拝啓 闇の中から長日が見えた(Bパート)
午前十時。
イヴァン北東部、高級住宅街ファム・ファタール・ストリート。帝国貴族、マシュー・ロドリゲスの屋敷の前に、『つなぎ屋』ジョウと、シスター・アリエッタは辿り着いていた。二人は友人であり、今は仕事仲間であった。ジョウは自分の金髪をかき上げながら、頭に載せたハンチング帽を持ち上げた。羽ペンで糸を引いたように細い目で、立派な屋敷を見上げる。
「どう、すごいところでしょ」
屋敷から目を離すと、見上げるような巨躯の女性が彼の視界に入る。修道服に、目元をくすんだブルーの前髪で覆った彼女は、うるおいのある唇に指を当てながら嘆息する。彼女の胸は豊満であった。
「凄いですね。とても大きいです」
あまりの威容にアリエッタの語彙は枯渇する。そんな彼女の腰を叩き、ジョウとアリエッタは屋敷へと足を踏み入れた。
「お待ちしておりました、つなぎ屋のジョウ様でいらっしゃいますね」
初老の背の高い燕尾服に身を包んだ執事が、深々とジョウに礼をした。彼の仕事は文字通り『つなぐ』ことである。情報のやりとり、届け物、人手不足による仕事──彼がつなぐものは多岐にわたる。
「旦那様はこちらでございます。……お連れ様は、シスターでいらっしゃいますか」
執事はアリエッタが首から下げている小さなロザリオを見て、率直な質問を投げかけた。
「そんなところ。ビジネス・パートナーってやつ」
「左様でございますか。それは失礼を致しました」
階段を上がり、ひときわ大きな扉へと執事はノックした。中から穏やかな返事がしたのを合図に、執事は中へ入るよう二人を促した。左右、そして目の前の壁は、天井まで届くはしご付き書架で覆われた執務室の真ん中に、これまた積み上げられた書籍に埋もれたデスクがあった。積み上げられた本の山から、声が響く。
「やあ、すまない。こちらまで回ってもらえるかな」
二人がデスクの後ろへ回ると、床に本を広げ、床を机に何やら羊皮紙に書きつけている男がいた。チェーン付きの分厚い眼鏡をかけた、天然パーマ気味のもじゃもじゃな黒髪の男であった。クリーム色のガウンのまま、なおも書き付けをやめない彼の姿は異常であった。
「仕事が好きなんでね。やめられないんだ。このまま失礼するよ」
「あなたが、マシュー・ロドリゲス卿でいらっしゃいますか」
ジョウは珍しくかしこまった様子で言った。マシューは上体を起こし頬杖をつくと、わずかに歯を見せて笑う。
「おいおい、やめてくれ。マシューでいい。貴族の看板なんて、あってないようなものさ。大手柄を立てた平民の親父が、領土の代わりにもらった位階を、僕が大事にしてるだけなんだから」
ジョウはアリエッタに同意を求めるように、笑みを浮かべた。マシュー・ロドリゲスは帝国行政府科学技術局の設計部長を務める、変わり者の貴族だ。平民出の下級貴族で領土も持たぬロドリゲス家であったが、現当主であるマシューには、学術に対する才能があった。彼は科学──こと、電気科学を修め──帝国の次世代を担う存在として、科学技術局に入局後、あれよあれよと出世を重ねたのだった。
「それで、今日はちょっと面倒を頼みたいんだよ。緊急事態ってやつでね。どうしても人出が足りない。つまり、『口の固い』人材がね」
「その点についてなら、問題ないよ。つなぎ屋はなんでも扱う何でも屋みたいな稼業だから。マシューさん、言っとくけどこっちのアリエッタの口も固いよ。カチカチさ」
マシューはなるほど、とやはり歯を見せて笑い、指を鳴らした。どうやらそれが、執事への合図になるらしかった。初老の執事が音もなく扉を押し開け、深々とお辞儀をした。
「旦那様、お呼びですか」
「ああ。奥の部屋に通してくれ。早速、作業を始めてもらうんだ」
執事に促され、マシューの部屋から出たジョウとアリエッタの二人は、屋敷のさらに奥へと進む。
「こちらでございます」
