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 六二三年如月十八日。


 紫苑が宋鴻の許で仕え始めて、一年が過ぎた頃だったろうか。

 紫苑という計り知れぬ力を秘めた一人の女は、その一年の間に、戦の行く末を劇的に変えていた。突如、人々が目にしたのは、人知の及ばぬ果てしないその力。圧倒的な破壊力と、絶対的な残虐性。それと相反する誰をも魅了してやまぬ神々しいまでの美貌。――それは、まるで鬼神の如し。

 敵味方問わずその力への畏怖は、並々ならぬものがあった。また、術者と呼ばれる者たちを管轄する仙洞省に対しても、わずかに風向きが変わってきたようにも見えた。それまでの仙洞省は、かつて隆盛した頃の影もなく、政で発言することもなければ、祭祀を執り行うことすら取り止めになりつつあり、ゆえに紫苑の台頭は、傾きかけていた仙洞省の権威を復権させたともいえる。

 強大な力を、水を呑むように容易く操る紫苑はなおのこと、その紫苑を唯一従えた宋鴻が畏れられるのは――至極当然のことではあった。それでも、不満とは絶えず噴き出すものであろうか。


 その日、紅玉が密かに匿われていた庵は、実に慌しく手放されることとなった。

 一昨日の夜に始末されたのは、朝廷の一部の者たちが首謀した、紅玉暗殺計画の実行犯らである。事前に察知されているとは露知らず、実行犯らは待ち構えていた紫苑に血祭りに上げられたわけであるが、問題なのは紅玉の居場所が露見したことにあった。情報が漏れた仔細は後で追及するにしても、紅玉をいつまでもここに置いておくのは危険――一日遅れでやってきた宋鴻は、「遅い」と紅玉に怒鳴られながらも、そう判断を下した。

 だが、紅玉の居を遍照へと移す途次で事は起きる。

 折悪しく、前夜に降った大雨が仇となった。地面の泥濘みが激しく、雲一つない快晴がうだるような暑さとなって輿の運び手らを襲う。しかも、紅玉の庵から遍照までは一つ山を越さねばならず、常日頃鍛えられた運び手らもいつになく疲労を深めていた。

 姫君ともあろうものが徒歩(かち)などあり得ぬと、宋鴻には猛反対されたが、さすがにこれ以上はならぬ。元より紅玉はこの程度の悪路ではものともせぬほど、馬術を得手としている。男の変なこだわりに巻き込まれて、運び手らに辛労をかけさせるなど言語道断だ。

「背の君……、輿を止め……――!」

 刹那。

 平衡を保っていた輿が、斜めにぐらりと傾く。咄嗟に輿の柱にしがみつこうとするが、紅玉のその体重移動によって、輿はさらに平衡を失った。

 四人いた運び手らのうち一人が、泥濘に足を取られ、手を離してしまったのだと後から聞いた。

 本来なれば、一人手を離した程度では、輿から紅玉が投げ出されるまでの事態には発展せぬはずだった。だが、足場の悪さと蓄積し続けた疲労が頂点に達したあの時、それは不運としかいえぬ状況が重なった結果であったのかもしれぬ。

 紅玉は叫び声すら上げる間もなく、輿から投げ出され、地面に転げ落ちた。足が竦むほどの断崖の上であったそこは、雨のせいで地盤が脆くなっていたのか、それが運の尽きでもあった。

 一瞬だけ見えたのは、顔色を失くした宋鴻の、咄嗟に伸ばした手が虚空を切っている様。連理の枝たれと繋いだはずの手は触れることすらなく離れ、紅玉の身体は崩れ落ちた土砂と共に奈落へと落ちていった。

 ――嗚呼、これで死ぬのだ。戦の終わりを見ることもなく、宋鴻が築くはずの次代すらも、……この瞳に映すことなく。

 深い絶望が交錯し、呆気ない命の終わりに呆然とする。これからの長き時を宋鴻の隣にて寄り添い、為すべきことが幾らでもあったというに、自分はここで幕引きだというのか。未来はひたすらに、遠い。魂切る絶叫が愛すべき人に届かぬほどに。


 ――それでも、白は舞う。

 瞳を閉じかけた紅玉の視界の片隅で、ゆらゆらゆらゆらと。酷く曖昧に、酷く鮮明に白が舞う。羽衣を忘れた天女が地上に戻ってきたのか。それとも、絶望した己が見せるただの幻影か。

「――姫っっ!!」

 はっと一気に覚醒する。気を失いかけていた紅玉を、鈴のような声が現実に引っ張り戻す。

 舞った白は、天女でももちろん幻影でもなかった。在るのは、紛れもなく血の通った人間そのもの。それはこれまで数えるほどしか姿を垣間見ておらぬ、紫苑と呼ばれる美しい術者であった。

 紫苑は何をとち狂ったのか、自らの身体を崖上から投げ、紅玉を追ってきたらしい。とても自分と同じ人間のなせる行為とは思えぬ、狂気の沙汰だ。驚愕の行動に呆気に取られた紅玉の身体を掴み、自らの腕の中に引き寄せると、紫苑はもう片方の手を紅玉の首の後ろで伸べた。何やら言葉を呟いたかと思えば、少しだけ二人の落下速度が緩んだような気がした。それでも、安堵する暇などない。速度が落ちたとはいえ、止まったわけではないのだ。

 ちらと盗み見た紫苑の横顔に、一瞬焦燥と決意の色が過ぎる。そして、次の瞬間には、二人の体勢が真逆に転換した。あまりにも強引なそれに、紅玉は舌を噛みそうになりながら、必死に紫苑の身体にしがみついていた。だが、その強引な転換のせいなのか、何かの糸が切れたかのように、がくんと二人の体が傾く。そこからわずかに見えた背景の意味を知って、紅玉に戦慄が走る。

 自分たちの高さから幾許もない真下で、巨岩が顔を突き出していた。ごつごつとした岩肌は粗く惨く、その硬さは想像に難くない。いわば、自分たちは死刑台に捧げられた憐れな生贄であった。歓迎するように広げられた死の神の抱擁が、刻一刻と自分たちの袖を引く。

「しお、ん! 岩が……!!」

 面前に迫る脅威に怯え、必死に叫ぶ紅玉とは正反対に、紫苑はどこまでも凪いでいた。悪戯が露見した子どものような笑みを浮かべ、紅玉を無言で抱きしめる。――その瞬間、背筋が凍りつく。

 紅玉は全力で紫苑の腕を振り解こうとした。紫苑を犠牲にしてまで、助かるつもりなど毛頭ない。「何を馬鹿なことを」と、今のこの状況でなければ怒鳴り散らしているところだ。だが、紫苑はそんな紅玉の必死の抵抗にも動じはしなかった。今や両腕で抱かれたその腕の強さに、そこらの女よりは腕力に自信のある紅玉ですら身動きもままならぬ。

 たとえ紫苑であっても、今のこの状況を打開できるすべはもうないのだと知る。天地を揺るがすほどの力を持つ彼女であってさえも。

 紅玉を嘲笑うかのように岩は見る間に迫り、反射的にきつく瞼を閉じる。そして、そのまま二人は巨岩の上に落下した。


 *


 はっと目が覚めた、はずだった。だが、覚めたのは魂だけであったらしい。

 魂をも伴ってここへくるのは、久方ぶりのことだ。ここ最近は夢での対話が大半で、かの人の領域に足を踏み入れることも忘れていた。――いや、避けていたと言ったほうが正しいのかもしれぬ。

 ここはあまりにも白く、あまりにも広い。それが尽きることなく、ただ延々と続く空間。延々と囚われ続ける世界だ。

「起きましたか」

 寝転がっていた身体を起こそうとしたとき、にょっと視界に影が入り込む。穏やかな笑みを湛えたその面は、どこまでも無害そうに見えるが、私にとってはむしろその逆だ。短い悲鳴を発して、驚くほどの俊敏さで身体を起こし、距離を取る。

