拝啓 闇の中から写しが見えた(最終パート)
「シスター」
薔薇の刺青を露出させたダニエルが、驚きの表情で彼女を迎えた。一方アダムはと言うと、魅力的に笑みを浮かべるばかりだ。
「下で、面白いものでも見たかい? 憲兵官吏が暴れてでもいたのかな」
ダニエルはゆっくりとアダムへと振り返る。アダムはスーツのポケットの裏から、鞘に納まった短剣を引き抜き、応接テーブルへと置いた。
「アダム、あなたは一体何をしようと言うんです」
「僕らは、多くの物を奪われた」
アダムはゆっくりと窓へと近づき、眼下に広がる光景を見る。会社の入り口を囲むように、憲兵団の制服が翻る。殺到する駐屯兵を合わせれば、二十人はいるだろうか。
「だから、僕らは得てきた。金に、地位に、名誉に──ダニエル、そうさ。僕らは得てきたんだ。……でも、僕らが奪われたものは、永遠に帰ってこない。僕らは両親の顔も知らない。友人も奪われた。僕らは人生を奪われ続けたんだ! 人生は、戻ってこない! そうだろ、シスター!」
彼は激昂しながらそう言い放つ。彼の言葉は、同じような立場にあった彼女の心に突き刺さった。
故郷を追われ、名を変えたアリエッタは、犯した罪から許されたい一心で、神に仕えるシスターとして洗礼を受けた。その後でも、彼女の周りには汚名がついて回った。彼女は目に見えぬ『人のうわさ』から逃げるように、イヴァンへと辿り着いた。当然、そんな彼女を置いてくれる教会や孤児院は限られる。折しも時代は、皇帝暗殺で帝都は混乱状態。よそ者のアリエッタへの目は、非常に厳しかった。
「あの孤児院は、孤児院なんかじゃ無かった。イヴァンでホームレスになった戦災孤児を集めて、変態に売ってた」
「アダム。シスターは、悪くありません。僕らを助けてくれたんです。あの男は、僕らを」
「ああ、そうだよ! 忘れたなんて言わせないぞ、あの男の事を!」
当時のアリエッタは、知らなかった。子どもたちがみんななぜ、泣きそうな顔をしながら孤児院を離れていくのかを。喜捨も少なく、特に布教活動もしていないのに、なぜ潤沢な活動資金があったのかを。彼女がすべてに気づいた時には、何もかもが手遅れだった。
その日、幼いアダムとダニエルは青い瞳に涙を溜めて言った。行きたくないと、アリエッタにすがりついた。彼らはアリエッタが最初に任された子供であり、短い期間の中で培った信頼があった。まるで、血を分けた家族のような──そんな信頼が。使者は無情にもそんな彼らをアリエッタから引き剥がした。彼女もまた、彼らに優しく行くよう諭す。それが、彼らを地獄に叩き落すことになることなど、知らなかったのだ。
『君たちはとてもきれいな顔をしているね』
豪奢な屋敷。高い天井。曲線を描く美しい装飾を施された白い椅子に、男は座っていた。アダムもダニエルも、その顔をよく覚えてはいない。
ただ、これまた白く美しい装飾を施されたテーブルの上には、鋭い針に、白磁の皿に解いた赤と黒の塗料──そして、ナイフが二振り置かれていた。
『君たちの名前を教えて欲しい』
アダムとダニエルは顔を見合わせた。ダニエルは不安げな面持ちのアダムを手で遮ると、一歩前へ出て言った。
『僕はダニエルです。こっちはアダム』
『そうか。こっちにおいで、ダニエル。君の顔をよく見せて欲しい』
男は細く骨張った腕をしていた。まるで死神のような、冷たい手をしていたことをよく覚えている。
『美しい。澄んだ、青い、瞳だ。アダムも、同じなのかな』
『そうです』
『まるで金糸のようだ。美しい金髪だね。君たちはまるで写しを取ったように同じなのだね』
男は嘆息し、椅子を引いてダニエルにあてがった。男はダニエルの瞳を覗きこむように見つめたまま、テーブルへ手を伸ばした。男の手には、針。ダニエルは目を見開き、右頬に差し込まれた針による焼けるような痛みに絶叫した!
