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必殺断罪屋稼業  作者: 高柳 総一郎
★拝啓 闇の中から写しが見えた
23/72

拝啓 闇の中から写しが見えた(Cパート)





「くそっ!」

 通りの陰へと入り込んだ憲兵官吏のジェイドは、毒づきながら自身の禿げ上がった頭を撫でた。攻撃的で鋭い瞳を、四階建ての『D&Aブラザーズカンパニー』へと向ける。

 彼はこの会社の事を知っている。彼の担当は南地区のまさにこの会社周辺であり──最近頻発している殺しの事を調べていたのだ。

 金髪碧眼の双子──一方は、頬に薔薇の刺青がある──が、夜な夜な女を誘い、なぶり殺しにする。単純明快かつへどが出るような、残忍な犯罪だ。

 そしてジェイドは、そのような特長ある人間はいかにイヴァンといえどもそう何人もいないと結論付け、とうとう、犯人らしき人物を突き止めたのだ。それが『D&A』の社長、双子のダニエルとアダムであった。彼らは化粧品を扱うギルド(同業者が集まって組織する互助会を指す)でもギルド長を務めており、頻繁に会合やパーティに参加する。事件は、そんな会合やパーティの日程を避けて行われている。

 後は、証拠を取れば良い。

 憲兵官吏が事件を扱う上で、最も大きな証拠と認められるのは、犯人による自白だ。さて、どうするかと考えていた矢先に、事件は再度起こった。憲兵団本部で夜勤中であった彼は、たたき起こしに来た駐屯兵と共に、朝もやの中を駆ける。駐屯兵の表情が非常に暗かったのが気になったが、あえて彼は咎めなかった。それは彼の精神状態から見れば、極めて正しい判断だったと気づくのはまた後の話だ。

 死体に被せられていた布を取り、彼は驚愕した。

 死んでいたのは、妻──ミノンであった。

 お互い、仕事にかまけてばかりでろくに交流も無く、四十も近くになって子供ひとりいなかったが、少なくともジェイドは彼女を愛していた。服と喉を裂かれ、苦悶の表情を浮かべた無惨な死体と化した妻に、彼は様々な感情を呼び起こされた。すべてが過ぎ去った後に彼に残ったのは、憎しみだけであった。

 殺してやる。妻を殺したやつを、同じ目にあわせて殺してやる。そうして彼の怒りは『D&A』へと向けられ、ああして飛び込んでいったのだった。

「ジェイドさん。……あまり無茶はなさらないほうが」

 寝ぐせだらけの黒髪をぼりぼり掻きながら、猫背気味の男が言う。同じ白いジャケットを羽織った男──ドモンの言葉にもジェイドは背を向け、歩き出した。

「ちょっと、どこ行くんですか。あなただって聞いてるでしょう。ヨゼフ様から、この件に関しては『皇帝殺し』だって」

 皇帝殺し。十年前、皇帝を殺した暗殺者がとうとう見つからなかったことから転じて、憲兵団内部で自主的な迷宮入りとなった案件の事を指す、隠語である。大抵の場合、上からの圧力による捜査中止の事を指すほうが多い。ドモン自身、今回は後者であると見ている。ジェイドもそれを分からぬほど愚かではないはずだ。

「……頭を冷やす。別の証拠を探す。それだけだ。俺の事はかまうな」

「しかし」

 ジェイドは振り向きざまに人差し指を突き出し、ドモンの顔を串刺すかのごとく振った。

「俺に、構うな! 二度も言わせるんじゃない!」

 彼の強い言葉を押し切ってまで、ドモンは彼に肩入れする気にはなれなかった。ジェイドと逆方向へと、ドモンは踵を返し歩いて行った。ティナとセリカに会ったこともあり、彼は捜査に疲れてしまったのだ。

 目指すは、彼の秘密のアジトだ。






「そんなの、聞いたこと無いよ。旦那もそのくらい分かるでしょ。女性に過去は詮索しない。常識だよ」

 帝都イヴァン南西地区にある、崩れかけの廃教会。主を失って久しかったこの教会も、行き場を無くしたシスター・アリエッタのお陰で、廃墟からあばら屋程度には復興して久しい。その功労者たる彼女の姿は、現在この教会には無い。代わりに奥からコーヒーを淹れて持ってきたのは、ジョウであった。この間ようやくキッチンへと続く瓦礫を撤去し終え、アリエッタはそこから無事だったティー・セットを見つけたのだ。ジョウは勝手知ったるとばかりにそれを使い、眠そうな目に深い隈を作ったままのドモンへとそれを差し出す。湯気だったコーヒー。若干暑くなってきたこの時期でも、コーヒーで気分転換できるのは有りがたかった。

