」
うおおおおおおおと歓声が響く。
僕は耳をふさいだ。
「みんなー!!リバのあだ名は今日から“漏らした奴”だぞー!」
「りょーかーい!」
「改めてよろしくな、漏らした奴―!」
笑顔の皆に肩を叩かれ、僕はその場にうずくまった。
ぶりゅりゅ
うずくまって穴が広がったからか、追加で茶色い水がコンニチハ。
「・・コンニチハ」
僕の意識は暗転した。
*******
「こうして学院の創立記念日は僕の脱糞記念日にもなってしまったという訳だ」
「ほほう」
黒いのは神妙な顔で頷く。
・・・ここは笑ってほしかった。
真剣に受け止められてしまった分ダメージが大きい。
「リバ」
「なにさ」
「お前が食べた赤い実というのは、あの木のか?」
黒いのは俺の胡坐から降りて窓の外に視線をやる。
窓からは丁度風に揺れる枝葉が見えた。
ちなみに実はこの寮の4階に行ってようやく見える。それくらいこの木は背が高い。
「うん、あれだよ」
「・・あれは虫殺しの木だ」
「は?」
なにそれ?
「あれはとても馨しいだろう?その香りで虫どもをおびき寄せ、実を齧らせる。すると実の毒が直ちに虫の胃腸に作用し、脱水症状に陥らせて殺す。地に落ちた虫の死骸は土の肥やしとなり、木はそれを間接的に養分として吸い取るという訳だ」
「はえ」
「そして稀に小鳥もその毒牙にかかる」
「はえ」
「お前があれを食っても虫や鳥と違ってすぐに症状が出なかったのは、ひとえに虫とお前の大きさの違いによるものだろう」
「はえぇー」
「ここの寮母はたぶん虫よけとしてあの木を植えたのだろう。あの木に虫が惹かれる分寮に入る虫の数は減るからな。あの木の効能を寮生に説明しなかったのは、その必要性を感じなかったか、寮母自身が口下手だからか、あるいはお前が話を聞いていなかったか・・・」
黒いのは勝手にブツブツ考察を始めた。
「・・・黒いの」
「ん?なんだ?」
黒いのは考察を中断して顔をあげた。
「なんでいきなり僕に学校生活の事聞いたの?」
「・・そろそろ頃合いかと思ってな。手を出したからには、結果が知りたいだろう?」
「え、どういうこと?」
「・・なんでもない、こっちの話だ」
何がこっちの話?
むう、黒いのは偶にわけわからんことを言うな。
「・・私は良かれと思ってやったのだが、失敗だったか」
「なにが?」
ちらりと、黒いのは僕の目を見た。
その目が赤く光って見えたのは目の錯覚だろうか?
「よし、やめよう」
「え?」
「リバ」
「え?なに?」
まただ、錯覚じゃない。
黒いのの目が赤い。
それに赤いとはいっても、変身する時のとはまた違った怪しい輝き。
ゾワリと、腹の奥で何か蠢く感じがした。
「リバ、お前はなぜ学院に通っている?」
「え、なに突然」
「答えろ」
低い声で、黒いのは言う。
なんだこれ、黒いのが、怖い?
「そ、そりゃあ将来・・」
「ほう?」
「将来、いい職に就くため・・・?」
「いい職とは何だ?お前がやりたいこととは?そしてそれには、学院が必要か?」
黒いのは低い声で詰問する。
対して、僕の受け答えは恥ずかしいくらいしどろもどろだ。
「や、やりたいことはまだ決まっていない。でも学院は将来の選択肢を広げてくれるから、必要だ。やりたいことができた時に後悔しないため、僕は学院に通っている・・・」
「ほほう、なるほど」
黒いのは嗤った。
なんだ、こいつ・・こいつ、本当に黒いのか?
「リバ」
「な、なに?」
「下僕、という職に興味はないか?」
「げ、げぼく?」
「ああ」
黒いのがいきなり提示した職は、予想だにしないものだった。
いや、そもそも黒いのから職を提示されるという状況こそわけわからんのだが。
黒いのの圧に押されるようにして、僕は下僕という職について考える。
下僕、要するに召使男。
召使というからにはご主人様のお世話をして、お客様の応対をしたり、家の事を万事滞りなく進めるのが仕事、なのか?