『アダム。ダニエルを良く見たまえ』
アダムは男の言葉で地面に縫い付けられたように動けなくなった。叫ぶダニエル。精密な動きで、兄弟に針を打ち込んでいく男に、アダムは何もできずただ涙を流した。
『写しそのままでは、アダムかダニエルか、どちらなのか分からない。ダニエル、君は君であるための印が必要だ。よく出来た剣に名前を入れるように、良い壺に印を刻むように』
一時間、二時間──もはや双子には、どれほどの時間が経ったのか分からなかった。この地獄は、いつまで続くのか。アダムは目を閉じる事も許されぬうちに、片割れの頬に美しく薔薇が咲くのを見た。青白さすら感じるダニエルの頬に咲いた花は、幼いアダムにすら美しいと思わせた。
アダムにとって、ダニエルは鏡だった。鏡はいつも変わらずそこにあった。十五歳を過ぎても、鏡以上に彼の価値観を書き換えるものは無かった。
ありえない光景。鏡に咲いた花に、アダムは嘆息する。なんという美しい花なのだろう。
『ダニエル、君はとても強い子だ』
男は言った。彼は自らの手で温かいココアを作って出し、今日は寝るように言った。アダムは興奮から眠れなかったが、ダニエルは違った。彼は泣いていたのだ。
『ダニエル、どうして泣いてるんだい。よほど、薔薇が痛かったのかい』
『……それも、あります。でも、目が』
『目?』
『とても恐ろしかったんです』
鏡はこちらを向いてくれなかった。アダムは、彼に咲いた薔薇をそれこそ穴を開けてしまう程見たい気持ちでいたが、それは叶わなかった。とろとろと眠りに落ちる寸前。彼はダニエルの小さな呟きを聞いた。涙混じりの、嗚咽にも似た呟きを。
『孤児院に、帰りたい……シスターに、会いたい』
次の日には、ダニエルは屋敷を抜けだした。イヴァン内部の高級住宅街から、孤児院までの距離は短かったのだ。所詮は子供の逃避行、ダニエルはその日の内に連れ戻された。
その日は、雨が降っていた。ひどい雨であった。
男は双子を、椅子に座った自分の目の前に並べ──テーブルに置かれた短剣を二振り、双子へ持たせた。
『君たちはとても美しい。だが、今だけだ。ダニエル、君の頬に咲いた薔薇が、本来ならばはかなく散るさだめであるように』
男はため息をつき、実に気だるそうにそう述べた。そして、彼ら双子にとって最悪の宣告を行ったのだった。
『君たちを引き取ったのは、一瞬の美しさを鑑賞するためだ。花を愛でるように、そしてその花を手折るようにね。君たちは美しい。だから、散りたまえ。その剣で、アダムを刺せ。その剣で、ダニエルを貫け』
アダムは鏡を見た。鏡は恐怖におののき、震えていた。朝露を弾くように、頬に涙が伝う。果たして彼と同じく、自分は震えていただろうか。アダムには分からなかった。
『さあ、始めたまえ。どうしたね』
その時であった。にわかにガラスが割れる音が響き渡った。夜風がまるで待ち構えていたかのように吹き散らされ、ろうそくが消える。アダムは、まるでそれが合図であったかのようにダニエルへと跳びかかり、彼へとのしかかった。鏡は短剣を取り落としていた。アダムはゆっくりとダニエルの身体に刃を突き入れようと、力を込めようとしていた時であった。
『やめなさい』
雷が轟く。雨が割れたガラスから吹き込み、豪奢なじゅうたんを濡らす。影が立っていた。雷が落ちる度に影が伸び消える。長身巨躯の、雨で濡れそぼった修道服を着込んだシスターが立っていた。
アリエッタが孤児院の院長から真実を聞き出すのと、変わり果てたダニエルの姿を目撃した時は、そう離れてはいなかった。彼女は神を信じていた。人の善意を、正しさを信じていた。故郷を追われ、罪を背負ってもそれだけは変わらなかった。彼女は敬虔な信者であった。
だからこそ、彼女は双子を助けに向かったのだ。それが神も認める正しいことであると信じて、危険を承知で飛び込んだのだ。
