拝啓 闇の中から写しが見えた(Aパート)
帝都イヴァン南部、最大の大通りである「アケガワ・ストリート」。ここは夜も騒がしく、東地区の飲み屋街のどやどやした雰囲気と異なり、どことなく妖しく大人な雰囲気が流れている。少し通りを外れれば、高級バーやクラブが軒を連ね、貴族階級の人々や高所得者の面々が夜を楽しむ。
「やあ。今日はとてもいい夜だね」
ミノンはお決まりな台詞に辟易していた。彼女は美しかった。こうした場所を歩けば、それなりの金持ちに声をかけられる事も珍しくなかった。夜のアケガワストリートは、そういう場所だ。北西部の色街とは、歩く人間が違うのだ。
それでも、ミノンは辟易していた。彼女がここを歩いていたのは、行政府での仕事が遅くなったからであるし、そもそも彼女は既婚である。
「ちょっと。無視しないでほしいなあ」
男はなおも追いすがり、ミノンに話しかけた。彼女は肩掛けかばんの紐を直し、男を引き離そうとした。男はミノンの前に立ちふさがる。
ウェーブがかった金髪。宝石でも嵌めこまれたかの如き、青く美しい瞳。黒ジャケットを小粋に羽織った、背の高い洒落男だ。
「何よ」
「何って。こんないい夜だよ。良かったら、少しお茶でも飲まない?」
男ははつらつとした魅力ある笑顔を作ると、白い歯を見せた。なるほど美形であろう。ミノンの夫と比べても比べ物にならぬ程の美形だ。しかし、彼女はそんな美形にかまっている暇など無かった。行政府の官僚である彼女にとって、こうして自宅に帰れること事態貴重な機会である。何よりも最優先すべき事項なのだ。
「あのねえ。私はあなたと違って、とても忙しいの。今も仕事が終わったばかりで、今から家帰って寝るところなの。明日は久々のオフで、旦那と一緒にデートにも行くのよ。これであなたのナンパが全く意味ない行為だってこと理解してもらえた?」
ミノンはそうまくし立てるも、男は笑顔で肩をすくめるばかりでまるで効果が無い。彼女は再び大きくため息をつくと、彼を引き離そうと歩き出した。
「どこ行くのさ」
「家へ帰るの! じゃあね、ぼうや。二度と会わないでしょうけどね!」
ようやく男を引き離し、家路についたはずの彼女は、またも奇妙な物を見た。先ほどまで話していた男。ウェーブがかった金髪の、宝石でも嵌めこまれたように美しい青い瞳の──
「嘘」
「嘘ではありません」
先ほどの男とは違って、彼の表情には生気がなかった。極めつけが、右頬に刻まれた赤薔薇の刺青である。別人。同じ顔をしているが、それ以外に違いがない。
「何よ。二人がかりってわけ?」
「そういうわけではないのですが」
「いい加減にしないと、人を呼ぶ……」
ミノンの言葉は続かなかった。突然、首に誰かの手が回ったのだ。締めあげられ、苦悶の表情を浮かべるミノンを、刺青の男は無感情に見下ろしていた。興味が無いのだ。彼にとって、あまりにも見慣れすぎた光景であったからだ。
「アダム。……彼女、死にそうです」
「そう? ありがとうダニエル。そりゃマズいよね。死ぬのはよくない」
刺青のないアダムは、後ろからミノンの首を絞めるのを止め、彼女の身体を路地裏の影へと放り投げた。咳き込むミノンに、アダムはのしかかる。
「何を……」
「遊ぼうよ」
アダムは魅力的に笑うと、ミノンの頬を殴った。恐怖で声が止まる彼女に、なおもアダムは暴力を浴びせる。やがて彼はジャケットの裏からナイフを出すと、彼女のシャツを裂き始めた!
「これから僕は、君に一番嫌な事をするんだ」
そう言うと、アダムは彼女の口を、持っていたハンカチで塞ぐ。アダムによる蹂躙はダニエルの目の前で延々と続いた。彼は、その蹂躙を、ただただ冷ややかに見下ろしていた。
アリエッタはシスターである。本来彼女らが所属する教団は、神父やシスターに対し所属する教会を指示し、布教活動や奉仕活動、教会や孤児院の維持管理を命じている。彼女もまたそうした教団に所属はしていたが、仕えるべき教会が無かったのだった。
「シスター・アリエッタ。いつも助かります」
小柄な中年のシスターが言う。もっとも、アリエッタの長身巨躯は端から見れば驚くべきものだ。中年のシスターが仰ぎ見る程の長身。なおかつ彼女の胸は豊満であった。
「子どもたちも、あなたと遊ぶことを楽しみにしているのよ」
青くくすんだ、切りそろえられた前髪。官能的な唇にふっと笑みを浮かべると、深々と頭を下げた。彼女は敬虔な信者であり、誰よりも慈悲深き女であった。
「……アリエッタ。あなた、ここに来ませんか? 人出はいつだって足りないし、子どもたちだって喜びますよ」
「とても嬉しい申し出ですが……少し、考えさせて頂けませんか」
彼女は小さく言うと、そのままその場を去って行ってしまった。彼女とて、どこかに所属し働いた方がより良い奉仕活動につながるし、なにより衣食住が安定する。それを彼女がしない理由は、別にあった。
「やあ、アリー。奉仕活動の帰り?」
帝都イヴァン南地区。大通りから一つ外れた寂れた通りを歩いていたところ、アリエッタは小柄な青年に親しげに話しかけられた。彼はアリエッタの無二の友人、つなぎ屋のジョウである。表情が伺いづらい糸目、金色の短髪にハンチング帽を引っ掛け、鼻の上にはそばかすが浮いている。実はアリエッタと彼では、姉と弟以上に年齢が離れているので、アリエッタは異常に彼をかわいがっているのだった。
「ジョウ! あなたもお仕事ですか?」
そろそろとジョウに近づくと、アリエッタは彼にまるで後ろから覆いかぶさるようにかばと抱きつき、彼のハンチング帽ごと頭を撫でる。少しばかり辟易とした表情を浮かべたものの、さすがにジョウは慣れたようで話を続けた。
「まあ、そんなところ。もう終わりそうなんだけどね」
「じゃあ、じゃあ! わたしと食事をしに行きましょう! この近くに、とてもおいしい食堂があるのです」
「えっ、でもなあ。僕、ちょっと持ち合わせが……」
アリエッタはふんと鼻息荒くすると、胸に手を当てた。なんとも自慢げである。
「任せて下さい。今日は、多少持ち合わせがありますから」
「エッ、本当? いやあ、なんか悪いなあ。アリー、僕あんまり貸し借りってのは嫌いだからさ、また別の機会に奢らせてよ」
ジョウはスマートにそう言うが、アリエッタはというとそのようなことは全く想定していなかった。くすんだ青い前髪の下で、妖しく目が光る!
