第三話 覚悟の一歩
ある日の放課後。
「京助、悪いが先に帰っててくれるか? 俺達は少し用事があるんだ」
そう言って京助を帰そうとするが、京助は訝しげに首を横に傾けて訊いた。
「ひろちゃんは学級委員がらみってことで分かるけど、何で晃雄が?」
「…えっと、ひろちゃんに手伝えと言われましてね」
「まあそういうことだ」
咄嗟に吐いた晃雄の嘘に付き合って適当な返事をするが、京助は疑るような表情を変えず。
だがそんな表情に俺達が感じた「バレたか」という思いは果たして徐に鞄を引っ提げた京助の姿によって杞憂に終わり、京助は教室を後にするためにドアの方向へ体を捻る。
「うん、分かった。じゃあまた明日ね」
京助はドアを潜るとその影に姿を消した。
さて、場は整った。
「七美、ちょっとこっち」
「? うん、分かった」
七美に呼び掛けると、俺達のもとへてとてとといった感じで歩み寄った。
昔から七美の歩き方というか走り方は、所謂ペンギンのような走り方で、手首を女の子らしく外側に軽く曲げて短い足で健気にこちらへ来るそのあざとくも愛くるしい姿は、見ていて保護意欲を掻き立てられる。おまけに無意識か意識してかは知らないが萌え袖という子どもらしいオプション付きなのだ。なんというか、癒されるものがある。
そんな邪な幼馴染みの思考をミジンコ程も知らない七美は、未だ訝しげな表情で俺達を見つめる。
「どしたの? そんな思い詰めたような顔して」
どうやら俺は自分の汚れた考えに無意識に眉を寄せたまま、七美を凝視していたらしい。
だが、俺はそれを訂正しようとはしなかった。これから七美にする話は、先程の考えなんかより余程顔をしかめずには居られないような、まるで憎悪の塊のような話に他ならないのだから。実際、先程俺が眉を寄せていた理由の内の大部分、こんな話をすることからでもあったのだ。
俺は話を反芻する。黒い、あまりにも黒すぎるその内容は、何度思い返そうと慣れるものではない。自分でもどんどん表情が険しくなるのが分かる。
「大事な話がある」
「…」
晃雄はというと、京助が帰った辺りから今の今まで苦虫を噛み潰したような顔をしている。
無理も無いだろう。これからの事を思うと、俺だってそんな表情になるわと思える位には共感している。
並々ならぬ何かを悟ったのだろう、七美も俺達とあまり変わらない表情になっていった。
「…友達には、電話で断っておくよ。話を聞かせて」
きっと、友達と遊ぶ約束でも交わしていたのだろう、そんな台詞を呟く。
「助かる。場所を変えるぞ」
その自分の事は二の次とでも言うような配慮に感謝を述べつつ、俺は二人を連れてパソコン室に向かう。
この話を聞いたら、七美はどんな表情を浮かべるだろうか。先日の出来事に対する後悔と自責の表情だろうか。それとも、労りに満ちた悲しそうな表情だろうか。
まるで針の先のように張り詰めた空気が三人を取り囲む中、俺はつい先日の事を思い出していた。
◆◆◆
テストが終わること数日。
全部のテストが返却されて、クラス内では順位がどのような状況かを確認する時だけ真面目な奴らと、もうテストなんて知ったこっちゃないといった感じに暴れまわる奴らの2つに分かれていた。
とりあえず、これで少し気を抜けるな。
帰りのホームルームが終わって背伸びをする。
「今日は部活どうするんだ、京助?」
後ろの席である京助に話しかける。京助は何か思い付いたストーリーでもあるみたいで、今まで数々のメモをとってきたノートに殴り書きをしていたが、こちらに気付くとその作業を止めて俺に向き直る。
「んー、そうだなあ」
「…もしかして作業の邪魔しちまったか?」
「あ、いいよ別に。…今日は何の用事もないし家に居るより暇は潰せるかな、行くよ」
来る目的、暇潰しなのな。
心中でツッコむ。
「分かった。今から行くか?」
「いや、もうちょっと書いておきたい事があるから」
そうだった、俺は京助が何か書いていたところへ割り込んで話しかけたんだからそう言われるのは当たり前だ。少し思い留まれば無駄に話をしなくても良かったものを、と少し後悔と反省の念に追われた。
「じゃあまた後で」
「うん」
京助は再度ノートに視線を落として何やら書き始めた。あの様子だと暫く来ないだろう。
…丁度良いな。少し晃雄に相談があったのだ。まあ晃雄に関する事だが。
例の、学力の件。
「さて、どうだか…」
この話を晃雄に持ちかけるのは正直不本意だが、今後の為だ。
俺は廊下に向けて、覚悟の一歩を踏み出した。
「ダメだ」
「やっぱこうなるのか…」
結果はご覧の有り様。
晃雄に持ちかけた相談は、大体こんな感じである。
「この前テスト直後に七美と変な空気になったろ? そりゃあの件に関しちゃお前は悪くないんだが、これからお前の学力について七美につっつかれないとも限らないだろう? だから、七美には明日の放課後にそれについて言っておいた方が良いんじゃないか?」
うん、言い方は悪くなかった筈だ。
だが晃雄はそれを聞いて一つ溜め息を吐くと。