「久しぶりだというのになんですか、その態度は」

 咄嗟に身構えた私に溜息をつかれるが、つきたいのはこっちだと心の中で叫ぶ。しかも、宋鴻に手を出しておきながら、のうのうと私の前に姿を現せるとはいい度胸だ。

「……なんの真似ですか、羅人師匠。余計な手出しは無用と申したはずです」

 努めて冷静を装いながら、その男を見る。羅人はにっこりと笑って、私の近くに寄ってきた。薄ら寒い笑みに思わず顔が引きつる。

「優柔不断な君へ、私からの助け舟だとでも思ってください」

「熨斗つけて返しますから、どうぞお帰りを。それよりも、我が「わかっていますよ。君の素気ない言葉は、大いなる愛だということをね。そんなに愛されて私も幸せですよ」

 勝手に呆れたような顔をされても、甚だ遺憾だ。今すぐこの男を棺桶に放り込んで、釘でがんがん打ちつけて、そのまま地中深く埋めてやりたい。

「君の愛は、死よりも深い。それに報いるために、たとえこの身が滅びて棺桶に放り込まれても、魂だけは君の許に戻ってきて、永遠に君の傍にいてあげよう」

「報いなくて結構ですから、どうぞそのまま棺桶の中で安らかにお眠りください。師匠の御守をせずに済むと思うと、百年分くらい若返った心地です」

「おやまあ、それ以上美しくなってどうするというのです? 私を「――師匠!!」

 思ってもみぬ大声が出たとて、知ったことか。師匠の手は知り抜いている。こんなくだらぬ会話で騙されやせぬ。

 宋鴻を唯一の主として戴いた今の私にとって、何よりも優先すべきことは決まっている。そう、決まっているのだ。

「……申し開きしたい由があるならば、聞きましょう。されど、許すつもりは毛頭ございませぬ。よりによって、我が君の御魂をお隠しになるとは……、師匠とて許されざることの分別はつくと思うておりましたが」

「――その時がきましたか、紫苑」

 間髪を入れずに返ってきた答えに、はっと息を呑む。だが、すぐさまそんな自分に呆れ果てる。こうも容易く己の感情が面に出るとは、あまりにも情けない。

 羅人ならば、すべてを知っていても不思議ではない。現に、翁の身体を借りて、その時々私の傍ですべてを見てきた羅人にとって、手に取るように私の感情の在り処を知っていたはずだ。――ゆえに、わかっている。羅人がなぜこんな真似をしたのか。宋鴻の魂を掠め取るなど正気の沙汰でしかないが、そうせねばならぬほどに私も羅人もお互いに時が足りぬと知っていた。

 おもむろに袷に手を差し込んで、かつて羅人のものであった漆黒の蝙蝠を取り出す。それはこの二年の間に随分と手に馴染み、今では私にとってなくてはならぬものになっていた。

「師匠からこの蝙蝠を譲り受けた時、()は師匠に申し上げましたね。師匠の頼みを叶えることは構わないが、私は私の願いも叶える、と」

 同意を示して羅人は頷く。

 今考えれば、あの時の私はよくもあんな大それたことを羅人に言ってのけたものだと思う。羅人を知らぬ過去の私だからこそ、できた芸当に違いない。

「私の願いは、()()()のための未来を創ること。それを宋鴻様は、図らずとも叶えると仰ってくださいました。ゆえに私は宋鴻様に膝をついた」

「……されど、君はそれだけでは、()()()と思った。人はやはり強欲ですね、君という人間はなおのこと」

 すべて見抜かれていると知って、私は笑った。そう――その時は、まだ足りなかった。

「君の願いは確かにそれだが、それだけでもない。君が『紫苑』としてこの世に生を受けた時から、君はそれを探し続けていた。己では知る由もなく、記憶にもなくとも、……無意識に、本能的に、己の虚を埋めてくれる唯一の御方を待った。ゆえに、ようやくその虚の意を知った君は、君の虚に適う者が現れたならば、その力のすべてを以って、その者の一番望むことを叶えると申した。……宋鴻殿は、間に合ったようですね」

 私は柔らかく微笑んで頷く。あの時足りなかった言葉を、宋鴻は今度こそ私にくれた。


『そなたのすべてを引き受けて、私は生き抜く』


 望みを叶えるに必要なものとは何か。それはかつて羅人が私に言ったことでもある。

 宋鴻の望みを叶えるために、私は文字どおりすべてを懸けるだろう。淀み歪んだこの世界の『修正』と共にそれを行うには、並大抵の対価では相成らぬ。だからこそ、私の真の主となるべく人間は私の命を引き受ける覚悟のある、唯一絶対の主でなければならなかった。

 どちらが逃げても、どちらが欠けても成り立たぬ。それが天の理であり、私がすべての力を開放させるに必要な鍵でもあった。そして、あの嵐の夜――宋鴻は見事私の虚に適った。

「……そのような人間が、誠に現れると……心底信じていたわけではありませんが」

 乱れた羽織の裾を撫でる。さらさらと手触りのよいそれは、風になびく宋鴻の髪に触れているようだった。どんなにか待ち侘びていたのか、この私でも感慨を言葉に言い表せぬ時がある。

 宋鴻という人間を見出してより、二年――私はただその時を待った。あの嵐の夜には得られなかったものを、いつの日か得られることだけを夢見て、宋鴻の傍らでその生き様を見続けてきた。いつしか時は過ぎゆき、宋鴻以外に主として戴ける人間は居ぬと確信しても、天の理がそれを許さなかった。何度、懇願しようとしたかは知れぬ。己の宿命を何度恨んだのかも。

 ――それもすべてが果たされた今となっては、瑣末なことだ。そして、あの宿命があるからこそ、私はこの素晴らしい御方に出会い、たとえわずかな時だとて、共に生きることができる。生きる甲斐もない私が、何かを残すことができる。それらはすべて宿命ゆえに。

「覚悟を決めましたか」

 蝙蝠に落としていた視線を羅人に向ける。始めにあったふざけた表情の一切が消えていた。すべてを呑んでしまいそうなその冷たい双眸は、前にも一度見たことがある。

 術者、静羅人。

 その名を知らぬ者は居ぬ、強大な力を誇った不世出の天才。この世の誰もが足元にも及ばぬ、真の天つ才を持つ男。死してなお、その力は留まることを知らぬ。

 私は羅人に初めて会った日のことを、今でもよく覚えている。あれは、その年最後の桜が散った夜のことであった――


 *


 誰かが呼んでいた。私の中にある何かを目覚めさせるように。

 深い水底に似た暗闇に沈んでいたそれは、その声と共に上へと目指し、『私』を押し退ける。必死に拒もうとしても、もはや私の力でどうこうできるものではないと知っている。遥か昔から、それは定められていたもの、訪れるべきその時がきただけなのだと、私は知っている。

 それでも、まだ――まだ目覚めたくない。まだ、ここにいたい。そんな切実な私の叫びも無視して、それは唐突に訪れる。

『契約の成る時がきたのです。目覚めなさい、紫苑の魂を宿す者よ』


 *


 私は飛び起きた。

 今までになく、強く大きな声に揺り動かされて。

 何かがぬるりと私の中から這い出て、ようやくの陽の目を浴びたような、そんな得体の知れなさに似ている。何度か目を瞬き、白く眩しいその光を受け入れようとしたが、そんなことなどせねばよかったと思う。私の住んでいた部屋とは、あまりにもかけ離れたその光景を受け入れるくらいならば。

 そこには何もない。白く塗りたくられた空間が、ただどこまでも広がっていた。不思議な場所だとも思うが、ここに満ちる空気のそれがどことなく寂しい。その寂しさに呑まれて、発狂してしまいそうなほどに。

「ようやく私の呼びかけに応じてくれましたね」

 唐突に声が聞こえた方向を向くと、一人の男がこちらを向いて立っていた。

 見た目は三十そこそこだが、まとう雰囲気が三十代のそれではない。その男は今では目にすることもない大昔の装束を身に着けているが、まるでその男のために存在するかの如くそれを完璧に着こなしていた。狐に似た切れ長の目が、男の癖に妙に色っぽい。

