拝啓 闇の中から帳(とばり)が見えた(最終パート)
「首尾は?」
影はそれだけ問うた。もう一つの影は、何も答えようとしなかった。影──ジョルジュは訝しみ、そして彼は素早くその可能性に思い至った。即ち、剣士がターゲットたるクロイツ卿に取り込まれたのではないかという可能性。
彼は自身の燕尾服の内側に吊り下げた、組み立て式の杖を取り出した。殺さねばならぬ。主に仇なす可能性あらば、全て芽を摘まねばならない。それがジョルジュの覚悟であり、義務であった。
「待て」
聞き覚えのある声。裏路地の先、月明かりの届く大通りから、その男は悠々と現れた。杖をつき、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。
「何者か……と尋ねても、答えぬだろうな」
ジョルジュは声の正体を確信すると同時に、仕える主との血のつながりを感じざるを得なかった。なんたる不遜、なんたる大胆さ。自らを殺す刺客を手懐けた挙句、自らその黒幕を暴きにかかるとは。そして観念したように──あくまで冷静なまま、その声に答えた。
「……恐れいりました、旦那様」
「なんと、貴様かジョルジュ。まあ敵は多いのでな。大して驚きもせんが……まさか娘にも裏切られようとは。人の親もなかなか難しいものだ」
剣士──ヨシュアは動きもしなかった。飢えた犬のように、ぎらぎらとした瞳を暗闇から二人に向けているばかりだ。野良犬め。ジョルジュは冷徹に呪詛を吐いたが、誰の耳にも届かなかった。
「私が一人で画策したことです。お嬢様はなんのかかわり合いも」
「貴様の給金で金貨を十枚も出せるものか。あまり主人を舐めるなよ。まあよくも浅はかな考えをさらしたものだな」
ジョルジュはそこで観念した。クロイツ卿を殺せば、それで目的は達する。しかし、ヨシュアがどう出てくるかわからぬ。彼には帰るべき『帳』があった。守るべき世界があった。閉じた世界。仕えるべき主との生活。彼は屈し、甘んじた。生きねばならなかった。
「……折檻はなさらないの、お父様」
ユーディトは父に、先ほどまで命を奪おうと考えていた男に対し、椅子に腰掛けたまま言い放った。汗一つかいていない。まるでいたずらがバレた時のように、彼女は愉快そうにそう言った。
「我が娘ながら末恐ろしい。親ごと輿入れ話を葬ろうとするとは」
「わたしはまだ子供なのよ、お父様。結婚なんてとんでもないことだもの。それにわたしはお父様の娘──はかりごとの一つや二つ、打てなくてどうします」
クロイツ卿は椅子に同じように腰掛け、これまた成長を喜ぶ親のようにくつくつと笑った。そこだけ見れば、二人は確かに親子であった。ジョルジュは複雑な気分であったが、ふと目を向けた主人の温かい眼差しに、一気に安堵した。自分は間違ってはいなかった。
「若者に金貨十枚か。ジョルジュ、貴様人を見る目はあるぞ」
「……は」
「この者は私のガードを一息に斬り捨ててみせた。一人は元正騎士だぞ。良い拾い物をした」
「喜んでばかりもいられないと思いますが、お父様」
賛辞の言葉をただヨシュアに贈り続ける父親に、娘は冷静な言葉を浴びせた。彼女は父親と同じく冷徹であった。
「どういうことだ」
「お父様の考えることくらい察しがつくというもの。輿入話を了承させる代わりに、『出資話』をちらつかせたのでしょう」
「……そうだが」
クロイツ卿の手段は単純ながら効果のあるものであった。今どき貴族であるだけでは金は手に入らない。自分の領土を任される帝国貴族二十家のような絶対強者以外の貴族は、皆何かしらの形で稼ぐ手段を身につけている。
しかし時折、プライドばかりが先行した挙句、家の財産を食いつぶす貴族も存在する。一夜のパンにもならぬ家の栄光だの歴史だのを抱いたまま、家は没落してゆく。
