第四話 勉強なんて、いらない
少し前。と言っても、四年と数十日という「少し」には該当し難い年月を遡る。
晃雄がまだ学才溢れる存在であった頃の話。俺と京助のことなどまだ存じていなかった頃の話。
晃雄は京助と同等の、いや、ひょっとするとそれ以上の頭脳を遺憾なく発揮し、学校からは勿論の事、周囲の生徒からでさえも期待、羨望、嫉妬、あらゆる感情の込められた視線を集めていた。一位独占は当時の晃雄には当然のことで、その学校で一位の座を勝ち取るのは至難の技だと言われていた事から"不動の王者"と崇められていた時期もあった。
それ故か、晃雄は人を寄せ付けなかった。格が違う、と周囲から避けられていたというのが事実なのだが、晃雄自身この学年で友達を作ることは出来ないだろうということはこの一年で十分に察していたのでそれ自体は大して堪えるものではなかった。
だが、晃雄はここまでで一つ勘違いをおかしてしまっている。
確かに自分から作りに行っても相手の方から避けてくるので次第に友達を作ることは出来ないと思うのはごく自然であり必定である。
だが、何らかの事情で向こうから寄ってきた場合、その定理は破綻する。
例えば、今まで晃雄の事を知らず、その人物が晃雄に匹敵する学力を持ち合わせていて、知らない人との会話に貪欲な場合。
「晃雄くーん! 頭良いんだって? 凄いね!」
そう、こんな感じで絡んでくる奴。
嶋本遊海。
晃雄が入学する時に同時に入学してきて、学力は晃雄には及ばずながら二位という周囲とは十分異質な才能をこちらも惜し気もなく発揮していた。なのに、天才特有の取っ付きにくさは欠片もなく、顔も可愛げな童顔で、遊海の友達の増加は留まるところを知らない。そのオーラは晃雄にも降りかかり、友達とまではいかないものの晃雄が学校で唯一話し合える事が出来る相手となっている。
そんな遊海は、自分より実力が上の晃雄に対して好意を抱いているのか、それとも単純に友人としてか、他の生徒より頻繁に晃雄に話しかける。クラスでは、学年の天才二人が実はデキてるんじゃないかと専らの噂だ。勿論小さい頃から心が疲弊し、麻痺しきっている晃雄にはそんな事を考える余裕など無かったが、確かに周りからの視線の種類が遊海と居る時だけ違うな、程度の違和感は覚えていた。
だがしかしまあ、遊海の約二か月に及ぶ懐柔により晃雄は次第に遊海の事を気が置けない友人で、良き好敵手と思うようになっていった。
「次のテストは負けないよー?」
「へ、また吠え面かくなよ?」
「ふふん、こっちのセリフだって」
「何をぉぅ?」
「「ぐぬぬぬ……」」
晃雄は、一年振りに冗談を言ったな、なんて考えていたそうな。
◆◆◆
そんな日々を過ごしてもう二年。
学年末テスト、という時期に入りだした頃。
遊海の様子が、少し変になった。
挙動不審、という訳では無いのだがどこか態度が晃雄に対してよそよそしい。例えば、晃雄が遊海を友人として認識し出した頃からほぼ毎日のように一緒に帰路についていたのに、最近は顔を合わせる事さえ稀である。今まで友好的な関係を築いてきたのに今になって何だ、と晃雄は不思議に思った。
だがふと、晃雄は思い返した。
去年の学年末テストの時の事だ。
いつも通り晃雄が一位をとって遊海に帰ろうぜと言ったとき、何故か明らかに困ったような表情を見せたのだ。その日は結局個別に帰って、ある程度晃雄は心配をしたのだが、新学期には「同じクラスだ! あっくんやったね!」とかなんとか何事も無かったかのように言うものだから、杞憂だったかと晃雄は記憶の棚の奥にその日の事をしまいこんだのだ。ちなみに”あっくん”とは晃雄の呼び名である。これを使っているのは遊海だけなのだが。
遊海は、学年末は割と本気でやるタイプなのかな、と適当に結論を出して思慮を止め、ただただ友人として出来るだけ邪魔はしないでやろうと考えていた。
悲劇は、ここから始まった。
◆◆◆
学年末テストが終わり、順位が発表された。
晃雄は、自分がいつも通り一位であることを確認すると、順位表の人混みを抜け、久々の友人との帰路に心を踊らせた。
しかし、何だろうか。話がいつもより弾まない。
何を聞いても俯いた状態で「うん……」などの適当な返事しか帰ってこず、もどかしくなった晃雄は結局とっておきの会話のネタを出すことにした。
「テスト、何位だった?」
「……ッ」
小さく息を吸う音が聞こえた。
何だ、俺が一位なんていつもの事じゃないか、何をそんなに思い詰めたような顔をするのさ、と冗談を装って労りの言葉を掛けようとしたが、場の雰囲気が許してくれなさそうだった。
ここから、晃雄はほぼ無意識だったという。
「あっくんはいいよね」
「え?」
「どうやっても一位。何をやってても一位。いいな、いいな。私、嫉妬しちゃうよ」
「おい遊海? いきなり何を――」
「どんな努力してもあっくんには勝てない。努力なんて才能の前に踏み潰される砂利でしかないとでも言うようにあっくんは一位を取り続ける。努力してる人が可哀想になってくるよ」
そこから間を置かず、剣幕が始まった。
「私みたいにねぇっ!!」
「っ!?」
「ねえ、あっくん。私、いつも二位ばっかり取るけどさ、そんな私の気持ち考えたことある? 少しでも私が努力してるなんて思ったことある? こんな才能に踏み潰される砂利の気持ち考えたことある? ねえ!!」
