拝啓 闇の中から囮が見えた(Aパート)
夜道を歩くのが気持ち良くなってきた。
シスター・アリエッタはそんな季節の変わり目を感じ取りながら、財布の中身をまさぐりながらため息をついた。どうにも金が少ない。彼女は修道女、聖職者である。しかし決まった教会を持たぬ、いわばはぐれ者だ。請われればどこへでも出向き、神の御名の下において神の愛を説く。言葉然り行動然り、彼女にできることは多くある──が、大半が力仕事だったりする。
彼女の身体は大きい。成人男性より頭一つ抜けている。女子供が大半を占める孤児院などでは、彼女のような体格の女が非常に貴重な戦力になったりするのだ。もちろん彼女の本意ではない。
さて、そうした彼女の趣味は娼館通いだ。金のめどさえ付けば、毎晩でも出かけたいと願うほどだ。聖職者とかけ離れたような趣味ではあるが、今はまあそこは問題ではない。くすんだ青い前髪をかき分け、赤渦を巻いた瞳をさらしながら、彼女は再びため息をつく。
「ジョウにまた仕事を回してもらおうかしら」
彼女は良き相棒であり、愛しの弟分である青年の事を思い出しながら、角を曲がろうとした。その時であった。
夜闇を裂いて、何者かの叫びがこだました。
アリエッタは思わず叫びの方に目を向ける。しかし今日は月明かりも心もとない暗い夜だ。彼女の赤渦の目に入ったのは依然として闇であった。
「たっ、助けてくれーッ!」
「私達が、一体何を……」
断末魔。アリエッタは夜を駆ける。地面に落ち、割れて転がるランプ。漏れでた種火は、二人の男女の絶命を照らし出していた。五十、いや四十くらいの夫婦であろうか。
アリエッタはシスターに似つかわしくない冷静さで、そんなことを分析してみせた。少なくとも男の方は絶命している。彼女は立ち上がろうとしたその時、ぐいと修道服の裾を引っ張る者の存在に気づいた。女のほうだ。
「しっかりして。一体何があったの?」
彼女は血まみれの女を抱き寄せ、死せる者に対しても穏やかにそう尋ねた。もはやこの傷では助かるまい。彼女は多くの『死』を看取ってきた。彼女の死を感じ取るのは、たやすかった。
恨みがましい目であった。
刃物を突き入れられたのか、女は片手で腹を抱えながら、もう片方の握りしめた手をアリエッタの顔へと近づけ、開いた。
金貨二枚、銀貨四枚、銅貨一枚。まさしく女の有り金全てであろう。アリエッタがその手を握った瞬間、女はがくりと崩れ落ちた。力尽きたのだ。
遠くから、憲兵官吏達が緊急事態の際に吹く、笛の音が響く。このままここにいれば、アリエッタも疑われかねない。彼女は素早く立ち上がり、金貨を二枚だけ手から抜き取ると、何事も無かったかのように夜の中へ姿を消した。
「ひどいもんですねえ……見てください、これ。滅多刺しですよ」
死体にかけられた布を一部めくりながら、おさまりの悪いくせのついた黒髪の憲兵官吏が言った。立ち上がると、憲兵団所属を示す白いジャケットの袖が揺れる。腰には、この国では珍しく大小二本の剣を帯びている。
「ああ、ドモンさんじゃないか。来てくれたのか」
ドモンと呼ばれた憲兵官吏とは対照的に、部下や駐屯兵(憲兵官吏達の手足となって働く準捜査員の事を指す)にてきぱきと指示を出しているのは、マエバラだ。彼はドモンと同じ、憲兵団の同僚である。
「ま、マエバラさんとは担当地区が隣ですからねえ。……いやしかしひどいじゃありませんか。レストランで食事と酒を楽しんだ後にこんな」
二人の身元はすぐに判明した。どうやら二人はドモンの管轄──誰もが商売をすることができる自由市場・ヘイヴン郊外に立派な店舗を構える食料問屋『キノミ屋』の社長夫婦であったのだ。
当日、夜風に当たりたいと夫婦だけでレストランを出たのを、従業員が見送ったのが夫婦の最期の姿となった。目撃者は今のところいないようだ。
「や、今回ばかりは同情しますよ。……しばらくこの手口の通り魔、出なかったじゃありませんか」
「そうなんだよな。……正直、困ってる。ドモンさん、あんたも手伝ってもらえないか。今度という今度は、ヨゼフ様も重い腰を上げて──」
「通して! 通してください!」
野次馬に駐屯兵をかき分けながら、一人の少女が現場にまろびでた。転がるように死体の前に出てきた少女に、ドモンは思わず目を丸くする。ショートカットの小柄な少女であった。
「ちょ、ちょっとあんた、いけませんよ。捜査中なんですから」
ドモンの制止すら振り切ると、少女はなんと死体にかかる布をはぎ取る。変わり果てた夫婦の姿を見て、少女はすがりつき大声で泣き始めた。
「お父さん! お母さん! どうして!」
