拝啓 闇の中から写しが見えた(Bパート)
イヴァン西部中心近く、民間企業が集まるビジネス街。ここには、各業種の商人互助複合体であるギルド本部や、帝国成立後に一から身を起こした企業が軒を連ねる。
「昨日は最高だったね」
鏡がそこにあった。だれもがその光景をたとえ表すならば、その一言を使っただろう。しかし、その部屋には鏡の類は一切置いていなかった。必要ないからだ。
アダムとダニエルの二人は、鼻先で視線を合わせながら、昨日の事を話し合っていた。二人は、今一人であった。誰かがこの光景を見れば、どちらがアダムでどちらがダニエルか、誰も答えられなかったことだろう。
「君はどう思う?」
片方は答えず、しばらく黙っていた。青い瞳に暗い影が差し込む。彼は悩んだ挙句、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。
「僕らは、たくさんのものを手に入れました。あの日から」
「ああ。僕らはたくさんのものを手に入れたよ」
彼らは何も持っていなかった。彼らは唯一手にしたお互いの存在から始め、化粧品を委託販売する会社を起こした。今や、彼らの会社はイヴァンの女性になくてはならない『美』を供給する、唯一の会社にまで成長しつつある。たった二十五歳の双子の青年が、全くのゼロから巨万の富を手に入れたのだ。
「僕も、たくさんのものを手に入れたよ」
そして、君はたくさんのものを失ったね。
アダムは相手の顔にそう言おうかどうかを悩んだが、やめた。彼らは築き上げた。富と名声、金で買えるものは大体のものを手に入れた。しかし、アダムとダニエルの二人は、とうとう手に入れることに飽いた。
アダムが人から物を奪うようになったのは、二年前会社がイヴァンに進出した時のことだ。帝都は広い。様々な人間がいて、ビジネスチャンスが山ほど転がっていた。彼らは抜け目なくその転がっているチャンスをあますところなく拾い上げ、ものにしていった。
その影で、アダムは奪った。
従業員の残業を増やし、余暇時間を奪った。
経費削減を盾にして、給与を奪った。
細かなルールを作って、従業員から自由を奪った。
アダムはまごうことなき簒奪者であった。彼は奪いとったものに何ら興味を抱かなかった。ただ、奪い取る行為こそかれの喜びであった。会社の社長という立場は、彼にとって実にやりやすい役割だったのだ。
彼は様々な人から、様々な物を奪い取った。わかりにくいように、少しずつ。しかし彼はやがて、それすらも飽いた。彼は奪い取る行為だけでは、満足できなくなったのだ。彼は奪い取る物の『質』を求めるようになった。
彼が奪い取れなかったものとは何か。古来から存在する征服者、簒奪者達が、どうあっても奪い取れなかったものとは、何か。アダムは考えた。そして、彼はようやく辿り着いた。
「アダム。僕らはすべてを手に入れました。そして、すべてを手に入れられるんです。……今更、誰かの命を奪う必要がありますか?」
ダニエルは美しい旋律を奏でるように、アダムとそっくりな声で言った。彼は白く長い指をアダムの頬に這わせ、諭していた。彼は兄弟の事を深く心配していた。ダニエルはアダムと比べ病弱で、だれよりもアダムのことを想っていた。
アダムは、ダニエルのことが好きだ。兄弟として心の底から好ましく思っている。
「いいんだよ、ダニエル。いいんだ」
彼は魅力的に活力ある笑顔を見せ、愛する兄弟の背中へと手を回し、優しく叩いた。
「昨日のはやり過ぎでした。命を奪えば、憲兵団に捕まる。いかに僕らでも、それを完全にもみ消すのは不可能では」
「不可能? 僕らに不可能なんて無いさ、ダニエル。僕らはなんだって手に入れてきた。何だって手に入れられる。だって、同じように奪ってきたんだから」
ふたりきりのオフィスで、彼らは笑った。薄暗い部屋の中に、僅かな陽日が差し込んだ。