薄暗い部屋であった。執事が素早くランプへ火を灯し、机に無造作に置くと、薄暗い部屋が仄かに光を帯びた。そこには、蛇がのたくっていた。アリエッタは思わずひっと小さく声をあげたが、蛇の正体をくすんだ青い前髪の下に隠れた瞳で理解した。
「何かの配線だね、これは」
つなぎ屋という稼業を営むジョウの知識は大変幅広い。様々な仕事に首を突っ込んでいく以上、相手と対等、もしくはそれを上回る知識がなければ、他ならぬ依頼人にナメられてしまうからだ。
「その通りにございます。実は、専門の技術者にこの実験装置の組み立てを依頼したのですが、到着がどうにも日取りに間に合わないようでして。マシュー様も心得があるので、途中まで組み立てはしたのですが、あのようにお忙しい方ですから、これでは完成がいつになるか分かりません」
「では、この装置を完成させろというわけですか。私達ふたりで」
アリエッタはランプを持って掲げ、部屋全体を照らそうと試みる。どうやら広いらしく、闇は深く広がっていた。
「七割程度は完成しております。後は組み立てと調整ですので、専門的な知識はほぼ不要なのです。配線は、マシュー様から書付を預かっておりますので、それで事足りるかと」
「妙だね。そこまで出来てるなら、マシュー様が完成させればいいじゃない」
ジョウに浮かんだのは、もっともな疑問であった。時間をかけて七割完成したのなら、もっと時間をかけて自分が完成させれば済む話だ。執事は申し訳無さそうに目を伏せながら、淡々と理由を述べた。
「それが困ったことに、刻限は今日なのです。それも、五時間後でして。マシュー様はあの通り大変お忙しい方。今日の二時までに仕上げねばならない設計資料が四つもございまして、手が回らないのです。お願いでございます。もし完成すれば、お礼と致しまして金貨二十枚を報酬としてご用意させて頂いております」
二十枚。降って湧いた大金の額に、ジョウとアリエッタは思わず目を見合わせた。二人で分けても金貨十枚、当分仕事をせずとも暮らしていけることだろう。
「ジョウ、ぜひやりましょう。これはまさしく神のご意思。一度の奉仕で多大な愛を得ることができるでしょう」
彼女のいう愛とは、恐らくは娼館で買えるものであろうが、ジョウにとって金は生活の糧だ。得る前から使い道を想像し、思わずニヤつく。
「じゃ、さっそくとりかかろうか。ああ、マシュー様には任せておいてって伝えてよ」
午前十一時。
一時は騒然となった公会堂の控室であったが、イラつくジャックをよそに、研究者たちはようやく落ち着きを取り戻していた。
何しろ、午前十時を過ぎても何も起こらなかったのだ。襲撃者の影も形もない。十一時になり、最初の研究者が発表を始めたが、未だに何も起こる素振りはない。
『ジャック、今回はどうやら何も起こらないようだ。テロの情報は間違いだったんじゃないのか』
耳栓式の魔導回路を組み込んだ最新型通信機器から、ウィリアム局長の声が鮮明にジャックの鼓膜を叩いた。彼の声にノイズは走っていない。音質は極めて良好だ。
『イヴァン内部に散らばって詰めている遊撃隊員二十九名からは、特に異常報告はありません。局長の言うとおり、誤報だったのでは』
誤報。クローディアの声に呼応して、ジャックの脳裏にあの隊員の姿が蘇る。頭を撃ち抜かれてまで、証拠の隠滅を図ったあの隊員の姿が。
「いや! どう考えてもおかしい。あのメモには、場所と時間が書いてあった。それを持っていた隊員が命を落としたんだ。今回のテロが誤報だというなら、あの隊員はなぜ殺されたんだ!」
『気持ちはわかるが、ジャック。我々の迅速な動きを警戒して、テロリストが引き上げた可能性もある。憲兵団に警戒班の派遣を要請する。君は引き上げるべきだ。テロの脅威はもしかすれば、別の場所で起こるかもしれん』