そうした人々に、クロイツ卿は手を差し伸べてきた。歴史の影に眠る、埃を被った持ち腐れの利権を奪い、哀れなプライドの塊にトドメを刺しながら。実際に、命を断った者も少なくなかった。
「フォーシェ卿は責任感のお強い方と伺っていますわ。……そして戦争時代、老獪な手段を使った方だとも。今まで食い殺してきた有象無象の貴族とは違うはず」
「……ユーディト。お前は、彼らが私に報復を仕掛けてくるとでも?」
「ええ。それも、お父様。あなたが最も嫌がるような手段で。得てして賢人は、報復に最上の効果を求めるものですから。お父様の名誉が何もかも失われてしまうような報復を考えていらっしゃるのでは?」
ユーディトはくるくると人差し指でこめかみあたりの髪を巻き取りながら、まるで明日の予定でも話すように言った。クロイツ卿は娘の言葉を退けてしまうような愚かな人間ではなかった。彼は杖を取り、椅子からゆっくりと立ち上がった。
「フウム。あまり愉快ではないな。……私も、そろそろ本物の名誉とやらが欲しかったのだが。なにせ金はもう余っているからな」
「フォーシェ卿が聞いたら卒倒なさるでしょうね」
「貧乏貴族には分からぬ苦労だろうよ……さて、若者よ。待たせたな。貴様には報酬をやろう」
クロイツ卿は上等な上着の内ポケットから、革の財布を取り出すと、金貨を十五枚取り出し、壁にもたれかかっていたヨシュアの側の床にばらまいてやった。彼は死んだ目でそれを拾い集める。失った命を集めているような気分だった。
「……足りねえ」
彼はぽつりと呟いた。まるで自分の身体が食いちぎられたようだ。
「ユーディトの分は既に支払った。貴様にはもう一仕事してもらわねばならなくなった。何、簡単だ。お前は剣を振るえば良い」
結局、アリエッタはジョウに付き合う形で、歴史書の清書のアルバイトを続けた。目から水分が失われたかのような気分だった。カサついた目を擦るが、何も解決しない。彼女は手洗いだと言って再び席を立った。屋敷は静かであった。
「一体何事だと言うのだ!」
「お、落ち着いてください!」
「これが落ち着いていられるか! ゲイルズ、私のヴィクトルはどこへ行ったのだ!」
「わ、わかりかねまする……ユタカの姿も見えませぬので……」
扉の外へと響くその声。狼狽しているのはおそらくゲイルズだろう。では話しているのは、屋敷の主人か。アリエッタはあの不安げな少年──ユタカの顔を思い出す。仕える主人の結婚話に不安を抱いていた彼の顔を。
「ま、まさか……まさか……馬車だ! ゲイルズ、馬車を呼べ! ……クロイツ卿の元に行くぞ!」
扉を押し開け、老紳士は真っ青な顔で外へと飛び出していく。昨日までニコニコしていた家臣もそれに続く。何かあったのだ。それもとびきりまずい何かが。あの主思いの少年に、何かが起こった。それだけで、アリエッタは身を裂かれるような思いがした。彼女はあのくらいの少年に、特別思い入れがあるのだ。
「何、何なの?」
彼女の行動は早かった。隣で作業をしていたジョウを引っ張りだし、事の次第を伝えたのだ。
「それがなんだってのさ。慌てて言うもんだから、びっくりしたよ」
「とにかく、妙に気になるのです。クロイツ卿の元に行くと言っていました。ジョウ、調べてもらえませんか」
「お金にならないじゃん。アリー、僕は一応仕事でやってんの。慈善でお腹は膨れないんだよ」
アリエッタは仕方なく、修道服の袖から財布を取り出し、なけなしの銀貨を一枚渡した。ジョウは細い目をハンチング帽で隠すようにぐいぐいとかぶり直すと、大きなため息をついた。
「分かった。そこまで言うなら動くよ。でもこのお金は返せないからね」
「お願いします、ジョウ」
