拝啓 闇の中から囮が見えた(最終パート)
三ヶ月前。
マエバラは相棒の死体を目にしていた。水死体。無惨な死に方であった。マエバラは正義を信じてきた。犯罪と戦うことこそ自分たちの任務であり、正義を守ることこそ自分たちの誇りであると。
「なかった事にしてもらいたいのです」
キノミ屋の主人は、マエバラを店に呼びつけるとそう言った。彼はここ最近時期をおいて頻発している通り魔事件の真相に近づいていた。相棒は、その裏取りをしている最中に殺されたのだ。
「金はある。必要ならば、いくらでも。だから、このことはなんとしてもなかったことにしてもらえませんか」
マエバラは拳を固く握った。金で命を買おうと言うのか。失われた命を。彼の言葉は震えていた。
「俺は相棒を殺された」
「ですから、それをなかったことにしてもらいたい。こんなことが知れれば、キノミ屋はおしまいなのです」
冗談ではない。命に変えられるものなどない。相棒にも、人生があり、友人があり、恋人があった。それをなかったことになどできるはずがない。
机の上を滑ったのは、金貨五枚であった。大金には違いない。だがこの目の前のキノミ屋は、その金を命だというのだ。
「……考えさせてくれ。こんなことは……」
「すぐには決められんでしょう。それは分かります。……ですがこちらは家に関わることなのです。マエバラの旦那、どうかよくお考えいただきたい」
キノミ屋から出ると、既に夜になっていた。彼の目の前と同じように、あたりには暗闇が広がっていた。彼は物事の都合の良い部分しか見ていなかったのだ。世の中には欺瞞がまかり通り、金で全てが塗り替えられる。この目の前に広がる、暗闇のように。
「おじさん」
それは彼にとっての天の声であるかのように、空から降ってきた。彼がキノミ屋の二階を見上げると、格子の嵌った窓から、女が一人見下ろしていた。
「私を逮捕しに来たんですか」
「……お前が、そうか」
キノミ屋の長女、アスカ。夜な夜な一人家を抜け、ブラブラしたかと思うと何をするわけでもなく戻っていく。心を病んだのが原因とかでそうなったらしく、できの良い妹ばかりが取り沙汰され『彼女は無かったことにされた』。キノミ屋には一人娘しかいない、深夜に徘徊する家族などいないと。もちろん、そんなことがまかり通るはずもない。近所の人間は皆、アスカの存在自体は知っている。病んだ哀れな狂人として。
「そもそもが、間違いです。私は至って正常ですよ」
アスカはどうやら脱出方法をいくらでも持っているらしく、厳重に監禁されているはずの部屋を数分もかからずぬけ出すと、彼女が行きつけにしているのだ、というヌードルの屋台に二人で座った。店主のオヤジは具を切らしたと言って、一度屋台から買い付けに言ってしまった。
アスカは美味そうにヌードルをすすると、言った。
「私は心を病んだ覚えもありませんし。……一つだけ真実があるとすれば、私は殺しの練習をしてるんです」
「なぜ、そんなことをする」
「決まってます。両親と妹をこの世から葬るためです」
彼女は淡々とそう述べた。男子が欲しかったと常々言われ続けた彼女は、度々存在をなかった事にされた。妹が生まれ、その妹に魔導師としての才能があることが発覚すると、両親による妹のえこひいきが始まり、無視の傾向は顕著になった。彼女は愛された覚えのないまま、ここまで育ったのだ。
「なんでそうなる。どうして……おかしいじゃないか。親は子供を愛するものだろ」
「そうじゃない人もいて、そうでなかった両親の子供が私です。私は両親を葬って、新しい人生を始めたいんです」
「じゃあお前が、あいつを」
「それも違います。あなたの相棒さんは、たまたま通りすがりの剣士と喧嘩をして、斬り殺されたんです」
「そんなバカな」
あいつが、喧嘩を。そして、負けて、殺された? 信じられないことであった。憲兵官吏が、私闘などと。
「その剣士は自分の罪を隠そうと、川に流した。私が見ていたのはそれくらいです。私も経験ありますが、そういう時って言うのは油断しているもんなんです。『練習』にはちょうどよかったです」
マエバラはもはや何を信じればいいのか、わからなくなっていた。正しさとは何か。娘のために事件をもみ消しにかかったキノミ屋か。愛されず、認められず、無視された人生をやり直すために家族を殺すアスカか。正義などという不確かなものだけを信じ続けてきたマエバラに、答えは出なかった。
