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 六二五年神無月二十一日。


 涙が一筋零れた。

 ずっしりと感じる身体の重みで、還ってきたことを知るのは容易い。だが、目を開けたくなかった。現世を映してしまえば、あとは思い知らされるだけだ。羅人の存在が永久に消滅したという事実を。

 あれほどうるさい、邪魔だ、棺桶に放り込んでやろうと思っていたというに、いざその時がくれば、こうして言いようにない孤独を感じる。

「ふっ……」

 掌で顔を覆う。

 いずれ、この日を迎えることはわかっていたはずだ。感傷的になることすら愚かしい。一切の喪失――また一つ、己の手から大切なものが零れ落ちた、ただそれだけのこと。

 自らの意志のために、羅人はその強大な力を行使し続けた。己の命が磨り減って、消えてしまうぎりぎりまで。ゆえに羅人の力を受け継いだあの日、本来ならば羅人はそれと引き換えになるはずだった。

 拠り所を喪いたくないがゆえの私の愚かさが、羅人をこの世界に縛りつけていたのだろうと思う。私の行いをすべての人が否定したとしても、羅人だけはその意味を知ってくれている。

 ふと、視線を感じて顔を上げる。部屋の隅に、ここにいるはずのない鴉が静かに座していた。ずっと前からそこにいたような風情で、ただ私を見ている。私の中に在る、何かを探しているかのように。

「……師匠は逝ったよ、鴉」

 燃え盛る焔のような魂だけを私の中に刻み付けて、そうして二度と誰にも手が届かぬところへ一人行ってしまった。今度こそ本当に。

「ついに、この日が……来てしまったのですね」

 つうっと鴉の頬に涙が走る。

 私は初めて鴉のそれを見た。声も上げず、はらはらとただ涙だけを流すその姿は、まるで翼をもがれた、鳥。翼を失くした鳥は、もう空へはばたくことはできぬ。

「鴉……」

「よく、わからぬのです……なぜ、涙が溢れるのか……」

 拭うこともせぬまま、走り続けるその涙はただ美しかった。朝の柔らかい光に照らされて、どこまでも静謐な色が鴉を包んでいる。

「私もまた、喪ってしまった……一体、何人の死を看取れば……解放、されるのか……」

 鴉のその言葉の真意を知るのは、最早私のみと知って、その途方もない孤独に胸が締めつけられる。だが私には、その場限りの同情すらかけてやる資格はない。私もまた、羅人と同じ終わりを辿るがゆえに。

「わからぬ、な。そして、わたくしもそう遠くない先に……そなたを遺して、逝くことになる」

 鴉はぎゅっと唇を噛みしめた。これ以上、涙が溢れるのを堪えようとしている拳が震えている。

 私は褥から立ち上がり、鴉の目の前に座り込んだ。おもむろに鴉の手を取り、上から包む。

「それでも、そなたはわたくしに仕えてくれるか」

 鴉は私の思いがけぬ言葉に目を見張った。

「そなたが主従の契約を交わしたのは、師匠だということはわかっておる。されど、そなたを手放したくはない。……わたくしは師匠の代わりとしては未熟だろうが、今度はわたくしだけのために力を貸してはくれぬか。そなたの力が必要なのだ」

 戸惑ったような表情を浮かべ、紫苑は微笑んでいた。その姿は遥か昔、羅人が傷ついた自分にそれでも生きよと言った時の姿と似ていて。鴉の瞳から最後の滴が零れ落ちた。

「修羅の道を共に歩いてはくれぬか。わたくしの命数が尽きる、そのときまで。そして、わたくしと師匠の願いの先をそなたの瞳で見届けてくれ」

 羅人様、と鴉は心の中で呟いた。

 確かに、あなた様がお選びになった方は正しかった。あなた様が心から慈しみ、お心をわけられたのは、真実この方しかおるまい。鴉は繋がれた手を押し頂くようにして握り返した。

「羅人様が紫苑様に託した願いを、見届けるのが私の役目。羅人様より与えられたこの死ぬことも許されぬ、長い長い生は……何もかもそのために。そしてすべてが終われば、私はやっと、……この永遠なる呪縛から解き放たれ、死を夢見ることができる。その時を迎えるまで、私は紫苑様に考え得る限りの知恵を与え、紫苑様を助けましょう。……それが、私の宿命であるのなら」

 それは、人間でありながら人間以上の知恵を追い求め、魔道に堕ちた天狗の宿命。

 死ぬことも許されず、気が遠くなるほどの年月の中で大切な者の命が目の前で零れ落ちてゆくのを何度も見続ける、それは一切の喪失と絶望。それでも、羅人は生きよと自分に言った。失うだけの生でも、いつの日かその手に何かを掴める、その時まで。

 そしてまた、あの時の羅人と同じ瞳をして、羅人の魂を胸に宿す者が自分に助けを求めている。この何百年の間に失うことしかできなかった自分が、何かを手にできる可能性を秘めて。自分と同じ、一切の喪失の運命を胸に抱きながらもなお、行く末の先へと歩き続けられる紫苑と共に戦えるのならば、修羅に墜ちてもいいと思えた。

「そなたもわたくしも宿命に縛られ、……生きておる。それでも、その道行が二人であるならば、幾ばくかの慰めにもなろうか。きっと、師匠も同じことを思うたのだろう」

 ひらりとどこからか流れてきたのは、季節外れの小さな桜の花びら。思わず掴んでしまったのは、あの懐かしい木を思い出したからなのか。紫苑は愛おしむように花びらを撫でて、そっと空に還した。

 それは、まるで羅人への餞のようだと、鴉は思った。


 *


「ようやっと、起きたか」

 鴉を見送っていた空から、声がしたほうに視線を向けると、盆を持った紅玉が部屋の中に入ってくるところだった。慌てて、その手に持っているものを受け取ろうとする。

「よい、そちは三日も眠りこけていたのじゃぞ。たまには黙って世話を受けるものじゃ」

「……されど」

「そちまで妾を大病人扱いするとはの。もうつわりも治まったのじゃ、あまり心配しすぎじゃ」

 盆を枕元に置いて、紅玉は私の頬に手を当てた。

「ふむ。もういつもの紫苑のようじゃな。急に倒れるなど、心配かけおって。まったく迷惑な主従じゃの」

「我が君は今いずこへ……?」

 紅玉が盆に乗せて持ってきたのはほかほかと湯気が立つ羹が入った入れ物だった。なんとも美味しそうな匂いがその場に漂う。

「背の君ならば、昨日のうちに目覚めて、今日も今日とて元気に駆け回っていようて。よう眠れて疲れもすっきり取れたとかなんとかほざいておったえ、心配することは皆無じゃ。そちは自分の心配だけしていればよい」