彼女が雷が落ちる音と共に見たのは、アダムがダニエルへナイフを突き立てようとしているところであったのだ。怒りと共に、彼女は枯れ木のような男へと突進し、首を両手で掴み持ち上げた。苦悶の表情を浮かべる男。刃をなおも突き入れようとするアダム。
ここは地獄で、私は無垢な子供をそこへ送り込んだのだ。
彼女は切りそろえたくすんだブルーの前髪の下で、目を閉じた。そして彼女は、神ではなく生まれてから一度も姿を見たことのない母親に、初めて祈った。
『おかあさん』
自分でも信じられぬほど、彼女は震えたか細い声で呟いた。雨風が吹き荒れ、彼女の前髪を散らす。閉じた目を開き、赤渦を巻いた禍々しき瞳を晒したシスターは、もう『アリエッタ』になっていた。血を分けた父親をくびり殺し、五歳年下の弟を屋根から突き落とした、無慈悲なる罪人へと変わっていた。
彼女は、男の首を持ち上げ、身体を完全に宙へと浮かべて折った。男が血反吐を吐き、アリエッタは罪とともにそれを被った。アダムは血にまみれた彼女を見たためか、短剣を取り落とし、ただ呆然と見上げていた。普段の彼女であれば、アダムを抱きしめただろう。ダニエルを助け起こしただろう。
だが彼女は『アリエッタ』になった。もはや、犯した罪から目をそむけて生きる事は許されない。そして未来ある子どもたちに、漫然と手を触れることなど許されないのだ。
彼女はそのまま屋敷の外へ出て、風雨の夜の中へと消えた。イヴァンからも、完全に姿を消した。
「……あの男は、一つだけ正しいことを言っていた。人間はどんなに積み重ねても、満足なんか出来ない。ただでさえ小さい頃に何もかも奪われたんだ。奪われたものは、帰ってこない。だから、代わりに奪うしか無いんだ」
アリエッタは、アダムの絞りだすような結論の言葉で、ようやく過去から引き戻された。
「君は、一体何をするつもりなんですか、アダム」
ダニエルの言葉に、アダムは笑みを浮かべる。魅力的だが、固い、どこか悲しそうな笑みを。
「ダニエル、ダニエル、ダニエル。僕のきょうだい。君には、選択肢が必要なんだ。君は選択肢を奪われたんだ。奪い返さなくちゃ」
彼はテーブルに置かれた短剣を指さし、言った。まるで、あの日、雷雨の中あの男が言ったように、穏やかに。
「ダニエル、奪うか奪われるか、僕らは選ばないといけないんだ。特に君はね」
「……まさか、シスターを」
「いや、いや! それは違う。……シスター。下で暴れてた憲兵官吏は、そろそろ上がってくるんじゃないのかい。ダニエル、彼は僕らを殺しに来る。君がいったとおり、憲兵団は馬鹿じゃない。あれだけヒントをばらまけば、どんな無能者だろうと気づくさ。自分の妻を殺したのは、僕らだってことがね。真っ先に目に入るのは、君のその頬の薔薇だ。つまり殺されるのは──ダニエル、君なんだよ」
アリエッタは思わず後ろを振り返る。天井の戸板がわずかにがた、と揺れた。ジョウが動いた。
「アダム、殺したのは君です。君が、何人もの女性を殺した!」
「ああ、そうさ。でももうアダムはいない」
アダムは液体で濡らしたコットンを、自分の左頬に押し当て拭った。彼の頬に赤い薔薇が咲く。
「ダニエル、君の存在は僕が奪った。殺したのは僕で、君だ」
鏡は笑った。他ならぬダニエルの意志とは真逆に。
「アダムはもういない。僕は、あの憲兵官吏がいても殺せる。人殺しと一般人は違う。ダニエル、君との違いは唯一それだけになった。だから君は選ぶんだ。僕と同じになるか、決別するか」
あの男の呪縛は、今でも双子を縛り付けていたのだ。アリエッタは、ぎゅうと拳を握りしめる。彼女には理解できていた。アダムはあの男になった。人からすべてを奪い、死だけを与える男に。アダムは、十年前の再現をするためだけに、アリエッタを探し当て、呼び寄せたのだ!