ジャックは唸った。なおも不安げに目を伏せるシャイアン博士を見やってから、耳栓から伸びた音声入力装置に対し話しかける。
「分かった。警戒班を要請する。しかし! 俺はまだここに残る!」
『ジャック、警戒班が来るなら君がいても仕事はないぞ』
「警戒班が来るまでだ、ウィル! いいか! テロの脅威は、まだ終わっていないはずだ! 俺はシャイアン博士の安全を確かめる。またかけ直す!」
一方的にそう言い放ち、ジャックはぎろりとあたりを見回してから、シャイアン博士の警護の任務に当たっている騎士へと近づいた。彼ら二人はジャックを警戒してか、訝しげな表情を浮かべる。
「君たち、騎士団はシャイアン博士の警護についてこれ以上人員を割く予定は無いのか」
胸当てに篭手を当てた、軽装の騎士二人は顔を見合わせる。二人の内、三十絡みの男性騎士が口を開いた。
「しかし、シャイアン博士にこれ以上ぞろぞろと警護を増やすわけにも」
「増やすんだ! もし、博士の身柄がテロリストにわたってみろ。このイヴァンがテロの脅威にさらされることとなる! そうなれば、イヴァンだけでなく! 帝国全土がテロの脅威に怯えることとなる!」
「しかし」
「しかしもだってもない!」
ジャックの大喝にたじろいだのか、三十絡みの騎士は部下の騎士に顎でしゃくる。慌てて飛び出して行った。
「ミスタ・バウアードとおっしゃいましたわね」
寝ぐせなのか、アップにした前髪が跳ねている女──セリカが不意に立ち上がり言った。怒気に包まれたジャックの視線にも、臆するような様子はない。彼女は曲がったことが大嫌いなのだ!
「先程から見ていれば、あなたの行動は乱暴そのものですわ。国家のためとかおっしゃいますが、それならもっと丁寧に」
「セリカさん、そう仰らずに」
シャイアンは彼女を引き留めようとするが、そんな彼を振りほどくような勢いで、セリカはなおもジャックの目の前から離れようとしない。
ジャックはゆっくりと彼女へと近づき、両肩を掴むと、彼女の目鼻の先へ顔を近づけた!
「丁寧にしていれば、テロが防げるというのなら、そうしよう。だが現実はそうじゃない。俺はこの国をテロの脅威から守るためならば、なんだってやる。今はシャイアン博士の安全が第一だ。彼の安全を守るために全力を尽くす。しかし、このような事に巻き込んでしまって──本当にすまないと思っている」
その時であった。公会堂のホールの方から、突如悲鳴が上がった! 同時に響き渡る怒声! ジャックは耳栓の魔導回路を起動させる。クローディアから応答があり、彼はすぐにウィリアムにも聞かせるよう指示した。
『ウィリアムだ』
「俺だ! ウィル、緊急事態だ。ホールで悲鳴が上がった!」
『なんだと。博士は』
「俺と博士は、まだ控室にいる。警護の騎士を一人、騎士団への使いにやったから、俺ともう一人の騎士だけだ。警戒班の到着はまだか!」
『二分前に憲兵団本部付近を警戒していた遊撃隊員に、要請を出させた。しかし、憲兵団だからな……脅しつけるようには言ったが、まだ時間がかかるかもしれん。なんとか、零時まで時間を稼いでくれ!』
午後零時。
突如降るように飛び込んできた任務──それも起こるかわからぬようなテロを警戒せよとの任務に、憲兵団筆頭官吏・ヨゼフは頭を抱えた。遊撃隊と憲兵団はいわゆるライバルのような関係にあり、互いに点数の取り合いをしている。特に遊撃隊は広域捜査を担当していることもあり、帝都イヴァンに根付いて捜査を行う憲兵団のねぐらに、捜査の名目で堂々と入り込んでくることも多々ある。それだけならばまだしも、手柄をかっさらっていくこともしばしばあるのだ。よって、ヨゼフの人選は必要最低限の段階まで落ちてしまったのであった。
「メルヴィンさん、じゃよろしくお願いします」
とても憲兵官吏には見えない、まるで学者のような、細い優男であった。金色の巻き毛に垂れ目の彼は、眠そうに目をこすっているドモンからメガホンを受け取ると、弱々しげな声で言った。
