拝啓 闇の中から長日が見えた(Aパート)
午前六時。
太陽は登りかけていたが、未だ街は暗く闇に沈んでいた。
薄くなりかけた闇の中を、影が一つ歩いていた。影は何か布を巻いた長い物を持っており、自身も身を隠すように、灰色のフードとマントをまとっていた。
「……おい、てめえ! そこで止まりな」
南西地区。その人物は、この地区がどのような場所なのかよく知らなかった。何しろイヴァンに来たのは数年ぶりだ。ここで再開発事業が起こり、頓挫し──治安が悪くなったことなど、知らなかったのだ。身体が大きな目つきの悪いその男は、意地悪くその人物のゆく道をふさぎ、意地悪く聞いた。
「こんな朝っぱらから、どこへ行くんだい」
「さあ、どうだっていいでしょう」
フードの中から響いた高い声に、男は驚き──下卑た笑みを浮かべた。このあたりの治安はとにかく最悪だ。ましてや女が一人歩いていれば、何をされても文句は言えぬ。もちろんそれ自体いむべきことであるが、彼はそれを女に責任転嫁し、自分の行動を正当化することに使ったのだった。
「へへへ……こんな朝だ。仕事にゃまだ早いだろう。鳥だって泣いてねえんだ。だから、ここには誰も来ねえぜ」
女は少しずつ後ずさり──開発が取りやめとなった廃ビルの間へと飛び込む。後ろから怒号が響く。女は足には自信があった。しかし、腕っ節となればそうはいかない。──直後、女は地面へと転がる。足をくじいたのだ! このままでは、追いつかれる!
「待ちやがれ! クソッ! どこへ行きやがった!」
男の怒号が遠ざかる。遠ざかり、やがて消えた。
女は、無理やり口を塞がれていた。道に布で巻いた荷物が転がっている。取りに行かねば。女は手を無理矢理に振りほどく。容易に拘束は解け、それを行った人物にきっと鋭い視線を送った。
「……大丈夫か」
肌の白い男であった。そのくせ、闇に溶けこむような黒い着流しを羽織っている。後ろで簡単に結んだ、赤錆色の長髪と同じ色の瞳で、男は彼女を見下ろしていた。
「こんな時間に、こんなところを通りかかるもんじゃねえ」
フードは、もみ合った時におりてしまっていた。男かと見紛うような短さの茶髪。猫のような鋭いつり目。彼は──レドはおそらく彼女は子供だろうと当たりをつけた。
「……あんただって、そうでしょう」
「俺は違う。家がこの近くだから、散歩をしていただけだ」
「なら、同じじゃない。変質者」
男は自嘲気味に、小さく呟いた。
「そうだな」
「急いでるの」
女は立ち上がろうとする。しかし、くじいた足の様子が酷い。レドはそれを察すると、女へ手を差し伸べた。
「どこまで行くのか知らないが、それじゃ動けないだろう。……俺の家で少し、やすんでいくといい」
「余計なお世話……ッ」
強がろうとする女へ無言で肩を貸し、レドは荷物へと手を伸ばした。持ってやろうと思ったのだ。
「触らないで!」
女は無理やり荷物を掴み、壁によりかかりながら立ち上がる。……歩くことは難しそうだった。
「分かった。……だが、やすんでいくべきだ。当分歩けないはずだ。俺はレド。傘屋だ。あんたの名前は」
女は目を泳がせたが、小さくつぶやく。
「ネコ。私はネコ。運び屋をやってる」
午前七時。
ドモンにとって朝はつらいものだ。鏡に映るたびに辟易する、自身の寝癖との格闘から始まり、眠い目をこすって食卓につく。
「あなた、おはようございます」
「……おはようございます」
妻ティナのはつらつとした挨拶にも、起きているのか寝ているのか分からない調子で返事を返す。目の前には、白パンとサラダ、配達で届いた牛乳。すでに、同居している妹のセリカの姿は無い。彼はゆっくりとそれを口に運びながら、妻に妹のことを尋ねた。
「セリカは……もう学校ですか」
ドモンの妹・セリカは、帝国魔導師学校の教授を務めており、研究者として活躍している。学会などに出席することもあり、そうした場合は朝早く家を後にすることも度々あるのだ。
「義姉様はお忙しいですから。あなたも遅れないようにしてくださいませ。お弁当を作りましたわ」