 紅玉が手際よく小ぶりの椀によそり、ずいっと私に差し出す。

 有無を言わさず押しつけられた羹は、細く刻まれた鶏肉や椎茸が入って、溶き卵でとじられたもので、私の好物だった。不覚にもお腹が鳴る。人はどんな状況でも情けなく腹が減るもので、私は穴があったら入りたい気持ちになった。

 顔を真っ赤にさせた私を見て、紅玉は耐え切れずに声を上げて笑った。

「そちでも、腹は減るのじゃな! よいよい、たくさん作ったゆえ、たんと食べるのじゃ」

 涙を浮かべて大笑いをする紅玉を少し恨めしい思いで睨みながらも、結局空腹に耐え切れずに一口ぱくっと食べた。

「……美味しい」

「そうであろ。この妾が作ったのじゃからな。これを食べれば元気爆発じゃ」

 元気爆発って……、と思いながらも私は羹を啜った。温かくて懐かしいその味は身体中に広がってゆくような気がした。

 不意に、涙がぼろりと零れて私は仰天した。慌てて拭うが、涙は堰を切ったように後から後から溢れ出した。

「ど、どうしたのじゃ? 泣くほど美味かったか?」

 突然泣き出した紫苑に紅玉は驚いた。紫苑は自分がなぜ泣いているのかわからぬというような表情でただ泣き続けていた。泣き方を忘れた子どもが泣くことをやっと思い出したかのような、そんな泣き方だった。

 そんな紫苑を紅玉は抱きしめた。壊れものを扱うかのように、静かにそっと。不意に、紅玉が紫苑の涙を見たのは、紫苑と出会ってから初めてのことだと気づく。そんなことにも気づけなかった自分を悔いる。

「……今はただ泣くがよい。どれほどみっともなく泣こうとも、そちを咎める者はここには居ぬ。それだけのものを……そちは、失くしたのであろ」

 小さな子どもをあやすように背中を撫でる手はただ優しくて、紫苑は抗うことをやめた。夜の静寂(しじま)に似た穏やかな声音は、最後に残った箍をも脆くも突き崩すようで。

「……守らねば、ならぬものがあるのです……立ち止まる、暇などないと、わかっているのに……」

 瞼の裏に浮かぶのは、宋鴻の影。

 人の熱に縋るなど、愚かも過ぎる。私に用意された道はもはや一つしかないと、思い知ったはずではなかったか。私のこの手は、もう白には似合わぬ、と。

「それでも、そちはゆくのじゃな。その道の先に……そちが望むものを、その手に掴むために」

 紅玉の手が背から離れて、その細い指で私の額にかかった髪を掻きやる。それを合図に涙がまた一筋零れた。

 何度立ち止まりそうになっても、前を向き続けた。血に染まった手で、誰かを救うという矛盾を抱えながら、それでも明日を待った。

 ――すべては、願いゆえ。宋鴻を、次代へ生かすため。


「……はい」

 そのためならば、私は裏切り者と呼ばれよう。鬼と、呼ばれよう。

「それでよい。そちはそちの望むものを掴みにゆけ。そのために妾はそちが帰る場所を用意して、いつでも待っていよう」

「姫……」

 驚いて声が震える。紅玉が今までになく優しい微笑みで私を見ていた。

「ゆえに心配するでない。そちが帰る場所はいつだってここにあるのじゃ。疲れたときはまた料理を作ってやるし、泣きたいときは傍で一緒に夜を過ごしてやろう。そして夜が明けたら、また行ってくればよい」

 ぽろぽろと新しい涙が溢れる。紅玉は仕方がないというように苦笑して、その涙を掬った。

 ――帰る場所。

 これから先、私がどんな選択をしたとしても、紅玉がくれたその言葉を忘れずにいようと思った。最期のその瞬間まで。


 *


 六二五年神無月三十日。


「宋鴻様も無事意識も取り戻しまして、何よりにございますな」

 部屋に入ってきた翁は、開口一番に告げる。自分も自分以外の何かに身体を乗っ取られていたようなものだったとはおくびにも見せずに。どうやら宋鴻に話すつもりはないらしい。

「私が寝ていた間の采配、呉陽と共に奔走してくれたらしいではないか。随分珍しい」

「何、この老骨めもたまには仕事せんと若い者に示しがつきませんでな。……ようやく戻ってこられたゆえ、与えられた時を大切にせねば」

「翁も不思議なことを申す。よくわからぬが、昔の翁を見ているようだな。いや、そう言ってはおかしいか……」

 目覚めてからの宋鴻は、いつもと変わらぬように見えた。

 宋鴻が人事不省の間に交わされた翁との会話は、まだ呉陽の胸の内に収められていた。紫苑の過去を調べようにも、最近体調が優れなさそうな広栄に頼むこともなんとなく躊躇われた。

「いやはや、年は取るもではありませぬな。感傷的になっていかん。それで今日お召しは何用で」

「嗚呼、情報漏洩の件で翁にも意見をもらおうとな」

 重々しい空気がその場に流れる。呉陽も途端に渋面となった。

「宋鴻様、それはどういうことでしょうかの」

 翁が雪のような白い髭を梳きながら問いかける。

「先日の恩赦と年貢の件は翁も知っているな?」

「御意。そして、そのどちらも宋鴻様が先になさろうとご準備されておったことも」

「そうだ。その時から情報漏洩の懸念を抱いていたが、……此度それは再び起きた」

 呉陽は驚いて、宋鴻を凝視した。

「再び、とは……此度は何が」

「これが先刻軍議の場に届けられた書状だ」

 宋鴻が示した書状をまず翁があらため、一読したのち、呉陽へと渡される。

「ふぉっふぉっ、王もやりまするな。高蓮を手中にしようとは」

 翁が髭を梳きながら、呆れて笑う。呉陽も遅れてその書状の内容を読むと、わなわなと怒りで手が震えた。

「戦が終結したのちは、高蓮は排除の一択しか手がないというに。最も容易かつ、最短に問題の半分を片づけることができよう。……じゃが、それも宋鴻様による新体制を望む者にとっては、ということじゃが」

「……王は、自らの権力を維持するためだけに、あれを寵用する、と?」

 頭に血が上りやすい呉陽は、拳で床を打った。

「王は何もわかっておらん! その意を! あれは今やただの民に過ぎず、なおかつ誰にも与せん第三の勢力が、国力を担える軍事力を持つということの誠の意を!」

 それは、高蓮が否やといえば、容易に戦を起こせるということだ。

 今の表面上の忠誠は、現状の戦で敵が一致しただけの仮のもの。それこそ戦が終われば、紙屑を丸めて捨てるかの如く、あっさり消滅する程度の忠誠にすぎぬ。もちろんそれを承知して、組んだ同盟だ。