「しかしねえ、あんたも気になりませんか。あのシスターがあれほど取り乱すんですよ。何かあったに違いありませんよ」

 ドモンは軋む木のベンチに腰掛け、顎をさすりながら言う。彼は真剣である。もちろん人間である以上、多少の好奇心はある。人の過去というものは宝探しのようなもので、得てしてそこに手を突っ込むことは楽しいことなのだ。

 もっと理由はある。それは、彼らのもう一つの『顔』に直結する事項かもしれないから、という心配だ。彼らは断罪人、有り体に言えば復讐代行業者──もっと簡単にいえば、人殺しだ。何かの拍子ですべてが露見し、組織は壊滅に至る。ドモンは、そうした過程を何度も目撃し、体験してきた。彼は失うことに敏感であり、慎重なのだ。

「そんなに気になるんなら、調べようか? あんまり気が進まないけど」

「おねがいしますよ。それに、結果論ですが……例の頬に薔薇の刺青を入れた男──やつを追えば、シスターとの間に何が起こったのか分かるかもしれません」

「下世話な話だ。憲兵団は暇なのか、二本差し」

 背負った傘を不意にベンチに下ろしながら現れたのは、黒い着流しを身にまとった色男──レドであった。痛烈な皮肉にむっと顔をしかめながらも、ドモンは手元のコーヒーをすする。

「ええ、こっちはあんたみたいに女に困ってなさそうな人間の考えは分かりませんのでねえ。下世話なことも話すんですよ、あんたと違って」

「そうか。……アリエッタなら、話したくなったら自分から話すだろう。あんたが心配せずともな」

 ジョウはそっけないレドの方へと同意するように、まだ湯気だったままのコーヒーを差し出す。彼はカップをとり、ぐいと飲み干した。ドモンはそんな彼を見ながら驚愕からか目を丸くする。ほぼ熱湯のはずなのに、一気に飲み干せるものだろうか。

「うまかったぜ、じゃあな」

「ちょっと待ってよ、レド。もし君も『頬に薔薇の刺青がある男』を見かけたら、教えてくれないかな」

「……妙な男だな」

 レドは束ねた傘を持ち上げながら怪訝そうに言う。ドモンも今更ながら妙に感じた。そもそもこの事件はおかしな点ばかりだ。金髪碧眼の双子。それだけでも大分条件は絞られているのに、うち片方は頬に薔薇の刺青があるという。まるで、見つけてほしいとでも言わんばかりの目撃証言の数々ではないか。

「とにかく、見かけたら頼みますよ」

 レドは後ろを振り向きもせず、さっさと教会の外へと出て行った。ドモンは不満気な表情であったが、気を取り直しジョウへと振りむく。

「……つなぎ屋、あんたにはちょっとアテがあるんで、別のところを探してもらえませんか」

「別の所?」

 ジョウは羽ペンで引いたような細い目をドモンに向ける。ドモンもまた、深い隈に覆われた目を、鋭いものへと変えた。普段こそ無能を装うドモンだが、完全に愚かな人間ではない。

「南地区にある化粧品会社の『D&Aブラザーズカンパニー』ってところです。……僕の同僚が、そこに妙に執着してましてね。おまけに、そこの社長は双子で金髪碧眼ときてるそうです。何か、臭いませんか」

「それは臭うね」

 ジョウはふうふうとカップに息を吹き込み、残っていたコーヒーを一気に飲み干し、ベンチの角にひっかけていたハンチング帽をとると、ぐいと被った。

「有力情報だよ、二本差しの旦那」

「そういうことです。つまりは真実に一歩近づくってわけです。……もっとももう『皇帝殺し』の案件ですから、手柄は期待できませんが」

 ドモンはカップを地面へ置き、ゆっくりとベンチに身体を横たえた。天井には穴が空き、空にはただ雲が流れている。

「……じゃ、手柄が期待できないのになんで僕に調べさせるのさ」

「意味があるからです。……シスターの過去、あんたも気になるでしょう」

 ドモンはへらへら笑いながら、目を閉じる。このまま昼寝に洒落込もうというのだ。

「なるほど。……旦那って本当に下世話だよね」

「断らないあんたも同罪ですよ。じゃ、よろしく」







 D&Aブラザーズカンパニー四階、社長室。普段は兄弟二人が陣頭指揮をとる司令室めいた場所であるが、今日は一人しかいなかった。応接セットのソファーは想像以上にふかふかで、アリエッタは腰の置きどころに迷った。