「時間はあるよ、ダニエル。あの憲兵官吏は自ら生贄になりに来た──とはいえ、僕らにも立場がある。僕らはあくまでも、立てこもり事件の末、相手を殺してしまった哀れな被害者じゃなきゃならない。もちろん、君が僕と同じになるならという前提だけど」
アダムは、ダニエルの顔で魅力的に笑顔を浮かべながら、自分の机を指さして言う。
「シスター、もちろん手伝ってもらうよ。ここを一旦塞ぐんだ。ま、夜まで待てば、言い訳は立つだろうさ」
D&A社周辺は、憲兵官吏と駐屯兵で囲まれ、騒然としていた。同じ憲兵官吏であるジェイドによる立てこもり事件。筆頭官吏ヨゼフによる必死の呼びかけも虚しく、ジェイドはなおも立てこもったまま、とうとう夜中を迎えた。
頭数にと連れて来られたドモンは、手持ち無沙汰で仕方がない。何もすることがないし、期待されていないのだ。ヨゼフの見えない位置で、何度目か分からぬ大あくびを決め込んでいた。
「旦那」
路地裏の奥。木箱の影から、小さな声が響く。ドモンは、ヨゼフが大声で投降を呼びかけているのを確認し、周囲を見回してからそろそろと木箱へと近づく。
「緊急の断罪なんだけど、受ける?」
声の主はジョウであった。ドモンは木箱にもたれかかりながら、ぼりぼりと寝ぐせだらけの黒髪を掻いた。
「金は」
「金貨四枚。一人頭一枚ずつ。依頼人はアリーだよ」
「へえ、あのシスターが」
ジョウの言葉は、普段より淡々とした事務的なものであった。彼の声色からは、怒りすら感じられた。彼が語る、アリエッタの過去の一端。ドモンは、何も口を挟まず、彼が語り終えるのを待っていた。
「旦那。あの通り、正面からじゃあのビルには絶対に入れない。問題は、アリーがあそこに閉じ込められてるってことさ。憲兵団が僕らより先に踏み込んで、アリーが捕まったりしたら面倒なことになる」
「なるほどな。そういうことか」
路地裏の暗闇から、黒いスーツを着込んだ男が現れる。まるで暗闇に顔と赤いネクタイだけが浮かんでいるようだ。男の顔は幽鬼めいて白く、作り物のような印象すら感じさせた。
「あんたは一体どこから出てきたんです」
「……さっきからいた。ジョウに断罪だと呼ばれたんだ」
傘屋のレドは、赤い洋傘を杖のようにつき、感情薄くそうドモンに言い放った。ともかく、断罪人は揃った。悠長に議論している暇はない。
「下は僕が何とかします。二人は、どうするつもりなんです」
「下がダメなら、上があるよ。それでなんとかするまでさ」
ジョウはハンチング帽のつばを持ち上げ、夜空に消えるD&A社のビルを見た。レドは既に、ゆっくりと歩き始めていた。
「さて、金貨分の仕事はやりましょうかねえ」
ドモンは懐から紫色のマフラーを取り出し、乱雑に首に巻いた。準備は整った。今夜は難しい断罪になることだろう。
「ジェイド君! もう夜だ! 人質を解放すれば、団長は寛大な処置を約束するとおっしゃっているぞ!」
ジェイドへの説得は各憲兵官吏で代わる代わる行われていたが、半日が経ち夜に突入しても、まるで効果がない様子であった。ヨゼフは苛立った様子でメガホンを放り投げると、折りたたみ椅子へとどっかと座り込む。叫びすぎて貧血を起こしたのだ。
「くそう! なんということだ!」
ぜえぜえと息を切らしながら、ヨゼフはあえぐ。由々しき事態であった。同じ憲兵官吏のジェイドが起こした立てこもり事件に、帝都は揺れている。このまま事態が収集せず、万万が一彼に人質やD&Aの人間が殺されるようなことがあれば、それこそ大問題となる。ヨゼフの首もすっぱり斬られかねない。
「や、ヨゼフ様。困ったことになりましたねえ」
紫色のマフラーを巻いたドモンが、深い隈に覆われた目を、鋭くD&Aの店舗部分へと向けた。そんな彼の真意を知ってか知らずか、ヨゼフは苛立ちながら自身の巨大なあごをさすった。普段は隣にいるこの男こそヨゼフにとっての頭痛の種であったが、今はそれ以上の問題が目の前にあった。