なんか卑しい響きのする言葉だが、れっきとした職業であることは分かる。
でもその仕事内容については良く分からんな、馴染みがなさ過ぎて。
ただ、まず間違いなく言えるのは、身分の高い人はまず就く事のない職ってことくらい。
僕の実家はそれなりの小金持ちだが、貴族という訳ではなくただの平民。
就けるかどうか怪しいラインだな。
いや、間違いなく親には反対されるだろうけど。
・・・まあいいや。
取り合えず、その僕が考える下僕の仕事は、果たして僕に向いているだろうか?
答えは、否。
コミュ障で劣等生の僕がそんな人と関わりまくりの仕事に向くわけがない。
お仕事初日早々にご主人様の不興を買う光景が目に浮かぶ。
「興味ないです・・・」
「む、何故だ」
「コミュ障劣等生の僕には仕事がこなせそうにない・・・」
「なんだ、そんなことか。問題ない、主は私だ。お前でもこなせると思ったからこそ、私はお前にこの職を提示したのだ」
「はえ」
・・黒いのの下僕だって?
それってつまり・・・
「ペットのお世話人ってこと?」
「むぅ・・まあ似た様なものだ。やることはそう変わらん」
「はえー」
そんなら僕にもこなせそうだ。
問題は給料だな。
雇い主が犬である黒いの=無給
これじゃあそもそも職業として成り立っていない。
「報酬は弾む」
そんな僕の考えを見越してか、先回りして黒いのは言った。
「黒いの、お金持ってるの?」
「ああ、一生遊んで暮らしてもたんまりお釣りがくるくらいある」
「・・ほんと?」
「本当」
黒いのはニィと口角をあげた。
「私をシャンプーして、暇なときは言葉を交わし、あとはシャンプーし、言葉を交わし、ベッドを共にし、あとはシャンプーするだけの簡単なお仕事だ。たったそれだけでたんまりと金がもらえ、私をモフモフ出来、私が仕事中は全てお前の自由時間。どうだ?興味がわいてきたか?」
「黒いの、シャンプーしすぎたら禿げるよ?・・っていうか黒いの仕事してたの?」
「私は禿げない・・・・当たり前だ。仕事がなくば、私が金を持っているわけがなかろう」
「何の仕事?子守?アニマルセラピー?アニマルショー?」
「違う。内緒だ」
今はまだ、な・・・
低い声で、黒いのは囁く。
「リバ、私はお前に救われた・・だから恩返しのつもりで、お前の色褪せた学院生活に彩りを・・・」
「うるさい」
「・・・添えてやろうと思ったのだが、私でも失敗してしまうくらいお前は救いようがないらしい。だが、私にとってこれはむしろ好都合だ。人には人の幸せがあると思い、私は自らの気持ちを押し殺してでも、お前に幸せな学院生活を与えてやろうと思ったが、それができないほどならば、お前を私のモノにする口実ができる。お前に人間としての幸せが得られぬのなら、私が魔族としての幸福をと・・・いや、これも良くないな。やはりリバ、お前が選択すべきだな。お前の事はお前が決めねば」
「な、なにを」
「リバ、今一度考えてみてはくれないか?このまま学院に通い続けるか、私の下僕になるかを」
「え、急っ」
「悪いな。だがお前が幸福でないのならこれ以上長引かせる必要もあるまい?なあ、正直に答えろよ。おまえ、このまま学院を卒業しても幸せな時が待っていると思うか?」
「っ・・・」
救いようがないとか、黒いのにボロクソに言われて静かに煮えたぎっていた怒りが、急速にしぼんでいくのを感じる。
正直言って、黒いのの言ったことは当たっていると思う。
ぐうの音も出ないほどの正論。
まともな人間関係が構築できない僕じゃあ、人並みの幸せは得られないだろう。
だが、ここまで言われて素直にうなずいてしまったら、僕のなけなしのプライドまで折れてしまうようで、僕は何も言えなかった。
黙ってうつむく僕に、黒いのは近寄ってきた。
「うひっ」
耳の穴をなめられて思わず声が出る。
「今すぐに決断する必要はない。3日後、使いのものをやるからそいつに返事をしてくれ。・・そろそろ時間だ、いかなくては」
先程までとは打って変わって優しく耳元でささやくと、黒いのは自分で部屋のドアを開けてどこかに行ってしまった。