拝啓 闇の中から毒牙が見えた(Aパート)
帝国貴族バルトリン家は、長年羊毛の取引ルートを管理してきた実績のある中堅貴族である。皇帝暗殺に端を発する十年前の内戦に、当時の当主デント・バルトリンは病気のため参戦しなかったが、それが功を奏した。結果的に収入源である羊毛取引権利は守られ、帝都であるイヴァンに一家は移り住むことができたのである。
ほどなくして、デントは亡くなった。もともと病弱だったとも、皇帝の敵討ちという大義名分の掲げられた内乱に参戦すらできなかったことからくる心労が原因ともいわれている。
よくある話であった。
帝都イヴァンには無数の中堅・弱小貴族がおり、誰もかれもが後継ぎや相続に頭を悩ませている。若くして当主が亡くなり、若い男子をなんとか確保しようと養子縁組をするのも普通の事だ。若い女を後妻に迎え、男子を生ませようということも。
「羊毛取引権を?」
羊毛ギルドを統括するギルド長、ダンケルはその申し出に困惑していた。取引権はほとんど世襲制と化しており、全くの新規業者は取引権を持つ一部の豪商や貴族の下につくほかない中、取引権を得るということは利益を抜かれることなく直接羊毛の取引が可能となることを意味する。
つまり、金になる。それも莫大な金だ。
「金貨千枚は下らない額でしょう? 欲しがる人も大勢いるはずですわ」
椅子に座った女に、ダンケルは何と言ったものか迷っていた。金髪のロングヘア。赤いドレスのスリットから長く白い足を組み直す女の姿。手には煙管から紫煙が揺らぐ。
「夫人。……それは世間が許さんでしょう」
「世間。……それは、どういう意味ですの?」
「あなたは未亡人になったばかりだ。それに、ご子息のイーライ殿がいらっしゃる。順当に行けば、イーライ殿にも相続権があるでしょう」
貴族社会は、世襲制である。長男、もしくは例外的に長女が家督を継ぎ、同時に財産を受け継ぐ。後継ぎがいない場合などは、行政府へ返還することもあるが、大抵はそこまで切羽詰まった状況になることはない。
「確かにあの子はあの人の子供。でも所詮子供でしょう? 金の何たるかなど、わかるはずがない。わたくしが有用に使うことが、あの子の幸せにつながるのですわ」
灰皿に煙管の先を叩きつけ、夫人は灰を落とした。ダンケルは腕組みをして、深くため息をついた。確かに取引権は欲しい。新規業者に売れば、彼女の言う通り莫大な金が転がり込む。
「……ダンケルさん。わたくしが世間知らずの女だとお思い?」
瞳と同じ色の紅を塗った唇に指を触れながら、夫人は言う。確かに夫人はそのような女ではない。彼女は念入りに準備を整えて、何もかも成功させてきた。今回も、そうなるのだろう。
「……あなたの商売のおかげで、私もずいぶん儲かりました。今や私もギルド長、多少はあなたのために、恩返しもできましょう。それに、あなたの言うことに間違いはないのでしょうからね」
「そういうことですわ」
夫人は紫煙を漂わせながら笑った。彼女は自在に名前を変え、立場を変えてきた。ただ自らの利益のために彼女は生きてきた。今回も間違いなくそうなるだろう。
「経費削減ですって?」
帝都イヴァンの中央部、政府関係機関の庁舎が立ち並ぶ中に存在する、帝都内の治安維持を担当する憲兵団内部では、嵐が吹き荒れようとしていた。
憲兵官吏の一人であるドモンは、飲みかけていたコーヒーカップを危うく落としかけるほどの衝撃を受けた。
「マジっすよ、先輩。……ここだけの話、経費どころか人員を削減するって噂もあるんすよ」
金髪オールバックに、そり落とした眉という強面の後輩・ジョニーも若干顔を青くしながらそう続けた。噂好きな彼はこうした眉唾物の噂をたびたび仕入れており、ドモンにも教えてくれるのだった。
「人員を削減するって……今以上に人を減らしたら、それこそうちの仕事なんか回らなくなりますよ」
憲兵団に所属する憲兵官吏は二十数名、きつい仕事のため入れ替わりも激しい。ドモンのように、憲兵団だけで勤務を続ける人間もいるにはいるが、騎士団や遊撃隊といった他の機関への出世を望むものもいる。そうした中で、憲兵官吏たちは広いイヴァンを限られた人数で見回り、犯罪を取り締まらなくてはならないのだ。
やっていられない。
正直なところ、憲兵官吏達が思う仕事への感想がそれである。よって、彼らの勤務態度はおおむね悪いし、賄賂も取る。