「ああ、全くそのとおりだよ。団長になんと報告すればよいのか……」
「ヨゼフ様。このままではらちが開きません。どうでしょう、ここはひとつ、策を講じてみては」
「策?」
ドモンはもっともらしい表情で頷く。
「大したことではありません。ジェイドさんも、このような事になって動揺しているはず。つまり、大挙して我々がいるからまずいんです。いかがでしょう。一度、店から見えない位置まで、後退してみては」
「ドモン君。確かに良い考えかもしれないが、万が一ジェイド君を取り逃すようなことがあっては……」
「ご安心下さい」
ドモンはいつもならば絶対見せないような、自信に満ちた表情で胸を叩いた。彼一世一代のはったりである。
「不肖このドモンが、この場を死守します。ジェイドさんも僕なら油断するはず。何か、事態が好転するかもしれません」
「ド、ドモン君! 君……なんという忠義者なんだ!」
ヨゼフはやおら立ち上がると、ドモンのことをぐいと引き寄せ、抱きしめると背中をどんどん叩いた! 彼の手八丁口八丁に、素直に感動してしまったのだ!
「ようし、こうなったら『とりあえず急いだほうがいい』のことわざ通りだ! 全員、2つ先の通りまで後退するぞ!」
「僕は、決めました」
月明かりが、双子の部屋へと差し込んでいた。影の中に立ち上がり、ダニエルは短剣を取る。鞘から刃を抜くと、鏡のようにダニエルの顔が刃へと歪んで移った。
「君ならできるよ」
鏡は笑った。鏡は鏡としての機能を果たしていた。彼はアリエッタの視線を感じていたが、省みることはしなかった。ダニエルにとって、双子の片割れであるアダムを切り離すような事はできない。アリエッタはそれを理解していながらも、せめて彼だけでも『あの男』の呪縛から逃れ得られないのかと願っていた。
それは、全くの無駄に終わったのだ。
「開けろ!」
激しく叩かれる扉に、ダニエルは弱々しく笑みを浮かべてみせた。双子は協力して机を動かし、どかした。蹴りが入れられ、数度歪む扉。本来ならば恐怖でも感じるべきところ、ダニエルは鏡に笑いかける。鏡も同じように笑う。扉の隙間から、苛立ったように刃が伸び、鍵を破壊! 蹴りを入れて入ってきたのは、禿げ上がった頭に青い瞳を鋭く注意深く見回す憲兵官吏、ジェイドだ!
「貴様らか! やっと会えたな、クズめ! ミノンの……妻の仇を取りに来たぞ!」
「やあ、ジェイド」
アダムは大きな声で言う。切っ先を向けられても、彼は魅力的に笑っていた。
「君の奥さんは、とても美しかったよ。楽しませてもらった」
「貴様ッ!」
月下に刃が煌き、アダムの首筋にジェイドの刃が止まる。途端に、彼の剣を握る力は抜け、復讐の刃はじゅうたんに転がった。ダニエルが後ろから脇腹に短剣を突き入れ──抜いた。彼の呼吸は乱れていたが、呼吸と同じように何度も何度もジェイドに刃を突き入れる。彼の復讐は成らなかった。ジェイドはただ双子によって命を散らされ、双子はダニエルになった。冷酷無慈悲な簒奪者になったのだ。あの日の夜の続きが始まってしまった。
アリエッタは自らの身体を掻き抱く。恐ろしい。あの時、もう少し早く屋敷に辿り着いていれば、二人がこのような存在になることは無かったのだ。
「な、素敵だろう」
「ええ。こんなに素敵なことだなんて」
二人は鏡に写したように、同じ笑みのまま高らかに笑った。耳を塞いでしまいたかった。その時、アリエッタは影を見た。闇に蠢く、赤い閃光を。閃光は花開き──傘へと代わる。突然の音に驚いたのか、双子は傘を持った男──レドの姿を見る。後ろで括った長髪と同じ、赤錆色の瞳が二人を居抜き──傘の中で鉄骨を折り取った。
「誰ですか、あなた」
「代理の者だ。そこの旦那のな」
ダニエルは顔に飛び散った血を手の甲で拭い、笑みを浮かべる。今日はなんと素晴らしい日だろう。おそらくは、アダムの言うとおりだ。奪い続ければ、自分の人生が取り戻せる。この多幸感がその証拠なのだと!