「あなたは……」

「お目にかかることができ、光栄に存じます。紫苑」

 私はぐらりと身体が揺れるのを感じた。その声は、長らく私を呼び醒まそうとしていた声とまるきり同じであったのだ。

「……紫苑、とは……わたしは、紫苑という名では……」

「いいえ。君は紫苑です」

 はっきりとその男は言い切った。自らの言葉に、なんの間違いもないといわんばかりに。

 男は手に持っていた漆黒の蝙蝠を開きながら、ゆったりと私の許に歩みを進めた。その姿は、まるで生まれながらの王者のよう、絶対の自信がそうさせているのか微塵も揺らぎがない。

「君の運命(さだめ)は、決して違えることはできませぬ。紫苑の魂は、君がこの世に生を受けた時から、君と共にあり、そして君と共に死すのです」

「……な、何を……」

「術者、(せい)羅人(らじん)の魂を継ぐ、紫苑の魂を宿す者。それが君の運命」

 この男が何をいわんとしているのか、私にはさっぱり理解できぬ。私の名は『紫苑』ではない上に、運命なんてものも知ったことではない。すべてが疑問に満ちた男の言葉の中で、唯一解ったとすれば『静羅人』という、その名。

 歴史を知らぬ者でも一度は聞いたことがあるだろう、最も謎に満ち、最も名を馳せた史上最高の名誉をほしいままにした術者。――ただし、千年以上も昔の話だ。そんな人間が己の面前にいるはずがない。穏やかに笑いながら、まるで呪縛のように縛りつける瞳を、自分に向けるはずがない。

 男は音もなく私の前に立ち、優雅に膝をついた。その瞬間に、得もいわれぬ高雅な香が男の装束から薫り立って、酷く現実を叫ぶ。

「君を探し出すのに、あまりに多くの時間がかかりました。君の力に気づけなかったとはいえ、君はこの私の呪を破ってしまうほどの者。魂の感知が難しく、なおかつ雑念に溢れた時代ゆえ、今の今まで君を探し出せなかった……。ゆえに、紫苑。もう時間はありませぬ。私の力をその身に注ぎ、力が身体に慣れるまで、多くの時間を要しますので、今ここで「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! あなたが何を言っているのか、私には理解できかねます!」

 男が訳のわからぬことを、これ以上捲し立てる前に慌てて遮る。

 頭がいかれているわけではないだろうが、あまりにも男の言っていることは浮世離れしていた。男のそれは私と一度会っているような口ぶりだが、私にとってはこんな男会ったこともなければ、見たこともない。むしろ見ることなどできぬではないか。すでに千年以上も前に、死んだ人間なのだから。

 辛過ぎる現実から逃れるために、私が見る都合のよい夢なのだろうか。だが、現実はそれほど甘くはない。男は一瞬驚いたような表情をした後、すぐに皮肉めいた笑みを浮かべた。

「……君は、私を覚えていないと?」

「覚えていないも何も、あなたには初めて会ったのでしょう? それにあなたの呪? を破ったとか、なんとか言っていましたが、私にはまったく覚えのないことです」

 男は何か思い当たる節でもあったのか、「なるほど」と言ったまま眉をひそめ、黙り込んだ。その沈黙が怖くなって、男から距離を取ろうとするが、その鋭い眼差しからは逃れられぬ。ごくりと生唾を呑んだ音がいやに響く。

「……君が覚えていないのならば、致し方ありませぬ。思い出してもらうまでのことです」

 伸びてきた男の腕から、逃れられるすべなどない。私は恐怖のあまり後退ることもできぬまま、なすすべもなく男を受け入れていた。氷のような冷たい男の手が耳元に添えられ、そっと残酷なる罪状を囁く。

「君は思い出さねばなりません。自らが犯した、始めの罪を」


 *


 六一八年神無月十三日。


「――当代の専家当主と、お見受けする」

 なんの気配もそこにはなかったはずだった。林立する木々の向こうより、ゆるゆると染み出す声だけがその存在を指し示している。

 翁はただ諦めて、瞼を押し上げた。自分にも悟れぬ何かならば、もはやそれは人ではない。魑魅魍魎、悪鬼、(あやかし)――そんな類のほうが相応しい。

「失礼な。私は人ですよ、……元はね」

 翁の思考を呼んだのか、それは面白がるようにくつくつと笑った。だが、その声に真に感情というものない。

「儂の命でも取りに参ったか」

 まさかと、それは首を横に振った。わずかに振れた絹の裾から、得もいわれぬ高雅な香が漂う。すべてに通じる翁ですらも、その香の名は知らぬ。

「私は助けにきただけですよ、……命の灯火が潰えたあなたを、ね」

 いつの間に近づいてきたのか、それの裾が己の足にかかるほどの距離で、泡沫に思考が絡め取られる。幻影を思わせる霞が木々だけでなく、翁の中にまで侵入してきたようだ。

 潰えた、と言い切るか。なんと小癪な。

 無性におかしくなって鼻で笑うものの、それはあながち間違いでもない。

「……して、対価は」

 とうに抗う気力もない。宋鴻を逃がすために負った傷が内腑を破り、血がとろとろと溢れ出している。つい咳き込むと、その血よりもどす黒い血痕が自らの衣に染み付いているのが見えた。

 元より王家に捧げたこの命、惜しむものはない。この世に生を受けてより、幾人もの人を殺め続けた自分が、まさか天に召されるとも思わぬ。ゆえに、この終わりは相応しいようにも思えた。唯一、己の中に残った悔いを果たすためならば、悪鬼にさえ魂を売り飛ばすこの最後が。

「軽々しく魂を売るなどと、それこそ悪鬼の思う壺ですよ……。ですが、あなたはよくわかっているようですね。為すべきことのために必要な覚悟を」

 それの腕が傷へと伸びて、瞬き一つの間に致命傷ともいえるほどの深手が、跡形もなく消え失せる。あまりにも信じられぬ出来事に、すでに命を散らした己が見る夢なのかとも思うが、どくどくと力強く鼓動し始めた心臓が現実を叫ぶ。

「悪鬼の癖に、……随分と小癪な……」

「この私を前にして、悪鬼呼ばわりした人間はあなたが初めてですよ。鴉がおれば、ただでは済みますまい」

 翁はなんの躊躇いもなく、それの手を取って立ち上がった。悪鬼も人と同じように、愉快げに笑うのだなと馬鹿なことを考えながら。

 辺りはすでに夜明けを迎えようとしていた。漂っていた朝霧が幻想的な様を見せ、瑠璃に沈む月を優しく抱くように腕を広げる。その光景を美しいとは思いこそすれ、目の前に立つこの白き衣の男に比べれば、わずかにも心を揺り動かされはしまい。

 印象的なのは、黒。艶やかな色を放つ黒い蝙蝠。

「あなたに与える未来の代わりに、あなたの今を貰い受けましょう」

 ばさりと、遠くで何かが飛び立つ。悠々と天を滑空し、己の意志だけでかの地を目指す。人にはないその自由を、羨むことほど虚しきものはない。

 開かれた蝙蝠に視線が追いつく頃には、すでにこの身体は己のものではなかった。在るべき場所から突き落とされた翁は、ただただ果てしない底へと沈んでゆく。それを絶望だと思えぬのは、垣間見えた男の瞳が、宋鴻のそれとどこか似ていたように思えたからなのか。