「お前は殺すのか。妹に、両親を」
「殺します」
彼女の意思は固かった。世の不条理。相棒の無意味な死。踏みにじられた誇り。マエバラの中で感情が化学反応を起こし──彼は持っていたガラスのコップを握り砕いた。彼の手は血で真っ赤に染まり、彼は顔を起こして言った。
「何か困ったことがあったら、俺に言え」
「どういう意味です、おじさん」
「何もかもバカバカしくなったんだ。……お前のやることが正しいかは分からないが、お前の人生を良くすることは間違いない。だから、お前の力になろう」
「私はもう止まれませんよ」
アスカはそう、小さく呟いた。一度人を殺せば、もう後戻りはできない。そんな彼女に、マエバラは弱々しく笑いかけた。どうなろうと知ったことではない。正義は死んだ。ならば自分が生きていく道理など、どこにもないのだ。
「……一体どういうことです」
屋根が崩れ、主を失った廃教会に行く道で、ドモンはジョウとばったり出会った。マエバラとキノミ屋殺しの奇妙な合致に、一度全員で情報を共有しようと考えたのだ。
「レドがいないんだ。家にもいったし、ヘイヴンに店出してる人にも聞いたけど、誰も知らないんだ」
レドが姿を消した。ドモンは顎に手を当て考えこむ。彼は傘職人であり、ヘイヴンに店を出したり、各所を回って売り込みや修理の依頼を受けたりしている。だが今は深夜だ。家にいないということは、断罪とは別の──殺し屋・一本傘としての活動を行っているのではないのか。
「まさか、また勝手に変な事に首を突っ込んでんじゃないんでしょうね」
「単に仕事を請けてるだけならいいんだけど」
廃教会の中では、既にアリエッタが待ち構えていた。ろうそくの本数は三本。ゆらぐ炎の中に、アリエッタが立ち尽くしていた。彼女は二人の姿を見つけると、前髪をかきあげながら言った。
「ああ、ちょうど良かったわ。レドには会った?」
「探したけど居ないんだよ。アリー、なんか知らない?」
「知ってるも何も、さっき教会に来たの。万が一の時のためにって」
「万が一ですって?」
そう言うと、アリエッタは二人に手紙を差し出した。レド直筆の手紙。短い内容であったが、それは断罪人を行動させるに十分な内容であった。
憲兵官吏マエバラと、キノミ屋の遺された娘アスカはグルであること。アスカが依頼をかけた殺し屋は、狙われていること。そして同じようにアスカから依頼を受けた自分の仲介人が、イヴァンを出ると宣言したにも関わらず、仕事の依頼をしたいので、西地区にあるキノミ屋所有であった倉庫に来て欲しいと言ってきたこと。
「無視すりゃいいのに、バカですねえ」
「旦那。でもこれ、もしかしたら突破口かも。何か分かるかもしれないよ」
ジョウのいうことももっともである。マエバラが殺し屋を殺すのはなぜかが分かるかもしれない。それにレドの物言いが本当であれば、次に襲撃されるのは自分達の可能性すらある。
「仕方ありませんね。あんた達、依頼でいくら貰ってんです」
「私は金貨二枚」
「僕は金貨一枚だけ」
ドモンはおさまりの悪い黒髪をぼりぼりと掻きつつ、少しだけ考えた後、結論を出した。
「じゃ、それぞれ一枚ずつで。傘屋は勝手に巻き込まれていったんです。報酬なんて必要ないでしょう」
本人不在の勝手な決定に、異を唱えるものはいなかった。まず守るべきは自分の身。それが断罪人の掟であり、覚悟であった。敵に囚われれば、自ら死ぬか、殺されるか。運命はそう多く分岐してはいないのだ。
「まさか本当に来てくれるとは思いませんでした」
アスカは、自ら殺した両親と妹の祭壇、燭台にろうそくを立て、携帯火種(簡易的な魔導術式の仕込まれた、筒状の発火器具である)で炎を灯しながら言った。ろうそくの炎でぼうと浮かび上がる、赤錆色の長髪を結んだ男。
「呼ばれたからこちらに参りましたが……何かの間違いじゃありませんかね。お嬢さん、あなたは家に来てくださったと思いますが、俺はただの傘屋。だれと勘違いしてるのか知りませんが……」
「証拠はない」
壁に寄りかかっていたマエバラが、同じように壁に立てかけていた剣を取り、レドの目の前に『殺し屋』のリストを突きつけながら静かに言った。
「だがそっちの男はお前が殺し屋だと紹介した。……それに、認めたぞ。お前が殺し屋『一本傘』ということをな」
そう彼が指差す先には、うなだれたまま椅子に腰掛けるジョセフの姿があった。目を合わせようとはしない。後ろめたい何かがあるのは明白であった。暗いのでわからぬが、所々服や顔に血が飛び散っているのを見ると、手ひどく暴行を受けたらしい。