アダムとダニエルが話しているオフィスの一階、店舗部分。『A&Dブラザーズカンパニー』では、天然物の化粧水から、ファンデーションや口紅まで、およそ化粧品で取り扱っていないものはない。美しくありたいと願う女性達が、今日も笑顔でこの店の扉をくぐる。
「義姉様。やはりここは安いし質が良いですね」
小動物めいた丸い目をきらきらと輝かせながら、様々な口紅の蓋を開き、中の色を楽しんでいる女は、ドモンの妻・ティナである。彼女もまた女性。いつまでも美しくありたい気持ちがあるのだ。
「ええ。こういう時にはまとめ買いに限りますわね。ティナさん、その化粧水も買いましょう」
そう言いながら、カゴにどんどん化粧品を放り込んでいるのは、ティナの義姉にしてドモンの妹・セリカだ。兄譲りの黒髪癖っ毛に手櫛を通しつつ、いつもならば不機嫌そうな表情もどこか柔らかい。
「しかし義姉様。あまり欲をかきすぎると、使い切れない程の量になってしまうのでは」
「構いません。私のお金とお兄様のお金を合わせればこのくらいは造作もないこと。……それにティナさん。あなたが美しくなればお兄様もお喜びになります。つまり、これはすべてお兄様のためなのです」
セリカはなんとも身勝手な論理を組み立て終えると、ついでに口紅の缶をもう一つカゴに放り込んだ。ティナが同じように別の保水液をためそうと手を伸ばした時であった。
「あらいやだ。あの人、こんなところで油を売ってる」
ティナが見かけたのは、冴えない顔で通りをぶらぶらと歩く夫・ドモンの姿であった。彼の仕事は憲兵官吏、即ち見回りによる犯罪の未然防止にあるのだが、ここは帝都イヴァン南地区。本来ドモンが持っているはずの区域は、西地区の自由市場ヘイヴンであり、あまりにも遠く離れすぎている。
「義姉様、私文句を行って参ります! 憲兵官吏たるもの、いついかなるときでも犯罪と戦う覚悟と義務を持たねば!」
ティナは鼻息荒く持っていたカゴをセリカに押し付けると、すたすたと店を出てドモンを追う!
「あなた! 一体このようなところで何をされているのですか!」
行き交う人々が一斉に振り向くほどの大喝に、さしものドモンも身を震わせ、ゆっくりと振り向いた。彼女はかつてのドモンの上役ガイモンの娘であり、ドモンを叱りつけていた彼の血を色濃く受け継ぐ存在なのだ!
「な、なんです……ティナじゃありませんか。君こそこんなところで、一体何を……」
「そ、それは……なんだって構わないでしょう! あなたは……」
再びティナの大喝がドモンを襲わんとしたその時であった。彼はティナの後ろへと視線をやると、同僚の憲兵官吏のジェイドの姿が目に入ったのだった。薄い頭に鋭い瞳、剃り跡濃い青髭。ドモンと同じ白いジャケットの袖が揺れる。妻の肩に手をかけ押しのけると、彼の姿を追った。
あまりにも迷いがなさすぎる。
ドモン達は今、行政府からの指示により、重点的に南地区を聞き込み・操作して回っている。全ては行政府の官僚が殺されたことを発端にしているわけだが、ジェイドの行動はあまりにも性急だった。何よりも聞き込みならば、あのように鋭い瞳をする必要など無いはずだ。
「すみません、ちょっと待ってて下さい」
「あなた!」
ティナの手を振りほどくと、ドモンは『D&Aブラザーズカンパニー』へと入ってゆく。店内は既に騒然としており、女性客が壁際に自然と押しやられ、ジェイドはその中心にいた。彼はこの空間でまさしく一人異様であった。
「お兄様」
押しやられた客の中に、カゴに化粧品を満載したセリカまでいた。いつもの強気な態度と打って変わって不安げな彼女に、ドモンは固い笑みを見せ、なんとか安心させようと試みる。
「私はこの店で支配人をやっている者です。お役人様、何かの間違いでは」
奥から責任者らしき中年男が、腰低く姿を現した。戸惑いを隠せぬ彼に、ジェイドはぎろりと三白眼の視線を浴びせ、低い声で言った。
「俺は間違いだと思わん。社長室に案内してもらおうか」
ドモンはそろりそろりと彼に近づくと、ジェイドの肩に手を置いた。今度はドモンにジェイドの鋭い視線が突き刺さる!