 そして、その日から翁の身体は、翁のものではなくなったのであった。


 *


 六二五年神無月二十日。


「本当に、それに惚れでもしたかの」

 ちらりと後ろを振り返って、その意地悪い声の主を見る。

「馬鹿を申されますな。某は殿が心配なだけです」

「意地っ張りもそこまでいくと大概じゃの。ほら、手桶を用意させたゆえ、宋鴻様のお顔を清めて差し上げてくれ。それとも紫苑「わかりました! 香蘭、早くそれを寄越せ!」

 翁の後ろに伴っていた香蘭の手から手桶を奪い取る。香蘭にまで何かを見透かされたかのようで、くすくすと笑われる声が居心地悪くて敵わぬ。

 紫苑の枕元に膝をついた香蘭は、固く絞った布巾で、紫苑の汗ばんだ額や首筋を手際よく拭いてゆく。それに倣い、渋々というように、呉陽ももう一つの布巾に手を伸ばした。

「今日も、紫苑様はお苦しそうな表情をなさって……」

 ついつい香蘭から溜息が漏れる。

 それもそのはず、眠っているわけではないにしろ、紫苑の顔は常に苦悶に満ちていた。まるで何かと戦っているようなそれに対して、宋鴻のそれは穏やかそのものだ。だが、二人がこうして意識不明になってから、すでに二日が経っているというに、一向に目覚める兆しはない。

「それにしても、翁。五年近くもの間、身体を乗っ取られていたというのは誠なのですか」

 香蘭が一通りの作業を終えて、部屋を出て行ったのを見計らい、翁に問う。大雑把な説明は聞いていたが、それだけで納得できるものではない。呉陽がこれまで目にしてきた翁という人格は、実は別の人間が入れ替わって成り立っていたなどと、理解の範疇を超えている。

「正確に申せばの、命を助けてもらうのと引き換えに身体を貸したのじゃ」

「命を助けてもらう……?」

 宋鴻の顔を覗き込む翁に、紗がかかる。それは一度死を覚悟した者の真朱に似て。

「そうじゃ、おぬしは知らぬか……。宋鴻様が都を落ちた時のことじゃ。畏れ多くも儂は宋鴻様の盾となり、あのまま死にゆくはずであった」

「都を落ちた時とは……、あの政変の時の」

 いかにもと、翁は頷く。

 呉陽も一度は聞いたことがあった。宋鴻を逃がすために、翁は致命傷ともいえる深手を負ったにもかかわらず、数日後、何事もなかったかのように戻ってきたのだと。到底、そんな短期間で治る怪我ではないはずなのだが、翁はその空白の数日を決して語らなかったという。

「あの時の儂は、まだ死ぬわけにはいかなんだ。腐敗した王家の中に、唯一見出した宋鴻様を御位におつけするまでは、この老いさらばえた身とて無下にはできぬ。ゆえに、鬼でも妖でも、儂を助けてくれるものならば、なんにでも縋ったじゃろう。じゃが……幸か不幸か、あの御方はそのどれでもなかった」

「あの御方とは、一体……」

「――紫苑の師じゃよ」

 驚くと共に、紫苑が最後に放った言葉の意味を知る。なるほど、ようやく得心がいった。

「紫苑は……、知っておったのですな? 翁の中に、その紫苑の師なる人物が入り込んでおるのを。ゆえに、あの時……紫苑は烈火の如く怒り狂い、翁に向かっていった」

「そうじゃ。あの御方は最期にするべきことがあると仰っていた。それゆえに、宋鴻様に手を出さざるを得ぬともな。命を危険に晒すことはないと仰っておったゆえ、なりゆきに身を任せたが、まさかこんな事態になるとはの」

「最期……?」

 翁が珍しく口を滑ったらしい。苦虫を噛み潰したような顔をして、一つ咳払いをする。

「……身体の自由は効かなんだが、思考は極稀に共有することがあったのじゃ。それが偶然か必然か、儂には到底区別もつかぬがの。ゆえに……儂はあの御方の今際の際の願いを、無下にすることはできなんだ……」

 乾いた笑みが翁のそれに貼りつく。「こんな事態を招いておきながら、言えることじゃないがの」と呟いた声は、あまりにも脆く弱弱しかった。

「紫苑は必ずや宋鴻様を連れて、戻るじゃろう。……それがどれほど困難であろうとも、必ずの。あれが犯してきた罪は、すべて宋鴻様に帰結する。ゆえに、失うわけにはゆかぬという想いは、我らよりも遥かに強い。……じゃからこそ、儂は心配なのじゃ」

「なぜです? 紫苑が宋鴻様を連れて戻ってくるのなら、万事解決では」

 呉陽はちらりと紫苑に視線をくれる。精巧な人形の如く眠りについたままの彼女は、未だ強く瞼を閉じたままだ。

「紫苑は宋鴻様を守るためならば、なんでもするじゃろう。己の命を捨てることすらも厭わぬ、それは我らも同じじゃが……、紫苑のそれは比ではない。もし、誠に宋鴻様が答えを見つけられたのだとすれば、紫苑はもう決して引き返さぬ。あらゆる手段を使って、宋鴻様の望むものを叶えるじゃろう。じゃが……儂が見たあの御方の記憶の奥底、紫苑の最初の記憶は……、あまりにも惨い。紫苑はおそらくそれと同じことを、宋鴻様のためにしてのける」

 翁がこれほどまでに紫苑を厭うとは思わなかった。今まで見てきた翁が、誰かの写し身だとはいえ、それよりも以前の翁は紫苑と同じように冷酷非情で知られた兇手であった。

 何をそこまで畏れるのか、その先を聞きたいようでいて聞きたくないとも思う。だが、知らぬままでいることも、もうできぬと知っている。かつて翁は言った。すべてを知って、選択する時がくるのだと。

「果てしない闇じゃ、それが紫苑の始まり。……紫苑は、自らの両親を殺めた者の死を乞うた、齢三つの時にの」


 *


 ――果てしない闇だ。その中でうずくまっている小さな小さな己が見える。

 そろりと離れていった男の手に縋りたい。縋って、自らが犯した罪から逃げ出してしまいたい。

「人を轢き殺しておきながら逃げただけでも飽き足らず、心神耗弱などという訳のわからぬ口実を持ち出すとは……、生きる甲斐もない男。天罰でも当たったのでしょう、それが誠に天などというものの力によって引き起こされたものなれば」

 生々しい残像が瞼の裏にこびりついている。男の四肢を引き裂いた感覚が、つい昨日のことのように手に残っている。

 なぜ私はあんなことを望んだのか。両親の死すらも理解できぬ年齢にもかかわらず、なぜあんな残酷な仕打ちを願ったのか。

「君が紫苑の魂を持つゆえに……、それしか理由は考えられません。紫苑は、まさに『破壊』の性を持つ術者。必然と力はその方向に因る。たとえ年端もゆかぬ子どもだとて、いいや……子どもだったからこそ、あの時の君は己の力を暴走させ、乞い願ってしまった。――許されざる人の死を」

「わたしが『紫苑』だから……? 『紫苑』は人を殺すことしかできないと言うのですか……?!」

 この男に当り散らしたところで、何かが解決するわけではない。私が人の死を願ったという事実は明らかであり、それは誰に唆されたものでもないのだ。ようやく思い出す。私は確かに自らの意思でこの男を呼び、そしておぞましい願いを口にした。

 呆然と座り込む私を見て、男は一つ溜息を吐く。翻った裾から香が匂い立って、一瞬だけ包まれたような心地になる。

「自らに架せられた力を、どう使うかは……、その人次第です。君が破壊の術者だとて、願うものがそれでないのならば、無闇に壊す必要はない。君は、すでにそれを証明してみせたではありませぬか」

 懇願するように向けた瞳に、男の白い衣が映る。一点の曇りのないその白は、まるでこの世界と同じ、まっさらな空白に沈む陽。

「望みを叶えるためには、その望みと同等の対価が必要なのです。なんの犠牲もなしに、得られるものなどありませぬゆえ。君は男の死を望んだ。されど、死とは最も許されざる罪。それを叶えるためには、君にとって最も大事なものを対価として、差し出さねばならなかった」

 男はまっすぐに私を見据えていた。穏やかな口調とは真逆の恐ろしいほどに冷徹な瞳で。

 だが、不思議と畏れを感じぬのは、唐突に理解したゆえだ。私は待っていた、この男の訪れを。自分ではどうすることもできぬ今を変え、本来私が在るべき場所に還るために。

「……私は、君の人を愛する心を対価として貰い受けました」


 *


 ――不意にあの時のことが蘇る。

 それは、あの時と同じ表情をした羅人を見てしまったからなのか。だが、今の私は羅人のこの表情が恐ろしいとは思わぬ。

 己の信念を問う時、羅人は一切の感情を削ぎ落とした目をする。信念を貫くためには、感情は必要ないと思っているのかもしれなかった。そうやって割り切らねば、羅人はその長い長い時間を生きてはこられなかったのだろう。