「そう考えると、大司馬の御位……むしろ、厄介なものになりましたの」

 翁が皮肉げに喉を鳴らした。

 まったくそのとおりであった。大司馬の任を受けながら趙佶軍の勝手を許せば、軍をまとめられぬ、その任に値せなんだと糾弾されよう。逆に排除の時期を見誤れば、己に相対する可能性のある存在を潰し、また戦を始めるつもりかといらぬ勘繰りをされる可能性もある。ただでさえ、宋鴻はかの王の子息という点だけで、眉を顰める輩も皆無ではないゆえに。

 ここまですべての可能性を見通し、誰にも覆せぬ一手を指せる者は、そうはおらぬ。それを打てるのは、高蓮と、そして――

「紫苑は今、どこにいるのでしょうかの」

 呉陽は一瞬過ぎった名をまさに翁に言われて、ぎょっと飛び上がった。

「……し、紫苑は、所用で出ておるが……」

「近頃、なんらかの理由で紫苑が軍議に出ぬことが多いと聞き及んでおるが、その理由をすべて把握しておるのでしょうかの」

 翁にそう言われて考え込めば、瞬時に血の気が引いていった。確かに、最近紫苑を軍議で見かけぬようになっていたことに、今さらになって気づく。

 紫苑は元から単独行動が多かったが、何日も宋鴻の傍を離れることはあっても、軍議を欠席するのは稀だった。たとえ欠席したとて、後日内容を聞かれ、次の軍議には必ず出席していた。それが最近は軍議にすら出ず、内容を聞かれることもなくなっていた。

「ですが、軍議に出ぬのなら、内容を漏らせぬはずでしょう……」

「いいや、出る必要がなくなった、という意ではなかろうかの。出ずとも、紫苑ならその内容を知るすべがあるのかもしれぬし、その余った時間を他に使っておるとも考えられるじゃろ」

「……翁は、まさか紫苑を疑っておるのですか……?」

 半信半疑で問いかければ、翁はなんの悪びれもなく答えた。

「そういう可能性もなきにしは非ずというまでじゃ。宋鴻様も同じでありましょう。先ほどの情報漏洩の件は紫苑のこと」

 宋鴻を見ると、図星なのか渋い顔をしていた。

「だが、私はどうしても信じられぬのよ。紫苑が私のためにならぬことを、やるはずがない……だからといって、他の者がこれほど周到になせるかといわれれば、……それは無理だろう」

「儂も、あの者の宋鴻様への忠誠は誠に見えたのじゃが……見極め損ねたのなら、この翁一生の不覚としかいえぬの」

 呉陽は未だ言葉を失っていた。どうにかして紫苑に対する疑いを晴らしたいと思うのに、今の状況のすべてがその一つの可能性を指し示していた。――紫苑の、裏切り。

 それでも以前宋鴻と共に姿を消した紫苑を疑った時とは、自分の中の紫苑が違っていた。あの時は真っ先に疑ったが、今はどんな証拠を突きつけられたとて、紫苑を疑えぬ自分がいる。

「某は、違うと思います」

 珍しく紫苑を擁護する意見を発した自分に、宋鴻も翁も驚いたような表情を浮かべる。

「某は御二方よりも、紫苑の傍で共に戦い、お互い切磋琢磨して参った。紫苑の人となりをすべて知れたとは申すまいが、紫苑が殿を裏切ることはないと断言できます」

「ほう……珍しいことを言うものじゃな。ならば、おぬしは誰を疑うのじゃ?」

「やはり、某は高蓮だと思っております」

 興味深そうに呉陽を観察しながら、翁は再び髭を梳いた。

「じゃが、高蓮一人ではこうも先を読んで一手を指すことはできまいて。不本意には変わらぬが、我が陣営の内情を知る者の手引きがある程度必要じゃ」

「それこそが、……あの矢の人物ではないかと」

 さっと、宋鴻と翁の目の色が変わった。宋鴻が身を乗り出す。

「高蓮以外にいるかもしれぬという、新たな敵のことか」

 今になって妙に現実味を帯びてきた、その可能性。紫苑を信じるのなら、それに賭けるしかない。

「だが、紫苑自身もわからぬと言っていたではないか」

「だからこそ、探る価値があると存じます。常に無駄なほどの自信に溢れた紫苑が初めて、言葉を濁したのですぞ? それは紫苑すらも予想できず、かつ想定外に厄介なもの、とも取れます」

「じゃが、それはすべておぬしの想像に過ぎぬ。紫苑を信じてやりたい気持ちはわからぬでもないが……紫苑を完全な白と言い切るには、時期尚早じゃ」

 決然と話す翁は、かつて忍びの総元締であった頃の片鱗を窺わせた。その冷静さと広い視野で考えられる柔軟さ、情で左右させぬ公平な目利きで宋鴻に買われてから、自分よりも長く宋鴻に仕えてきた。

 きっと呉陽には見通せぬ世界の果てまで、翁は見通すことができるのだろう。それだけの経験を積み、荒波の時代を歩んできたがゆえに。

 だが、呉陽も呉陽なりの真実を知っている。

「某は、信じる。……紫苑は決して殿を裏切らぬ、と。……その宿命、ゆえに」

 なぜ、その言葉が零れたのかはわからない。ただ無意識で、呉陽が気づいたときには、すでにぼろっと世界に落ちていた。

 だが言葉にして初めて、呉陽は知った。――宿命という言葉の重みに。


 呉陽の言葉を聞き届けると、中の様子を窺うように一部始終を見ていた大きなカラスが羽を広げて飛び立った。

 血のような茜色の空を背にして。


 *


 その夜――

 墨で塗り固められたような闇の中、降り注ぐ透明な月の光を遮って暗躍する一つの影があった。血走った目が、憎らしげに月を睨めつける。

 向こうの通りから、がたごとと音が近づいてくる。酒楼に行った帰りの軒なのか、御者と中の主人との呑気な会話すら漏れ聞こえてくるようだ。影は目にも止まらぬ速さで、その御者の首を落とした。悲鳴を上げる間もなく、さらに数人の付き人と牛を突き殺す。

「急に止まってどうし、た……っ?!」

 言葉が終わるや否や影は剣を翻して、中に乗っていた者の急所を一突きし、瞬時に絶命させた。それは、武術を極めた武人というよりも、人を殺すことだけを叩き込まれた凶手のような手際のよさであった。

 影は、辺り一面にできた血溜まりの中で、あまりにも無気力な様で立ち尽くしていた。ぼうっとした虚ろな眼にわずかな光が差そうとしては、すぐに黒に引き戻されるのを繰り返しているような。結局、再び光が戻ることはなく、影は剣を放り投げ、そのまま闇に消えた。

