拝啓 闇の中から欺瞞が見えた(Cパート)
憲兵官吏の住宅は、西地区に集中している。これは憲兵団の前身は、帝国成立時に結成された騎士団から分化した騎士たちに、王国出身者が多かったためである。さて、そんな憲兵官吏達に嫁いだ妻達は、危険にさらされながら薄給な夫の愚痴を、常に誰かの家に集まって話し合っているのであった。
「……ミオさんのところも、そうなんですの? エイラさんのところも?」
優雅な手つきでソーサーにカップを置くと、丸い目をさらに丸くしながら、ドモンの妻・ティナは言った。
「ああ。私のところもそうだ。……そうだな、ミオ」
女性にしては精悍で落ち着いた風貌のエイラは、白の道着に黒袴に身を包んでいる。彼女はジョニーの妻であり、元騎士という異例の経歴を持つ女である。
「ええ。ヤスヒコ様も、いつもそうですわ。帰ってきたら、すぐにお願いしますもの」
よほどおかしかったのか、ミオは長い黒髪をかきあげながらくすくす笑った。幼く見えるが、ティナやエイラと三つも変わらない。そして、低い背に見えても彼女の胸は豊満であった。彼女ら三人は、年齢はどうあれ、同じ憲兵官吏の妻であるという共通点を持つ。よって、仲が良いのだ。
「足の臭いがどうしても気になるので、なんと言ったものか毎回困っていましたの」
「男というものは汗を良くかくからな。私はすぐに臭いから脱げとはっきり言うぞ」
エイラは豪快に言い切り、笑った。彼女は剣術に傾倒しすぎて嫁の貰い手が無くなり、今の旦那──ジョニーと決闘したとも聞いているが、ティナもその真偽を確かめられずにいる。同時期の結婚であったこともあり、ティナとエイラは特に仲良くしているのである。
「私も言ったほうが良いのでしょうね。正直、夏場は耐えられませんの」
「ドモン殿は繊細だと聞いているぞ。あまり、強く言わない方が」
「いえ! 義姉様が、あの人に関してはどんな時でもはっきり言うことが大事だと教えて下さいました。実際、風采上がらないし、しっかり言わないとすぐものを忘れるんですもの」
ティナはぷりぷり怒りながら、紅茶をぐいと飲んだ。彼女は、ドモンに多すぎるほど不満を抱いている。そのほとんどが、ドモンの妹にしてティナの義姉、セリカの受け売りなのだが──。
「ドモン殿も災難だな……。ン、すまないミオ。今は何時だ」
ミオはすっと椅子から立ち上がると、隣の部屋にある柱時計を確認した。時計は、四時まで十分前になっていた。
「四時になります」
「そうか。夫が今日はトマトのスープが飲みたいと言っていたのでな。夕食の支度をしなくては。先に帰らせてもらう」
「じゃあ、ミオさん。私も夕食を作りますので、そろそろ……」
「はい。では、またお話しましょう?」
ミオは結局玄関まで二人を見送り、深々と頭を下げた。親しき仲にも、丁寧な態度を決して崩さない。ティナもエイラも尊敬の念を持っている。素晴らしい友人なのだ、彼女は。
ティナは自分の胸に手を当て、お腹に撫でおろした。エイラも同じく、そうした。二人共、引っ掛かりのない体だ。
「……どうして、このような差がついたのでしょう」
「うむ。……いつ見ても同じ女と思えん」
二人は絶望と諦観を胸に秘めながら、とぼとぼと帰宅の途へとつくのだった。二人を見送ったミオは、鼻歌まじりにキッチンへと向かう。ヤスヒコは度々、ミオに深い愛情を注いでいる事を不安に感じていた。彼は二人も愛する妻を失っている。原因は様々らしいが、彼の口から教えてくれたことはない。
野菜を刻みながら、ミオはそのことについて考える。ふと手を止め、頭を振った。過去は、関係ない。ヤスヒコは素晴らしい男性で、私は愛されている。だから、私も彼を疑問なく愛するだけだ。
彼女がそう結論づけた直後、玄関の扉を叩くものがあった。ミオは扉を開けず、何者かに呼びかけた。
