拝啓 闇の中から跡目が見えた(Cパート)
「すると、なんですか? 僕に死ねってんですか?」
憲兵官吏の白いジャケットの袖口に、両手を突っ込んだまま、ドモンは何度もあくびを繰り返した。急に路地裏に引っ張り込まれたかと思うと、目の前には見上げるようなアリエッタの姿があったのだ。聞いてみればろくでもない話なので、断ったというところだ。
「死ねなんて言うわけないでしょう、ドモンさん。わたしは、憲兵団がアスタ・ファミリーとやらに一言バザーの邪魔をしないよう言ってもらえないかと言ってるだけで」
「あのですねえ、いいですか。あんたあのアスタ・ファミリーがいまどんな状況かわかってんですか。ビッグボスっていうやつらの大ボスが亡くなって、跡目争いなんてまだ優しいもんです。実際にやってんのは、新しいボスのいうこと聞かない奴らの虐殺、粛清ですよ。そんな末恐ろしい奴らの巣に飛び込んでいって、言うに事欠いて『バザーの邪魔をしないでもらえませんか?』ですって? 寝言は寝てもらってからお願いしますよ、アリエッタさん」
アリエッタは財布を出し、なけなしの生活費である金貨一枚を取り、付き出した。ドモンはおさまりの悪い黒髪をがりがりかきつつ、それを断った。命がいくつあっても足りない。
「‥‥分かりました。本来であれば私にしてあげられることなど少ないのですが、あのバザーを守らねばなりませんから。‥‥‥揉んでよろしいですよ」
「‥‥何を?」
「‥‥ですからその、胸を‥‥本来はあなたのような年のいった方には触れてほしくもないのですが」
「あのですねえ、バカも休み休み言ってくださいよ。あんたの胸何回揉んでもキリが無いでしょうが! だいたい僕はあんたより年下ですよ!」
「そう言わず!」
アリエッタがずいずいと近づいてくるのを、ドモンは裏路地を抜けるように逃げていく。人気の少ない表通りに出たところで、アリエッタは再び言った。
「私の身体一つであのバザーが救われるのなら、安いものです!」
「だから、馬鹿なこと言ってんじゃ‥‥」
買い物かごが落ち、果物が地面に転がった。二人の前に女が一人立っていた。その表情はやがて悲しみに変わり、怒りとなった。直後、ドモンの頬に痛み! ビンタされたのだ!
「あなた! け、憲兵官吏がシスターのか、身体を!!」
怒りのあまり言葉に詰まっているのは、誰あろうドモンの妻、ティナであった!
「えっ、いや、その、これは、誤解‥‥」
「これが一体どう誤解だというのですか!!」
鼓膜が破れんばかりの大音声! ティナの小さな体から、どのようにしてここまで大きな声が出るのか、ドモンにはまったく理解が及ばない!
「そうですか! その胸が豊かそうなシスターのほうが、私より良いと仰るのですか! そうでしょうね、わたしの胸はほとんどありませんからね!」
「別にそうは言っちゃいませんよ‥‥」
「言いました! もう結構です! しばらく実家に帰らせてもらいます!!」
ドモンが手を伸ばすも、彼女の姿はすでに遠ざかっていた。いずれ家に戻れば、妹セリカからの叱責も重なるだろう。なんたることだ。ドモンは深い隈に覆われた恨めしそうな目をアリエッタに向ける。
「‥‥どうしてくれるんですか」
「神は超えられない試練はお与えにならないかと‥‥」
アリエッタの言葉に深いため息をついたあと、ドモンは思い出したように言った。
「アスタ・ファミリーのとこに行く気は無いですけど、胸揉ませてください」
「嫌です」
帝都西地区、自由市場ヘイヴン。ここでは、各地から商品を携えてきた行商人や、職人たちが自由に商品を並べ、取引を行っている。
「隣になりましたね」
傘屋のレドは、見かけた顔にそう言い、わずかに微笑んだ。サニーは硬い笑顔を浮かべる。どうにも、いつもの元気がないようだった。
「どうかされたんですか」
「レドさんは、アスタ・ファミリーをご存知ですか」
サニーのような少女から、あのようなヤクザ集団の名前が出るとは意外だった。レドにはいろいろと裏の顔がある。独自の情報も持っている。いずれにしろわかるのは、今の奴らはろくでもないやつらばかりということだけだ。
「先日大教会のバザーに参加したのですが、その人たちが因縁を。どうしても続けたいのなら『挨拶』をしろというのです」
「穏やかな話じゃないですね。それにあなたのような人が、あんなヤクザ者たちの巣窟に飛び込んでいく必要はないのでは」
サニーは目線を下に落とし、パイプを拾い上げた。自分の力で全て作ったものだ。彼女の腕はもう十分一流に達している。
「あのバザーは、大教会に会場が移る前から、わたしが未熟な頃でも参加を許してくれました。本来なら、チャリティですからお金は全て喜捨せねばならないところ、あのバザーの参加者のご厚意で売上を少しだけとって、おじいちゃんも私も食事に困らずに済んだんです」
義理堅いことであった。たったそれだけの恩義を返すために、彼女は死にに行くような真似をしようというのだ。無茶もいいところであった。
「やつらが約束を守るとは思えません」
「それでも、行かなくちゃいけないんです。わたしが挨拶に行くことで、バザーが守られるなら」
あまりにも無茶で、悲壮すぎる覚悟であった。レドはそれ以上言葉を挟むことかなわず、彼女へその他のことは話さなかった。
「代替わりの影響はどうだァ?」
ライタは二代目のビッグボスとは名乗らなかった。彼にとってビッグボスの名前は魅力的であり、十分尊敬に値した。しかしそれは表面的なものに過ぎない。親として、偉大なるボスとして、彼の父親は長く君臨し続けた。ならば、それを超えるために彼がすべきことは何か?