「ちょ、落ち着け――」
「落ち着いていられるもんかぁ! 私、頑張ったのよ? 頑張って頑張って頑張りすぎておかしくなりそうだよ! 寝る間もご飯も惜しんで勉強頑張ったのに! どうして!? どうしてなの!!?」
「遊海――」
「寄らないで! 私の名前を呼ばないで! 憎い! あなたが憎い! 私の努力全部踏みにじるあなたが憎くて憎くてしょうがないのおっ!!!」
遊海は叫んだ。本人を前に嘆き悲しみ、激昂した。
頬を幾つもの涙が伝う。顔はグシャグシャに歪められ、普段のふんわりとした雰囲気を微塵も感じさせない。
よくみると目の下に痣がある。
「……じゃあね、あっくん。さよなら」
「おい、待て!! 遊海!!!」
遊海は晃雄の静止の言葉を聞かず、自分の家の方向に踵を返したまま振り向かなかった。
アスファルト仕立ての道路に落ちた幾千の雫の染みがまるで予言でもしていたかのように、しとしとと雨が降り始め、土砂降りになる。
その中を、晃雄はただ立ち尽くすことしかできなかった。
◆◆◆
翌日、晃雄はつい先日の出来事に対する絶望感に苛まれながら学校に登校した。
もうすぐ冬から春に季節が移り変わるというのに、そんな気配は少しも感じられない位に寒い教室。晃雄は何となく、この寒さは気温の問題だけでは無いような気がした。
珍しく、晃雄が一番乗りだった。
机に向かう。
「ん、なんだこれ……」
そこに置いてあったのは、一つの手紙。
特に何も飾られておらず、ただ封だけが施してある。
晃雄は特に何の気なしに封を切り、中身を見る。
「内容物は、三枚の紙と……本?」
本の内容を見ると、どうやらゲームの作り方のようだ。
パソコンで使えるフリーソフトを巧みに扱い、一つのゲームを作るまでの手順が書かれてあった。
「じゃあ……」
本命の、手紙へ。
そこには――――
「遊海!?」
読み終わった頃には、自然と体が動いていた。
廊下をかけ降りる。途中先生とぶつかったがお構いなし。謝罪の間すら惜しい。
学校を飛び出した。
町中を探し回った。授業もほったらかして探しに探した。
――あっくんへ。
昼を過ぎる。ずっと動かし続けた足が悲鳴を上げる。
――昨日は、ごめんなさい。ついカッとなっちゃって。
だがそれでもしらみ潰しに探し回り、最後に、海辺を探した。
――そしてこの手紙を見ているということは。
あった。
あいつの、遺体が。
――私はもうこの世にいないでしょう。
「……っ!!」
耳が、遠くなっているようだ。
――置き土産に言います。
「あああああああっ!!!」
遠くで聞こえていると思っていた叫び声は、実は自分のものだったのだから。
――いつもみんなより賢くて。
「嘘だ! 絶対嘘だあっ!! 認めねえ、俺は認めねえぞおっ!!」
――私にだけ楽しそうに話し掛けてくれる、あっくんのことが。
晃雄は反芻する。
遊海と過ごした、少なくとも楽しかった時間。
自分に出来た最初の友人。最高の友人。
最期にこんな言葉を残しやがった、俺の。
――好きです。
初恋の、人。
「ふ、ざけるなあっ!!」
彼女が飛び立った海へ、怒号を飛ばす。
「なんだなんだ……ってうおっ!?」
晃雄は、彼女を追いかけようとした。
「その程度で逃げられると思ってんじゃねぇよ! 覚悟しやがれ!!」
「おい、お前さん! 何をやっとるんだ!!」
――でも、お別れです。
「誰だクソジジィ! 離せ! 俺はあいつを追いかけるんだ!! 俺がっ、俺があっ!!」
「何を言っとる! 馬鹿な真似は止さんか!!」
――さよなら。元気でいてね。
「うああああああああっ!!」
晃雄は持っていた手紙を力の限りグシャグシャに握り潰すと、滂沱として涙を流す。
何かが、途切れた。
◆◆◆
自殺。
捜査の結果はそう判断された。
だがしかし、自殺を仄めかしていた元凶は逮捕された。
手紙の二枚目には、自分が一位に拘らなければならなかった理由や、本当は順位なんてどうでもいいこと等を書き記していた。
三枚目が今回の事件の証拠と密接に関わっていた。
一位を取れていない遊海に両親が虐待紛いの事をしていたことについて詳細に書かれていたのだ。そこから遊海の両親は、遊海の目の下についていた痣を始めとした物的証拠を突き付けられ、呆気なく逮捕された。きっと遊海自身も、いくら肉親だからとはいえ我慢ならなかったんだろう。
学校ではささやかだが葬儀が営まれ、遊海の友人であった者の多くがその生の無惨な幕引に涙を落としていた。その葬儀に、晃雄は出なかった。
その日以来、晃雄は学校へ登校するのを拒否し始めた。
そして、あの日握りしめたぐしゃぐしゃの手紙を横に、晃雄は考えた。
(こうなってしまったのは確かにあいつの親のせいなのかも知れないが、俺にも非はあった筈だ)
例えば。
(何故俺は一位を取り続けた? 順位なんて、あいつとの会話のネタにしかならなかった)
では、あいつが、遊海が居なくなった今。
(一位は必要な物か?)
逡巡するまでもなく。
(否。断じて否だ)
そしてさらに。
(勉強は、しなければならないのか?)
自問。
(世間は必要だと豪語するが、俺は不幸になった。勉強のせいで)
なら、世間がどうであれ、俺には関係ない。
(不幸になるくらいなら)
結論。
(勉強なんて、要らない)
◆◆◆
晃雄は、全てを語った。
「これが……俺の過去だ」