「えーと。テロリストの皆さん! この公会堂は完全に包囲されています。直ちに人質を開放し、出てきてください。お願いします」
「メルヴィンさん、お願いしますは無いでしょう。相手はテロリストですよ」
ドモンの指摘に、メルヴィンははあ、と生返事をする。彼は常時この調子なのだ。これでも帝国貴族の三男坊とかで、極めてお人好しで善良な人物なのだが、どうにもこうした荒事に向いていない。よって憲兵団では普段『公正取引班』の班員として主に頭脳労働を担当している。そこでもどこか抜けているとかで、お荷物扱いされているのだが。
「しかしドモンさん。相手も人間でしょう。なら、呼びかければ応えるのでは。それにもう少しで騎士団も大挙してやってくるはずですよ。団長からも、そう仰せつかったじゃないですか」
ドモンはあまりにも日和った考えに頭を殴られたような気さえした。もともと彼はお坊ちゃん育ちで、人を信じ過ぎるのだ。憲兵官吏に向いているいないの時点にすら立っていない。そもそもお目付け役としてドモンをつけている時点で、憲兵団がこの事件を軽く見ていることの証拠だ。
「ま、騎士団の到着まで何も起こさないというのは同感ですけど。……とにかく、取り囲んで蟻の隙間もないように──」
「何よ、これ!」
駐屯兵や小者達をかき分けて、二人の男女が現れた。短い茶髪の女が、ドモンにとって見覚えのある男の肩にかつがれ、布を巻いた大きな長いものを背負って現れたのだった。男の──レドから視線を一瞬外してから、ドモンはなんでも無いように二人に聞いた。
「……もうしわけないんですがねえ、ここは今閉鎖中です」
「なんでよ。わたしは運び屋、ここに荷物を搬入しなきゃならないの」
ネコはそう凄むが、ドモンにとってはどこ吹く風である。レドも無言ではあったがその意図を汲んだようであった。
「ネコ、行こう。……旦那、ご迷惑をおかけしました」
「いいんですよ。はやく離れて下さい。離れないと、しょっぴきますからね」
その時であった。公会堂の二階部分の窓が開き、そこから大きなメガホンが突き出した。持っている人物は見えない。
『我々は亜人解放戦線。すべての亜人への正当な権利と、自治区の成立を求めて戦う戦士である!』
その名は、あまり聞き慣れぬものであった。亜人達は現在、自らが統治する国を持たず、帝国国民として暮らしているものが大多数である。しかし中には、十年前の帝国内戦時に自分たちの国──その実態は自治区であったが──を焼いた帝国に与することを嫌い、孤独に戦い続ける者達がいる、と聞いたことがある。彼らも、そうした者なのか。ドモンは自分の少ない知識を元に、そんな推測を立ててみせた。
「要求はなんでしょうか!」
メルヴィンはどこか丁寧に、声の主へ声を放つ。
『我々の要求は簡単だ。最終目的はただひとつだ! 皇帝を亡きものとし、我らの国を焼いたあばずれ……前帝国総代、アルメイ・ポルフォニカの身柄を引き渡すことだ! 要求に応じなければ、人質は全員殺す!』
にわかに、取り囲む駐屯兵、小者──そして人々をざわつかせた! テロリストは本当に存在し──あまつさえその巨大な要求を、命を盾に通そうとしているのだ!
『だが、こちらとて簡単に要求が通るとは考えていない。まずは、そこにいる運び屋の女。そいつを荷物ごとこちらに引き渡せば、中にいる人質を五十人解放すると約束する。決断は一時半きっかりに聞く。この公会堂には、極めて正確な柱時計がある。半時過ぎる毎に、人質百人の内、十人ずつ殺す!』
ドモンは、近くにあるファム・ファタール・ストリート教会の鐘が鳴る音を聞く。最近設置された、一時間毎にぜんまい式で稼働する巨大柱時計の鐘だ。騎士団はいない。現場で頼れる人間もいない。
決断は、彼に託されたのだ。
午後零時五十九分五十八秒、五十九秒、午後一時。




