プロローグ
ホームルーム終了を告げるチャイム。それを聞いた生徒たちは一人また一人と荷物をまとめて教室を後にしていく。背中にテニスのラケットが入った袋を抱えている女子、野球のボールを弄んでいる男子たち、中には水泳用ゴーグルをつけた男子まで見える。夏の日差しがそうさせるのか、それとも単に練習好きなのか、どちらにせよ俺には関係ないことだ。
何故なら俺は帰宅部。今日も今日とてさっさと帰るだけである。鞄の中に教科書類を詰め終え、後ろの黒板に書かれた明日の時間割を確認してから立ち上がった。
「ねぇ、孝臣。一緒に帰ろう?」
ふと、隣からかけられる声に俺はハッとする。見ればそちらには幼馴染である南雲紫がいた。
茶色の髪を肩まで伸ばし、にこにこと子犬のような笑みを浮かべている。その愛らしい雰囲気と女性らしい丸みを帯びたからだはクラスの男たちを虜にしているのだが、本人は全く意識していないのだから困ったものだ。
俺は彼女に頷きを返しつつ、鞄を持って立ち上がった。
「じゃあ、帰るか」
「うん。帰ろ」
高校生にもなって恥ずかしいと思われるかもしれないが、俺と紫はいつも一緒に帰っている。俺はともかく紫は結構体育が得意なのだが、こいつは部活に入る気はさらさらないらしい。
……まぁ、それも彼女の家庭環境が影響しているのだが。
「孝臣? どうしたの?」
下から覗き込むような彼女の視線を受け、そこでようやく俺は我に返る。どうも考え込むと周りが見えなくなってしまうのが俺の悪いところだ。すぐに笑みを作って彼女と共に下駄箱まで歩いていく。
そうこうしている間にもいろんなものが目に入ってきた。
空き教室でぐーぐーといびきを立てて寝ている男子や、また別の教室では楽しげに談笑している女子たち。見慣れた光景だ。
俺たち一年生の教室は何故か四階建ての校舎の一番上に位置しており、下駄箱までは結構距離がある。当然、体調が悪い日などには最悪だ。実際、ほら。今俺の横を通ろうとしている小太りの男子なんかはぜえぜえと息を切らしている。顔面は蒼白で額には脂汗が浮かんでいた。
と、そんなことを思っているうちに三回に到着し、また次の階段を降りていく。
「ねぇ、孝臣。今日、よかったらうちに来ない?」
「む……あ~……悪い。今日は……母さんの誕生日なんだ」
俺がそう言うと、紫は悲しそうに瞳を伏せた。
それもそうだろう。彼女の両親はすでにこの世にいないのだから。
だから彼女は部活に所属していない。自分で家事をしなければいけないから。そして深夜にはバイトを入れている。
俺の家族とは昔から親交があったし、いっそ同居してもいいと両親も言ってくれたのだが、紫は頑として聞き入れなかった。
とはいえ、家も近いのでたまに料理を作っては差し入れをしている。
「そっか……おばさんたち、元気?」
「元気だよ。というか、ほぼ毎日会ってるだろ」
「それもそうだね」
口元を押さえてクスクスと笑っている彼女を見ていると、つられて俺もにやけてしまった。やはりこいつは昔から変わらない。例えどれだけ取り巻く環境が変わったとしても昔のままの紫だ。泣き虫で、優しくて、それでいてよく笑う。誰からも好かれる女の子だ。
やがて下駄箱に到着し、俺たちは靴をはきかえ外へ出た。すでに夕焼けが学校内を明るく照らしており、幻想的な風景を醸し出している。
ちょうど部活を開始したところも多いのか、グラウンドなどでは威勢のいい声が上がっている。活気に満ち溢れた光景だと素直に感じた。
さて、そんな光景を横目で見ながら俺たちは帰路を急ぐ。
と言っても俺たちの家はここから十分ほどだ。あっという間に紫の住んでいるアパートに到着し、俺は彼女に改めて問いかける。
「紫。よかったらお前も来ていいんだぞ?」
「いや、いいよ。一家団欒を邪魔しちゃ悪いし」
「そうか? 母さんも別に悪く言わないと思うが……まぁ、気が向いたら来てくれ。ケーキぐらいはご馳走してやるからさ」
「うん。わかった。じゃあ、またね」
「おう。また明日」
彼女が階段を上っていくのを確認してから、俺も前方に見える家の方へと足を進める。
それにしても、今日はやけに静かだ。
住宅街ということもありいつもは仕事帰りのサラリーマンや学生、はたまたバーゲンへと向かう主婦の人たちを見るのだが、今日は人っ子一人いない。
学校はあれだけ騒がしかったというのに、不思議なものだ。そのせいか、何だかこの夕焼けも少しだけ不気味に思えてしまう。
まぁ、こういう日もあるだろう。俺はそう割り切って足を速めていき、俺の住んでいる一軒家の前でピタリと足を止めた。
ポケットから鍵を取り出しつつドアの方へと向かう。それから鍵穴に鍵を差し込み、一回転。ガチャリと小気味よい音を聞いてから、ゆっくりとドアを引いた。
「ただいま~」
……だが、返事は返ってこなかった。母さんはもちろん、今日は父さんも早帰りしてくると聞いている。なのに、何故二人の声が聞こえないのだろうか。サプライズ……いや、違う。今日の主賓は母さんだ。ありえない。
俺の脳内を緩慢に違和感が支配していく。
何故、こうも住宅街が静かなのか。
何故、二人の声が聞こえないのか。
そんな不安からくる憶測が脳内を飛び交い、それぞれ主張し合う。うるさい。黙れ。
背中に冷や汗が流れる感覚とは裏腹に、口の中はカラカラだった。俺は乾いた唇を舐め、深呼吸しながら中に入る。
「父さん……母さん……いるのか?」
返事はない。物音もない。明かりもない。無音。静寂。不安。恐怖。
念のため、俺は玄関に置いていた昔使っていた木製のバットを持ってリビングへと向かい、そこのドアを開いて――絶句した。
そこにいたのは……一言で言うならば、怪物だった。
胴体は巨大な人間のようで、けれど頭部はヤギのような牛のような生物。背中にはコウモリ然とした翼が生え、尾てい骨のあたりからは矢印のような尻尾が生えている。
そいつは俺の存在に気付いたのか、グルンッと首を百八十度回転させてこちらを見てきた。黄金の瞳はまるですべてを見通しているかのようだ。俺と奴は、互いにじっと見つめあっていた。
しばしの静寂の後、化け物の口が不気味に歪んだ。
それとほぼ同時だった。俺は無意識に玄関の方へと逃げ出していた。
あれは何だ?
わからない。
化け物? 妖怪? はたまたコスプレ? どうでもいい。
これだけはわかる。あれは危険だ。有害だ。良いものではない。
もしかしてこいつがここらを……。
――そこで俺の思考は遮られた。
何故か?
決まっている。
後ろから、首を誰かに掴まれたからだ。俺は視線をちょっとだけ下に下げてその手を確認する。人など一突きで殺せそうな長い爪。大木の枝よりも太い指。熊みたいな毛が生えた手の甲。
ああ、なるほど。わかりたくなかったが、わかってしまった。
もう、終わりだ。
そう思った直後、グイッと勢いよく奴の方へと引き寄せられ――そこで俺の意識は黒く塗りつぶされた。