「……ひさしぶりですね、シスター・アリエッタ。僕が誰だかお分かりですか?」

 彼の頬には、真っ赤な薔薇が咲いていた。美しい金髪に、宝石の如き青い瞳。アリエッタは南地区をさまよい歩き、突然D&Aの従業員に呼び止められ、ここまで連れて来られたのだった。

「ダニエル、よね。あなた」

「そうです。……十年ぶりですね。あの日から」

 あの日。アリエッタにとって、重い意味を持つ日だ。故郷を追われ、ただ一介の聖職者として生きたいと願った一人の女が、本当の意味で死んだ日。あの夜、双子を生きながらえさせるかわりに、彼女はもはや戻れぬ闇の底へと堕ちた、その日。

「ダニエル。なぜ私を探していたの?」

「僕も、アダムも、あなたにお礼がいいたかった。僕らはあなたに助けられて、人生を取り戻すことができたんです。しかしあなたは、姿を消した。あの男を──」

「やめて」

 アリエッタは静かに言った。彼女のくすんだブルーの前髪の下で、彼女がどのような目をしているか──他ならぬ彼女が一番良く分かっていた。

「ダニエル、やめて」

「……軽率でした」

 彼は自身のミスを魅力的に笑うことで受け流すと、彼女の動揺を取り繕うように立ち上がり、魔導回路式のアイスボックスを開くと、作りおきのアイスティーを取り出し、高価そうなグラスに入れ、彼女に差し出した。

「とにかく、僕たちはとても充実していたんです。……三ヶ月ほど前までは」

「三ヶ月?」

 差し出されたアイスティーに口を付けようともせず、彼に話を促した。

「そう。……アダムは、おかしくなってしまった。いつからかは、分かりません。でも、おそらくはあの日からおかしくなってしまった」

 繰り返される『あの日』。豪奢な屋敷。倒れる燭台。叫ぶダニエル、涙を流すアダム。わたしはあの男の首に手をかけ──。

「アダムは、僕の目の前で殺人を犯すようになった。相手は決まって女性。酷い時は、乱暴してから殺すこともありました。僕は、それを見せられたんです。絶対に裏切りようのない『共犯者』として」

 アリエッタの記憶と、ダニエルの語る言葉が、まるで目の前のアイスティーにミルクを注ぐように交じり合う。

 アダムが人を殺した。目の前のダニエルが、女を殴り、犯し、殺す姿が脳裏に浮かび上がる。彼らは全くの生き写しだ。ダニエルは違う。アリエッタは動揺の中で考えを振り払った。

「そして彼はその罪をなすりつけようとしている。適当な人間を仕立てあげ、この事件を終わらせようとしているんです。シスター、僕はアダムを助けたい。僕らは双子、彼が傷つけば僕も傷つくような気分なんです。……彼を、助けてくれませんか」

 彼は真摯な様子で、淡々とそう述べた。助ける。言葉にすれば簡単であったが、アリエッタにはそれが意図するものが何か、わかっていた。

「あの時のように、あの男のように──アダムを、殺して欲しいんです」






 次の日。

 憲兵団本部・筆頭官吏執務室にて。

 筆頭官吏のヨゼフは、自身の巨大な顎をさすりながら、静かに目の前の人物へ言い放った。

「今回の事件において、君には同情を禁じ得ないとのお言葉を団長から頂いている。僕も同じ気持ちだ。『皇帝殺し』として処理されることが無念でならない。当初の方針通り、これは憲兵団を挙げて対処すべき問題だと思うがね……しかし、命令違反はご法度だ」

 ジェイドは憲兵官吏の印である白いジャケットの襟を正してから、恐ろしく鋭い目をヨゼフへと向けた。ヨゼフは一瞬たじろいだような様子を見せたが、二・三回咳払いしとりつくろう。