クロイツ卿の屋敷くらいであれば『つなぎ屋』ジョウにとって簡単に見つけられる。そして、その屋敷にネコのように忍びこむのもお手のものだ。彼は天井裏を慎重に歩き、人の声を頼りに目的の部屋を見つけた。天井板と板の間に、小さな鉄の板を差し込みずらすと、瀟洒な部屋の様子が手に取るように分かった。その中には。ジョウにとって実に見覚えのある人物がいるのであった。
「大変恐縮ではございますが……こればかりは」
寝ぐせだらけの収まりの悪い黒髪。白いジャケットを羽織り、剣を腰に二本差した憲兵官吏が、両者の間を取り持っていた。しかも珍しく、数人の駐屯兵を連れている。よほど大事であったのだろう。
「何を申すか! 貴様憲兵官吏であろう! このように揉め事あらば解決するのが……」
「フォーシェ卿、我々憲兵官吏は、貴族の皆様の揉め事に立ち入れない事になっているんです。どうか誤解なきよう、もちろん実際に事件があり、憲兵団に要請があらば捜査は行いますが、貴族同士の揉め事となればこれはまた別です」
ドモンはいつもより三倍は丁寧な口調で続けた。
「クロイツ卿も何のことかお分かりにならないと仰られている以上、我々は何もできかねます」
「馬鹿な!」
ゲイルズもまた声を荒げる。クロイツ卿、そしてその隣に座った娘らしき少女──そして後ろに控える執事も、困惑した表情を作っていた。
「フォーシェ卿。卿の心中察するに余りある。ドモン君と言ったね。少し扉の外で待っていてもらえないか。何数分で済む話だ」
ドモンは貴族の前での立ち居振る舞いを心得ていた。彼は見た目だけならば、恐縮しきった冴えない憲兵官吏に見えた。彼は言うとおり、応接間の扉を静かに開き、するりと外へと出て行った。部下もそれに従い、再び貴族達だけの会合となった。
ゲイルズは主人を振りほどき、クロイツ卿の胸ぐらを掴んだ。ジョルジュがわずかに動いたが、クロイツ卿は冷静にそれを手で制した。
「ヴィクトル様に何をした!」
「少なくとも私は何もしておらぬ。フォーシェ卿、卿は家臣の教育がなっておらぬようですな」
「やめなさい、ゲイルズ。……クロイツ卿、お教え願いたい。なぜこのような事になったのか」
「決まっていることじゃなくて?」
狼狽するフォーシェ卿に、優雅にユーディトは言い放った。
「勝手に人を嫁に選んでおいて、私が拒否をするという選択肢は思い浮かばなかったのかしら。もう一度あなたの前で言うわ。あの絵に描いたようなお子様のヴィクトルと結婚するなんて嫌よ。死んだ方がマシ。……でも私が死ぬのは嫌だから──ヴィクトルに死んでもらったほうが助かるわ」
フォーシェ卿も、ゲイルズも絶句した。話が違う。何もかも。報復さえも遅かった。クロイツの家の者共は、自分たちから全てを奪おうとしているのだ。
「私も人並みに親でな。娘がこう言うと実に弱い」
フォーシェ卿は冷静さをかなぐり捨てた。突如床に頭を擦り付け、涙混じりの声で乞うた。家臣として主人のそのような姿は見ていられないと、ゲイルズが必死に立ち上がらせようとするも、フォーシェ卿は聞かなかった。
「お願いを申し上げる、クロイツ卿。何卒、命だけは……ヴィクトルの命だけは!」
「私に頼まれても困る。例えの話をしているのだ、フォーシェ卿。何も起こっておらぬ。ヴィクトル殿は下男と一緒に散歩に出かけておるのであろう? まあ散歩途中に何かあるかも知れぬが、それは私達とは全く関係のない話だ」
フォーシェ卿は上着のポケットから財布を取り出し、金貨を五枚取り出した。いつだったか、質屋で先祖代々の剣を質入れした時に手に入れた金であった。
「金貨五十枚には足らぬが、一両日中に必ず、必ず……」
クロイツ卿は冷ややかにその金を見下ろした。そして彼に告げた。まるで死罪を宣告する、裁判長のごとく。