「どなたですか」
「帝国行政府厚生局の者です。メロウと申します」
女の声に若干胸をなでおろしながら、ミオは少しだけ扉を開けた。直後、彼女の喉元には、ナイフが突きつけられていた。何が起こったのか、分からない。黒スーツの女は静かに言う。
「死にたくなければ、一緒に来ることね」
おかしな尋問は、入れ替わり立ち代わり──すべての憲兵官吏について行われた。居並ぶ憲兵官吏の冷ややかな視線を浴びるライアン達であったが、全く動じる風に見えない。詳細に取られた調書の束を抱える、ショーンを背に、ライアンは尊大な態度のまま宣告した。
「我々のネットワークは、強固なものです。我々が今日なぜ憲兵団本部に来たのか──数日経たない内に、分かる時が来るでしょう」
ヨゼフは後ろ姿にまで愛想を振りまいていたが、扉が閉じた途端態度を豹変させ、実に不機嫌そうに執務室へと戻り、勢い良く扉を閉じた。
「……なんだったんすかね、あれ」
ジョニーが怪訝そうな表情を隠そうともせず、ぽつりと呟いた。既に陽は落ちており、ほとんどの憲兵官吏が本来片付けられるはずだった仕事の続きを、死んだような目で必死に行っている。完全に邪魔をされた形だ。
「さあ、知りませんよ……。困りましたねえ、夕食どうしましょう。カンカンですよ、多分」
ドモンが困ったように羽ペンで鼻の頭を掻き始めた時、救世主は都合よく現れた。憲兵団本部の警備隊員が、ドモンを呼びつけに現れたのである。
「ドモン様。お会いしたいという方がいらっしゃっていますが」
まさに救いの声だ。ドモンは普段のだらけた態度とは真逆の速さで席から立ち上がり、警備隊員を押しのけるように本部の入り口へと向かった。
そこに立っていたのは、ジョウであった。白いシャツを着て、いつものワーカーパンツをサスペンダーで釣り、ハンチング帽をひっかけた彼が、暗がりで背中を付け待っていた。
「なんです、あんたですか」
「旦那。レドが子供拾ったの、知ってる?」
唐突な報告に、ドモンは笑みさえ浮かべて見せた。なかなか言葉が出てこない。あの鉄面皮が、子供を?
「どういう状況ですかそれは」
「正確には、母親を攫われた子供を預かってるんだよ。旦那に話を通したほうが早いと思って何度か来てたんだけど、なんか中で取調してるっていうじゃない。だから、こうして待ってたわけ」
誘拐。確かに物騒な話だ。ドモンは腰のベルトに通した大小二本の剣の柄に手を置きながら、顎の下を掻いた。
「……で、僕に何の用だってんです」
「あのね、旦那。腐っても憲兵官吏でしょう。母親を見つけて欲しいんだよ。つまり旦那の仕事、憲兵官吏のお仕事さ」
ドモンはジョウの側をゆっくりと通り過ぎ、彼に振り向いた。眠そうな憲兵官吏の顔。深い隈の刻まれたダメ役人の顔であった。
「子持ちだろうがなんだろうが、女がどっかへ消えるなんてのはどこだろうとある話でしょう。あんたなら、そのくらい解ってると思ってましたがね」
「手柄になるじゃない」
「なりませんよ、んなありふれたことで。僕は今忙しいんです。さっさと帰って……いや待ってください」
ドモンはジョウに指を差し出し、ジョウを引き止めんとした。
「つなぎ屋。あんた、言伝を頼まれちゃ貰えませんか。僕の家に行って、今日は遅くなるから夕飯はいらないとね」
「それくらいなら、構わないけど」
ジョウはドモンへの提案が無碍に断られたことに若干むっと腹を立てながら、静かにそう返した。彼がゆっくりと夕暮れの街へと消えようとした直後、彼を引き止めるものがあった。
「おお、つなぎ屋殿! 相済まぬ、しばらく待たれい!」
小柄な影がドモンの側を通り過ぎ、ジョウを再び引き止めた。誰かと思えば、ヤスヒコであった。息を切らせてどうやら中から走ってきたらしい。