「D&A社からは、今回の件に関して強く抗議が為された。君も南地区から配置換えにする。以上だ。下がっていいよ」

「分かりました」

 ジェイドはそれだけ言って、直立不動のまま執務室から動こうとしなかった。ヨゼフはその意味を察すると、立ち上がり彼の眼の前に立つ。

「……分かっていないな、ジェイド君。これは団長、いやそれ以上の立場から発せられた命令だ。君が私にごねたとしても何も変わらないんだよ」

「なら、ヨゼフ様。俺は好きにやらせてもらいます」

「これ以上好きにできるものか。腹を切ることになるよ、君」

「ご自由に」

 彼はそう吐き捨てると、執務室から飛び出すように出て行った。ヨゼフはと言うと、引き止めもしない。無駄だと分かっているからだ。

「全く、トラブルメーカーが多いよ……」

 彼は執務室の扉の陰から、他の憲兵官吏達の仕事ぶりを見る。忙しく行き交う白ジャケットの間に、デスクに突っ伏して寝るドモンの姿が──無い。

「……ヨゼフ様?」

 声に驚き、扉の裏側を見ると、ぼーっとした表情のドモンが突っ立って、顔をぼりぼりと掻いていた。どうも眠いらしく、いつもに増して黒髪には寝ぐせが跳ねている。

「なんだい君! お、脅かさないでくれたまえよ」

「日課の投書箱の整理終わりましたので、報告をと」

 何枚かの投書の束を差し出され、ヨゼフはそれをまるで奪うように取ると、犬か何か追い払うようにドモンをあしらった。ドモンもまた用は無いらしく、特に異論もなくそれに応じた。さて、この投書箱の中には、帝都市民から提供される様々な情報や要望が匿名で書かれた紙が入っている。これがなかなかバカに出来ないもので、捜査情報の一端になることが少なくないのだ。

「全く、くだらん仕事ばかり……」

 椅子に乱暴な調子で腰掛けると、ヨゼフは形ばかりに投書に目を通す。予想通りの身勝手でくだらない内容が続き──最後の一枚もそれで終わるかと思われた。

「……馬鹿な……団長に報告せねば!」









 ジェイドは、ほんのつい先程配置換えになったばかりだと言うのに、南地区を歩いていた。行き先は決まっていた。彼の中には、怒り以外に無かった。ジェイドは確信に近いものを感じとっていた。あの双子は、少なくとも憲兵団に意志を押し通すだけの力を持っている。自分を配置換えさせたのも、いくらなんでも過敏に過ぎる。そもそもが、見つけてくれと言わんばかりの行為。

 彼が導き出したのは、あの双子が権力にかまけた愉快犯であるという結論であった。だとすれば、話が早い。彼は柄を握り、ゆっくりと『D&A』へと向かう。彼の青い瞳は、上からあざ笑うようにそびえるビルを射抜く。憲兵官吏・ジェイドという法の番人は既に失われていた。そこにいるのは、一人ただ復讐の機会を狙う剣士であった。

 所詮は俺は剣士だ。不名誉は剣で取り戻せば良い。

 路地裏の暗がりを歩くジェイドの足取りは、既に軽くなっていた。彼に失う物は無く、未練は既に失って久しかった。






 アリエッタは、昨日訪れたばかりの場所を、再び訪れようとしていた。『D&A』の本社。彼女は途絶えた時間の一端をここで再び垣間見た。

「ダニエル」

 通された社長室の先で、彼女は全く同じシルエットの二名が振り返るのを見た。金髪に青い瞳。どちらの頬にも、薔薇の刺青は無い。

「あなたは、シスター・アリエッタ」

 ダニエルは生気の感じられぬ青白い肌をしていた。ダニエルは突然の訪問に驚いたように言った。アリエッタはそれに少しおかしなものを感じたが、構わず言葉を続けた。

「……あなたと、もう一度話がしたいと思って。でも、アダムもいるなんて聞いていなかったの。出直すわ」

 ダニエルの隣で、アダムは笑う。笑って、彼女の背中に声をかけた。

「……シスター・アリエッタ。いいんだよ。ダニエルだって気にしない。かけてよ」

 奇妙な会談はそこではじまった。アダムを殺してほしいと願ったダニエルの横で、アダムがにこにこと笑みを浮かべ座る。テーブルを挟んで向こう側のソファに、アリエッタ。

「アダム、君はシスターと会っていたのですか」

 ダニエルは静かにそう双子の片割れに話しかけた。同じ顔でアダムは魅力的に笑いながら、長い足を組み直した。

「ああ」

「……十年振りだというのに、ずいぶん慣れた様子ですが。シスターも、いつ僕や、アダムと」

 何かがおかしい。話す度に、話が噛み合わなくなっていく。アリエッタはこんがらがりそうになる頭を解くように、確信を突いた。

「……私はあなたと会ったのよ、ダニエル。それも、昨日」

 目を丸くするダニエルには、昨日の記憶は存在していないようであった。もっとも彼の感情は薄い。静かに頭を振るばかりだ。昔と、全く変わっていなかった。そしていたずらっぽくくつくつと押し殺して笑う、アダムも。

