お狐さまと霊感ちゃん
登場人物:九尾の狐と女子中学生
「お邪魔します」
日差しが突き刺さるような暑い日、蝉がうるさく喚く境内に、足を踏み入れる人影があった。私だ。今日は濃紺のマキシワンピに、学校指定の真っ白い運動靴を履いて、灰色のマリンキャップを浅く被っている。確か去年も同じ格好だった。靴なんて二年前から変わっていない。服も靴もサイズが変わらない上、運動しないと靴は傷まないからだ。おかしい。のびるのは傷んだ服の襟ではなく、身長だったはずなのに。いつから芋女になったんだ、私よ。
閑話休題。
「お狐さま、いませんか」
独り言より小さいボリュームで尋ねて、あちら、そちらと周りを見回した。反応がない。こてりと首をかしげる。後ろで結わえた髪が水のように揺れた。これが鬱陶しい。いっそワカメちゃんのようなおかっぱにしたいのだけれど、友人は勿体無いという。気迫があっていいのに、と。そんなの断じていらない。しかし以前おかっぱにしたいと言ったときは、全く親しくもないクラスメイトに「想像したら小芥子みたい」と言われた。ひどい言われようだ。ほんとそれな。
とにもかくにも、さておくとして。話が逸れていけない。
ぱちくり。瞬きをして、今度は大きな声で呼んだ。
「お狐さま、いませんかー!」
またも沈黙。全くあの人は。ため息をひとつはいて、社の供物台に、持ってきた油揚げを乗せた。
瞬間、足元をかすめて供物台に走る影。置いたばかりの油揚げがサッと掠め取られた。食いしん坊め。
「こんにちは、お狐さま」
「……お前ねえ、もう少し静かにできないのか」
「お狐さまはもう少し落ち着いて食べられないの」
にこりと笑って、供物台の上で夢中で油揚げを頬張る狐の頭を撫でてやる。お狐さまは私を一瞥して「フン」と鼻を鳴らすと、また食事に戻った。お礼の言葉もなしか。
あっという間に油揚げを平らげて、お狐さまは満足そうに尾を揺らした。先端が真っ白の、九つに割れた尾を。
「それで、こんな暑い日になんのようだい」
「別に? そろそろお腹を空かせてるんじゃないかと思って」
「俺は野良猫か」
「近所でこっそり飼ってるようなヤツね」
自分の言葉にケラケラと笑って、地面に座り込んだ。日陰の石畳は冷たくて気持ちがいい。正面にお狐さまが飛び降りて、足を揃えて座った。さながら稲荷神社の狐だ。残念なことにここはそんな大手の神社ではないし、これもそんなご利益のある存在ではないけれど。
「大体、だ。以前から言おうと思っていたけれど、狐は別段油揚げが好きなわけではないぞ。一般的な主食は昆虫類だ」
「毎回平らげたあとに言っても説得力ないよ」
「貰えば食べる」
よくもまあ。
「結局雑食じゃない。そんないっぱい尻尾はやした化け狐が、昆虫なんかでお腹いっぱいになったりしないでしょ」
揺れる尾を掴もうと手を伸ばすが、ひらり、ひらりとスレスレのところでかわされる。こいつめ、煽ってやがる。
「油揚げでも大して腹は満たんさ。ただそうだな、添加物はうまい」
「デブみたいなこと言うな。お狐さまはそれなりの美男なんだから、もう少し好印象持たせるようなこと言ったら? それと、そんなひと目で妖怪だってわかるような見た目より、化けてる時のほうが絵面がいいよ」
両手の親指と人差し指で四角を作り、その中から狐を覗き込んで笑った。カメラマンのポーズ。もしくは芸術家のポーズ。
「人のナリよりもこちらの方が、お前は撫でてくれるだろう」
お狐さまはててっと近づいてきて、私の掌の下に頭をねじ込んだ。甘え方を心得てやがる。可愛い。
「お狐さま、一年中毛の量変わんないね。夏は暑苦しくて仕方ないよ」
といいつつ、まんざら嫌ではない。お望み通り毛梳きをしてやる。暑苦しいだけで暑くはないのだ。夏場、お狐さまはなぜだかひんやりと冷たかった。妖だからだろうか。
「うん、それでも撫でるんだろう」
お狐さまは気持ちよさそうに体を揺らす。私はこの、心底脱力した声が好きだ。