短剣を振り上げ突進するダニエルに、レドは傘を開いたまま突進! ダニエルは傘を短剣で半分程引き裂くが、レドの身体に届かない。裂けた傘の間から、レドが握りしめた鉄骨が喉へと伸び、彼の喉を貫く! レドはすぐに引き抜き、鉄骨を傘へ戻し、踵を返し、屋根へと続く階段を駆け上がっていく!
「ダニエル!」
片割れを失った双子の声は、死体になったダニエルには届かなかった。彼はただ、青い瞳から光を失い、転がっているばかりだ。もう一人のダニエルは転がった短剣を拾い、闇へと溶けて消えたレドを追う。
月明かりのみが照らす屋根は、足元が悪くおぼつかない。短剣を構えた彼が見つけたのは、屋根の頂上付近に立つ、黒スーツのレドであった。
殺してやる。
たった今死んだきょうだいのために、もう一人のダニエルは憎悪の炎を燃やしていた。無表情を決め込むレドに、彼はゆっくりと近づいていく。その時であった。
彼の肩に、後ろから手をかけるものがあった。ダニエルは振り向く。そこにはアリエッタの姿があった。掻き分けられた赤渦の巻いた瞳は、彼の青い瞳を覗きこんでいる。
「……シスター?」
「あなたはアダムよ」
「シスター。僕はダニエルを奪ったんだ。だからダニエルは僕だし、ダニエルは僕だけのものなんだ。あいつを殺さなくちゃ。あいつはダニエルを奪ったんだ。だから、僕が取り戻すんだ」
レドを指さし、子どもじみたことを繰り返すダニエルに、アリエッタは静かに頭を振った。彼女は彼の手を取ると、まるでエスコートするように屋根の頂上へと向かった。
「ダニエルは、もういないのよ。二度と取り戻せないの」
「シスター・アリエッタ……アリエッタ! 嫌だ……嫌だ!」
彼女が肩を掴む力は強く、アダムの抵抗も一切許さなかった。
「お行きなさい。神の慈悲が届かぬ場所へ」
アリエッタは彼の背中を優しく撫でて、押した。彼は足を踏み出す。右足、左足。右足、左足。右足、左足、右、左、右左右左──離れていく彼の背中。やがてアダムは屋根から足を踏み外し──見えなくなった。
ジョウの工作は完璧だった。
レドとアリエッタは、縛られている客と同じように縛られる事で、開放された客に紛れ、脱出することに成功した。ドモンは事後処理があるとかで、三人を先に帰し、自分は残った。
帰りしなに、レドはアリエッタに金貨を差し出した。いつもの彼女ならば、躊躇なくそれを受け取った事だろう。しかし彼女は珍しく、受け取ることをためらった。
「どうした」
「……私は、罪深い女です。山ほど償えぬ罪を抱えていながら、裁くなどと題目を掲げて人を殺している。私に、金を受け取る権利など……」
「俺達は人殺しで悪党だ。だから殺せる。その対価で金を貰ってる。アリエッタ、お前にどんな罪があろうと関係はねえ」
レドはそう述べると、強引に彼女の手を開かせ、金貨を一枚彼女の手の中にねじ込むと、反論を許さず別の方向へと歩み始め、闇へと消えていった。
ジョウは、彼女に何も語らなかった。背の高い彼女の腰を叩いてやり、ゆっくりと連れ立って歩いて行った。夜明けは目前に迫っていたが、未だ闇は深かった。
拝啓 闇の中から写しが見えた 終