 影が消えると同時に、その場に忽然ともう一つの影が現れた。惨状に一度だけ目を向け、憎憎しげに月を仰ぐ。

「面倒なことを……」

 刹那、ひっと叫ぶ声が後方から聞こえた。振り返ると、偶然通りがかったらしい男が、血溜まりに横たわる人であったものと影を交互に見比べて、腰を抜かして震えていた。

「……白妙の、羅刹……!!」

 男に近寄ろうとした足が微かに躊躇う。

 男は恐怖に顔を引きつらせ、その瞳はまるで化け物でも見るかのように途方もない嫌悪を湛えていた。だが、そんな己の感傷を一笑に付す。何を馬鹿なことを、と思って。

 次に男の瞳が瞬いたときには、紫苑は男の目の前で嘲笑うかのような微笑みを浮かべていた。声にならぬ叫びを遮るように、男の額に手を当てる。

「今、そなたが見たものはすべて忘却の彼方に葬ってやろう。そなたは明日、やってきた役人に馬で走り去る犯人を見たと言い、これを犯人が落としていったと役人に手渡すのだ。それが、そなたの記憶になる」

 紫苑が手を放せば、そこにあったのは骸骨のように虚ろに落ち窪んだ男の瞳だった。とんと紫苑が背中を押してやると、男はふらふらとどこかに歩き出した。


 *


「……これは、酷いな」

 呉陽は惨憺たる現場に苦虫を噛み潰したような顔をした。

 昨夜、大官の一人が何者かに襲われた。その手口が最近多発している事件と酷似しているという情報は先に聞いていたが、現場を実際に目にするのはこれが初めてだ。全員がほぼ一撃で絶命させられている。

「一体、なんのためにこのようなことを……」

 呉陽が眉を顰めながら、死体の傍にしゃがみ込む。戦場を駆け抜けてきた呉陽も己の手が真白だとは思わぬが、さすがにこの殺しは尋常ではない。一切の躊躇いのなさ、一撃で急所を狙える正確さ、目撃者の一人も残さぬという非情さ、そのどれをとっても、よほどの訓練を積んだ者でしかあり得ぬものだ。

「ひとまず、躯をどうにかせねばな」

 一応辺りには人が入ってこぬよう警備を布いているが、何しろ事件が公になり過ぎて人垣ができ始めている。新たな騒動を招くのだけは、避けねばならぬ。

 重い腰を上げ後ろを振り返るが、つまらなそうに塀にもたれている紫苑に溜息をつく。紫苑にとってはこれほどの事件だとて、あまり関心がないらしい。都の警備兵だけでなんとかすればいいのに、ちんたらしているから、休日に借り出される羽目になったとでも言いたいのだろう。

「……あれが、噂の……」

「確かに、信じられんくらいに美しい女子じゃ」

 紫苑の名を呼ぼうとして、思わず止まった。振り返れば、人垣の中にいた何人かが囁き声で紫苑の話をしていた。

「……しかし、どんなに美しくても、羅刹は羅刹じゃ」

「ほれ、人が殺されたというに、見向きもせんでいるわ」

「きっとこの殺しも、『白妙の羅刹』がやったに違いない」

 瞬間的に怒りが沸騰する。咄嗟に一歩踏み出そうとするが、その肩を強引に引き止められた。怒りに任せて振り向けば、心底呆れたとでも言いたげな表情をした紫苑がそこにいた。

「亡骸を先にどうにかするのが、先決だろうが」

「だが、羅刹とは……おぬしのことを言われているのではないのか!」

「通り名みたいで、洒落ていいじゃないか」

「紫苑!」

 額にかかった髪を掻きやり、紫苑は怠惰に自分を見つめ返した。

「……何も知り得ぬ民にとって、真実よりもその場しのぎの事実だけで事足りるものであろう? 羅刹は混沌としたこの世を具現化したようなもの。手の一振りで何百もの人をぶっ殺し、恐ろしいがこの世のものとも思えぬ美しい鬼。……それが、『白妙の羅刹』。都合のいい悪、だ」

「『白妙の羅刹』がどうかは知らぬが、……某の知るおぬしはこのようなことをする奴ではない!」

 紫苑は珍しいものでも見るかのように、呉陽を凝視した。だが、それも束の間のこと。すぐにいつもの何かを諦めて白けた表情を浮かべる。

「……そなたが私を信じようと勝手だがな、実際こうして事件は起こり、羅刹の名が人々の間に恐怖と共に伝染しておる。それはどう足掻こうと、事実なのだよ」

「呉陽様」

 言葉を失った呉陽を遮るように、鋭く名が呼ばれる。振り返ると、部下の一人が震える若い男を連れてきていた。

「この男が逃げ帰る下手人と思われる男を見たと。お前、呉陽様に正直に話せ」

「は、はい。……昨日の夜、呑んだ帰りに変な音がしたもんで、気になってこの通りを覗いたんすが、そしたら人が血出して倒れてるじゃあありませんか! こりゃてえへんだと思って、駆けつけようとしたら、男が馬に乗って逃げていったんですわ……その時、これを男が落としていきやした」

 おずおずと差し出されたものを見て呉陽は目を剥いた。すぐさま奪い取り、それを凝視すると紫苑と二人で目を見合わせた。

「命が惜しければこのことはすべて忘れろ。……よいな、『すべて』だ」

 有無をいわさぬドスの効いた声で、紫苑が男に念を押す。一瞬男の瞳が虚ろに揺れた気がしたが、それを呉陽が確かめる前に男は脱兎の如く走り去っていった。その背を渋い顔で見送りながら、呉陽は手の中のものをもう一度見つめた。

 なぜ、こんなものを犯人が落としていったというのか。これは、ただ一人しか持ち得ぬものにもかかわらず。紫苑に目で合図し、二人はすぐさま宋鴻の邸へと向かった。


 宋鴻の邸は修理が終わって以来、大邸宅にも関わらず閑散としていた。紅玉の懐妊がわかってからというもの、信頼の置ける数人の女官と武官しかここに置いておらぬゆえだった。

 現在、王位継承権第一位である宋鴻の子ともなれば、確実に男でも女でも継承権第二位につく。本来ならば、国を挙げて盛大に祝い、次代の王を誰もが喜んで迎えるはずだった。

 だが、それを面白く思わぬ者が無論存在する。神宗の寵姫、宣喜である。

 宣喜は神宗の寵愛を独占していながら、子を得られぬことにかねてから危機感を抱いていた。そんな時に、宋鴻の正妻である紅玉が懐妊したとあれば、どんな手を使っても子と紅玉を抹殺しようとするのは目に見えている。神宗の周辺で暗雲が立ち込める今、紅玉が無事出産するまでその魔の手から守らねばならぬ。


 馴染みの女官が取り次ぐのを待って、呉陽と紫苑は宋鴻の部屋に入った。

 宋鴻の部屋は無駄な装飾の一切が省かれた簡素な作りだが、今は部屋の隅に様々なものが積まれ、お世辞にも片づいているとはいえぬ状況である。以前、紅玉のためにも紫苑に無断で怪しげなものを持ち込むなときつく灸を据えられてからは、確かに変なものはなくなったが、子育ての書とかよい父親になるための書(?)とか、変ではないが謎の書は増えた。意気揚々とそれを読んでいる宋鴻を見て、紫苑がかなり微妙な顔をしていたのを見て、呉陽が爆笑したこともある。

