第十四話 何と先の思いやられることか
雨がよく降っていたと思う。梅雨だし。
周りは、もうすぐ期末があるから、とかいって普段勉強なんて微塵もしないくせに、机にへばりついたまま離れない。引っ付いて乾いたチューインガムさながらの姿勢は、見るに堪えなかった。
まあ、かくいうそんな僕も数学の宿題に明け暮れていた。
僕の机には色々なものが散乱しているが、そのどれもが数学関連のものだ。数学Iか数学Aのどちらかの文字がどの本、プリント、ノートにも刻まれている。
この文字通り山のような散乱物に〝宿題〟とさえ明記されていなければ、僕まで乾いたチューインガムにならずに済んだのに、と僕は嘆息した。
「授業を聞いていれば分かるのに、どうしてこんなに念を押すかなぁ……」
誰にともなくそうぼやいて、僕は改めて机の上を這うように屈む。
まず最初に、僕は随分と時期のズレた中学校の復習プリントをやることにした。やっぱり深く考えないで問題を解けた方がストレスは溜まらないし、その後の問題の調子にも影響すると思ったからだ。
そうやって何気なくプリントに目をやって、点のように羅列された文字をどこともなく見つめる。先に文章題とかの面倒臭そうな問題を潰して効率を上げるためだ。
「えーと、なになに……?」
長方形ABCDの線上を秒速2cmで通る点Pと秒速1cmで通る点Qがある。辺AB=6cm、辺BC=8cmのとき、次の問いに答えよ。
そこから、色んな問題がひっきりなしに続いていた。やれこの関係をグラフに表せだの、やれ何とかの条件からそれぞれの開始点を求めろだの。
僕の口からは溜息と舌打ちが生み出されていた。
「……ちっ」
僕は、この問題が嫌いだ。
解けないとかそういう問題ではなく、ただ単純に、この問題が本質的に嫌いだ。
何故点P、Qは動くのか。もっと言えば、何故点P、Qは動こうとするのか。
この点達が移動してしまうから、僕達はこの問題を解く義務を背負わされてしまう。しかもこの点達に何か由々しき事態がある訳でもない。ただ出題者の軽い気持ちで、こいつらは移動してしまう、変わってしまう。
その変化の過程に、僕達の気持ちなんてどこにも介在しない。
まるで、高橋とひろ――いや、高崎みたいじゃないか。
高橋は僕達に気付かないところで腐ってしまった。変わってしまった。僕はそれを危惧して高崎を取り巻く環境を何一つ変えないように裏で尽力した。汚い金だってあらゆる場面で使った。なのに高崎はその恩恵を自分で断ち切って――。
いつ高崎が高橋みたいになってしまうか気が気じゃなかった僕の気持ちなんて、どこにも介在しない。
変わってしまえば、もう取り戻せないんだ。それを悟るのに、それほど時間は掛からなかった。
僕はその日、家に置いてあったストーリーの原案が書かれた紙を無心に引き裂いた。きっと僕の決心の表れだと思う。
〝変わったものを嘆くだけ無駄だ〟という決心の。
◆◆◆
それから数日、何気ない日々の一つになるはずだった日のこと。
僕は傍らにあった鞄をかっさらって、そそくさと教室を出た。待ちに待った、というのも少しおかしいと思うが、とにかく今日は放課後までの時間を長く、長く感じられた。
「まさか、こんな僕に……」
と、口が勝手に動揺を露わにしようとして、慌てて止める。その代わりに、脳裏を焼いて頭の中に記憶の跡をこびり付けた言葉が、本日何度目かの疼きを訴える。
〝一目見た時から、貴方のことが気になって仕方がありませんでした。差し支えなければ、今日の放課後、屋上に来てもらえませんか?〟
心臓が痛いほどに蠢く。ハンマーで何度も殴られているかのように。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
無心にその痛みを堪えていると、見慣れた屋上のコンクリート一面の景色があった。
無性に待ち切れなくて、僕は夢じゃないだろうかと鞄をまさぐり、やっぱり入っていた可愛らしい封筒に安堵と緊張を同時に味わう。そんな奇妙な感覚を繰り返して「十」と口を動かした頃に、彼女は来た。
「……三ツ橋、さん」
「うん、京ちゃん」
僕がそう声を掛けると、三ツ橋さんはその優しさを湛えた笑顔を僕に向けてくれる。
今までに湧き上がったことのない、苦しい何かが胸の辺りから身体の全てに浸透してくる。そうして全身に行き渡った嘔吐物のような違和感は、今日の生活ですらままならない程に、どうにかして取り除きたいものだった。
「どうして、ここに?」
僕は会話の能力に乏しいと感じたことは一度もなかったはずなのに、言葉と言葉の間に生じる隙間が頭の悪そうな印象を与える。
「やだなぁ、流石の京ちゃんでも、わかっててほしいよ……」
表情は一転、優しさは途端に悲哀の色を醸し出した。
どうにかなってしまいそうだった。この全身を巡って僕を殺してしまいそうな鼓動と、今までの僕の鈍感すぎる前科に対する罪悪感で。