「構いませんよ。全く構いませんとも。別にお金はいいんです。奢りなんて、とんでもない。私は……」
「や、どうもお二人さん。なんだか楽しそうじゃありませんか」
アリエッタの緩んでいたはずの顔が、一瞬で憤怒の如き形相に変化した! 後ろから声をかけてきたのは、白いジャケットを羽織った憲兵官吏。寝癖だらけの黒髪をぼりぼりと掻きながら、眠そうな目に深い隈を宿した男。腰に差した二本の剣が特徴的な、悪名高きダメ役人、ドモンであった。
「奢りだなんて、景気がいいじゃありませんか」
へらへらとやらしい笑みを浮かべながら、小悪党めいた言葉を吐く彼に、アリエッタは自身のくすんだ青い前髪をかきわけ、赤渦を巻いた瞳を晒す。
「そんな景気のいいシスターに、僕もぜひ御相伴にあずかりたいもんですねえ。何がいいですかねえ……肉ですかね。肉がいビゥッ!」
ドモンの頬が彼女の手に掴まれ、無惨にも歪む! アリエッタはにこにこ笑うと、彼に向かって優しく語りかけた。
「ねえ、二本差しの旦那。あなた、家に帰った時……奥様にこう言われるっていうのはどう? 『あらあなた。今日は馬みたいな顔ね。人間じゃないみたい』って」
ドモンは顔面蒼白になりゆっくりと首を振った。アリエッタは髪を掻き分け、赤渦の巻いた瞳を晒している間だけ、殺しも辞さない人格に変わるのだ。理由はどうあれ、やりかねない。事実彼女は、それを可能にする超握力の持ち主なのだ。
「わかりまふぃた」
「いい子ね旦那」
アリエッタは顔から手のひらを外してやる。ドモンは自分の顔が変わっていないかぺたぺたと手で触れた後、安心からか深い溜息をついた。
「旦那。アリーにだけは変なちょっかい出さないほうがいいよ。命に関わるから」
ジョウが心配そうにそう当然なアドバイスを下すも、ドモンは不機嫌そうであった。彼とて、ただ単にちょっかいをかけただけではなかったからだ。
「……肝に命じときますよ。ところでつなぎ屋。あんたにちょっと仕事を頼みたいんですがね。簡単にいやあ、人探しなんですが」
「別にいいよ。仕事なら別口がちょうど終わったところだから」
ジョウは肩掛け鞄から万年筆と小さな手帳を取り出すと、キャップを外した。アリエッタは壁に背中をつけ、つまらなそうに二人のやりとりを見ているばかりだ。
「昨日、行政府の女性官僚が一人、乱暴された挙句殺されちまいましてね。お偉方も、内部職員が事件に巻き込まれたとあっちゃ、敏感になってるようで、僕らに捜査のお鉢が回ってきたってわけです。犯人探しに憲兵団じゃ血眼になってましてねえ。この僕も、ただのお荷物じゃないってところを形だけでも見せなくちゃならないということなんですよ」
「旦那も大変だね。それで、犯人の目星はついてるの?」
「ええ。怪しい二人組が目撃されてます。金髪碧眼、黒ジャケットの男二人。……そうそう、忘れてました。片方の男の頬には、薔薇の刺青があったとか」
にわかに、アリエッタが壁から背中を離した。明らかに動揺している彼女は、ジョウをおしのけドモンの肩を揺らした。
「……薔薇の刺青というのは、本当なのですか!」
「なんです。二十代から三十代くらいの男だって言われてるんですよ。あんたの好みじゃないでしょう」
「違います! そういうことでは……こうしてはいられません!」
アリエッタは突如駆け出し、通りへと向かって人混みへと消えていった。ジョウの呼びかけにも応じることのない彼女を見るのは、ふたりとも初めてであった。