 その部屋の中で、宋鴻は文机に向かい何事かを書きつけていた。二人が入ってくるのを確認すると、硯に筆を置く。

「早かったな。どうであった?」

 挨拶もそこそこに、先ほど男から奪い取ったものを宋鴻に差し出す。

「殿、……これを」

「……? 呉陽、これは私の佩玉ではないか」

 やはり、と呉陽は唇を噛みしめた。

「昨夜の下手人が落としていったものにございます」

「何……?」

 宋鴻の眉が跳ね上がる。無意識に腰の辺りを探るように手が伸びる。

「だが、ここに……」

「それは、贋作にございます」

「贋作?!」

 紫苑の指摘に呉陽は目を剥いた。先ほどは何も言わなかったではないかという視線に気づいてか知らぬが、紫苑はそっぽを向く。

「驚くほど、精巧にできております。呉陽殿ですら騙しおおせるのですから、大抵の者は本物だと信じましょう」

「……嫌味か、それは」

 宋鴻も戸惑いながらも腰に下げていた本物と見比べてみる。確かに若干贋作のほうが、彫りが浅い。だが、それもいわれてみねばとわからぬほどに精巧だった。

「このようなものを現場に落としてゆくなど、下手人は自分だと触れ回るようなもの。よほどの阿呆でない限り、斯様な真似はせぬでしょう。……されど此度の事件、幸か不幸か阿呆の仕業ではございませぬ」

「某も、紫苑に同意です。手口があまりにも鮮やかで、明らかに玄人の犯行に相違あらん。ほぼ一突きで絶命させ、あまつさえ目撃者の一人すらも残さんという有様で」

「なるほどな……」

 宋鴻は眉を顰めた。

「では、その下手人は私の佩玉をあえてその場に残し、その一連の犯行を私に擦りつけようという魂胆か」

「そうでしょうね。我が君が類まれな剣の遣い手であることも知られておりますし、わたくしたちがあの場に居合わせ、これを持ち出さねば、術中百句我が君に汚名が着させられていたことでしょう」

 だが、なぜ――と切り出す者はなかった。

 大司馬という強権を握る宋鴻を厄介払いしたい人間など、それこそごまんといる。後ろ暗い人間にとって、宋鴻は是が非でも抹殺しておきたい存在だろう。

「しばらくは、我が君お一人で夜出歩かぬほうがよろしいでしょう。あらぬ嫌疑をかけられるなど、面倒でいたしかたありませぬ」

「面倒なのが本音だろう……だが、確かにそうだな。この事件私の管轄ではないが、とりあえず探ってはおいてくれ。あまりにも長引く場合は私が出ることになろう」

 御意というように、二人同時に深々と頭を垂れ、宋鴻の前を辞した。その足で、紫苑は自らの邸に戻るため厩へと向かった。

「わたくしはこれで帰るが、今宵の宿直は任せたぞ。わたくしの結界があるゆえ、邸内に押し入られることは万が一にもないと思うが、用心に越したことはないからな」

「嗚呼、わかっておる……」

 呉陽の生返事を素知らぬふりして、紫苑はそのまま離れてゆく。

 呉陽は、ただ見つめていた。去ってゆくその後姿を食い入るように。

 なぜだがわからぬが、結局白妙の羅刹の話を宋鴻に切り出すことはできなかった。白妙の羅刹の噂など、何も知らぬ民が勝手にでっちあげた根も葉もない作り話だ。真に受けるほうがおかしい。だが、昨夜の翁の言葉が頭の中で反芻する。

「……聞きたいことがあるなら、始めから聞けばいいだろう。どうせ、白妙の羅刹のことだろうが」

 紫苑が立ち止まってこちらを振り向く。紫苑にしては珍しく不機嫌そうな溜息ではなく、どこか安堵したような溜息に思えたのは気のせいだったのだろうか。

「……おぬしの日頃の行いが悪いせいに違いないな」

「斯様なわけがあるまい。わたくしは日々誰よりも真面目に生きておる」

「どの口でものを言っておるのやら……」

 呉陽は顔をくしゃくしゃにさせて、笑った。

 聞きたいことはたくさんあった。だが、そのどれもが今この時に相応しくないように思えた。ゆえに、自分が聞くのはこの一つだけだった。

「おぬしは、何も変わらんな?」

 宋鴻に命を懸けると言ったあの時から、何も。

 二人の間を冷たい風が流れてゆく。気づけば季節は秋を終え、冬を迎えようとしていた。何もかもを凍てつかせる氷の季節はもうまもなくやってくる。

 その前に知っておきたかった。すべてが、冬の白に埋め尽くされる前に。

「何も、……変わらぬよ」

 紫苑の漆黒の髪が風に揺蕩い、無意識に紫苑はその細い指で髪を耳にかける仕草をした。それは、今までのどんな紫苑の行動よりも、紫苑の誠のように思えた。

「……ならば、よい」

 何も変わっておらぬなら、それでよかった。――それで、よかった。

 苦笑するように笑った紫苑の横顔は何よりも優しく慈愛に満ち、呉陽はその横顔を生涯忘れなかった。


 *


 六二五年弥生二十日。


「香蘭、この衣を焼き捨てておくれ」

 唐突に遍照城へと戻ってきた紫苑は、なげやりに正装の紐を解き始め、その場に脱ぎ捨てた。私物に触れさせるとは珍しいと思いながらも、それを口にすることはない。紫苑の許で仕え始めて一年余り、余計な詮索はするまいと心に決めていた。

「水浅葱の長着しかありませぬが、よろしいですか?」

「構わぬ。斯様な夜更けに押しかけて、そなたにこれ以上面倒はかけられぬゆえ」

 そう言って、紫苑は香蘭が介添えする手間も惜しみ、常から用意されている長着を手に取って緩く身体にまとった。そして、張り出された高欄に近づき、音もなく腰を下ろす。長着の下に着ている単もだいぶ着崩れているためか、衿が乱れてその奥の華奢な鎖骨が、月の光に青白く照らされている。その様が妙に艶やかで、香蘭の胸が高鳴った。

 慌てて紫苑から視線を逸らした香蘭は、紫苑が脱ぎ捨てた官服を取り上げようとした。だが、その瞬間何か違和感を感じ取る。

 今日は、宋鴻の大司馬就任式典があったはずだ。それゆえに、普段は着ぬはずの正装なのもわかる。だが、すでに時は亥の刻、なぜこんな遅くまで正装を召していたのか。それにこの香は――