 深く息を吸う。すでに答えは出ている。ただ、それを認めることができなかっただけだ。認めてしまえば、私はすべてを失うと知っていたゆえに。


「わたくしはすべてを懸けて、我が君の望みを叶えるために、――我が君を裏切りましょう」


 あの時感じた胸の痛み。

 すべてを捧げられる主と出会えば、あとは失うだけ。一切の喪失と引き換えに、主に残せる唯一の希望。それを知りながらもなお、私は宋鴻の言葉を求めた――いいや、求めざるを得ぬのだ。運命に従うのなら。それでも、心にあるのは絶望ではない。

 しばらくの間、羅人は黙したままであったが、私の表情が揺らがぬことを知ると、僅かに表情を和らげた。

「……ならばよい。その言葉、決して忘れてはなりませぬ。君の愛する者たちを守るために、愛する者たちを裏切りなさい。それが君のゆく道だ」

 言葉を発することなく膝を折り、深く頭を垂れて、羅人へ最高礼を取る。身体が自然と動いて、そうすることに微塵も躊躇いがなかった。これまでの日々にけりをつけるようなものだとも思う。そうせねば、乗り越えられぬ。これから先の道行きを思えば。

 一連の動作の後、顔を上げた私を待っていたのは信じられぬものであった。常の羅人のようなふざけた笑みでもなく、空虚で鋭い瞳でもない。躊躇うような、それでいてなぜそんなことを思うのかすらわからぬというようなそれは、初めて目にする羅人の揺れ。

「……私は今でも『誓い』を継いでくれるのは、君以外誰も居ぬと思っています。鋼のような意志、誰かのためにすべてを捧げられる真心、強大な力を操れる強靭な精神、そしてこの美貌。これも私にとっては大事な要素なのです」

 途端にがっくりと肩が落ちる。真剣な話をしているはずにもかかわらず、やっぱり羅人は羅人だというような。

「それらは何もかもが相応し過ぎた。私はそれを利用したといっても過言ではありませぬ」

「……何を、仰られるのです……? ここにいるのは、わたくしが選んだ結果に過ぎませぬ」

 言い切った私に羅人はやるせない表情を浮かべた。自らの選択に絶対の自負を持つ羅人にしてはらしからぬ。今となっては、もうどうにもならぬことだと知らぬ羅人ではあるまいに。

「それでも……私は時々思うのですよ。君を選んだことは、私の生涯において初めての間違いだったのではないかと。君はその手を血で染めるには、……優し過ぎた」

 羅人は吐息の如く、自らの懺悔を洩らした。


 *


「言った傍から後悔なされるのなら、始めからおやめになればよろしいのでは」

 むっとして、鴉の視線から逃れる。

 言葉にも顔にも出しておらぬはずだが、どうしても鴉にだけは思っていることを見抜かれる。読心術が天狗の得手とは知らなかったが。

「伊達に長生きしておりませぬゆえ、おのずとわかるようになるものです。それは羅人様とて同じでしょう」

「……されど、時には知られたくない感情もあるでしょう」

 鴉は、少し呆れるように笑い、頷いた。

「それも、承知しております」

 意地が悪いとはこういうことだと思いながらも、羅人が束の間自らの心情を吐き出せるのは、もはや鴉だけ。他にはもう誰も居ぬ。すべて過去に置いてきてしまった。

「……あれで、よかったのです。紫苑は未だ覚悟が足りませぬ。人の命に手をかけることの、真の恐ろしさを知らぬのです」

 人を初めて殺めた紫苑は、羅人の想定どおり容易に揺らいだ。――無理もない。

 大地をあれ以上穢さぬためには、一刻も早く戦を終わらせる必要があった。その手段として、そこにいた人間すべての命と共に浄化したのは、最も効果的だったともいえる。大地に囚われ、二度と転生も叶わぬ怨霊に成り下がる寸前だった、彼らの魂をも救うためには。だが、その代わりに紫苑が得たのは、初めて身に受ける業と、――贖い切れぬ罪であった。

 必死に生を懇願する瞳。無情にも、それを絶たねばならぬ己の非道さ。喪った魂の断末魔の叫びで気が狂い、ようやく人を殺めることのその罪深さに気づく。

 羅人もかつては同じような思いを味わったはずだが、今はもう思い出せぬ。思い出すことすら、とうにやめた。それでしか生きられぬ、そう己に言い聞かせたのは、いつのことだったか。

「紫苑が選ぶ道は、……私よりも多くの血を見ることになりましょう。なおさら、壮絶な覚悟がいる。されど……」

 羅人が得るべき人間として、紫苑を見出したのは天啓に近い。もとより、それは定められた道筋に過ぎぬことは知っていても、初めて『紫苑』の姿を目にしたときは運命を呪ったものだ。まさか、何十年か前に自分に人の死を願った赤子が、羅人の『世界の修正』を継ぐ者になろうとは、ついぞ思いもしなかった。

 羅人や鴉でも、目を瞠るほど美しく成長していた紫苑は、揺るぎない芯の強さを兼ね備えていた。まだ若く、己を過信している節はあるが、それぐらいのほうがちょうどよいと思えた。そして、何よりも紫苑には、羅人の提示した行く末を変えねばならぬという、ある種強迫観念に似た弱みがあった。

 それを利用した羅人は、これ以上ない器として紫苑を得て、力と蝙蝠を譲り渡した。自らは魂のみの幽体となり、あとわずかな時を紫苑の力がその身に定着するまで待つだけの身であった。だが、羅人は紫苑の心情を見落としていた。

「紫苑は……――私と違い過ぎる」

 羅人を継ぐ運命の者ならば、必然的に己と同じだと思い込んでいた。冷徹に淡々とこなしてゆく、今の自分と同じような。だが、今の自分が始めからそうではなかったように、紫苑もまた違ったのだ。

 その手で命を奪うたびに、紫苑にまとわりついてゆく薄闇の紗を、羅人は克明に写し取っていた。そして、幾度となく見る悪夢にうなされる紫苑の脆い姿も。

 羅人は感情を切り捨てられる己の冷酷さを自負していた。ゆえに、半ば脅迫に近い形で紫苑を従わせたとて、何を思うこともない。――常の己ならば。

「愚かですね、私も」

 紫苑の涙を見るたびに、どうしようもなく胸が掻き毟られる。冷酷で、常に平静を保っていたはずの心が惑わされ、迷う。何かの一手を指す時に、一度も迷ったことのなかった自分が。

「恋情……とは、かくも厄介なものにございますれば」

 鴉の囁きが、胸の中で渦巻いている名をつけることすら厭わしい感情に色をつける。自分の中にままならぬ感情があることすら驚きだが、唐紅のその色は人生の終わりに見ることのできてよかったものだと思う。

「……随分、遠くまできたものよ」

 時は、行き過ぎていた。もう、羅人ですら追いつけぬほどに。


 *


「――他にすべもあったはずですが、君は自ら修羅の道をゆく。誰よりも優しい君が、誰よりも多くの命を奪い続ける。君はその赤に怯えながら、薄氷のような脆い膜の上に立ち続けるのでしょう。傍から見れば、君は冷酷な人間に違いないのでしょうが、それが真実というわけではありませぬ。そうせねば、壊れてしまう心を唯一守るすべでもあったのでしょう。ゆえに、君は宋鴻殿と紅玉姫を慕い、血をも厭わず、たとえ自分の心が壊れることになったとて、その望みを叶えようとしてしまう。……それは悲しい君の性なのでしょうね」