「……シスター、驚いたかい。いや実際そうだと思うんだけどね」

「どういうことですか、アダム」

「簡単な事さ」

 アダムは立ち上がり、襟元を正すと、自身のデスクへと歩いていく。彼はデスクの引き出しを開け、小瓶に入った液体とコットンを取り出す。おもむろにコットンへ液体を垂らすと、ダニエルの頬を手でつかみ、ぐりぐりと頬を撫でた。彼の陶磁のように白い肌が溶け──赤い薔薇が露出する。

「ほら」

 赤い薔薇。フラッシュバックする記憶。アリエッタはすかさず口に手をやり、激しく咳き込んだ。彼女にとって忌むべき記憶は多く存在したが、その中でも一・二を争うものであった。

「僕らはたくさんのものを手に入れた。シスター・アリエッタ、あなたに『あの男』の命を奪ってもらったからさ。とても、感謝しているんだよ」

 彼女はやおら立ち上がると、双子の執務室を飛び出してゆく。戻る気は無かった。元々二度と彼らの前に姿を表わす気もなかったし、当初からダニエルの願いも無視するつもりでいた。それでも彼女が、もう一度この会社へ訪れたのは、彼女の十年前の行動が間違いでなかったことを確かめるためであった。自分が犠牲になることで、彼らの人生は豊かに花開いた。それでいいのだと、彼女は半ば盲目的に信じていたのだ。

 アリエッタは一階に辿り着き、そのまま店舗部分を抜け出ていくつもりであった。しかし様子がおかしい。女性で賑わっているはずの化粧品用店舗が、静まり返っているのだ。昼間だというのに事務所側の窓も閉めきっているし、どうにも変だ。アリエッタは淀む視界を頭を振ることで持ち直すと、事務所から店舗へと続く通路を隔てるカーテンをわずかに開いた。

「全員、動くんじゃない。……動けば斬る。じっとそのままにしていれば、誰も殺さない」

 禿げ上がった頭、鋭く青い瞳の男──しかも、憲兵官吏の印である、白いジャケットまで羽織っている──が、抜身の剣の切っ先を振り向けながら、店員や支配人、そして客同士布で目隠しと手錠をさせているところであったのだ!

 一体、どういうことなのだろう。

 アリエッタは混乱しながら辺りを見回す。この建物の出入口はまさしく店舗を抜けた先にしか無い。のこのこ出て行って、はいそうですかと見逃してもらえるような様子でもない。彼女が選んだのは、ゆっくりと階段を登ることであった。まさか、そのまま執務室へと戻る気にもなれない。

 彼女は階段をそのまま登り、屋根へと出た。『D&A社』と隣の建物までの距離は遠い。アリエッタの修道服の丈は長く、容易に飛び越えられるような距離でも無い。飛び降りれば間違いなく死ぬだろう。

「ちょっと、アリー! なんで君がここに……」

 彼女は見慣れた男を、隣り合った建物の屋上で見た。ハンチング帽を被った、金髪の小柄な青年。そばかすだらけの鼻をこすってから、彼は自分の肩掛けカバンを地面に置き、助走を付け飛び移った!

「ジョウ!」

 アリエッタは青年の名を呼び、彼の事をおもいっきり抱きしめた。今の彼女にとって、何よりも素晴らしい贈り物であった。もっともジョウには苦しいだけのようで、押し付けられる彼女の豊満な身体を押しのけてから言った。

「ちょっと、ちょっと! アリー、どういうことなのか説明してよ。下じゃ憲兵団が『立てこもり事件だ』って大騒ぎして入れないし、上から攻めてやろうとしたら君だ。びっくりしたよ」

「……ジョウ、ドモンさんも下に来ているのですか」

「ああ。旦那は、元々ここの社長やってる双子が、何件か連続してる殺人事件の犯人じゃないかってあたりをつけてたんだよ。それで、僕もこうして無理やり調べにきたってわけ。君がいるなんて、本当にびっくりしたよ」

 アリエッタは自分が登ってきた階段へ再び視線を向ける。執務室へと行けば、双子に再び顔を合わせる事だろう。

 彼らから逃げてはならない。過去から、結果から逃げてはならない。まさしく神がそうささやいているかのごとく、アリエッタの身体に力がみなぎった。彼女は再びジョウの頭をハンチング帽ごとくしゃりと撫で、静かに言った。

「ジョウ。恐らくドモンさんの読みは半分当たっているはずです」

「じゃあ、もう半分は?」

 アリエッタは階段を一段降りる。一歩一歩、踏みしめるように。過去へと遡っていくかのごとく。

「これから確かめるのです。……あなたにも、確認して欲しい」

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