閑話休題 遊海(前編)
――――――。
意識が朦朧とする。
今、自分はどこに居るんだろうか。
「んぁ…」
謎の倦怠感に襲われ、もう一度突っ伏してしまいそうだったが、二度寝という名の誘惑を振り切って瞼を擦り、気怠さの残る体を叩き起こす。
「ここは…中学校か?」
顔を上げると、そこには教室の机が規則正しく小綺麗に列を成している光景があった。
何だろう、この違和感は。何かを忘れているような気もするのだが、いざそれが何だったかと思考を巡らせてみても、それに至る事はない。まるで記憶の大部分に濃いもやがかかっているような感じ…とも少し違う。何かあるけれど、どこかでそれを思い出すことは出来ない、思い出してはいけないと確信しているような感覚…なんだろうか。不思議だ。
なんて多分下らないであろうことを熟慮していると、不意に背後に気配を感じる。
「お目覚めかな?」
「んー?」
俺は随分と間の延びた返事を投げると、そこに佇むはここ一年で見なかった日は無いくらいに親しくなった人物。
嶋本遊海だ。
「? よくはわからんが…」
「うん…。寝惚けてるね」
「寝てたとしか分からない」
遊海がこりゃ重症だ、と頭を抱える。
状況がよく理解出来てない上に寝覚めから友人の呆れ顔を一身に受け取った俺としては、少し理不尽とも思えた。だがまあ寝起きなんてそんなもんだろうと簡単に考え事を済ませ、ため息を吐く。そのため息で、自分の喉がそれなりに渇いているのを感じた。
「覚えてない? 今日の六時間目位から気持ち良さそうに爆睡してたよ?」
「…言われてみればそんな気も」
「もう、そんな呑気に言っちゃって…。時計見たら?」
俺は遊海に言われるがままに時計の方向へ首をのそりと回す。
遊海が示唆した通り、現在の時刻は六時間目の始まりから優に三時間が過ぎた午後六時前であった。自分の意識は相も変わらず明瞭とは程遠いが、自分の事を考えるのは難しい、と記憶の模索を諦め、素直に今の現状を見ることにした。
ともかく、この時間帯は下校時刻をとっくに過ぎているため、生徒の姿は無い。恐らく教師だけが残っている筈の空間に俺と遊海という普段ならあり得ない面子が雁首揃えてここにいるような状況なのだろう。
…ん?
何だか先程の解釈に少し違和感を感じる。衝動に任せてそれとなく違和感の宛を探すと、理由が分からない事項が一つ。
俺は遊海の方を向き、純粋な疑念を抱いて問うた。
「…遊海、何で帰らなかったんだ?」
「ふぇ!?」
そう、こいつ帰っても良かった筈だ、と。
確かに俺がこいつを友人と認めてからほぼ毎日の様に一緒に帰っていた訳だが、今回に至っては俺は寝呆けて待たせてしまった訳だ。無視して一人で帰るか、それこそ叩き起こして帰るとかされても文句は言えない。言おうものなら「じゃあ寝ないでよ!」と反論し難い言葉を返され、閉口への道を一直線にまっしぐらな未来しか想像できない。
そんな俺の質問に遊海が謎の奇声を上げると、これまた何故かしどろもどろになりながら上目遣いで答えた。
「そ、そのっ…言わないといけない用事があって…」
「なら叩き起こせば良かったのに」
「そんな、寝てる人に悪いよ!」
「お前は熟お人好しだな…」
俺は何となくもっと別に理由があるのではと踏んでいたのだが、一応の納得は得たことにした。これ以上真実に詰め寄ると、もう気絶してしまいそうだとでも言うように遊海の顔が真っ赤に染まっていたからだ。
ちなみに、後一年もすると今の遊海の態度の異常の理由が、自分への好意によるものだと気付くことになるのだが、それはまた別のお話。
「で? 用事って何だよ」
「ひぅっ…!」
遊海が一瞬くらっとする。気絶寸前の瀬戸際で踏ん張っているのがこちらにも伝わるくらいに顔が赤く染まり、遂には爆発した。頭に白い蒸気が昇っているのが見える。
俺はその様子に、「そんなに恥ずかしい用事なのか?」と用事の内容に内心頭を悩ませている。だが何にせよ、友人としてたとえドン引きするような内容でも真摯に受け止め、対応しようと心に誓った。…誓ったったら誓ったんだ。
沈黙。十秒くらいかかっただろうか、遊海が口を開く。
その内容は、俺が危惧していた方向とは違ったものの、それはそれは末恐ろしい内容だった。
「えっと、きょ、今日あっくんの家に泊めてくださいっ!!」
◆◆◆
今日の帰路は凄まじく居心地が悪かった。俺も遊海も気恥ずかしさで何も話せず、ただ横に寄り添ったまま歩いていたのだ。さらにお泊まりの道具を揃える為に一旦遊海が自宅に寄りたいと言うもんだからいつもより帰路の距離が長くなり、それだけ時間もかかった。あまりの羞恥心に耐え兼ね、しりとりなんて言う会話の最終手段みたいなものまでおっ始めてしまいそうだったのだが、すんでのことで飲み込んでそのまま耐えきった俺の精神力を今日は思う存分褒めようと思う。
「ど、どうぞ…?」
「う、うん」
俺は遊海を我が家へ招き入れる。両者緊張しているのか俺の語尾は尻上がりになり、遊海の声は少し上擦っている。くそ、何故俺が只の友人なんかを意識しなきゃならないんだ!