 手の震えを隠して、紫苑の頬に伝う透明な雫を拭う。もう体温も感じぬはずの指先に、不思議と雫から熱を得るのはなぜなのか。紫苑がばつの悪い顔をして、すぐさま払い除けられてしまったのが惜しいと、そんな馬鹿なことを思う。

「それでも、わたくしは今の生を悔いてはおりませぬ。わたくしは今やっと、生きていると思えるようになれたのです。それは師匠と出会い……、宋鴻様、紅玉姫に出会わねば知り得ぬこと。ゆえに、師匠が気に病むことなど何一つないのです」

 微塵も迷いのない紫苑の姿を、羅人は瞳に焼きつけるように見つめた。

 そう言うのは、始めからわかっていた。にもかかわらず、己の後悔が口をついて出てしまったのは、やはり紫苑を守りたかったからなのかもしれぬ。自嘲気味に、ふっと嗤う。あれほど己の信念に感情を挟むまいと決めていたはずだが、自分も老いたか。

 束の間、瞑目する。時は自分を過去に置き去りにし、果てなく流れ続ける。ゆらゆらと微睡みの中に漂うような優しい時間はもう戻らぬ。そして、羅人は自らの役目がとうに終わっていたことを悟ったのだった。

「私はね、幸せですよ……紫苑。長かった旅の終わりに、君のような可愛い弟子が、私の傍にいてくれたことが。君ならば必ずや成し遂げてくれると」

 間に合ってよかったと思う。

 力の制御云々よりも、紫苑が探し物を見つけられることができて、本当に。それだけが唯一の心残りだったように思えるゆえ。

「なにゆえですか……まだ、あと少しだけでも、ここにいてもよいではありませぬか……」

 紫苑は頑是ない子どものように抗っている。

 羅人という、合わせ鏡のような存在を喪うことを畏れているのだろう。その畏れは羅人にもよくわかる。

 宋鴻も紅玉も、真実紫苑を理解することはできぬだろう。同じ道を歩んできた者同士しか見ることのできぬ世界、それを私たちは共有してきた。その世界は、恐ろしいほどに空虚で孤独で、誰にも理解されずに、同じものを見ることもできぬ。羅人もまたその気が遠くなるような孤独に耐えてきたからこそ、紫苑の痛みが手に取るようにわかる。

 それでも、自分に残された時間はすでに尽きた。

「申したはずでしょう。君の運命は、『すべてを捧げられる主との出会い。そして、それと引き換えの一切の喪失』。その時がきた、だけのこと」

 羅人の突き放したような物言いに、紫苑は酷く傷ついた表情を浮かべた。

「己の責務を全うしなさい。桜の刻限は待ってはくれぬ」

 それでも、唇を噛みしめ、気丈に頷く紫苑ははっとするほどに美しい。彼女を彼女たらしめるもの、その凛とした強さこそが紫苑の最たるものだと羅人は知っている。

 冷酷だといわれる自分の瞳と重なっても、決して逸らさぬ強さを持ったその瞳が好きだった。――そして、自分に臆することなく、ただ己のままでそこにいてくれる紫苑を愛していた。

『紫苑』と、その美しき名を呟く。触れるつもりはなかったはずだが、自然に伸びた手が紫苑の顎に触れて、顔を上に向かせる。もう片方の手でその嫋やかな肩を掻き抱けば、無性に心が逸って仕方がない。

「師匠……?」

 自分は、今優しく笑えているだろうかと思う。

 今さら取り繕ったところで、無駄な足掻きだと知ってはいても、惑う心が何かを叫んでいる。戸惑った表情を見せた紫苑を根こそぎ奪ってしまおうと、引き寄せられるように赤く熟れた唇に口づける。

「っ……! し、しょ……?!」

 初めて触れ合った唇が熱い。

 柔らかさに蕩けて、いつまでもただ貪っていたいと浅はかな欲を抱いてしまいそうになる。自分を突き飛ばそうともがいている紫苑を、強く抱きしめれば抱きしめるほどに。だが、無情にも身体の底から込み上げてくるものに時間切れを知る。

 紫苑の頬を挟み、無理やり口をこじ開けさせてから、どろりとした熱い塊を口移しで紫苑に流し込む。反射的にそれを呑み込んだ紫苑の瞳が極限まで開かれる。がくがくと身体が震え、膝から崩れ落ちそうになるのを支えてやりながら、一緒に膝をつく。最後にもう一度唇を押しつけてから、名残惜しげに紫苑から離れる。

「……ゆえに、愛していると申したでしょう」

 くすくすと笑う。唇を重ねた色が唐紅であることを悟られぬように。重ねたはずの熱が、これ以上己の身を焦がさぬように。

「私の魂をあげましょう、紫苑。誰よりも愛する君に。君の中にある私の力を、すべて発揮できるようになる」

「……手荒がすぎるか、と……他に方法が……」

「君がいつまでもくよくよしているゆえ、ここらでお灸を据えなければね……。ほら、もう楽におなり。大丈夫、君を信じているから」

 紫苑の瞼を閉じてやりながら、酷く緩慢に息を吐く。終わりの時をこれほど心穏やかに迎えられることに、驚きを隠せぬ自分がいる。紫苑が還るまでのひと時、ただその花の顔を見つめていようかと愚かにも考えていると、ぱしっと手が振り払われた。

「わたく、しは……師匠、が……嫌い、です! わたくし、を……一人、残して、……逝こう、とする……あな、たが……嫌い、で……嫌いで……!」

 ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返して、紫苑は最後に私を揺り動かす。

「逝かない、で……くだ、さい……――『師、匠』」

 羅人は、自分では制御できぬ感情から、己の頬が緩むのを感じた。

 ――それだけ聞ければ、もう充分と、心の底から思えるほど。

「ありがとう……紫苑。良き夢を、見させてもらいました……」

 紫苑の額に、最期の口づけを落とす。

 すべての力が抜け、今や羅人に預けられているその身体が、徐々に光り始め、現世に魂を戻そうとしているのがわかる。それとは逆に、羅人の身体はぼろぼろと崩れ落ちて、浅ましい姿になろうとしていた。できることなら、その姿を紫苑にだけは見せたくなくて、手で遮る代わりに強く胸に抱く。

「……愛していますよ。されど、きっと君はもう一度人を愛すのでしょう。妬いてしまうけれどね」

 宙に向かって囁いたその言葉が弾けて、白い世界は闇へと還った。


 *


 六二三年如月十八日。


 紫苑の部屋に入ろうと、宋鴻が引き戸に触れたときだった。

 中に誰かがいると気づいたのは、あまりにもあきらかなその気配の主が、自らのそれを隠そうともせぬゆえだ。


 ――悲惨な事故であった。

 誰もが紅玉の生存を諦め、事の発端となった輿の運び手らはすぐさま自害しようとし、それを止めようにも紫苑は紅玉の後を追ったまま戻らず、肝心の宋鴻は放心状態。紅玉を迎え出るために、呉陽らが一足先に遍照城から出てこねば、二次三次のいらぬ被害が出ていた。

 誰も責められやせぬ。

 この状況下での道行を強行したのは宋鴻自身だ。こうなることを予測できなかった己の浅慮が、最愛の妻を死なせた。自責の念に駆られた宋鴻は、自らの立場も忘れ果てて、紅玉の手を掴めなかった己のそれを呆然と見つめていた。だからこそ、紫苑が紅玉を伴い、崖下から再び姿を現したときには、宋鴻のすべての箍が弾け飛んだ。

 宋鴻の目には、もはや紅玉しか入っていなかった。本能で駆け寄り、己の腕の中に抱き寄せる。紅玉は震えていたが、その熱は生きている人間のもの。感情が暴走してままならず、本当ならば、人目も憚らず泣き叫んでしまいたい。だが、当の紅玉はそんな宋鴻を突き飛ばして、必死の形相で何かを訴えていた。

 紅玉は不思議と怪我をしていなかった。あれほどの崖から落ちたにもかかわらず、どういうことだと思う前に、紅玉の傍らにいた影がゆらりと傾いて、そのまま地面に倒れ込む。己を冷静にさせたのは、その直後に紅玉が叫んだ『紫苑』という、その名ゆえにだった。