「わたくしの許から去りたいのならば、止めはせぬぞ」

 飛び上がって、紫苑を仰ぎ見る。これまでの行動をすべて見られていたのだと思うと同時に、紫苑の瞳の奥に宿る紺青に気づく。なぜそんな瞳をする必要があるというのか。ようやく宋鴻が晴れがましい地位に就き、戦の終結も現実となった今となって。

「いつまでもわたくしに恩義を感じる必要はない。そなたは充分尽くしてくれた」

「ゆえに……、去れと……?」

「そうだ」

 思っていた以上に、己の声はか細く震えていた。それは、これから起こるだろうことが怖ろしいのではない。紫苑と別れねばならぬ恐怖、紫苑を喪うかもしれぬことへの惧れだ。それを改めて思い知ったとき、香蘭の中から迷いなど消え失せていた。

 香蘭は躊躇うことなく官服を掴み上げ、腕の中に強く仕舞いこんだ。そこから香り立つ、明らかに紫苑のものではない香を、どうにかして誰にも気取られぬようにするために。

「私には、もはやどこにもゆくところなどないと、……知らぬ紫苑様ではありますまい」

 紫苑は香蘭がそう言うであろうことを知りながらもなお、それを聞きたくないようでもあった。ゆえに、常の自嘲気味な笑みを貼りつけたまま、優しい優しい嘘を吐いたのだ。

「わたくしと心中でもするか、香蘭。望むのならば、地獄への道行きの供をさせてやろう」

 紫苑の青白い幽鬼に似た繊手に(いざな)われて、そっと引き寄せられるようにその腕に堕ちる。

 ――決してそんなことを、自分にさせるつもりなどないのだと、香蘭は知っている。誰よりも優しい紫苑は、愛する者らを道連れにするくらいならば、一人で暗き道をゆく。そんな紫苑に心の底からついてゆきたいと泣き叫んだとて、紫苑は残酷にも香蘭を置き去りにするだろう。ただ、香蘭を生かすために。

「これよりわたくしの申すことは、わたくしの……最期の願いだ」

 ゆえに、あまりにも残酷なその願いを聞き届ける他に、香蘭にすべなどなかった。


 *


 六二五年霜月二日

「これは、これは……鄭貴妃様。杣家にようこそお出でくださりました」

 宣喜は、趙佶の嘘くさい笑みにふんと鼻を鳴らした。

「吾を呼びつけるとは、それだけの情報があるのだろうな!」

「もちろんでございます。私は妃殿下の忠実なる僕にございますゆえ」

 宣喜は咄嗟に頭に血が上った。「紅玉の妊娠を黙っていたではないか」という叫びを寸前で呑み込む。この男の前で痴態を見せれば、男の思うままだ。

「……で、離宮を抜け出させるのに、わざわざこの男を派遣してまで、吾に伝えたかったこととはなんぞ」

 ちらりと脇に控えた黒頭巾の男を見やる。数多の兇手を見てきた宣喜でも、この男以上の遣い手はおるまい。神宗はおろか宋鴻の手の者らにも、宣喜が離宮から出たことすら気づいておらぬだろう。

「お気に召したならば、どうぞお使いください。御身をお慰めいたしましょう」

 下卑た笑い声が癪に障る。

 戦前に会った趙佶は、こんな笑い方をするような男だっただろうかとも思うが、そんなことは宣喜にとってどうでもいいことであった。自らの権力を維持する以上に、宣喜を揺り動かすものはない。

「余計なことは口にせぬほうが身のためよ。早く用件だけを申せ」

「これは失礼しました……。私が今回妃殿下をお呼び立ていたしましたのは、妃殿下にご忠告申し上げようと思った由にございます」

 趙佶の瞳が注意深く光る。

「――明夜、朝廷側の要が命を落とすことになるでしょう」


 *


 六二五年霜月三日


 夜闇に紛れ、ひっそりと後宮を目指す影があった。

 音もなく廻廊を駆け抜ける姿は、闇の中で白い花びらが風に舞う様を連想させる。目的の居室に着くと影は静かに戸を開け、隙間から身体を滑り込ませた。品の良い調度品が並ぶ前室を一度だけ見渡し、用意していたものをことりと床に置く。

 事前に入手しておいた見取り図で、権花恭が住まう居室の構造はすでに把握していた。音を立てずに目的の寝室へと迷わず向かう。前室よりは少し小ぶりのその居室の中央に、天井から薄い綾布がかかる寝台が置かれていた。その寝台の上に人一人分の小さな盛り上がりがある。綾布を掻きわけ、寝台に手をかけると微かに軋み、悲鳴のようなそれが何かを予兆する。

 だが、ここにきて影は異変を感じ取った。掛布団を一気に剥がす。

「……なにゆえ……」

 手筈通りであれば、花恭は術で死んだように眠らされているだけで、その口元から血が流れ落ちているはずはない。咄嗟に呼吸を確認するが、すでに事切れている。

 影は呆然と後退った。懸念が現実となったことを知るのは、容易い。

「下手人が引っかかったぞ!」

 びくっと身体が跳ねる。先ほどまでは誰一人そこにはいなかったはずが、今や戸の外で幾人もの怒声が上がっている。咄嗟に戸がすぐには開かぬよう封をして、影は現状を把握できぬままその場から姿を消した。

 戸が蹴破られた盛大な音を耳にしながら、影はがくりと廊下に座り込んだ。落ち着けと己に言い聞かせても、手の震えが止まらぬ。何か想定外のことが起きたのはもう間違いようもない。そんなことは起こり得るはずがないとしても。

 庭を走り抜けてゆく兵たちを横目で見ながら、蝙蝠で顔を隠す。座り込んでいても何も始まらぬ。影は立ち上がり、騒ぎのどさくさに紛れてここから脱出を図ろうとした。

 その時、不意に御簾の内から手が伸びて、腕を掴まれた。咄嗟のことに反応し切れず、体勢が崩れたまま中へ引き込まれる。あっという間に後ろから抱きすくめられ口を塞がれた。腕を解こうともがくと、先ほどまで影が歩いていた廻廊の先から、警邏の兵とは違う物々しい武装をした男たちが走ってきた。しきりに辺りを見回していたが、しばらくすると舌打ちをして去ってゆく。

 男たちの足音が完全に消えるのを待って、口を塞がれていた手が放れる。その一瞬を読んで、体勢を覆そうとしたが、相手のほうが遥かに上手であった。元々護身術程度しか体術を仕込んでいなかったため、簡単に腕を押さえられ床に組み伏せられる。力を使おうとすれば、蝙蝠までもが手から弾かれ、部屋の隅に飛ばされた。