七美の開く口が、妙に麗しく見えた。
「西野、京助くん。私は、貴方のことが好きです。こんな私ですが、付き合ってくださいっ」
――僕達を包む世界は、こうも美しく、賢しく、愚かに見えたのか。
浮遊感は脳を溶かし、衝動は平衡感覚を崩し、涙は僕の瞳を洗い流す。
僕がついさっきまで纏っていた嘔気も、僕を悩ませた数学の宿題も、僕の心を引っ掻き回していた高橋や高崎も、全てがどうでも良くなった。
「――ッ」
その撒き散らされた関心の矛先は、空中のある一点で重なり合い、爆弾のように弾けた。
梅雨によってグラウンドに出来上がった巨大な水溜り。その辺りを蟻のように律儀に避けて進む生徒達。その中で痺れを切らして水溜りを横切り、グラウンドの状態を崩していく荒くれ者。
美しく、賢しく、愚か。その真理の一端を、僕の瞳は捉えたような気がした。
では、その関心の爆心地、真理を超越したその一点はどこで発生したのか。
それは紛れもなく、目の前の愛くるしい少女――三ツ橋、七美さん、だ。
「……ありがとう」
こんな綺麗な世界を見せてくれて。
「今、僕はとっても嬉しいんだ。告白が、僕の全部の悩みを吹き飛ばしてくれた。すっごく、清々しいよ」
どれ程の感謝の言葉を重ねても、足りない。
だから、僕はそのお礼を目の前の少女のお願いを了承することによって、囁かながらの清算をしたいと思う。
「七美さん――」
そう呼ぶのに、忌避感は微塵もなかった。
僕は関係が変わるのが、たまらなく嫌いだったはずなのに。高橋や高崎のように、ロクな事がないかもしれないのに。
きっと、その理由は。
関係の〝改悪〟じゃなくて、〝改善〟だからだろうと、僕は思ったんだ。
「こんな僕で良かったら、よろしくお願いします」
「……ッ、うん、う゛ん!」
七美さんが、可愛らしい嗚咽を漏らしながらその優しさを湛えた笑顔で返事をしたのを見て、僕は目の前を抱きしめた。
◆◆◆
「……今思い返してもむしゃくしゃしやがる」
「どうしましたか、高崎くん?」
「いや、何でもないです」
胸焼けが、話の内容とは対極的に俺の気分を深く沈める。
俺は今、留年の手続きを済ませ、これから入るクラスに軽く自己紹介をするために、そのクラスの担任である永沢真という先生に連れられて俺のクラス――二年四組に向かっていた。
周りからの視線は、今は特に無い。これといった先輩風を吹かしていなかっただけあって、俺を先輩と呼ぶ人間はどこにもいないのも頷ける。
だが道すがら、留年した生徒が今日自己紹介に来て、明日から本格的に授業を受け出す、という糧の噂話を小耳に挟んだ。その話の最後あたりは、大抵が、笑い声で締められていた。
まあそれも仕方ないだろう、何せこの学校には珍しい留年した生徒だ。多少のゴシップは覚悟の上――。
「きゃっ」
「おっと、すまん」
誰かが俺の肩にぶつかってきた。恐らく俺が考え事をしていて前を見ていなかったのが悪いのだろうと思い、謝罪をする。
「ぁっ、はぃ、こちら、こそすいません……」
彼女は、今にも息絶えそうなか細さの声を出して返事をすると、そのまま走り去っていく。
「今のが、うちのクラスの須藤さんですよ」
永沢から補足の説明が入る。それを聞いて、何となく教室に入りづらくなってしまった。次に会うのが気不味い。
どうしようもなく悶々と悶えていると、〝二年四組〟と書かれた看板の元に着いた。
「……っと、じゃあちょっと先生は君について話をするので、呼ばれたら入ってください。いいですか?」
「わかりました」
そういって永沢は、前の引き戸から教室に入るやいなや生徒に声を掛けて喧騒を鎮めていく。
こうまで俺という人間に注目してしまう環境を作られると、羞恥というよりは緊張をせざるを得ない。何となく、視線の檻に囲まれたような気分になって、口車の滑りが悪くなってしまう。
件の悪癖で、そんな内容の独り言をぶつぶつと呟いていると、さっきのぶつかった人――須藤さん、が後ろの引き戸から教室に入っていくのが見えた。軽い会釈をしたが、気付いてくれなかった。
「何と先の思いやられることか……」
俺はちっぽけに溜め息を吐く。
俺は、これからいい思いをするのかもしれないし、良くない思いをするのかもしれない。だが、あれ程の絶望を味わって、未だに精神力の弱いオタクとして活動していたのでは、絶望に失礼というものだ。経験は、しっかりと生かしていこうと思う。
「高崎くん、どうぞ」
俺は、俺を一新するべく、最初の一歩を気持ちだけ強く踏みしめた。
に、二ヶ月更新してないっていうテロップは出さずに済みました……。
どうも、遅れてすいません、しゃぶしゃぶです。
今回も読んでいただきありがとうございました。
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