 紫苑は身を挺して紅玉を庇い、巨岩の上に叩きつけられたのだと紅玉は説明した。呉陽も含め、どよめいた周りの男共を怒鳴りつけ、紅玉はすぐさま紫苑を担架へと乗せ、呆けている宋鴻の代わりに次々と指示を飛ばした。

 その刹那、一瞬だけ意識を取り戻した紫苑が紅玉の手に触れ、何事かを呟く。驚いた紅玉に対して、紫苑は全身を襲っているだろう激痛をものともせず、柔らかく微笑んでいた。だが、その直後――紫苑は意識を失い、紅玉が何度名を呼ぼうとも目を覚ますことはなかった。


 ――あれから、紫苑はすぐさま遍照城へと運ばれたが、連絡を受けて待機していた医官らは揃いも揃って、もはや手遅れだとほざいた。あまりの怒りに、宋鴻がまとめて叩き出してからは、何人たりとも近づくなと厳命していたはず。

 紅玉に目配せし、宋鴻は柄に手をかける。紅玉が引き戸を開け放った瞬間、中に躍り出て、剣を抜く手筈であった。

「物音を立てますまいな。我が主の眠りを妨げるおつもりか」

 無表情な声が響き、音もなく引き戸が開かれる。今まで耳にしたことのないその声音に驚くと共に、その声の主は紫苑の枕元に立っていた。他には誰もいる様子はない。なれば、引き戸に手を触れることなく開けたというのか。

「この程度のことで驚かれるとは……我が主のお力を、普段よりご覧になられているでしょうに」

 口元に手を当て、くすくすと嗤う女の表情は闇に紛れている。

 先ほど部屋を出る時には、閉め切られていたはずの格子窓が開け放たれ、闇夜に浮かぶ白い月が内部を妖しく照らしているが、女は光に当たろうとせぬ。

「……我が、主と?」

 宋鴻の問いかけにくすりと微笑んだまま、女はその場に膝を折り、紫苑に手を伸ばした。

「ふ、触れるでない!」

 あとわずかの距離で、紅玉は思わず声を上げていた。

 だが、女はそれに毛ほどの強制力も伴わぬことを知って、紫苑の額に手を触れ、言葉を呟く。紫苑の回りに薄く光を放つ円が出現し、難解な文字が幾重にも組み合わさってゆく。いつしか、それが消え失せると共に、紫苑の苦しげな表情が徐々に和らぎ始めた。

 女が紫苑と同じように不思議な力を操る者であることを知って、ほんの少し安堵するが、女に渦巻く気配の色に咄嗟に息を呑む。

「……人間如きが、私に指図できるとでも? 無力で、浅はかで、主の命を削るばかりの人間如きに」

 宋鴻は気づいた。女は一見平静であるようにみせかけているが、その実そうではない。

 女は怒りと嘲笑と侮蔑を以って、自分たちに対している。宋鴻と紅玉がどんな地位を持つ人間であるかなど、まったく意に介さずに。

「削るとは、どういう意だ」

 慎重に言葉を選んだつもりだが、女はさらに顔を歪めた。紫苑の傍らに置かれていた、蝙蝠の血を清めようとしていた手が止まる。

「紫苑は何か、病でもあるの、か……――っ!」

 額にかかっていた髪の一筋が揺れたと気づいたときには、すでに遅い。女が蝙蝠を自分の首に当て、凄みのある眼差しで睨みつけていた。――それは、息をする間すらないほどの速さで。

「それ以上、言葉を繋ごうものならば、その首落として進ぜましょうか」

「背の君……?!」

「紅玉は動くな!」

 こちらに手を伸ばそうとした紅玉を咄嗟に止める。

「我が主が、主とお定めになった人間、でなければ……今、あなたは死んでいた。主に感謝することですね」

 首筋を抉るようになぞってから、蝙蝠は音もなく引かれた。

 その女の言葉が紛いのない真実であることは、醸し出す殺気で容易にわかる。本当に宋鴻は今の一瞬で死んでいたはずであった。おそらくは己が死んだことすら、わからぬ間に。

「無から有は生まれませぬ。何かの代償があってこそ、願いというものは叶えられる。その当然の世の理が、主にだけは当て嵌まらぬと思い込んでいらっしゃる……、なんて浅はかな勘違いを。お優しい主だけでは、いつまで経っても埒が明かぬゆえ、私がこうして参った次第にございます」

「浅はかな勘違い……?」

「ええ。あなたはそれをまるでわかってはいらっしゃられぬ。主のお力が湯水の如く湧き出てくるものとでも思っておられる……。無力な人間とて、食べ眠ることをせねば、身体は疲弊し、いずれは朽ちるように、主もまた然り。ですが、主が使うものは、人間のそれとは遥かに次元が違う。……それはあなたもよくご存知かと」

 女が何を言いたいのか、徐々に理解し始める。そして、気づいた事実に戦慄が走る。

 紫苑が今まで捧げてくれた、その途方もない力は一体何を糧としているのか。何を対価に差し出して、誰一人として敵わぬ地上最強の力を生み出しているのか。それはまさか――

「無から有は生まれぬのです」

 宋鴻を突き刺す鋭い声。あまりにも鋭利なそれに、一瞬息が止まってしまったかと思う。

「代償として差し出される何かが、要るのです。そう、たとえば……――命、など」

 紅玉が腕を押さえて息を呑む。

 紫苑が倒れる直前、紅玉の腕には崖から落下したときに負った裂傷があったが、今やそこにはなんの影もない。あまりにも痛々しかった傷跡が、綺麗さっぱり『なかったことに』なっている。だが、本当に『なかったことに』なったのは、どちらであったのか。紅玉の傷を治すために使われた紫苑の『命』は、どこへ行ったのか。

 崩れ落ちそうになった紅玉を支え、彷徨わせていた視線を恐る恐る女に戻せば、女は窓の縁に手をかけ、重く空に懸かる月を背に、こちらを酷く冷徹に見つめていた。その瞳に射られることがどうしようもなく恐ろしいと思うが、そこから逸らすことももはや不可能であった。

「……されど、主がなされることに、私は一切口を挟めませぬ。私の役目は、ただ行く末を見守ることのみ。ゆえに、私が今日ここであなたを待っていたのは、主は知るはずのない歴史。起こるはずのない運命。それでも、この世に起こり得ることはすべて……『必然』という、美しい名の下に廻っているのならば、これもまた『必然』なのでしょう」

 女は一度瞳を伏せてから、流れるように月へと眼差しを向けた。

「ならば、私は……あの時、紫苑に忠誠を誓わせるべきではなかったというのか……紫苑は、私のせいで……命まで……」

「過去を悔やんだところで、何一つ戻りはしませぬ。我らはそれを骨の髄まで知り尽くしているからこそ、躊躇うことなく力を使うのです。過去の己が最善を尽くさぬせいで、もう何一つ喪わぬように」

 月に照らされた女の横顔は、紫苑と酷く似ていた。顔の造作ではなく、何かを喪った者が持つ、寂寞に彩られた哀しい紺青――涙の色が。

「力を使う人間は、皆覚悟と誇りを持って生きるのです。誰よりも短き生と知りながら、それでも最期の時に潔く散る、桜の……ように。それが我が主、『紫苑』という人間です」

 再びこちらを向いた女に紺青はない。あらゆる感情を削ぎ落とした能面のような顔。人間ではないのだと、今さらになって思い知る。

「あなたはその覚悟と誇りに、何を以って答えますか。あなたは、どんな覚悟と誇りを主に差し出せますか」

「覚悟と、誇り……」

「その答えを得られぬ限り、主を真の意で得ることは叶いませぬ。あなたは未だ道半ばであり、あなたの選択次第では、主はあなたの許を去ることになるでしょう。ゆえに、『その時』の決断を決して誤りになりませぬよう。そして、たとえどんな結末を迎えたとて、悔やまれぬよう……生きられませ。……それが、人が人としてこの世に生まれ落ちた宿命にございますれば」