丸い目をまるで輝かせるように、ティナは弁当を差し出す。どうやら相当に自信があるらしい。
「ええ」
ドモンはなおも目をこすりながら、開いているのか開いていないのか良くわからぬ様子でなんとか白いジャケットを羽織り、弁当の包みをまるでバトンでも渡されるような調子で無理やり持たされると、ふらふらと玄関へと向かった。
「あなた! もっと背筋を伸ばしてくださいませ!」
ティナの一喝で、一瞬だけドモンの背筋に棒でも滑り込んだように伸びた! ドモンはいつもこのようなやりとりをしつつ出勤するのだが、残念ながら妻の理想とすべきような憲兵官吏がこの家から出てきたことはない。
「じゃ、行ってきますから。今日は夜勤なんで、晩御飯はいりませんよ」
「しっかりお勤めなさいませ」
背中で玄関の扉が閉まる。同時に、彼の背中は猫のように丸まる。今日もまた、憂鬱な一日が始まろうとしているようであった。
午前八時。
帝国行政府内、国家安全保障局。帝国設立後、大陸が統一された事で発足した、国内外問わず、防衛政策の立案を行う部署である。国内の諜報活動、広域捜査を行う『遊撃隊』の上位組織であり、国家安全保障局自体にも、そうした捜査機関が存在する。行政府直属で、あらゆる危機に対応すべく設立された特別捜査機関、それが『特命遊撃隊』である。
「クローディア。状況を報告してくれ」
ダーク・スーツの上に灰色のローブを纏った白髪の紳士が、廊下を歩きつつ隣に座る女性に話しかけた。眉根を寄せた不機嫌そうな表情の女性は、紳士の要請に淡々と情報を伝え始める。
「はい。現在、A級ライセンス持ちの電魔法及び水魔法の魔導師を数名招集済みで、通信ネットワークを構築させています。特別捜査官も既に派遣済み、急行中です」
「結構だ。クシャナ総代とのネットワークも繋いでおけ。……これはまさしく、国家の危機だからな」
「ええ、ウィリアム局長。……遊撃隊の情報が遅れたら、一体どうなっていたことか」
事の次第は、二日ほど前に遡る。帝都イヴァンより東の都市──帝国が成立する以前の旧魔国首都にて、遊撃隊員の一人が殺された。
彼はなんと珍しいことに、頭を撃ち抜かれ死亡していた。帝国においては銃は珍しく、狙撃が可能な性能を持つ銃となればさらに限られてくる。しかも、彼は口の中に無理やりまるめた羊皮紙を詰め込み、情報の流出を防ごうとしていた。彼が隠し持っていたのは、帝都イヴァンでテロが起ころうとしていると書かれた手記の切れ端であった。
「みんな、今日は長い一日になるぞ」
ウィリアムは円形のホールに並べられたデスクを、縦横無尽に忙しく行き来する職員たちに激励する。
「しかし、帝国の危機を脱するため、諸君らに活躍してもらいたい。それがわれわれ特命遊撃隊に課せられた使命だ。クローディア、回線を開け。現場はどうか」
クローディアが魔導師に指示すると、魔導回路を組み込んだ巨大ガラスプレートに映像が映し出された。イヴァン北東部、高級住宅街ファム・ファタール・ストリートを抜けた先にある国立ホール『ニンベルク公会堂』だ。ここでは、オペラやコンサート、演劇まで様々なイベントが開催される、巨大ホールである。
「今日、ここでは魔法理論についての学会が開かれています。……それだけならば良かったのですが、今回は重要人物が来賓として招かれているんです」
ウィリアムや他の特別遊撃隊員達は、手元の資料をめくる。にわかにざわつく隊員達。無理もないことだ。ウィリアムは苦い表情を浮かべる。遊撃隊員が馬を飛ばして、この国家安全保障局に届いたのはつい二時間前だったのだから。体勢を整え終えたのは、つい先程。特別捜査官も、手配した馬車を嫌い、自ら手綱を取り現場へ向かっていったのだ。
「その来賓というのが……隣国からドラゴン便で入国した、魔法科学の第一人者──シャイアン博士。彼は特に爆発魔法の研究者として知られており、今回学会で公演を行うとか」
「うむ。テロリストに身柄が渡れば、爆発魔法を悪用されかねん」
ウィリアムは唸った。シャイアン博士は隣国から来た来賓だ。何かあれば、帝国の威信に傷がつく。それだけはどうしても防がねばならなかった。