「……失礼ですが、旦那。ドモンの旦那には良くしてもらってますが、旦那は初めてでいらっしゃいますね」
ジョウは訝しげにハンチング帽をぐいとかぶり直し、帽子の下から鋭い視線を向けた。彼はつなぎ屋だ。あらゆるものをつなぐことが仕事であり──闇の世界もその例外ではない。ドモン以外の憲兵官吏に顔を知られるのは、あまり褒められた行為ではないのだ。
「うん。拙者は同じ憲兵官吏のヤスヒコと申す者。立ち聞きはならぬと分かってはいたのだが、たまたま小耳に挟んだところ、ドモン殿の奥方に言伝をするそうではないか。拙者もドモン殿と同じく、夜遅くなりそうなのでな。ついでで構わぬから、妻のミオに一言添えてもらえぬか」
ヤスヒコは憲兵官吏にしては丁寧な態度でそうジョウに伝えると、彼の手を握り引き寄せると、懐から取り出した銀貨をなんと五枚も手のひらの中へ差し入れた。たかが言伝に払う額としては、異例の額である。ドモンは目を見開きながらそれを見ていた。彼の好物のくるみパンが、五十個は買える事だろう。現金なことに、ジョウは線を引いたような細い目をさらに細目、にやりと笑いかけた。
「これは、ありがとうございます。……今後共このつなぎ屋ジョウをぜひご贔屓願います。あっ、二本差しの旦那ももちろんよろしくお願い致しますよ。……奥さんには適当に悪口言っとくから」
聞こえるか聞こえないか分からない最後の言葉を、ドモンは再び聞き直そうとしたが、既にジョウの姿は逢魔が時の暗がりへと消えていた。
「……お金持ちですねえ、ヤスヒコさん」
ドモンが言えたのは、その程度の皮肉であった。ヤスヒコは苦笑すると、踵を返して本部事務室へと戻っていった。残されたドモンはと言うと、しばらくうろうろとしながら思案を続け──思いついたように、ふらふらと露天コーヒーショップへ足を向けるのであった。
南西地区、レドの自宅にて。
レドは少年エイトと共に、静かに食卓を囲んでいた。買ってきたパンに、簡単な肉入りのスープ。お世辞にも豪華な食事とは言えないが、温かい食卓であった。パンを押しこむように口に頬張るエイトに、静かに水を差し出してやったり、スープを飲む彼に、熱いから気をつけろと声をかけてやる。
年の離れた弟のようなエイトに抱いた感情は、安息であった。
レドは殺しの世界に身を置く、生粋の殺し屋である。十代の中頃から殺しを始め、父親の傘作りと殺しの技術を受け継いで生きてきた。しかしそれは、病気で母を失ったことで、失踪した父親の影を追う行為であった。彼は、ろくに家族のあたたかみを知らない。わずかに残る在りし日の家族の記憶を、なんとか再現するような試みであった。
「母さんとは食事はとらないのか」
ふとした質問は、エイトの笑顔に影を差した。レドは食べかけのパンを皿に置き、静かにエイトの返答を待っていた。
「……母さんは、男の人と寝てお金を貰ってる。言ったよね」
「ああ」
「夜は凄く遅くて、僕はいつも一人なんだ。ごはんも一人で食べてるの。母さんは、いつも疲れてすぐ倒れるように寝てる」
彼はスープを飲み終え、スプーンを静かに置いた。
「レド兄ちゃんが、父さんだったら良かったのに」
エイトは静かにそう言う。レドは曖昧に笑い、返事をしなかった。当然の対応であった。レドは知っている。自分が人の親になど、なれるはずが無いことを。父親が自分を捨て、失踪したのだから尚更だ。
俺は、殺し屋なのだから。
「母さんは好きか」
「うん。大好きだよ。ねえ兄ちゃん。母さん、見つかるかな……」
「ああ」
レドは短くそう言い、笑った。彼のえくぼを見たエイトは、どうやらひとまず安心したように見えた。その時である。レドの小さな家の扉を、ノックしているものがいるようであった。