「お狐さま、そうしてると可愛いのにね。発言がちょっと残念だよね」
そう言うとだらりと地面に垂れていた九尾すべてがピンと持ち上がって、私の手を叩いた。
「あいたっ、ちょっ、ひどい」
照れているのか怒っているのか。
「ふん」
せっかく撫でていたのに、するりと抜け出されてしまった。
思わず苦笑する。本当にこの人は。
「いじけないでよ。ほら」
両手を広げてやれば、しばらくそっぽを向いていたが、無言で腕に収まった。本っ当にこの人は。これで狙っていないのがかえって腹立たしい。
単純さで言えば一本尾の狐と同じか、それ以下のレベルだ。残りの八本には、夢と希望と脂肪と煩悩でも詰まっているのだろうか。なんにせよ複雑な思考回路なんかとは、無縁のものであるに違いない。
また撫で始めると何も言ってこなかったが、三本の尾がゆらりと揺れた。
ふわりと尻尾に触れる。今度はかわされずにさわれた。勝った、と思った。
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「お狐さま、どこか行こうよ」
「もうすぐお盆だろう。お前、出かける気かい」
「ああ、そっか。今日はぎりぎり十一日なんだっけ。しばらく顔出せなくなるね」
一世一代のデートの誘いは、悲しいかな、年中行事の前にあっけなく敗れた。
お盆と彼岸に出歩くのは危険だ。その時期はありとあらゆる霊や物の怪が、街のそこかしこに溢れかえるから。
九尾の狐も見える私は、幽霊なんかもよく見える。下手な反応をすれば気に入られて、連れて行かれるのだそうだ。
おかげでお盆旅行なんて夢のまた夢。根性でなんとかなるのも墓参りがせいぜいだ。
「次に会えるのは十七日かぁ。遠いね」
「祭りは十六にあるらしいな」
「それ。納得いかない。毎年毎年盆真っ盛りに祭りされたんじゃ、全然参加できないってのよ」
「盆踊りなんだから当たり前だろう。一度行ってみたらどうだい。案外いけるかもしれない」
お狐さまは冗談めかしてそんなことを言う。
もちろん行ってみたことはある。やぐらの周りは人、人、人。地面が少しも見えなかった。言うまでもなくそれの半数以上は、現世をつかの間エンジョイしている死人の皆さんだ。
「目に飛び込んでくる浴衣姿の半分が、合わせが逆だった」
「死人も混じってこその盆踊りだからなあ」
「そんなの参加できるわけないじゃない。盆過ぎてから踊ろうや」
「無茶を言うな」
珍しくお狐さまが笑った。低く堪えるような笑い声。単品では素敵なのに、見た目とのギャップでマスコットみたいだ。当の狐には絶対秘密だけど。
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「さて、そろそろ帰るね」
立ち上がって裾をパンパンとはたく。お狐さまが先導するように鳥居に走って、振り返って私を見た。
「しばらく油揚げもなしか」
「なんだ、やっぱり好きなんじゃない」
「――お前は察しが悪いねえ」
呆れ返ったように息を吐かれた。
「なにそれ。ちゃんとわかってるって」
私そこまで鈍くないよ。次に来るときは油揚げを三枚持ってきてあげよう。
鳥居をくぐって、見送ってくれるお狐さまを見下ろす。
ふと、口が滑った。
「お狐さま、もしも私が幽霊とか見えない普通の子になったら、一緒に夏祭りに行こうよ」
冗談半分の、効力のない約束。暑さのせいか、しばらく会わないと思ったからか。
「ああ、いいとも。その時お前が、まだ俺を見ているのならね」
お狐さまは、なんでもないように怖いことを言う。
お狐さまを映さない瞳。そんな、想像も否定もできないような、心底ゾッとしない想定。
「私、半分本気だからね」
「俺は一人と半人分本気だとも」
「私の分と、合わせて二人だ」
律儀なお狐さま。一瞬あった目線は、どちらともなく逸らした。
「――見ていたいねぇ」
二人分の乾いた笑い声が、湿っぽい鳥居の下によく響く。
「それじゃあ、また」
「盆の間は、さようなら」