「私はその手の約束は聞かぬ事にしている。はした金はしまいたまえ。……ドモンくん、迷惑をかけたな。連れて行ってくれ」
駐屯兵が手早くフォーシェ卿を取り囲んだ。触れはしない。憲兵団は貴族同士の揉め事には、指一本触れない。人の壁に絶望とともに囲まれたフォーシェ卿とゲイルズには、もはや追いやられるしか選択肢がなかった。
「羨ましいよ」
男は刃に自分の身を映しながら呟いた。南西地区郊外のあばら屋。元は何かの倉庫だったのだろうこの小屋も、使われなくなって久しいようであった。
「俺には心配してくれるおやじもおふくろも、もういない。帰る故郷もない」
刃が輝く度に、少年たちは恐怖した。ヴィクトルは涙を浮かべ、ズボンすら濡らした。ユタカはそんな主を見詰めることしか出来なかった。彼らは縄で縛られ、さるぐつわををかまされて、床に転がされていた。
「どうするね、執事。俺はどうすればいい」
ヨシュアは黒き執事に問うた。居場所を作るために牙を研いできた犬には、命令に忠実なことだけが信頼の証であった。執事──ジョルジュは、しばらく哀れみを帯びた瞳を、子どもたちへと注いでいた。
「……殺せるのか? 子供だぞ」
「そうしなければクロイツ卿は俺を殺すだろう」
「そうだろうな」
執事は美しい主人の事を考えた。脳裏に浮かんだその姿が、彼の全てを肯定した。何も怖くはない。穏やかな、閉じた世界が、彼を待っていた。彼はヨシュアの肩を叩き、言った。
「殺せ」
ヨシュアはまず、ヴィクトルに刃を突き立てた。何の感慨も生まれなかった。故郷でやったように、鶏をシメた程度の認識であった。生活の糧なのだ。仕方がない事だ。
ユタカは無慈悲なる行いと、自らの運命に涙した。彼は塞がれた口でつぶやく。
「お守りできず申し訳ありません、ヴィクトル様」
彼は刃を突き立てられ死んだ。ヨシュアの顔に、返り血が飛ぶ。無感情な瞳。ヨシュアの心には、もはや何も残っていなかった。
深夜。
崩れ落ちた教会の天井から、月明かりが覗く。ドモンはもはや扉の様相を呈しているだけの木の板を押し開け、中へと入っていく。
「シケた面してますねえ、あんたたち」
そう言い放つドモンの表情も、暗かった。フォーシェ家の唯一の跡継ぎ、ヴィクトルと、お付きの下男・ユタカが、無残な惨殺死体として発見されたのだ。憲兵団の捜査はなんとその日の内に打ち切られ──フォーシェ家の貴族階位の剥奪が宣言された。よほどのことがなければありえない措置だ。どんなに落ちぶれても、貴族は貴族でいられる。国に対する反逆行為でも発覚しない限りは行われない。今回それがあった。誰がどう考えても、誰かの差金であった。
「……気分が悪いのよ。こんな事、あっちゃいけないわ」
シスターは禍々しい赤渦を巻いた右目を、くすんだブルーの前髪から覗かせつつ言った。彼女は神に仕えている。誰よりも人の正しさを信じている。だからこその怒りであった。
「二本差しの旦那。今回の事は、クロイツ卿とその娘が仕掛けたことなんだけど……どうやら裏に同業者がついてるらしいんだ」
ジョウはいつもよりも低い声でそう言った。
「憲兵団の捜査でも、誰かは分かりませんでしたよ。しかし、同業者ですか。厄介ですねえ。断罪で返り討ちに遭うのだけは、勘弁ですからね。……で、どんな野郎です」
「茶髪の、ガタイのいい剣士だよ。芋っぽいけど、雰囲気は本物だった。……クロイツ卿の屋敷では、ヨシュアって呼ばれてたみたいだ」
小さな瓦礫を踏み潰したものがいた。影を纏い、まるで暗黒から抜け出たかの如き、黒いシャツにスーツ。赤錆色の束ねた長髪。赤いネクタイとそれを留める市松模様のネクタイピン──そして、この世のものならざる雰囲気ただよう白い肌の、作り物めいた顔だけが、闇に浮いているような気がした。傘屋のレドである。
