拝啓 闇の中から隙間が見えた(Bパート)
イヴァン北西部、色街。
魔導式で稼働するネオンが、怪しく通りを光の海へと変える。ここでは誰もが男と女で、誰もが他人だ。見知った誰かにあったとしても、全てが一夜限りの夢に消える。
そんな通りの中を、背の高いシスターが立ち尽くしていた。彼女のくすんだ前髪と同じ、ブルーのネオンが、前髪で目を覆われた彼女の気持ちを代弁するかのように照らした。
『本日 当店 支配人より背の高いシスター入店禁止』
あからさまに狙い撃ちしたような張り紙に、シスター・アリエッタはただただ立ち尽くしていた。通りの影、娼館の通用口から、従業員がゴミ捨てに出ていたのを彼女はとっ捕まえ、張り紙について問うた。
「ああ、これ。……いや、うちはいいお客さんなんで断りたくないんですけど、相手をする男娼のほうがね……ひどい時は二・三日使い物にならなかったりしますから。次相手にするなら辞めるとまで言うもんですからね。ま、休養期間だと思ってご勘弁願います」
アリエッタは何を隠そう、この娼館の常連である。金が入ると、喜捨という名目で、少年『のように見える』男娼を──多い時は二・三人──頻繁に買っているのだった。頻度は別にいい。問題は彼女にある。彼女が奔放過ぎるため、玄人として鍛えているはずの男娼ですら、一夜相手をすればしばらく使い物にならなくなってしまうのだ。
「勘弁なりません。まったくなりません! きちんとお金を持ってきているんです! 私は客なのですよ!」
「なんと言われましても、今日はご勘弁を……他のところを紹介させていただきますから」
納得が行かぬところであったが、アリエッタは神に仕える者として、従業員に礼を言い、豊満な胸の前で十字を切った。
親切な従業員の描いてくれたメモは簡易であったが、彼女が迷うことは無かった。
「どうか、どうかご勘弁を……誤解です、誤解なのです……」
角を曲がった彼女が見たのは、何やら男に手を引かれている女性の姿であった。背が低く、肩までかかる金髪を下ろしている、若い女だ。綺麗に化粧をしてはいたが、どう贔屓目に見ても娼婦のような雰囲気はない。着ているものも小奇麗な普通の服だ。
「分かってる分かってるう。その、いやよいやよ……ってのも堂に入ってやがる。へへへ。なあ奥さん、あんなやらしい本のモデルになったんだ。欲求不満ってところなんだろう?」
「何を……」
「旦那じゃ満足できねえってんだろ? へへへ。いいじゃねえかよ!」
遊び人めいたちゃらついた男が、うらぶれた路地裏の娼館の入り口へ引っ張り込もうと、文字通り腕を引いた。アリエッタが助けに入ろうとしたその時、ネオンの光届かぬ闇から、ゆっくりと人影が姿を現した。闇と同じ色の着流し。袖や襟から赤い裏地が覗く粋な風体。瞳の色と同じ、赤錆色の髪を後ろで結んだ、この世の者ならざるような雰囲気をたたえた男──レドだ。彼は電撃的に男の手を取り、背中までねじり上げた。悲鳴をあげる男。
「嫌がっているだろう。やめろ」
レドは男を離してやる。跳ねるように男は悪態を垂れながら、慌てて路地の奥へと消えていった。
「怪我は」
レドは口数少なく女にそれだけ問うた。彼女は伏し目がちにこくりと頷く。
「あの、お名前を」
「レドです」
彼はその場に落としていた、紐でしばった傘の束──いずれも彼が手作りした鉄骨製の傘だ──を持ち上げ、背負った。
「……この御恩は一生忘れません。必ず御礼をさせていただきます」
レドがなにか言う前に、女は駆け出し、ネオンの海たる大通りへと飛び込んでいき、あっという間に人混みに紛れ、見えなくなっていった。
「あなたも人助けをするのですね」
アリエッタは素直にそう感想を述べ、レドの前に姿を現した。レドはというと、少しも表情を変えることなく、それに応じた。
「通りすぎるのに邪魔だった」
「……お仕事の帰りですか?」
「ああ。娼館じゃ客用に出す傘がよく売れるからな」
アリエッタはレドを改まってまじまじと見る。何をどう造形したら、このような美形になるのだろう。まるで作り物、人形のようだ。それであのようにしれっと人助けをする。彼女は嘆息しながら、頬に手をやった。
「……もう十年ほど若ければ、ぜひ相手をお願いしたところなのですが」
「あんたがか」
「私ではなくあなたがです。さぞかし美しい少年だったはずでしょうに。時の流れは全ての人々に平等──ああ、なんと残酷なことでしょう」
アリエッタはそれだけ告げると、ゆっくりとレドを通り過ぎ、
また別の暗がりへと溶けてゆく。レドはそんな彼女の背中に冷たい視線をくれてやると、特に感想も述べず去っていった。
そうして、その日の騒動は終わりを告げた。
「お帰りなさいませ」
玄関で貞淑な妻・ヨシノがエシオを迎えた。彼は苦虫を噛み潰した顔で彼女に手伝ってもらいながら
「うん。戻ったぞ。……ケインは」
「ええ。昨日は外にスケッチ・ブックを持って出たんです。徐々にですが、外にでることに慣れてくれたら良いのですが」
妻はジャケットをコートがけに掛け、夫の後ろへつき、息子・ケインの部屋へと向かった。ローゼンバウム家は、帝国成立後領地が帝国貴族二十家による再編成が行われたことにより大量に発生した、いわゆる名ばかりの貴族である。領地もなく、主君も没落したことから、つてを頼って帝都イヴァンへと移住し、運良く帝国騎士団に入団することができた。そこから出世し、現在の職についた。
