第十九話 何時間、だ
食卓で、ズズ、とカップ麺を啜る音だけが広がる。他に音のなるような物も存在しないこの部屋にその音はよく響いて、溶け込んでいく。気を抜くとこの無性に気まずい空間に押し潰されそうな気がして、俺は癖でもないのに貧乏揺すりをしていた。何でもいいから、身体から音を出しておきたかったんだろうか。
「ビール……っくそ、痛え」
「……」
父さんがビールを取りに冷蔵庫へ向かおうとして、呻き声をもらす。見ると、潰されたビールの缶を踏んでしまったようで、足の裏から少し血が出ていた。
俺と、父さん。この家には、二人以外に誰もいない。脱ぎ散らかした服、連なったビールの空き缶、日に日に増えていく菓子のゴミ。学校から帰れば帰るほど、会社から帰れば帰るほど、その量は前日の二割増になっていって、ついには物を踏まずに移動できなくなった。
ビール特有の腐敗臭が部屋に充満して、カップ麺の味はよく分からない。そもそも醤油だったか、味噌だったか。とにかく美味しくない。スープにビールを大量に入れられたような味がする。息を止めて食べないと、今にも吐きそうだ。
「おい」
父さんに呼ばれ、目だけをそちらへ向ける。息を止めることに集中、集中集中――
「ビール、取ってこい」
「……わか、りました」
――できなかった。口に入れた麺を少し吐き出してしまう。
わかった、と言いかけて敬語に直す。これは単に父さんに怯えているからでもあり、「これからお願いごとをします」という暗喩でもある。直接切り出すのは、家族と呼べるか呼べないかの瀬戸際にあるこの間柄において、ハードルが高すぎる。
俺は足場を見つけて立ち上がり、すり足で転がった缶を蹴り倒しながら冷蔵庫にたどり着く。倒れた缶は耳障りに響き、床の汚れが足にまとわりついて気持ち悪いが、足の裏を怪我するよりはマシだ。
冷蔵庫からビールを取って父さんに渡すと、さっきの敬語の意味を理解していたらしく、こちらを見定めるように目だけを向けてきた。
「何だよ、何が欲しい」
「……スマホを買ってください。お願いします」
「……はぁ、時期が時期だしな。そろそろ要るのか」
こういう時、父さんに対してだらだらと要求の理由やら理屈やらを垂れ流すのは逆効果だ。父さんは俺と長い話をすればするほど不機嫌になって、後が面倒になる。
別に父さんは話が通じないわけじゃない。生きるのに必要な物は買ってくれるし、今回のようにある程度の嗜好品も買ってくれなくはない。
だが、家族と呼べるか呼べないかの瀬戸際にある俺と父さんの間に、無償なんてものは存在しない。対価が、必要だ。必要なんだ。
「……何時間、だ?」
父さんの目が、完全にすわった。何時間、と言われた。その事実が、その声が、その言葉が、自分の意識をごっそりと抉る。
自分の体はこれを合図にこうなるようになっている。こうなるように作りかえられた。俺が、遠ざかっていく。
「三時間、じゃダメですか」
「ぬるいなお前、スマホでその程度か。頭はお花畑か?」
無意識下で辛うじて絞り出した光を塵も残さず薙ぎ払われる。もう感情を残すだけ無駄だろう。
「八時間な、ついてこい」
「……はい」
◆◆◆
――痛い痛い眠い遠い辛い苦しい無理だ死ぬ眠い遠い痛い死ぬ苦しい痛い無理だ眠い辛い痛い遠い苦しい辛い死ぬ痛い遠い痛い無理だ眠い辛い痛い痛い死ぬ苦しい辛い苦しい痛い痛い眠い遠い辛い苦しい無理だ死ぬ眠い遠い痛い死ぬ苦しい痛い無理だ眠い辛い痛い遠い苦しい辛い死ぬ痛い遠い痛い無理だ眠い辛い痛い痛い死ぬ苦しい辛い苦しい――
「もうくたばったのか、このポンコツが!」
「まだまだ飽きたりねぇぞオラァ!」
「お前が犯した罪はこんなもんじゃねぇだろうが!」
「なぁ! 聞いてんのか!?」
「人の妻を、お前の親を殺した罪は重いって分かってんだろ!?」
「お前マジで害悪だわはよ死ねやボケが!」
「そもそも俺は反対だった」
「子どもがほしいなんて頭のおかしい提案はよ」
「だってよ、俺に向いてたあいつの愛が、どっかいっちまうんだぞ?」
「それだけで気が狂いそうになった」
「だがあいつの、妻の頼みとあっちゃ俺は断れるわけがねぇ」
「そんでできたのがお前、か」
「もっとマシなの生まれろや!」
「なんでこんな親不孝者に育っちまったんだよ!」
「お前はあいつから、金を、自由を、時間を、寵愛を!」
「命を、奪ったんだぞ!?」
「俺はお前をハナから愛しちゃいなかった」
「あいつの手前愛するふりをしていただけだ」
「お前を家族と認めた覚えもなかった」
「あいつから出てきたモノだと思って一生懸命俺の気持ちを抑え込んできた」
「あいつのモノとあればクソを食べろと言おうが喜んで食べただろう」
「そういう気持ちで俺はお前を見てきた」
「で、どうだよ」
「この惨状か、なあ?」
「クソより役に立ってねぇぞこの野郎が!」
「さっさとのたうち回って死んでしまえよ!」
「お前は死ぬべきだったんだよ! あの飛び降りの時に!」
「そうすればあいつは完全に俺の妻に、俺のモノになってたってのに!」
「あいつの遺言がなければ、今すぐ俺はお前を殺してるぞ!」
「お前は、生まれるべきじゃなかったんだよ!!」
――遠い辛い苦しい無理だ死ぬ眠い遠い痛い死ぬ苦しい痛い無理だ眠い辛い痛い遠い苦しい辛い死ぬ痛い痛い死ぬ苦しい痛い無理だ眠い辛い痛い遠い苦しい辛い死ぬ痛い遠い痛い無理だ辛い苦しい無理だ死ぬ眠い遠い痛い死ぬ苦しい痛い無理だ眠い辛い痛い遠い苦しい辛い死ぬ痛い遠い痛い――
◆◆◆
目が覚めると俺の頭の右にはスマホが置かれていて、それを取ろうとして差し出した手が真っ赤に染まっているのを見て俺は意識を失った。
三日、学校を休んだ。
つい最近ですが、ボクシングでは「10カウントを聞くと倒れやすくなる」と言われているのを知りました。自分も半年無更新のテロップが出たからといってそうならないようになりたいですね。
お久しぶりです、しゃぶしゃぶです。
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