「ボス、クリーブランド・ファミリーはこちらにつくと。ハタナカ・ファミリーはダメでした。若い連中を殴り込ませて、ハタナカの首は取りました。これで、おおよそもとのアスタ・ファミリーの五割が傘下に入り、二割が粛清されたことになるかと」
下から上がってきた報告を淡々とまとめて伝えるのは、サングラスで目元を覆った男、ベネディクトだ。彼はライタの右腕とも言える男だ。尊敬の証として、ライタと同じブロンドに髪を染めている。義理堅い男だ。ライタには、彼のような命を賭けて忠を尽くす仲間がいる。そして彼も、それに答えようとしているのだった。
「よくやった。殺ったヤツにはハタナカ・ファミリーのシマをくれてやれ」
「伝えておきます。それよりボス、レイブンの野郎が戻ってきてますが」
ベネディクトは眉をひそめつつ言った。レイブンは思慮の足らない男で、とにかくすぐ暴力に訴える男であった。リーダーシップはあるのか、何人か従えてはいるのだが、秩序の維持をよしとするビッグボスの時代にはあまり重用はされなかった。
しかし今はこれほど有用な人材もいない。
ライタが目指すのは、彼のような荒くれ者達が自由に生きられる世界だ。秩序だった世界で虐げられた者達が、暴力で身を立てる世界。ビッグボスの息子であることは、それだけで秩序だった世界の構築を求められる。ライタの考えは違う。裏社会に秩序もなにもあるものか。あるとしたら窮屈で仕方ない。楽しい方がいいに決まっているのだ。
「ボス。失礼いたしやす。大教会のバザーの件ですが」
「確かにおれはビッグボスの世界を壊せといったが」
ビッグボスの秩序ある裏社会を破壊し、混沌ある裏社会へと戻す。それは今ある社会からの脱却であり、革命であり、決起そのものであった。亡き父への尊敬があるからこそ、一度すべてを破壊せねばならないのだった。
「あんな小さいバザーをどうこうしようと変わらんだろ」
「たしかにあまり金は入らないかもしれませんが、それとこれとは別ですぜ。俺達に歯向かってきた連中の中に、いい女が二人もいやがったんです。バザーを続けてえなら、ボスに挨拶しろと言ってやりました」
ライタはほお、と興味ある風な態度を見せた。女は良いものだ。何人いても構わない。古今東西、いい女に彼は目がないのだった。
「一人は少々背が高えし、年増な風なんですがね。そそる肉づきのシスターです。もう一人が、銀髪の若え女でね、鼻っ柱が強そうな、いい女なんです」
「悪くねえなァ」
「ボス!」
たまらず二人の間に、ベネディクトが水を差した。今は、大事な時期だ。ライタはもはや、帝都イヴァンの新たな支配者として、ビッグボスより強固な地盤がためをしなくてはならない身だ。女漁りなどしている場合ではない。
「あなたはそんなことしてる場合じゃないんですよ」
「ベネディクト。確かに今シマを固めて仲間を増やすのが大事だってのは分かる。だが、そのためには俺がスゴくてイカしてるってのが前提だ。男っぷりのねえボスになんぞ、誰もついてこない」
レイブンはその言葉にその通りだと拍手したが、ベネディクトは複雑だ。時間をかければ、ビッグボスの秩序を支持する側が、新たな「ボス」を立てて、ライタに対抗し始めかねない。
その前に、引き込める仲間やシマ、そして金をひきこむ必要があるのだ。
「ボス、ならまずリンクスに確認させましょう」
「あいつに? 枯れた爺だぞ。女の良し悪しが分かるのかァ?」
ベネディクトの提案に気分を害したのか、座っている椅子から足を伸ばし、デスクにどんと置いた。
「ヤツはビッグボスの右腕です。‥‥あんたの右腕ってことにもなってるんです。それを何もさせずに自宅謹慎させるなんて、すでに傘下に入った他の古株が良く思いません」