「ドモンか。貴様もここが怪しいと思ったのか?」
「や、ジェイドさん。……あんな事件があって気持ちがはやるのは分かりますがまずは落ち着いて下さい。ここに一体何があるっていうんですか」
ドモンの言葉に、支配人は水を得たように勢い良く同意した。
「そ、そのとおりでございますよ。社長は大変お忙しいお方。もし必要あらば、必ず予定を合わせて弁明に参りますので、ここはどうかお引取りを……」
「ジェイドさん。旗色が悪いですから、今日のところは……」
周囲の女性たちの冷たい視線。加えてドモンの一言に居心地の悪さを感じたのか、ジェイドはドモンの手を振り切り店を出た。一気に弛緩する空気に、ひとまず息をつく客と支配人、そしてセリカにドモン。
「お役人様。ありがとう存じます。このまま騒ぎになれば社長になんと言われるか分かりませんでしたから……」
「や、いいんですよ」
ドモンはそうさらりと言うと、支配人に背を向けた。広い袖の中で、誘うかのように右手がちょいちょいと動いている。支配人はその動きに何か察したのか、慌てて中へ戻っていった。
「お兄様、私感心いたしましたわ」
セリカが感じ入ったように、静かに兄を褒めた。
「私、長年お兄様の事を、憲兵団の穀潰しだと思っておりました。……お兄様も、家庭を持って責任を持つようになったのですね……」
やおらハンカチを取り出すと、目元に押し当て感動の涙を拭き取るセリカ。兄としてはその評価は喜ばしい限りであるが、長くは続かなかった。
「ありがとうございました。これからもご贔屓に……」
支配人が握りこぶしをぐいとドモンの白いジャケットの袖口に突っ込んだ。そそくさと奥へと引っ込んでいく支配人。じろりと『何か』が入り込んだ袖口へと視線を落とすセリカ。彼女はゆっくりと右袖口に手を突っ込むと、小さな布でくるまれた金貨を発見した。
「……お兄様」
脂汗を浮かべるドモンに、セリカの冷たい視線が注がれる。たった数歩の距離だったはずの入り口が、遥か彼方に見えた。そして、その遥か彼方からおそるおそる入ってくるティナの姿を見て、ドモンはがっくりとうなだれるのだった。
アリエッタが辿り着いたのは、午前中奉仕活動を行っていたところとは違う場所にある孤児院であった。南西地区、再開発が退けられ、廃墟めいてそのまま残る孤児院。
「……どうしたアリエッタ。こんなところで、何してる」
赤錆色の長髪を後ろで束ねた男がふと立ち止まる。偶然通りがかった男──レドが、アリエッタに話しかけるも返事はない。固く閉ざされた鉄の門。崩れかけた孤児院。たったの十年で、荒れ果てたこの場所の前に、アリエッタは呆けたように立ち尽くしていた。
黒い着流しのレドは、何本か背負った傘を地面に下ろすと、静かに彼女の隣に立った。荒れ果てた建物にしか、彼には見えなかった。
「なにかここにあるのか」
レドは抑揚のない声でそう言った。彼は傘屋として働く一介の職人である。一見修道女であるアリエッタと関係がないように見えるが、実は違う。彼の裏の顔は、彼女と共通しているのだ。
「昔、ここで働いていたの」
アリエッタの言葉に、レドはわずかに顔を持ち上げた。彼女のくすんだ青い前髪は、目元をすべて覆い隠していた。
「あんたがか」
「ええ。十年も昔になるわ。……辛いことが、たくさんあったの」
「そうか」
しばらく、レドとアリエッタは立ち尽くしたまま、廃墟を見つめていた。乾いた風が砂利を運び、二人を通り抜けていった。
「何も聞かないの?」
「俺達は裏で同じ仕事をしてる仲だ。裏稼業は詮索不要が掟だ。あんたもよく知ってるだろう」
レドは無表情にそう言い放つ。裏稼業──即ち、殺し屋稼業を生業とするレドにとって、同じ稼業に手を染めるアリエッタに対する態度は冷たい。だが今の彼女にとって、その冷たさは気持ちが良かった。
「ありがとう。何も聞かないでくれて」
「別に。……あんたは騒がしいくらいが、ちょうどいい」
レドはそう言い捨てると、地面においた数本の傘についた埃を払い、持ち上げ背負うと、その場を離れていった。レドが離れた後もなお、アリエッタは廃墟の前に立ち尽くしていた。