全員が全員そういうわけではないが、『そういうもの』だと思っているし思われている。
「上の人たちが考えることはわからないですよね」
学者めいた雰囲気の、金髪巻き毛の憲兵官吏、メルヴィンもその輪に加わった。気弱そうな彼は、現在総務班の備品管理係を担当している。ドモンと並ぶ、憲兵団のお荷物扱いである。ドモンはため息をつき、おさまりの悪い黒髪をかきあげた。
「わからない? あのねえ、メルヴィンさん。上の人たちはやると言ったらやるんですよ。そうなるとどうなると思います?」
「どうなるんでしょう」
メルヴィンはにへら、と笑みを浮かべるばかりだ。もともとが貴族の三男坊で、どこか能天気で抜けている。荒事にも向いていないし、なぜ憲兵団にいるのかよくわからない男である。
「ぼくやあなた、それにジョニー君。とにかく憲兵団の誰かが、わずかな退職金で放り出されるってことですよ」
「その第一候補は君だけどね、ドモン君」
そんな三人組に──特にドモンに冷ややかな言葉を浴びせたのは、筆頭官吏のヨゼフであった。怜悧な瞳はまるで見下すように、一直線にドモンを見下ろしている。
「ヨゼフ様、まさか御冗談を……」
「冗談じゃないよ。今期に入って君の成績は憲兵団最下位だよ、最下位。ぼくだって、憲兵官吏を無駄に減らしたかないよ? だけど、無駄飯喰らいを置いとく理由もないの。簡単な理由だよね」
ヨゼフは自身の大きな顎をさすりながら、こともなげに言った。彼にとってみれば厄介払いにはちょうどよいということか。ドモンはメルヴィンとジョニーを押しのけると、慌ててヨゼフに近寄り、彼に手を合わせながら必死に懇願し始めた。ここでクビになれば、妻のティナや同居中の妹のセリカになんと言えば良いのかわからぬ!
「ヨゼフ様、そこをなんとかなりませんかねえ……いや僕だって、無駄飯を好きで喰らってるわけじゃありませんし」
「だから、冗談じゃないんだよ。憲兵団には無駄が多すぎると、団長も嘆いておられるからね。君達の下世話な噂話通り、誰か切ってそれで済むなら、それに越したことないだろ」
「そんなあ、小官は口うるさい女房と出戻りの妹を抱えているんですよ。僕がクビになったら、一家全員路頭に迷ってしまいますよ」
あまりに露骨に腰低く懇願をつづけるドモンに、あきれたようにため息をついて言った。
「……そんなに手柄を挙げたいなら、誰かと一緒に事件に当たればいいじゃないか、ドモン君。ま、キーラー君にでも手伝ってもらったらどうだい。彼の成績は最近特にいいからね。じゃ、せいぜい頑張ってくれたまえよ」
無常なる言葉の連続に、ドモンは立ち尽くすばかりだ。振り返ってジョニーやメルヴィンを見ると、すでに彼らは各々の仕事へとそそくさと戻っていた。誰もかれもが、自分の保身に忙しいのだ。恨めしそうにドモンは机に立てかけていた大小二本の剣を取ると、腰に帯びた。目指すは、キーラーのデスクである。ジャケットと同じ白髪頭の、気難しそうなベテラン憲兵官吏、それがキーラーであった。騎士団での勤務経験もあり、憲兵団きっての切れ者という噂だ。
「あのう……」
「なんだ、ドモン。私は今非常に忙しいんだが」
キーラーは、おそらくは資料室から持ってきたのだろう羊皮紙を広げながら、ち密なメモを作成しているところだった。彼はかなりの几帳面な男で、何をするにしてもメモやチャートの作成を欠かさないのだ。
「貴様、いい加減寝癖を直さんか。気分が悪くなる」
「や、すいません。こればっかりは文字通りくせのようなものでして……それより、キーラーさん。さっきの話、聞こえておられたでしょう。どうにか、なりませんかねえ」
ドモンはおずおずと顔色を窺うようにそう言った。キーラーの眉間の深いしわがさらに深くなっていったが、ドモンは引かなかった。この男の成績は非常に良い。ちょろちょろと食いついていれば、おこぼれにあずかれるやも知れぬ。
「……別に構わん。人出が多ければ捜査の仕方に広がりが出るしな」
「本当ですか! や、それはありがた……」
表情を明るくしたドモンの目の前に、キーラーは手を差し出した。掌の上に載っているのは、何やら白いクリームの入った小瓶である。
「ワックスだ。この私と一緒に出歩くのであれば、身なりをただすことだ。その海藻のような頭で私の隣を歩いてみろ。きれいにすべてそり上げてやる」