レドはいつもの裏地の赤い黒着流しを着て、襟に市松模様の鋭いネクタイピンを挟んでいる。傘は持ってきていなかった。何から自分の正体がバレるかわからないからだ。
「勘弁してもらえませんか。本当に俺は何も知りませんよ。お嬢さん、あなたにも言ったでしょう。一本傘なんて知らないって」
「知らないそうですよ、おじさん」
「なら俺は興味ない。……アスカ、お前に任せる」
「普通の人でしょう? 殺しがいが無いんですけど」
「普通の人間に俺が殺せるか。もったいないぞ」
「わかりましたよ。死にたがりのくせにわがままですね」
二人は淡々とそう会話を続けた。殺す。レドの髪と同じ赤錆びた刃の包丁を、アスカは祭壇から手に取り握った。この少女を殺すのはたやすい。しかし、憲兵官吏のマエバラはどうか。この男は殺し屋を幾人も殺してきた。正体がほとんどバレている今の状況で、いつものように不意を打つような殺しが上手くいくとも思えぬ。
アスカが包丁を握り、こちらへゆっくりと近づいてくる。楽しそうでも、嬉しそうでもない。義務を果たすためのように、淡々と歩みを進めてくる。
「私は人殺しです。両親も妹も、この手で殺しました。……もう目的などありませんし、殺す理由も恨みもありませんが、おとなしく殺されてください」
素早くマエバラがレドの肩を押さえつけ、無理やり座らせた。このまま座したままであれば、レドは殺される。その時であった。
「ごめんください。つなぎ屋ですけど!」
振り上げた刃が止まった。誰かがここに来た。一体誰が。アスカはマエバラを見る。彼はかぶりを振った。他に誰もここには呼んでいない。
「つなぎ屋……確か『断罪人』とかいう殺し屋集団の窓口だったはずです」
「断罪人? そんなバカな。やつらは都市伝説だぞ。そんなやつにも金を渡したのか」
「殺し屋の名前が付いてる人に片っ端から頼みましたから。どうします、出ますか?」
「俺が出る。動くなよ。傘屋、お前もだ」
マエバラが倉庫の入り口へと向かう。アスカはつまらなそうに包丁を手の中でくるくると回転させた。直後。窓から差し込む月明かりに、何者かの大きな影が写り込んだ。アスカが影に気づき、窓の外を見るが誰もいない。包丁を持ったまま窓へと近づく。直後、窓のある位置直上の屋根がばりばりと突き破られ、手が伸びた! アスカの首根っこを引っ掴むと、まるで魚釣りのごとくアスカの身体を宙に浮かべ屋根の上へと連れ去った!
「何だ!?」
マエバラは扉に手をかけ開けかけていたが、剣を一気に引き抜き、異常へと立ち向かう。ゆっくりと開いていく扉。外には月影をまとった何者かが立っていた。
「やあ、どうもマエバラさん」
「……ドモンさん?」
なぜ、ここに、無能と断じたはずの同僚がいる。マエバラは切っ先を彼に向けながら自問自答する。答えはすぐに出た。つなぎ屋は殺し屋の窓口。彼がつなぐのは断罪人。そしてこの目の前にいる男も、恐らくは──。
「お前……お前が、断罪人……?」
「ああ……やはり、ご存知でしたか」
マエバラは抜いた剣を扉に突き刺す! 勢い余って、ドモンの姿は扉の外へと消えた! 直後、マエバラが先ほどまでいた地点に刃が突き出る! 手応えなしだ。彼はとっさに剣を引き抜き、構え──扉を蹴り倒した! マエバラは相手を殺しきらんと、外へと剣を構えながら一歩を踏み出した。
彼はそこでもう動けなくなっていた。喉元に、剣がつきつけられている。ドモンは紫色のマフラーを揺らしながら、扉のすぐ横で待ち伏せていたのだ。扉に突き立てられたままの長剣は──囮!
鮮血が飛び散る中、マエバラはなおも剣を振り回していたが、やがて力尽き、そのまま動かなくなった。
アスカは屋根の上に投げ出されたが、その手の中には赤錆びた包丁があった。人間は包丁で刺されれば死ぬ。それは幾度の『練習』で既に経験済みだ。だが、目の前のこの長身巨躯を誇るシスターは、それで死ぬのか。
「試してやる……!」
アスカは気合一閃、包丁をアリエッタに向かって突き出した! 彼女はなんと、右掌で刃を受けたかと思うと、まるでビスケットでも砕くように刃をべきべきと握りこんで破壊していくではないか! 見れば、彼女の手は鎖帷子めいた手袋で覆われている! 素早く羽交い締めにされたアスカは、ものすごい力で屋根のてっぺんまで運ばれる!