「手荒にしてすまない。だが、こうでもしない限り貴女と話せそうにもなくてな」

 見知らぬ声が上から降ってきた。月を背にしているため、男の顔はよくわからぬ。

「貴女は……やはり、あの時の……」

 男がはっと息を呑むのが気配でわかる。その一瞬の隙に、男の腕を逃れ襟元を掴み、体勢を反転させた。腰に忍ばせていた護身用の懐剣を抜き、男の首に突きつける。

「誰だ」

 男は突きつけられた懐剣に驚きもせず、顔の半分を覆っていた布を自ら剥がした。その下から現れたそれに、私は息が止まるかと思った。

「……()()()……」

 懐剣を持っていた手が震え、転げ落ちた。どくどくと心臓が早鐘を打って、呼吸すらままならなくなったように思える。

 過ぎし日に葬り去ったはずの感情が、己の意志に反して鮮やかに蘇る。幸せに縋りついていた、あの頃の……

「よくわかったな、さすがは白妙の羅刹。私の名は、青と書いて(しょう)という」

「青……」

 放心していた思考は、皮肉にも羅刹という名で覚醒した。慌てて懐剣をもう一度拾おうとするが、青に軽く手で払われて、体勢を元に戻される。

「何をする!」

「貴女の名は、なんというのだ」

「そなたに名乗る名など、持ち合わせておらぬ」

「私も名乗ったのだ、貴女も名乗るのが礼儀だろう」

「礼儀など知るか! そもそも初対面の女を、問答無用で組み敷くそなたのほうが遥かに礼儀知らずだろうが!」

 状況が状況とはいえ、確かにとでも思ったのか、半身だけ起こされる。ただし、後ろ向きにされ、両手を拘束されたままではあったが。

「それで、名はなんと?」

(この男、まだ申すか……)

 言わねば、また礼儀だとなんだと抜かしかねぬ面倒そうな男だ。諦めて渋々呟く。

「……紫苑」

「紫苑か、……やはり羅刹など貴女には似合わぬな。その名のほうがよっぽどいい」

「ふん。羅刹と呼ばれるこのわたくしに斯様な真似をして、そなた恐ろしゅうないのか」

 ――芙蓉の(かんばせ)を綻ばせ、その裏に潜む獣の如き凶暴さを気取られぬよう、暴かれぬよう、刹那の瞬きで黄泉路へと(いざな)う。それはまるで甘美なる死の神楽を奏でる羅刹のように――

 誰がつけたかは知らぬが、これほど言い当てたあだ名も他にあるまい。だが、青は何を気にする風でもなく、あっけらかんと答える。

「何が恐ろしいのだ? 貴女は別に、本物の羅刹などではないであろう」

 あまりにも率直な答えに、私はどう答えたものか珍しく言葉に詰まった。

「白妙の羅刹など単なる迷信に過ぎぬ。私の目の前にいるのは、か弱い一人の美しい女性だ」

 か、か弱い?

 言われた自分が一番の驚きだ。羅人や呉陽に聞かれたら、腹を抱えて笑い転げるに違いない。それはそれで腹が立つが。

「まあ、私の雇い主はそう考えてはおらぬがな」

 急に声の調子が変わり、後ろから抱きすくめられるように白刃を突きつけられる。それの妖しい輝きに、一気にすべてが冷めたような気がした。

 所詮、自分に突きつけられるのはこれしかないのだと。

「……そなたの雇い主とやらは、わたくしを殺せとでも命じたか」

 今の私は、どれほど冷めた目をしているのだろうかと思う。恐怖も嘲りもなければ、感情が揺れ動くほどの、何かもない。ただ、闇を瞳に映していた。この男は次に何を言うのかと思って。

 だが、男は想像の斜め上の発言をした。

「いいや、……貴女を篭絡してこいと言われただけだ」

「は?」

 青は白刃を突きつけたまま、私の首筋に吸いついた。甘く痺れるような痛みが、全身を駆け抜ける。

「何を……?!」

「要するに、手篭めにしろということだな」

 青の舌が吸いついたところから、耳元にまで上って軽く耳朶を食む。

 その仕草にかつての感覚が朧に重なる。身体の奥がむず痒いような、それでいてもっとして欲しいと乞い願ってしまうような。

「雇い主に始めに言われたときは、頭がおかしいのかと思ったが、貴女のような美しい方ならば、何も不足はない」

「ふ、ふざけるな! ……今すぐ、わたくしから離れろ!」

「そのようなことを言ってもよいのか? 畏れ多くも権淑妃殿下を弑し奉った下手人として、貴女をこのまま処刑台送りにしてもよいのだぞ?」

 私は驚きに目を見張った。そんな私を面白がるように、青は耳元で愛しい者に囁くように言葉を繋ぐ。

「無用心にもほどがあるな。私のような者に見られるなど」

 私は目まぐるしく思考を回転させた。

 青は私があの場にいたことを知っている。それはあり得ぬことだ。あの場に私以外の人間が居合わせ、事実を知ることなど。だが、想定外の事態はすでに起きている。

 すらりと長い指が伸びてきて顎を掴まれる。ぐいっと強制的に上を向かされた。

「なぜ、という顔をしているな。簡単なことだ。私もあの居室に潜んでいたのだよ。美しいと評判の淑妃の顔でも拝んでやろうと思えば、寝台はもぬけの殻でな。次いで死人のように気配を消した貴女が忍び込んできたときには、心底仰天したが」

「……そなたが淑妃を殺したわけではないのか」

「さて、それを答えるのはちと難しいな」

 青の雇い主が誰かは知らぬが、この時期に淑妃暗殺を目論むなど、かなりの切れ者といえよう。

 世界は、徐々に渾沌としてきている。

 謎の殺人鬼は、その渾沌を最もわかりやすく現したものだった。ようやく戦の終わりが見えてきたという時になって、戦の始まりの頃を彷彿とさせる闇の再訪を、今や誰もが感じ、怯えていた。

 そして、どうやっても捕まえられぬその殺人鬼を、誰かが白妙の羅刹なのではと言い始めたとて、誰がそれを完全に否定できるだろうか。誰にも姿を見られず、誰にも捕まえられず、人間の仕業とは思えぬ残虐さを持つ殺人鬼は、まさに白妙の羅刹と同じ。

 ゆえに、白妙の羅刹である紫苑を擁する宋鴻は、近頃疑惑の目を向けられることも多々あるという。そんな情勢の中で、突然淑妃が殺されれば、世論がどう転ぶかなどわかったものではない。元々淑妃は民からの支持が厚く、それは戦が始まった以降も変わってはおらぬ。

「して、やはり貴女も貴妃が黒幕だと勘付いて、淑妃を助けに来たってところか? 羅刹にしては随分と心配りが効いているな」

 顎に添えられていた手がすっと首筋をなぞり、乱れた髪を片側に流される。その顕になった首筋をひたひたと冷たい刃が這う。それ如きで恐れる私ではなかったが、もう少し青の考えを探ってみるべきだと思い、口を開く。