彼は立ち上がり、作業場を抜けるついでに、材料置き場に無造作に刺してある、短い鉄骨を手にとった。次に、備え付けてある鏡をわずかに角度を変え動かす。こうすることで、玄関前に誰がいるのかを鏡で確認することができるのだ。
「……レド、私です。アリエッタです」
鏡に映る巨躯は、間違いなくアリエッタであった。レドは黒い着流しの懐に鉄骨を仕舞いこむと、そのまま扉を開けずに彼女に尋ねた。
「どうした」
「ジョウと相談して、手分けしてエイトのお母さんを探していたのですが──客待ちだったらしくてですね。娼館所属の娼婦と違って、固定の客もいないようで……正直、暗礁に乗り上げているというやつです」
客待ちというのは、文字通り路上の暗がりで客を引き、性行為を供す事で金を得る──有り体に言ってしまえば路上売春婦のことである。レドは寂しげにテーブルにつくエイトを見る。つまらなそうに椅子の上で足をぶらぶら揺らしている彼の姿が目に入った。再び、暗がりに立つアリエッタへと視線を戻した。
「二本差しは役に立たなさそうか」
「わかりません。もう少し、エイトは預からないといけませんね。……面倒なら、いっそのこと私があずかりますが」
「結構だ」
レドはぴしゃりと言い放ち、鏡の角度を戻した。
「何? いなかったと申されるか?」
息を切らせてジョウが報告したのは、ヤスヒコにとって意外なものであった。妻のミオが、家にいない。この時間であれば、恐らく彼女は食事を作って待っている頃のはずだ。それがいない。
「寝ているような時間ではないはずでござるが……」
「ええ。さすがに中に入るわけにもいかなかったんで、勝手口から少し覗いたんですが……キッチンで野菜を刻んだままほっぽらかしになってたんです」
普段のミオからすれば、ありえないことだ。彼女は料理の途中で何かを放り出すような人間ではない。再婚して二年しか立っていないにしろ、それはよく分かっている。
「何ぞあったのかもしれないでござるな。礼を言う、つなぎ屋殿。拙者、これよりすぐ家に戻る故、申し訳ござらんがドモン殿に伝えてくださらぬか。では、これにて御免」
ジョウの返事も聞かず、ヤスヒコは白いジャケットを翻しながら走る! ミオは、三人目の結婚相手だ。病死、事故死。二人の前妻も心から愛していたが、運命は非情にもヤスヒコと彼女らを簡単に引き裂いた。
彼女をもう失うわけにはいかない。
ヤスヒコは、走った。息を切らせ、心臓が爆発しそうなのも構わず走った。やっとのことで家に辿り着く。野菜が刻まれたままのキッチン。火の消えたかまど。確かにあったはずの彼女の温かさも、既に失われて久しいようであった。
「ミオ! 戻ったぞ!」
返事はない。ヤスヒコは胸騒ぎを覚えながら、黒髪をいらついた様子で掻きあげた。ふとキッチンの側のダイニングテーブルへと視線を落とすと、羊皮紙が一枚置いてある。ランプを灯し、光に当て読む。ミオの字では無い。
『やあ、ヤスヒコ。これを読んでいるということは、君の妻がいなくなったことに気づいたということだね。君はとても動揺している。妻を失うことを、恐れている。君は妻を探すだろう。しかし闇雲に探すのは良くない。君は生まれ変わらなくてはならない。ほかならぬ君と、君が愛する妻のためだ。この物語は、ハッピーエンドで終わる。そのためには、君がこの手紙の通りに南地区ゴミ処理場にある、三番倉庫まで来ることがまず必要だ。愛しているならば、何につけても真っ先にこちらに来るべきだと、私は思う。
親愛なる君の友人ジョーより』
ジョーという友人など、ヤスヒコにはいないはずだ。この手紙の通り、彼は動揺し──怒りを覚えていた。要するに妻は攫われたのだ。何者かは分からないが、とにかく攫われた。彼は、腰に帯びた剣の柄を強く握った。どす黒い憎悪さえ込めながら。