「……確かか」
ジョウは彼の疑うような言葉に、不満そうに答えた。
「僕は人の名前くらいきちっと覚えてられるよ」
レドは自身のトレード・マークである、傘のハンドルを強く握った。彼は無口であった。だが、玄人である。すべきことは、どんなことがあっても遂行してみせる。ドモンはそんな彼を見て思う。恐らく彼に何かあったのだろうと。
「金貨五枚。殺されたヴィクトルの結婚資金にするつもりだったらしいよ。……だから一人頭金貨一枚、銀貨二枚、銅貨五枚って感じだね」
アリエッタはじゃらじゃらと自身の財布から小銭を取り出すと、うまく両替を終え、腐りかけの木の聖書台に金を置いた。ドモンがまずその金を取り、白いジャケットの右袖口──隠しポケットに金をしまいこんだ。アリエッタとジョウも、同じように金を取る。そして、レドも。
「……二本差し」
「分かってますよ。そのヨシュアって野郎を自分で殺ろうってんでしょう」
「ああ」
「殺れるんでしょうね」
「……ああ」
彼らのやりとりは短かかった。彼らは復讐代行者である。結果が全てだ。特にこの、レドという断罪人にとっては、それは言葉よりも重要なのであった。
彼らは闇に紛れた。遺された声に、答えるために。
クロイツ家。
薔薇の生け垣は、闇に溶けていた。クロイツ卿はいつものように、窓の外を見下ろしながら安楽椅子に座り、ワインを楽しんでいた。
「旦那様。もう夜も遅くにございます。お体に触ります」
私室の扉をわずかに開き、ジョルジュが淡々と述べる。
「……もうそのような時刻か。時が経つのを忘れておったわ」
クロイツ卿は普段の仏頂面ではなく、笑みさえ浮かべていた。機嫌が良いのだろう。良い剣を手に入れ、はかりごとがうまくいった。彼の楽しみのいくつかが、一挙に手に入ったのだから無理もない。
「良い。貴様ももう休め。……いや、その前にユーディトの様子を見てからにせよ」
「は。かしこまりましてございます。では、おやすみなさいませ」
扉が、音もなく静かに閉じた。
クロイツ卿は見下ろしていた窓にかかる白いカーテンを閉め、ワインボトルの隣に置いてあるランプの火を消した。
大きな影が写った。何者かの影。ぎょっとして、クロイツ卿は振り向く。影は失せていた。カーテンを開ける。闇があった。誰もいない。
ただ、風もないのに、窓が叩かれている。誰かが手を伸ばし、窓を叩いているのだ。
「……誰だ、貴様!」
窓を開ける。夜風がカーテンを弄び──屋根の上に、ハンチング帽を深くかぶった小柄な青年が立っていた。
「どうも。窓開けてもらっちゃって」
「きさ……」
直後、クロイツ卿の首を何者かが両手で掴み、なんとそのまま持ち上げようとする者がいた! 身体が出て、足が出て、クロイツ卿は宙へと浮かび──屋根の上へと引きずりあげられた! 月を背にして立っていたのは、背の高い修道服をまとった女──アリエッタであった。
「ようこそ、天に唾吐く不心得者よ」
アリエッタは前髪を右手でわずかにかき分けると、自らの赤渦を巻いた目で、罪人を見下ろした。そして有無をいわさず首根っこを引っ掴むと、ぐいぐいと屋根のてっぺんへと連れてゆき、強引に立たせた。なんたる高所。クロイツ卿は何かを察し、身体を揺らしながら必死に女に哀願した!
「か、金か! 金が欲しいのか! あるぞ、山ほどある! いくらでもやる、助けてくれ!」
「その言葉が今から行く場所でも通用するといいわね。……さあお行きなさい。神の慈悲が届かぬ場所へ」
無慈悲! アリエッタに背中を押されたクロイツ卿は、右足を踏み出す! 左足を踏み出す! そのたびに懐に忍ばせていた金が、月の光で黄金をはらみ飛び散った!