午前九時。
ニンベルク公会堂の控室では、十数名の研究者が和やかに話をしながら穏やかに時を過ごしていた。学会での発表は、まさしく研究の集大成を披露すべき場だ。
そんな研究者達の中で、コーヒーを飲みながら自らの資料を見なおしているのは、ドモンの妹セリカであった。紺色のローブを身にまとい、化粧も完璧であったが、血が争えないのか前髪が寝癖で跳ねたままであった。
「あなたが、噂の女教授どのですか」
声に応じて彼女が顔を挙げると、後ろに美しいブロンドを撫で付けた、褐色の肌をした背の高い男がこちらを見下ろしていた。ダークブルーのスーツにネクタイを締め、ポケットにはピンク色のハンカチーフを挿している。
「セリカで結構ですわ、シャイアン博士」
「名前をご存知でしたか。これは失礼を致しました。良ければ隣に座ってもよろしいですか?」
「もちろんですわ。どうぞ」
シャイアンはにこやかにセリカの隣に座ると、彼女と同じコーヒーを飲み、彼女の読んでいた資料へと目を向けた。
「魔法五大元素の化学分析が専門と伺いましたが、まさかこんなにお綺麗な方とは思いませんでした。以前の水魔法からの分解分析についての論文は読ませて頂きました。とても素晴らしい研究です」
「炎魔法と爆発についての第一人者の博士にそう言ってもらえるなんて、とても光栄ですわ。……帝国の言葉がお上手でいらっしゃいますのね」
セリカの言葉に、完璧な笑顔を見せながら、シャイアンは照れくさそうに頭を掻いた。
「ようやく帝国も統一され、今やドラゴン便で世界中どこでも飛べる時代です。帝国の言葉を学べば、帝国の論文が読める。これは素晴らしいことですよ。……もっとも、この国に来るのは容易なことではありませんでしたが……」
シャイアンは事も無げに言うが、セリカはその意味をよく理解していた。帝国は他国と積極的な交易を行っていない。一般人の行き来どころか、帝国貴族と言えども禁じている。他国の情報を得て学ぶために、一部の研究者や官僚のみが、海外への渡航が許されているだけだ。帝国の外から来賓が訪れることも、極めて少ない。一介の研究者であるシャイアンがここに来るのは、相当に大変なことだっただろう。
「こうしてお話できたのも、何かの縁。ぜひ、お食事でも……」
魅力的な誘いに、セリカの顔はほころぶ──が、すぐに頭を振った。相手のせいとは言え、離縁してまだ半年も立っていない。すぐに殿方の誘いに乗るのは、いかがなものか──。贅沢な悩みに一喜一憂しながら、口を開こうとしたその時であった!
「全員、動くんじゃない! 全員動くな!」
突然控室の扉が蹴り開けられ、怒号が響く! 突然銃を握った男が飛び込んできたのだ! 薄くなり、額のひろい金髪。丸い鼻にグリーンの瞳。カーキ色のシャツに、履き古した動きやすそうなジーンズ、腰には剣を携えながらも、銃口は間違いなくこの場の全員を捉えている!
「誰だ君は!」
「一体何事だ!」
シャイアンの後ろに控えていた、警護の剣士二人が壁から背中を離し、剣の柄に手を置こうとする。
「動くなと言ったろう! 動けば撃つ!」
「我々は帝国騎士団の者だ! この学会の来賓であるシャイアン博士の警護に……」
「黙れ! そんなことは今どうでもいい! 剣に手を伸ばすな! 全員、両手を頭の後ろにして膝を付け! これは命令だ!」
男の銃口が正確に頭を捉える度に、列席していた研究者や博士、教授たちはおののき、男の言うとおりにしていった。騎士達も最終的に男の言いなりとなった。その中には、セリカとシャイアン博士もいたのだった。
「一体あなたは誰なのですか!」
気丈にも、セリカは乱暴な男に向かって精一杯叫ぶ。男はセリカへ銃口を向けていたが、ゆっくりと肩へ下げたホルスターに銃を仕舞った。
「俺は帝国特別遊撃隊捜査官、ジャック・K・バウアード! 今日ここで、テロが起きるという情報をキャッチした! 俺は、そのテロを未然に防ぐために派遣されたんだ!」
午前九時五十九分五十八秒、五十九秒、午前十時。