マエバラは駐屯兵に命じ、二・三人で少女を無理やり引き剥がした。なおもすがりつこうとしながら、涙を流し続ける少女。
「……キノミ屋の娘さんだ。不憫なもんだ。あの娘、まだ十八なんだぜ」
「そりゃ、お気の毒ですねえ……」
ドモンは引き剥がされ、死体の見えぬ場所へと運ばれていく少女を見ていた。泣いている。ツリ目から出た涙が乾き、跡となって頬を走っている。それはいい。
しかし、人間ああも早く、ぴたりと涙を止められるものだろうか。ドモンはそんなことをとりとめもなく考えていたが、マエバラに呼び止められ踵を返した。
翌日。帝都一の大通り、アケガワ・ストリートの近く。
金髪にハンチング帽を載せた、鼻の頭にそばかすの浮いた青年が、ぶらぶらと通りを歩いていた。彼の名前はジョウ。普段は忙しく『つなぎ屋』として働く青年である。
つなぎ屋とは、伝言や人手不足など、多種多様なものをつなぐ事を生業とする職業である。いわば何でも屋と言い換えても良いのだが、彼自身呼び方が気に入っているのでそちらを名乗っている。
さて、今日は久々に休みである。
彼は意外と文化的であり、芸術を解す人間だと自負している。芝居やラクゴ(異世界より伝わった話芸だ)、コンサートなど、趣味も広い。こうした広がりが、仕事にもつながったりするので、案外馬鹿にならぬものである。
「……つなぎ屋さん。つなぎ屋さんとはあなたですか」
ジョウは、羽ペンで引いたような目で声の主を見た。ジョウより少し背の低い、小柄な少女。暗い雰囲気をたたえ、こちらをツリ目でまるでねめつけるようにこちらを見据えているのだ。通りの隅に立ち、影になっているところから突然声をかけられたので、ジョウは息を呑んだ。
「ちょっと! なんなんです、一体。声をかけるならもう少し明るく……」
「お願いが……お願いがあるんです」
少女は必死にジョウにすがりつくと、言った。
「私はアスカと申します。昨日殺されたキノミ屋夫婦の娘……どうか、お父さんとお母さんの仇を取って頂けませんか」
ジョウが何か言うより早く、少女は彼の目の前に手を差し出し開いた。中には、金貨が一枚。
「つなぎ屋さんは、どのような人物にもつなぎをつけてくれると聞いております。どうかこの恨みを、断罪人に……」
「断罪人だって?」
ジョウはまるで小馬鹿にするように言うと、笑った。そうしなければならなかった。断罪人。弱き人々の復讐を金で引き受け、悪党を闇に葬る、闇に生きる者達。帝都のみならず帝国中でまことしやかに語られる、都市伝説めいた殺人集団である。
「あのね。確かに僕はつなぎ屋だよ? でもそんないきなり断罪人だのなんだの言われても……」
「お願いです。お父さんとお母さんを殺した犯人を、殺してやりたい……でもできないのです。私のような小娘ができることなど、たかが知れていますから」
アスカはジョウの手を掴み、無理やり彼の手の中に金貨をねじ込むと、一気に走り去り人混みの中に消える。残されたのは手の中に残った金貨一枚。
「どうしたもんかな、これ」
「……お前、請けたのか」
今までそこにいなかったはずの者の声に、ジョウは飛び上がるかのごとく振り返る。そこに立っているのは、赤錆色の長髪を後ろで結び、黒い着流しに身を包んだ、作り物めいた顔立ちの色男であった。
「おどかさないでよ! レドまで、なんなのさ一体!」
「……依頼があったが、断った。妙だと思ってな」
レドは冷たい赤錆色の目でジョウを見下ろしながら言った。
「一言一句、同じセリフを吐かれた。俺は殺しを頼まれる時、鏡越しだが、相手の顔をよく見る。大体必死な野郎ばかりだ。……人様の命を奪うってのは、勇気がいる」
彼は殺し屋である。本来の職業は傘屋であるが、十代の頃から、殺しを生業として生きてきた。若いため経験は十年を越しておらず、まだ浅いと言えるが、その嗅覚は一流の域に達している。
「だがあの女はそうじゃなかった。……目が本気じゃない。だから断った」
「本気じゃないって……あのねえ。本人が言ってたんでしょ、両親を殺されたってさ。両親てのはこの世に代わりがいないんだよ。それを殺されたんだから、本気に決まってるじゃないか。だいたい君が断ったから断罪人にお鉢が回ってきたんじゃないの?」
レドは答えなかった。言いたいことは全て先ほど言ったということなのだろう。
「ま、もし人出が要る時は呼ぶから、ちゃんと来てよね。取り分は少ないと思うけど」
「お断りだ。……二本差しにも同じことを言われねえといいがな、ジョウ」
レドは最後まで言いたいことを言い切ると、商品である自作の鉄骨造りの傘を束ねた塊を背負うと、ゆうゆうと大通りへと向かっていった。