「誰か! 助けてくれ! 止めてくれーッ! たすけて! とめて! たすけて! とめて!」
屋根の端まで行く頃には、クロイツ卿の足の勢いは止まらなかった。彼は空中へと飛び出し、美しい庭に叩きつけられた。アリエッタはそれを満足気に覗きこんでから、屋根を後にした。
ジョルジュは主人の元へと向かっていた。ユーディトは『使い』を達成した後、彼の事を労った。つらかったでしょう。とても良く頑張ったわね。わたしの可愛いジョルジュ、これからもわたしの役に立ちなさい。
その言葉のひとつひとつが、ジョルジュにとっての喜びであった。彼はそうした言葉のためなら命を賭けられたし、どんなことにも手を汚せた。全ては世界を守るためであった。ジョルジュとユーディト二人の、狭い世界を。
「ご主人様」
ユーディトはベッドへ身を沈めながら、本を読んでいた。彼女は少しだけ微笑むと、本を閉じ側へ置いた。それだけみれば彼女は子供であった。少なくとも、世界のために誰かを殺すような人間には見えなかった。
「様子を見に来てくれたの?」
「はい。……しかし、ベッドの中で読書は良くありません」
「ありがとう、ジョルジュ。ベッドで読書をしたことは謝るわ……でも、あなた一体誰を連れてきたのかしら?」
彼は素早く振り返りながら、組み立て式の杖を取り出した。わずかに扉が開いていた。そこから、冷たい目でこちらを見る者がいることに、彼は気づいたのだ。
「誰だ!」
「……夜分遅くに失礼致します。イヴァン憲兵団憲兵官吏の、ドモンと申します」
「ああ、この間の。……それでこんな夜更けに、しかも屋敷の中まで何をしにいらしたの?」
ドモンの返答を待たず、ジョルジュは杖に魔力を込めた。彼は非公式ながら魔導師であった。敬愛する主人を守る時のみに使う力を、彼は開放し──扉を吹き飛ばした! 爆発魔法! 木製の扉は一気に焦熱し、ちりちりと焦げ付き、火の粉をちらした。
「ご主人様、怪我は」
「無いわ。……とどめを刺しなさい」
主人の言葉を背に、彼は吹き飛ばした扉へと近づいてゆく。世界の破壊者への裁きのために、執事は一歩一歩油断なく部屋を出て、廊下に転がった木の板と化した扉へと近づいた。そして彼は、杖を捻じり、仕込短剣を抜くと扉へと突き立てる! 手応えは──無い! 直後、彼の脇腹に刃が突き刺さった!
「……驚きましたよ。油断したつもりは無かったんですがねえ。じゃ、死んでもらいますよ」
ドモンは握った柄を更に強く握り、脇腹をそのまま裂いた! もんどりうって倒れる執事。悲鳴を挙げるユーディト。彼女はベッドから飛び起き、ドモンを突き飛ばすと、彼にすがりつく。既に命は失われていた。むなしく血が流れ続け、ユーディトの両手にべったりとそれがへばりつく。彼女は執事の遺した短剣を扉から抜いた。ドモンは紫色のマフラーを巻き直し、剣を小さく孤独な少女へと向けた。
彼女が選択したのは、自らの身体に剣を突き立てることであった。苦しみ、執事とともに身を横たえる彼女に、ドモンは何もできなかった。火の粉が大きくなり、屋敷の壁を焼く。この家は燃え尽きてしまうのだろう。ドモンはユーディトとジョルジュの目を閉じさせてやった。
「……地獄の底で、お幸せに」
色街ですら、何も面白くなかった。
ヨシュアは、自分の感情がどうやらすっぽりと抜け落ちたような気分に陥っていた。何も楽しくなかった。金もある。居場所もある。仕事も。
「……レド」
彼が出会ったのは、かつての親友であった。彼は赤い傘を持っていた。見慣れぬ格好。鋭い、人ならざるような冷たい瞳。ヨシュアは闇を見た。そしてその同じ闇を、目の前のかつて親友もみたのだと思い至った。
そしてその闇が、自分を殺しに来たのだと。
レドは傘の留め具を外し、中に手を突っ込むと、骨を一本折り取った。鋭い銀色の鉄骨。ヨシュアは剣を抜く。レドは左手で握った傘をヨシュアに向かって投げた。風を受けた衝撃からか、ヨシュアの目の前で赤い傘が開く! 彼はそれを払いのけるように剣を振るい、天高く吹き飛ばした。レドは──いない。見失った! そう思った次の瞬間、彼の首裏に、鉄骨がねじ込まれていた。ずぶずぶと埋まっていく、冷たさ。
開いた傘がゆっくりと落ちてくるのを、レドはうまく取り──赤く血染めになった鉄骨をヨシュアから引き抜き、傘へと戻した。
ヨシュアは膝を付き、ゆっくりとその場に倒れ伏した。レドの手──黒い革の手袋が避け、わずかに血が流れていた。レドは傘を閉じ、何事も無かったかのように夜道を歩き始めた。
かつての親友は闇に消えたのだ。そして、いずれ自分も。
イヴァンに夜の帳が下りた。
拝啓 闇の中から帳が見えた 終