「……貴妃が、高蓮と通じていることは始めから知っていた。都で横行する謎の殺人鬼を放つよう画策したこともな」

「知っていて野放しにしていたのか」

「都の警備兵でなんとかできるものならば、放っておこうと思っていたのだ。結局、そうはならなかったが」

「世間知らずで身のほど知らずな貴妃如きに、高蓮は扱える代物ではないからな。貴妃は邪魔な存在である大司馬に疑いの目がいくように、大司馬が排斥しようとしている者だけを殺すように依頼したはずが、なぜか殺人は無差別かつ猟奇的に行われるようになってしまった。ついには己の親族にまで手が伸び、貴妃は途方に暮れていたとみえるな」

「……随分とよう知っておるようだが、そなた、貴妃に会ったことでもあるのか」

 確かなことを答えるはずはないと知りつつも訊ねる。案の定、青は曖昧な微笑みを浮かべただけで、再び首筋に吸いついた。

「さて、どうする? 下手人になるか、私の言うことを聞くか」

「そなたのような人間の話を信じる者はないと思うがな」

「それはわからぬさ。雇い主は、貴女のように手段を選ばぬ類の人間でね」

「……ふん、そなたの雇い主も随分な外道よの。このわたくしを罪人に仕立て上げようとは……、面白きことを考える」

「さて、雇い主の考えることは、常人には理解不能なものでね」

 青の言動からは、なんの手がかりも得られはせぬ。一見、馬鹿そうに聞こえる口調も、よくよく練られた内容の会話しか口にせぬよう、相当訓練されている。その上、私に一切気取られることなく一瞬にして拘束してみせたその体術は、兇手として計り知れぬ力も秘めている。

 そんな兇手を使う雇い主といえば、まず高蓮しか思い浮かばぬが、あの高蓮が私に接触するのに、自分以外の人間を使うだろうかという疑問は残る。

「確かに美しい。比類なきその美を手に入れたいと願う男は数知れず。……されど、得た者はない」

 青はどこか楽しげに、私の瞳を覗き込んだ。深い瑪瑙の色に似たその瞳は、私を縛ろうとする枷のようで、どうにかその支配を断ち切ろうと強気に言葉を放つ。

「容易に得られるものに、価値はないであろう?」

「ならば、口止めの報酬はその唇を得たいものだな」

 青の指が紫苑の血に染まったような紅唇をなぞる。ただそれだけで、身体中に電気が走ったよう。

 その反応を愉しむように青の指が唇から頬に、首筋から鎖骨へと下ってゆく。妙に官能的なそれに、思わず声を上げかけたとき、遠くからやってくる人の気配があった。それも、多数。先ほどの奴らか。

「紫苑殿、結論は早めに出したほうがいい。どうやら、外野も集まってきたようだしな」

「……あれは、そなたの仲間か」

「いいや、私もあまり信用ないらしいからな。おそらく、雇い主が放った刺客の類だ」

「なにゆえ、味方から命を狙われる……」

「味方なんぞ、時と場合に拠るものだろう。で、どうする紫苑殿?」

「どうするも何も、了承してたまるか!」

「往生際の悪い……」

 溜息をつきながら、青はあっという間に私の身体を反転させ、お互いの息が触れ合う距離まで顔を近づけた。抵抗しようとした私を、「静かに」と言っただけで抑え込むと、青は一気に距離を埋めて、唇を押しつける。

 すべてを奪い尽くすかのような情熱的な口づけに、息をするのもままならなくなる。誰かと熱を交わすことなど、とうに忘れていた私にとって、それはあまりに鮮明な熱で、無意識に青の衣に縋ってさえいた。

 それに呼応するかのように青もまた強く私を掻き抱き、床にか細い手を縫い留め、無心に甘い唇を貪っていた。あとわずかでもこの時間が続いていたならば、私も青も何もかもを曝け出して、お互いを求め合っていたかもしれなかった。それほどの、熱。

 だが、その時は唐突に終わる。無遠慮に翻った御簾が闇の中に月の透明な光を導く。

「……やっと、口説き落とした(ひと)といいところなのだ。邪魔するな」

 私の白い衣が見えぬよう、青はさりげなく自らので覆う。そして、外野は引っ込んでいろといわんばかりに、私の後頭部に手を差し入れ、強引に唇を重ねる。

 それでも引き下がろうとせぬ男らに、青は何を思ったのか、私の襟元を開いて、さらに下の肌へと吸いついた。

「やっ、青っ……!」

 まさかそこまでするとは思っていなかった私は、驚いて素の声が出てしまった。みるみるうちに真っ赤になる私に笑いを堪えながら、青はもう一度男たちを見上げた。

「私が黙っているうちに、去れ」

 先ほどまでとは違う、本気の凄みだ。男らが一瞬怯む。

「私は逃げも隠れもしない。そう、お前らの主に言っとけ」

 男たちはこれ以上、相手を怒らせたら危険だと知っているのか、そのまま引き揚げていった。完全に気配が消えるのを待って、青は私の身体を助け起こした。

「……唇だけの、はずだが」

「仕方ないだろう。心の中で謝罪してからやったゆえそう怒るな」

「知るか!」

 恥ずかしさにぷいっとそっぽを向いて、乱された襟元を手早く直す。そんな私に、くすくすと青は笑いながら、もう一度だけ後ろから抱きしめる。

「いつまで、ふざけて「もう一度、会えたらいい」

 私の髪に、青が顔を埋めているのがわかる。首筋にかかる息がなんだかくすぐったい。

「失礼極まりない男のことなど、覚えておいてやる義理もない」

「そんなつれないことを……。口づけを交わした仲ではないか」

「わたくしはその程度の口づけで落ちるほど、安い女ではないゆえ」

「そうだ、紫苑など固い名ではなく、ふむ……」

「……わたくしの話を聞いておらなんだか……?」

 青は軽い身のこなしで立ち上がると、部屋の隅に転がした蝙蝠を拾いにいった。その際に何か閃いたのか、ぱあっと顔が輝く。

「紫苑の紫から、――『(ゆかり)』。今度からは、紫と呼ぼう。私と貴女の巡り合わせを称えて……、私が考えたのだから私以外誰にも呼ばせるなよ」

 一瞬にして頭の中が真っ白になる。

 どうして、その名を。再びこの人の口から聞くことになろうとは。

「……先ほどは明かすつもりがなかったゆえ、青と言ったが……――」

 青は紫苑に蝙蝠を放り投げてよこすと、そのまま部屋から走り去っていった。

 紫苑は一人残され、呆然と青が消えた方向を見つめていた。それが頭の中で反芻し、運命の

 (とき)がまた一つ廻ったことを知るのは容易い。


『紫にだけは、私の本当の名を教えてやろう。――鴛青(えんしょう)だ』


 ぼろりと涙が落ちる。運命の無常さ、に。

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