まぼろし谷 1
濃い霧が立ち込めていた。
白い粒子が森の木立の間を漂い、ひんやりとした空気で辺りを満たしている。
青白く霞む世界は、この先に進ませまいとする何者かの意思のようで、その何者かの掌の上で、エディールとミネルバは行く先を探っていた。
あれから数日、二人は野宿をしながら森を進んでいた。かなりの行程を進んだはずだが、まだ二人の前にエスティーアの地は見えてはいなかった。
「正規の道に出たと安心したのも束の間でしたね。この濃い霧のなかで森を進むのは、エスティーアの住民でも危険だとあきらめるものです」
「では霧が晴れるのを待つか? もっとも、ここの霧はすぐに晴れる性質のものではないと思うが……」
「あら、よくご存じですね。まぼろし谷のこと。そうなんです。エスティーア周辺の地域が古くからまぼろし谷と呼ばれているのは、その名のとおり幻を見ているような美しい光景ということもあるのですが、こうした濃い霧がよく発生して、旅人を惑わすという意味も込められているんです。この霧に閉じ込められ、森で帰らぬ身になった人をたくさん知っています。こんなふうに濃い霧が出た日は、白い魔女が現れたなんて言われることもあるんですよ」
「美しい魔女に誘われるのはある意味とても魅惑的ではあるが、それなりに大きな危険が付き物というわけだね。……だが、もうすでにその術中に嵌ってしまっているのだとしたら」
エディールは腰に佩いていた細みの剣を瞬時に抜くと、己の背後に近づいてきていた虫を薙ぎ払った。
「どうにかして逃げる道を考えるしかなさそうだ!」
「きゃあっ! いつの間に?」
「こっちだ! 来たまえ!」
その後も次々と襲いかかってくる虫たちを薙ぎ払いながら、エディールはミネルバの手首を掴んで森のなかを進んでいった。
ミネルバは驚きつつも、迷いのないエディールの歩調に懸命についていった。
しばらく進むと、エディールは立ち止まった。いつの間にか虫たちもどこかへと姿を消してしまっている。ミネルバは息を整え、エディールのいる方向へと目を向けた。
「これは……」
エディールの正面には、人がかろうじて入れるほどの洞窟が口を開けていた。木立と茂みの間にひっそりと隠れるように、その洞窟はあった。
「こんなところに洞窟があったなんて、初めて知りました。エスティーアの地下には広大な地下洞窟が広がっていることは知っていましたが、それでも私が知っているのは二つくらいのものです。この洞窟は、いったいどこへ通じているのでしょう」
「この洞窟は王都近くまで続いている」
エディールのその発言に、ミネルバは驚きに目を見開いた。
「この洞窟のことを、以前から知っていたみたいな口ぶりですね」
「ああ。さっき偶然ここのことを思い出したんだ。途中の道にどことなく見覚えがあるような気がした。自分でもこの洞窟の入り口のことを思い出せたことは奇跡だと思ったよ」
「もしかしてエディール様、あなたは……」
「……そろそろきみに隠し続けるのも難しくなってきたようだな」
エディールは軽く首を振り、一度深く息を吐いてみせた。
「そう。わたしはこの洞窟を使うのは初めてではない。なぜならわたしは、元はエスティーアの住人だったからだ」
「エスティーアの……? では、私たちと同じ……」
ミネルバは言いかけて、はっと口元に手を当てた。そして、恐る恐る次の言葉を発した。
「もしかして、エディール様。あなたもエルフ族の血を引いているのでは? 私たちよりも、その……エルフ族としての血は薄いのかもしれませんけど……」
そこでようやくエディールは背を向けていたミネルバのほうにくるりと向き直り、彼女と視線を合わせた。
「ああ。わたしの父はエルフと人間の混血で、母は人間。つまり、わたしのなかにも、多少エルフ族の血は混じっている。ほとんどそれは表には出ていないようなものだけれどね」
エディールはそう言ったが、ミネルバはそうとも限らないことを感じ取っていた。エディールの持つ美しい容姿はエルフ族の容貌とも似ている部分があり、絹糸のような美しい銀髪を持つものは、エルフ族のなかにもいる。
それも、相当高貴な血のエルフ族のなかに。
「まさか……でも、そんな」
瞬間、いろいろな想像がミネルバの脳裏を駆け巡った。しかも、その想像のなかには多くの悲哀が含まれていた。少しの間悩んでいたミネルバだったが、しばらくして何事かを決意したのか、居住まいを正して顔を上にあげた。
「エディール様。私、今からとあるお話をさせていただきますね。でも、別にそれに対してなにか反応を示さなくてはいけないということではありません。これは私の独り言。ですが、もしよろしければ少しだけ耳を傾けてくださいますか?」
エディールは黙ったまま、軽くうなずいてみせた。
「ありがとうございます。では」
ミネルバはコホン、と軽く咳をしてから話をし始めた。