 女の背から、何かが勢いよく()でる。目の前で起きたそれに理解が追いつかず言葉を失うが、宙に漂う漆黒の羽根が現実を叫んでいる。

 縁に手をかけ、今にも空へ飛び立とうする女をなんとか呼び止めたかった。だが、気の利いた言葉は何一つ浮かばず、咄嗟に伸びた手が所在なさげに漂っている。

「私が次に姿を現すのは、すべての終焉を迎えた時。その終焉が絶望か、希望か、それは未だわかりませぬが……一つだけ確かなのは、我が主は命果てるその時まで、この世界のために在り続けることでしょう。それが、あの方の宿命であるがゆえに」

「それは、たとえ私が答えを見つけられずとも、か」

「人の情ほど不確かなものは在らず。それに心酔する時もまた、主にはございませぬ」

 女は涼やかな目元の涙黒子を歪ませて微笑んだ。ばさりと闇夜に大きな翼を広げ、月の光を遮り、黒を呼ぶ。

「それでも……人の情がなければ、主がここへくることもなかったのです」

 艶やかな漆黒の翼が激しく羽ばたき、宋鴻は思わず片腕を顔の前に掲げ、目を瞑っていた。かあという泣き声に、すぐさまその姿を追おうとするが、すでに女は彼方であった。姿が見えなくなるまで、宋鴻と紅玉は互いに立ち尽くしていたが、不意に目の前を通り過ぎてゆく黒い羽に、はっと我に返る。

 紫苑を見るたびに感じていた、果てしない紺青。それの来し方をようやく知ることができたとて、紫苑の心情はさらに手の届かぬ深淵にあるのだと思い知らされる。自分たちは、その深淵を覗き見ることができても、触れることは叶わぬのだと。

「なぜそれほどの枷を背負ってもなお……、そなたは前を向けるのか」

 眠りに落ちたままの紫苑に問いかける。決して答えることはないと知りつつも、問わずにはいられぬ。女からの問いが、応えも得られずに己の中で渦巻いていた。

 紅玉がその枕元に寄って、そっと紫苑の額に手を乗せる。真一文字に引き結ばれていた紫苑の唇が微かに緩んだように見えた。

「妾は、決して紫苑を手放しはせぬぞ」

「……そうだな。紫苑はここにいてもらわねば」

 紫苑を捨ててしまえたほうが、楽なのかもしれぬ。紫苑の覚悟も誇りも見ぬふりをして、紫苑の命だけを使い尽くして。それでも、紫苑は変わらずにこの世界のために在り続けるのだから。

 だが、宋鴻と紅玉の想いは違う。触れられぬ深淵に触れたい。触れて、どうにかしてでも紫苑を取り戻したい。こう思うことすら紫苑にとっては傲慢で、おこがましいことなのかもしれぬが、それでも願うのはただの願望だ。自分たちがずっと紫苑の傍にいたいという、ただそれだけの。

「確かに……『必然』、よ」

 女はすべてが必然だと言った。その意義は、遥かに『偶然』を凌駕する。

 未だ耳に残るは、漆黒の翼が翻る音。まるで闇を告げるようであったそれは夜を連れて帰り、山々の稜線の向こうから暁の光を目覚めさせる。新しい朝の訪いを迎えながら、あの女の名を聞くのを忘れたと宋鴻はぼんやりと思った。


 *


 六二六年如月十五日。


「――あの者の名は、鴉というのか……」

 眠り続ける紫苑の姿は、『あの時』と同じであった。

 力を使い過ぎ、倒れ、眠る。『あの時』と違うのは、紫苑が身代わりとなったのが、紅玉か宋鴻かの違いしかない。

「宋鴻様は、その答えとやらを見つけられたのですかな」

 呉陽がやたら大きな盥に、冷水を入れて運んできた。渋々というような面構えだが、誰が何を言う前に、紫苑の額に乗せる布を豪快に絞るのを見て少し笑う。

 ここで呉陽をからかえば、確実に布を床に叩きつけ、紫苑の首根っこを掴んで強引に眠りから覚まさせようとするのが目に見えて、さすがの紅玉も言葉を控えた。呉陽の横顔を見れば、少なからずも心配しているのが手に取るようにわかる。

「わからぬ。背の君と紫苑の間には、妾も入り込めぬものがあるからの。じゃが……以前、傷を負った背の君と紫苑が、一月ばかり姿を消したことがあったであろ。その後より、二人の……いや、紫苑の背の君に対する態度が、少し変わったようにも思える……。その時に、なんぞあったのかもしれぬの」

 倒れた宋鴻を見て、蒼白になった紫苑。おそらくは、それが前兆。紫苑に任せれば、なんの問題もないはず。だが、胸に渦巻くのは安堵ではなく不安だ。

 鴉は宋鴻が答えを得られねば、紫苑は去ると言った。だが、今さらになって、その言葉の解釈が、今まで自分たちが思っていたのとは違うのではないかと、ふと思うのだ。翁と呉陽に話すまでは思い至りもしなかったが、一度考えてしまえば、その不安が消えることなく頭の片隅で燻り続けている。

「……姫の、その不安を増やすだけかもしれぬがの、一つ……宋鴻様にも誰にも話しておらぬことがありますのじゃ」

 思いの内を言い当てられたようで、心臓が飛び跳ねる。知らぬ間に、ごくりと生唾を呑んでいたのは、その先に続くであろう事実が、残酷なものであるとすでに知っていたゆえなのか。

「――紫苑の過去が、何をどう探しても、どこにもないのじゃ」


 *


 ずるりと、闇の中で何かが蠢く。

 粘り気のある液体が滴り落ちる音と、怠惰に足を引き摺る音が辺りに響いている。一歩また一歩と踏み出すたびに、そこから醜悪な闇が増殖していくようだった。分厚い雲に覆われていた月が一瞬姿を現せば、それの異常さを現世(うつしよ)に警告する。

 夜の闇と同じ黒い装束。顔を頭巾で隠し、爛々と輝く目だけが不気味に見え隠れしている。右手に握られた剣からはどす黒い血が滴り、左手に携えているのは人の頭だったものか。単に化け物と呼べれば、まだそのほうがよかったのかもしれぬ。それに名をつけてしまえば、存在を認めるようなもの。どれほどおぞましいものがこの世に生まれてしまったのか、今はまだ誰も知らぬ。

 地面にべしゃりと落ちる。両の目は虚ろに濁り、首から下にあったはずの身体は、もう繋がってはいなかった。ただの物のように遺棄されたそれを、また雲に覆われ闇が増殖した世界が呑み込む。くぐもった叫び声は、その世界の到来を歓喜しているようにも聞こえた。


 叫ぼうとしたのは、なんだったのか。零れ出るべき言葉は、誰に向けたものだったのか。もう何も覚えておらぬ。もう何も、己の中にはない。

 あるのはただ、復讐を彩る真朱(まそほ)の焔。白き衣を我が手に。


 *


 その後、都で謎の惨殺死体が発見される。

 周辺一帯が返り血に染まり、生存者はただの一人もなし。凄惨なその現場を見た者は、向こう三年うなされ続けたともいわれたほど、酷い有様であったという。

 政を担う高官ばかりが狙われ、酷い時には首が斬り落とされたり、遺体の一部が欠損していたりなど、骸を穢すような猟奇的な面も見られた。そして、次第にその凶行は異常さを増し、高官どころかただの通りすがりや一般の民さえも巻き込まれるようになってゆく。

 一体誰が犯人で、どんな人物なのか。必死の捜査も虚しく、手がかりはただ一つを除いて他に得られず、その後時代の混乱と共に姿を消すが、正確な犯人は今もなおわかっていない。

 凄惨な現場に必ず残される血に染まった大地よりも赤い、一輪の曼珠沙華。事件が収束したのちも、人々に忌み嫌われるようになったその花に、一体どんな意味があったのか。

 ――これが長く人々を恐怖に陥れる、『羅刹事件』の幕開けであった。

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