仕事のことについては、順調そのものと言えた。しかしこと家族について言えば、彼の人生は最悪の事態を迎えつつあった。そのすべてが、一人息子のケインが原因であった。
武芸一筋で生きてきたエシオには到底理解できぬものであったが、ケインは小さな頃から内向的であった。剣を教え、それなりの腕にはなるのだがそれ以上の興味を抱かない。スケッチ・ブックだけが友人で、学校にもまともに行こうとしない。
いつしか彼は部屋に引きこもるようになり──とうとうそのまま十八歳になった。エシオはたまに家に戻ると、ケインを叱り飛ばし、殴りつけたが、何も変わらなかった。彼の世界は自分の部屋で終わっていた。
それが最近、どういう風の吹き回しか知らぬが、外へスケッチをしに出かけていると言う。エシオも一人の親として、息子の動向が気になるのであった。
「ケイン。いるのか」
「……何ですか」
鍵を外す音。扉が小さく開けられ、隙間から息子の顔が出た。暗い表情の中に、どこか楽観的な色が漏れでていた。それがまた父親の理解を遅くしていた。こうして引きこもっているというのに、なぜそのような顔ができるのか分からない。
「スケッチをしにいったそうだな。母さんから聞いたぞ」
「あなたには関係ないでしょう」
「……親に向かってどういう口の聞き方だ」
返事はなかった。すぐに扉は閉じられ、鍵がかかる音がした。彼は自分を憎んでいるのだろう。これまでのエシオにはあまりにも彼と過ごす時間が短すぎた。結果それくらいしか答えは思いつかなかった。父親として、もっとマシな対応ができたのではないか。いつもそう思わないでもなかったが、誰にいうことも叶わなかった。
「あなた、ケインは大丈夫ですわ」
ヨシノはそう穏やかに言った。ケインは彼女にだけは心を開いていた。軟弱者だと思わないでも無かったが、それで安心していた。
「……何を描いたんだ、ケインは」
「ええ。最近モデルの方を雇って人物画のスケッチをしているそうですわ」
「そうか」
二人の会話は、それだけで終わった。たったのそれだけだった。
イヴァン南西部、再開発区域。ここでは大規模な再開発計画が持ち上がったものの、そのまま計画が頓挫してしまった。そのため地区内には建設途中の建物が点在し、そこに浮浪者や食いっぱぐれた傭兵や剣士などが住み着き、治安の低下を引き起こしている。
そんな南西地区の中に立つ、レンガ建ての古びた工場。数人の作業員が、仕上がった原版を元に、ページを刷っていた。
「儲かっていけねえな。一冊銀貨二枚だろ? 前回二百部限定だが、それでも金貨四百枚があっという間だ」
完成した新刊を手にして、ぺらぺらとページをめくる者があった。女の裸に赤裸々な文章。この本を仕掛けた男──もみあげから口ひげまでがつながっている、なんともむさくるしい太った男であった。彼の名前はミンジー。けちなチンピラ──それも頭脳労働を得意とする男であった。
「おまえら作業員に一人頭金貨五枚。それでも大金だぜ、なあ。……まあ、借金返すまでびた一文やらねえけどな」
彼は手元のグラスに入っている琥珀色の液体を煽った。死んだような目で、ただただ機械的に作業を続けていく作業員達。彼らは皆、ミンジーから大小様々な額を借り入れ、いずれも返せなくなった哀れな人々だ。
明らかな禁制のエロ本を制作するため、朝も夜もなくこうして働かされているのだ!
「ま、とにかく働けや。働きゃ俺が潤う。お前らの借金も減るんだからな!」
豪放な笑い声が、深夜の工場に響いた。歯車のごとく働く作業員達には、目の前の原稿が川のように流れていくさましか、もはや認識できていなかった。
同じ頃。
南部にある、帝都イヴァン最大の大通り『アケガワ・ストリート』。この通りに出店する店や企業は、帝国を通しても一流であると認識されるに足る、そんな場所である。
「申し訳ありません!」
「申し訳で済むか! そのような言い訳は聞き飽きたぞ! お前、分かっているのか! 歴史ある我がトレイン商会に、泥を塗ったのだぞ!」
トレイン商会は、陸運業ギルドのギルド長をも務める、イヴァン一の陸運会社である。ドラゴン便が出来てからも、手紙や小包、それより大きな荷物を運ぶ手段として、陸運会社の務める役割は大きい。
そんなトレイン商会の若女将であるミハルは、三十も年上の社長トーマス・トレインに嫁いだばかりであった。恋愛結婚ではなかったが、ミハルは特に異論を唱えることはなかった。小さな店の三女として生まれた彼女が、口減らし同然に決められた縁談としては、文句なく最上級のものであったと彼女自身思っている。
「申し訳ありません……ですがあなた、誓って本当なのです。これは騙されて……絵のモデルくらいならと、考えもなく引き受けたのが間違いだったのです」
トーマスは額を擦りつけて謝罪するミハルを見下ろしながら、うろうろとその場を歩き回りながら黙考した。なによりも守るべき世間体がある。かといって、すぐに離縁を考えるほど、トーマスは冷血漢ではなかった。
「……分かった。お前も騙されたのだ。それは仕方のないことだ。かくなる上は、わしにも考えがある」
彼は問題の本を──よりにもよって、従業員が持ってきたものだ──取り出すと、燃え盛る暖炉の中へと放り込んだ。
「こうなれば……製作者を社会的に抹殺してやるまでよ」