「母さーん! 今日俺の友達がここに泊まりたいって言ってるんだが大丈夫ー?」
うちの両親は気さくで明るいのでまず大丈夫だろうとは思うのだが、一応呼び掛けてみる。
「お帰りー! 母さんは別に構わないわよー?」
「父さんもだー!」
よし、両親の了解は得た。両親が快く許可を出すのは分かっていた事だが、やはり無意識に追い返されてしまうとも危惧していたようで、安堵のため息が俺と遊海から出る。
父さんと母さんに今日お泊まりする相手を紹介しようと、二人の待つリビングへと足を運ぶ。
ドアノブに手をかけ、夕飯の美味しそうな匂いを漂わす部屋―――
「あ、晃雄の友達? どういうことでしょうかお父さん私ちょっと耳がおかしくなったんだわそうなんだわ」
「ハッ、まさか…」
「何か閃いたの!?」
「晃雄を騙して晃雄諸共俺達を皆殺しにしようとしてるんじゃ…」
「まあ大変! どうしましょ―――!」
「お、落ち着け政子。俺がいる限り寝首を掻かれるなんて事は―――!」
―――から踵を返し、遊海の手を引いて一目散に玄関へと駆ける。遊海が豆鉄砲を喰らったような顔をして呆けていたが、俺が手を引っ張っていた事に遅れて反応すると「わっ、ごごごごめん!!」といって慌てて手を離し、恥ずかしくなったのか視線を斜め左下へ伏せる。俺は、その対応に体温が上昇するのを感じると、遊海同様視線を明後日の方向へ持っていく。
先程の帰路のように気まずい空気が俺達を包みだす前に何とかしないと、と俺はさっきの両親の会話について説明を入れる。
「えっとな、俺にあんまり友達っていうのがいないっつーかお前しかいないのは言ったっけ?」
「へ? うっ、うん。多分聞いたよ?」
「うちの両親、俺に友達が出来たの信用してくれなくてな…。偶に話すんだがいっつも冗談って感じで受け止められるんでもう若干諦めてたんだがな、この際いい機会だ、お前を友達として紹介すれば信じると思う」
「と、友達…うん、友達として、ね? うん…」
俺は、遊海が今後俺の初友達として両親から良い目で見られる事に喜びを感じると思っていたのだが、明らかに納得の行ってない表情を浮かべている。何か不服にならざるを得ないような事を言っただろうか? 俺が話しかけた後も「そうだよね…うん、分かってる分かってる…ははは…」と独り言ちている。
そんな遊海を尻目に、両親から先刻より少々畏怖が込められた声が送られる。
「お、おーいどうしたのよー? まだ入らないのー?」
「な、何やってるんだー?」
「はいはい、今行く!」
俺はまたもや遊海の手を強引に引っ張り、リビングへと再度足を運ぶ。見てろよ父さん、母さん、俺にもちゃんと友人がいるところを見せびらかしてやる、と内心息を巻いていたことが、俺に遊海の手を再度引っ張らせたのだろう。遊海が「うわわわっ!?」とよろめきながら俺の後を付いてくる。何故かまた頬を仄かな桃色に染めていたが、気にしなかった。
ドアの前へ。リビングのドアノブを握り込む。
真実の証明に、いざ、行かん!
「父さん、母さん! 紹介するぜ、正真正銘、本物の俺の友達だ!」
俺は持っていた遊海の手を更にグイッと引っ張り、両親の前に直立させる。
すると、慌てながらも遊海は持ち前の人当たりの良さを全面に発揮し、両親に簡潔に挨拶と自己紹介をした。
「あっくん…じゃなくて、晃雄君の友達の嶋本遊海です。今日はご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします!!」
刹那、両親が遊海の可愛らしい童顔を見て凍り付く。
そして、晃雄の方へそそくさと近付き、耳打ちした。
ニマニマしながら。
「「…幸せにな」」
「何だ二人して! からかってんじゃねーよ!」
「「だって女の子じゃん?」」
「うるせーったらうるせー!!」
俺が、額に自然と青筋を立たせる程に鬱陶しい両親にいきり立って反駁していると、遊海が何事と首を傾げてこちらに寄ってくる。
非常にマズい! このままでは彼女だろ云々とかいう悪魔共の囁きを遊海に聞かれてしまう!!
「あー父さん、母さん! 飯はまだ腹減ってないから後にしてくれ! 俺は遊海が使う部屋を教えとくから!」
「「同室を推奨しますそれ以外許さん」」
「知るか! おい遊海! 行くぞ!!」
「へ? わわっ」
俺は三度遊海の腕を強引に掴み、二階へと駆け上がる。後ろをチラと振り返ると、そこには、息を合わせて「「もう名前で呼びあってるんですねヒューヒュー」」とニタニタした笑いを顔面に張り付けながら俺達を冷やかす悪魔の姿があるばかりだった。
思ったより長くなったので前編と後編に分けました。
次回のほうが重要な回になると思います。