ライタが一番初めに行ったのは、古株の中でももっともビッグボスに近い忠臣であったリンクスを遠ざけることであった。彼はライタに文句ひとつ言わなかった。しかし、彼が言わずとも、いずれビッグボスを支持する者達が、リンクスを担ぎ上げることも考えられた。予め排除せねば、いずれ脅威になる。ゆっくりと、そして確実に、リンクスをファミリーの中心から外していった。幹部連中には、その事実すら気づいていないものもいるだろう。しかし、今のアスタ・ファミリーの中には、リンクスという良心は失われて久しい。
「何か仕事をさせるべきです。その日がくるまでは、ヤツは組織の大幹部だ。それにヤツの忠誠心は、ビッグボスの息子であるあなたにも及んでいる。‥‥少なくとも裏切ることはありえません」
「なるほどな。ま、怪しいもんだが‥‥ベネディクト、手配しろ」
サニーは自宅に戻り、いつものようにパイプのパーツごとに木製部品を削り出し始めた。魔導式回転旋盤は便利だが、細かい部分の削り出しは手作業だ。根気のいる作業だが、サニーにとっては楽しい時間だ。
「‥‥すまんが、水をもらえんか」
「ああ、ごめんねおじいちゃん」
デイブの調子は良いようだった。最近は杖があれば歩くこともできる。長くは続かないだろうが、サニーはせめてデイブの最後の瞬間まで見届けたいと考えているのだった。
「すまないが、誰かいるかな」
厳しい老人の声であった。サニーはデイブに水の入ったカップを渡し、扉を開けた。
「やあ、すまない。君がサニーかね」
総白髪の長髪に、整えられた口ひげを蓄えた男であった。サニーがそうですが、と返事した途端、男は遠慮もなしに部屋に入っていった。
「狭い部屋だが、良い所だ」
「誰ですか、あなたは。‥‥帰ってください」
「そうもいかん。俺もアスタ・ファミリーの者としてケジメをつけねばならんのでな」
アスタ・ファミリー! 突然の来襲にサニーは身を固くする。しかし彼女はただのパイプ職人、削り出し用の彫刻刀程度しか武器は持ち合わせていない。この老人はそんなものではなんともならぬと思わせるだけの凄みがあった!
「リンクス。おまえ‥‥リンクスか」
はっきりとした口調であった。デイブの言葉に間違いない。サニーがそれを聞き間違えるはずもない。しかし、いままで暮らしてきた祖父が、こんなにもはっきりと喋っただろうか。
「なぜ俺の名前を」
「なぜ、と言われてもな。魔法が解けるのは、お前の顔を次に見たら。そういうからくりだとお前言わなかったか、リンクス」
「‥‥まさか。まさか、そんな! あなたは、三十年も昔に‥‥」
デイブはまるで今までの死を待つばかりの穴だらけの記憶が嘘だったかのように、しっかりとした口調で語り始めた。
「姿を消した。影武者にすべてを託して‥‥確かにそうだ。サニーは生まれてもいなかったな。お前にはあのとき随分と無理を言った。記憶改竄魔法など、なかなか準備して使えるものではない」
リンクスは今までの鷹揚とした態度を即座に改めると、まるで騎士が主君に許しを請うように跪き、そのまま額を床にぴったりとつけた! 何たる低姿勢!
「間違いない。あなたこそ、真のビッグボス! よくぞ、よくぞご無事で!」
三十年の時を経たはずの老人は、何かに取り憑かれたようにすっくと立ち上がった。それはサニーが生まれた時から見続けた、パイプ職人の成れの果てではなかった。彼女が見ていたのは、作られた偽りの姿だったのだ。
デイブは霞んで見えぬ右目に、普段は使わない黒革の眼帯を戸棚から取り出し付けた。老人デイブは、伝説の男になった。帝都が帝都になる前から、イヴァンを牛耳った男。アスタ・ファミリーの、ほんとうのビッグボス。彼は孫娘が作ったばかりのパイプをくわえて言った。
「待たせたな」