「私が悪いんですか。そんなに悪いんですか、ひとでなしの親を殺すのが!」
「それを裁く権利は私にはないわ」
くすんだブルーの前髪から覗く、赤渦を巻いた瞳はどこか哀れみの色を隠せないでいた。だが彼女は受け取ってしまった。実の娘に対する恨みのこもった、やるせない願いを。
「でも今のあなたはご両親の元へ行かなくてはならない。そう、神の慈悲の届かぬ場所へ」
アリエッタはアスカを、脇の下から担ぎあげる。肩、股ぐらに腕を通し、がっちり固める! そして有無を言わせぬまま、横に倒れアスカの頭を屋根へと叩きつけた! これぞ現代でいうデスバレー・ボムである! アスカの頭は屋根を貫通、その姿は屹立する柱のごとし! しばらく彼女の足はぴくぴくと動いていたが、やがて動かなくなった。
「ジョセフ。……お前、生きているのか」
レドはぐったりとうなだれたままの仲介人にそう声をかけ、肩を叩いた。彼はうう、と唸り声を漏らしながら、首を起こした。ひどい顔だ。しこたま殴られたのだろう。
「す……すまねえ、レド……本当に……お前を巻き込むつもりは、なかったんだ……」
「そうか。……そうだろうな」
レドは襟元に挟んでいた市松模様のネクタイピンを取ると、なにやらいじり始めた。まるで金属製のパズルのように、ネクタイピンは市松模様にそって変形を始めた。ちょうど手のひら、中指の先から手首くらいまでの長さに変形したそれは、まるで針を平べったくしたような金属の棒に変わったのだった。
「レド、すまねえがきつく縛られてる。解いてもらえねえか」
ジョセフの言葉にうなずき、レドは彼の後ろへと回った。マエバラが蹴破った扉の先に、剣を納めたドモンがこちらを見つめているのが見えた。
レドは市松模様の即席鉄骨を、躊躇なくジョセフの首後ろへと突き刺した。一瞬の出来事であった。冷たい赤錆色の瞳は、ジョセフの首後ろへと飲み込まれる鉄骨だけを見下ろしていた。
彼が鉄骨を抜くと、市松模様だったはずの鉄骨は赤く染まっていた。ジョセフは死んだ。ビジネスパートナーだったが、今や生者と死者の関係でしか無かった。
「……あんた、自分の正体を吐いたこいつを殺すために、わざわざ飛び込んでいったんですか」
レドは即席鉄骨についた血を、マエバラのリストで拭い取りながら、いつものように冷徹に抑揚なく言った。
「あんたらの正体もバレるかも知れなかった。だから手紙を残したんだ。アリエッタに任せたのは、あんたなら握りつぶしかねないからだ。……満足したか」
「ええ」
ドモンは少し笑ったが、レドは顔すら見せなかった。その足取りがどこか重そうなのを、ドモンは見逃さなかった。
「どうしましょうかねえ……困りましたねえ……」
ドモンは自宅前であっちへこっちへとうろついていた。マエバラ、そしてキノミ屋のアスカの変死体が発見されたことにより、事件の捜査は打ち切りとなったのは良かったが、ヨゼフはそれをなんとドモンに責任を押し付けたのだった。
期間は短くなったものの、ドモンはなんと二ヶ月給与減俸という憂き目にあったのであった。
この悲劇をなんと言ったものか。断罪で得られたのはわずか金貨一枚。これでは給料の減俸分と差引大赤字である。
「あなた、おかえりなさいませ。……一体どうなさったのですか、家の前でうろうろして」
いつの間にか、玄関扉を開けてティナがこちらを覗き込んでいた。その声にドモンはびくりと身を震わせる。この見た目だけは小動物の彼女が、またもや大音声で怒りを自分にぶつけてくるのではないかと考えると、気が気でなかったのであった。
「実は、そのう……」
「減俸のことでしょう。……エイラさんから伺いましたわ」
憲兵団内部で発表されたこととはいえ、同僚からその妻を通して既に伝わっているとは。予想外の速さであった。憲兵団は狭い。うわさ話はすぐに広がるのだ。
「とにかく、義姉様にもお話してありますから、中にお入りください。なんとかなりますわ」
「き、君……怒らないんですか?」
「憲兵官吏として頑張った結果のことです。私は妻なのですからその結果を甘んじて受けるだけのことです。節約すれば、二ヶ月くらいどうとでもなりますわ」
ティナは冷静で、なおかつ優しくそう述べた。なんということだろう。それだけで救われたような気分であった。思わずずず、と鼻水をすすり、漏れでた涙を袖で拭う。ありがたい。
「お兄様、お帰りなのですか? 今日はお兄様がお好きなガレットをお作りしましたよ」
妹のセリカの声が、家の中から響いてくる。ああ、なんと幸せな家庭であろう。これなら、明日からも頑張れる。
しかし彼は、自分が断罪でコツコツためた貯金がごっそり家計の補填に使われた挙句、減俸を口実に小遣いを大幅削減されたことに、半年以上先まで気づかないのであった。
拝啓 闇の中から囮が見えた 終