「やだね」
ものの見事に一刀両断。
まあ、分かってた事なので大して落ち込みはしないが。
「俺には過去を吹聴してまわる趣味はない」
「じゃあ、またそれについて何か言われたら今度はどうするんだ?」
「その時はその時だ」
臨機応変、って話でも無いと思うけどな。
とりあえず、晃雄を説得するために俺が持ってきた持論を披露する。
「晃雄、俺達は晃雄の話を聞いたとき何て思ったか分かるか?」
「…知るか」
晃雄が何となくむず痒そうに答える。
構わず続けた。
「よく今まで誰にも言おうとしなかったよな、だ。そんな悩みをたった独りで抱え込んでて、今まで先生に学力が低いだの何だのと言われてよく耐えて来れたな、ってあの時思った」
晃雄を説き伏せるための持論とは言ったが、本心こう思ってたんだから仕方ない。
「少しでもいいからその憂鬱な感情の毒抜きくらいしてもいいじゃないか、いや、しなきゃダメだって。じゃなきゃ、お前はそのどす黒い物に心を押し潰されて、今ここに居なかったかもしれない」
「…」
後でよく考えてみたら多分恥ずかしくなるようなこと言ってるんだな、と思うがそんなことで俺の口の歯車の回りが悪くなる訳でもない。
ここで、持論の視点を変える。
「…七美はな、あんなクソビッチな奴だけど悪い奴じゃない。お前の話を聞いたって対応は大して変わらないだろうし、少なくともお前を蔑むような真似はしない。いや、そんな真似したら俺があいつをぶん殴ってやる」
「…」
晃雄は、相変わらず黙りこくったまんまで俺の話を静かに聞いている。
「だから、そのあまりにグロテスクな感情の吐き溜めを少しでも増やすものだと思って話してくれないか、七美に」
晃雄はばつが悪そうに眉をひそめると、溜め息を吐いた。
その後、脚を組んだ太ももの上に頬杖を付き、そっぽを向いてしまった。
「お前らに話せるだけで十分だ。話の分かる奴なんざそんなにいらん」
「悪いが俺や京助のグロテスクな感情の容量はそこまで良いものじゃなくてね。そろそろ容量の限界が来る。俺に至っちゃあもう限界をゆうに超えてる」
少しでも気が紛れるようにと叩いた軽口だったが、逆効果だったろうか。
…と、晃雄は何かを閃いたのか、考え込んで縮めていた頭を少し上げる。さらに、晃雄は組んでいた脚を直して肩幅に開き、手を軽く握りこんで膝の上辺りに置くと、俺の方に向き直った。
さながら面接でも受けているかのように。大事な場面であるかのように。
「…成る程、俺の為じゃなく京助と七美の恋愛の手助けで手を煩わせる出来事を減らす為だな?」
うお、こんなところで頭が回るのか、と感嘆の声を漏らさずには居られなかった。
確かに、晃雄に学力がらみの話をすると気を落とす癖があるというのを七美に教えておけば、今後七美が京助に晃雄の前で勉強を教えて貰おうという気にはならないだろう。そうすれば、俺達が手助けをしている途中であの時のようなトラブルを起こすこともなくなるだろう。それも話を持ちかけた理由の一つではある。
だが晃雄を思っての事でもあるので。
「…半分違う」
自分の口から出たあまりに下卑た言葉に、自分でも卑怯だな、と思った。
晃雄は、その回答に「こりゃひでぇ」と素っ頓狂な声をあげて苦笑すると、肩の力を抜いて姿勢を崩した。
その顔は、綻んでいた。
「…なんて奴だ、お前は。―――分かった、七美に話そう」
「! よくいった!」
「『よくいった!』じゃないよ、全く…」
呆れたように顔をしかめ、また溜め息。
そんな顔を、部室のカーテンから漏れた鮮やかな陽光が照らしていた。
◆◆◆
「まあ、適当に椅子をとって座ってくれ」
俺がそう促すと、七美は近場にあった手頃な椅子を引っ張って腰掛けた。
姿勢は、早く話をしてくれと言わんばかりに前に重心を置いており、その表情も、普段身にまとっているほわほわとした雰囲気とは違い、どこか真剣そうだ。
俺は、こういう誰に対しても真剣になることができるというのが七美の長所だよなぁと、心中で感心していた。
この糞のたまり場みたいな学校に、こんな奴はなかなかいない。
俺は「長くなるぞ」と前置きをして、続ける。
誰にも言わないように、とも念を押す。
「今からする話は、晃雄の学力についてだ」
「…!」
七美が晃雄を見て今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。冗談でも自分が酷い事を言ったことに、申し訳なさでいっぱいになったのだろうか。本当に純情な感性の持ち主だ。
だが、泣くにはまだ早い。
「実は、晃雄の学力が低いのには、ちゃんとした理由があるんだ」
晃雄が身を震わせる。貧乏揺すりをし始める。恐怖、怒り、憎悪。その全てが、今晃雄の頭を駆け巡っているのだ。
「晃雄、話してやってくれ。自分の為にも、これからの為にも」
晃雄は俺の方を向いて軽く頷き、正面にいる七美の方に向き直る。
深呼吸。
そして晃雄は語り出した。あまりに理不尽で、どうしようもないお話を。
「あれは、俺が中学校の二年生の時の話だ」