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「そうか、ついに宋鴻が大司馬に立ったか」

 知らせを携えてきた僕を見下ろし、勝ち誇ったような残忍な笑みを浮かべる。

「楽しそうですね」

「すべてが思惑どおりに進んでいるのだ。これほど愉快なことはない」

 くつくつと嗤う声が響いて、なんだか居心地が悪い。顔をしかめて銀髪から目を背ける。

 近頃、以前にも増して、狂気をまとわりつかせるようになった男に、己の勘が警鐘を鳴らしていた。それでも、男の計画に踏み込み過ぎてしまっている今、そこから逃げるのは自分にとっても容易くはない。

「……用がないのなら帰ります」

「仕事を一つ、頼みたい」

 その時男が嗤ったのは、なんだったのか。すべてを見通す男の心の内は、誰にも踏み込めはせぬ。それは一体どれほどの孤独なのだろうかと思えば、ふと桜の下にいたあの女を思い出す。

「簡単なことだ。――……紫苑を落とせ」

 眉を寄せた自分を、男はなおも愉快そうに嗤う。

「殺せ、ではなくですか」

「殺すのはもっと先よ。すべてを失う絶望を紫苑に与えてからだ」

 男の持つ煙管がゆらゆらと紫煙を燻らせる。その揺らぎは、なぜかこの男に始めからまとわりつく何かと似ているような気がした。

「仕事ゆえ、請け負いますが……その紫苑という女は、あなたにとってどんな価値を持つのですか」

 紫煙が途切れ、男の貼りついた笑みが突如として激しさを増す。

「何……?」

「固執すればするほど、あなたにとって価値がある……と、私は解釈しますが」

 これ以上突くのは、危険だと判断してすぐさま身を翻す。闇で淀んでいた空間から出るために引き戸を引けば、白い光が眩しく差し込む。それでも、背に投げかけられた不気味な嗤い声は、未だ闇に染まっていた。

「お前のその顔を存分にいかせ。すぐさま紫苑は落ちるだろうよ」

 高笑いが虚しく響いたと思ったのは、自分の気のせいなのかはわからぬ。だが、前々から抱いていた一つの疑惑が顕になったと思う。男の本性は――修羅。だが、男が紫苑に望むのは、おそらくはその真逆。

 頭巾を深く被り直し、廃寺になった寺を足早に出る。一刻も早く、この場から離れたい気持ちが逸って、ふらふらと歩いていた人物に気づかず、肩がぶつかってしまう。

「すみま……」

 謝ろうとした瞬間に感じる不穏な空気。むしろ殺気にすら似たそれを醸し出していたのは、若い男であった。その男はぶつかったことにも気づいておらぬのか、また前後不覚のままどこかへと歩き出す。

「あれはなんだ……?」

 気味が悪いという言葉しか浮かばぬ。快晴の空の下で、嵐を引き連れているかのような。

(悪い予感がする……)

 一時、空を見上げる。何もかもを投げ出したい気分だ。

 どこまでも透きとおる青空にもかかわらず、自分の心も都も人も未だ荒れ果てている。新しく大司馬に立った宋鴻が、世を立て直してくれることを願ったとて、あの男の様子を見れば、すべてが良い方向に向かうどころが、きっとすべてが悪に転じる。

 それでも、なぜか希望は在った。桜の女神のようなあの女。美しいその名を呟いてみる。

「紫苑……」

 もうすぐ彼女に会える。自分は彼女にとっては敵として。自分にとって彼女は篭絡し、殺す対象として。


 *


 六二五年弥生二十一日。


 見知った気配を感じて、飲み干した杯を置く。

「来たか、呉陽」

「随分修理が進んでおるようですな。この部屋など見違えるようです」

 部屋の中をぐるっと見回した呉陽が感嘆の声を漏らす。

「私が最も気に入っている部屋ゆえ、最初に直させたさ」

 大きく採られた朱塗りの格子窓は開け放たれ、その先には見事に手入れが行き届いた庭園と落ちゆく夕日が見える。すべてが赤く色づく中で、なおも緑を失わぬ木々たちが夏の訪れを告げるよう。

 この邸は元々宋鴻のものであったが、長い間手入れされることもなく、一時は敵の手にも渡っていたため、あちこちが破壊されたまま放置されていた。再び取り戻したのちは、式典に合わせて少しずつ修理させていたのだ。今もまだ途中であるが、この部屋だけはいち早くかつての面影を戻している。

「何度参っても、この景色の美しさには心打たれますな」

 呉陽が武官らしい隙のなさで宋鴻の隣に座ると、女官が酒肴を置いて静かに退出していった。

「紫苑と共に来たのではないのか?」

「昨日の式が終わった後、自邸に飛んで帰ったきり戻ってこんので置いてきました」

 やれやれと呉陽が肩を竦めてみせるが、宋鴻は堪え切れずに吹き出した。

「久方ぶりに着た官服が我慢ならなかったに違いないな」

「式の前も面倒やら苦しいやら、散々愚痴を漏らしておったゆえ」

 その様子が容易に想像できて、再び笑いが込み上げてくる。

「……殿、笑い事では済みませんぞ。その愚痴を延々と聞かされる某の身にもなってくだされ」

「悪い、悪い……。しかし、いつの間に二人は仲良くなったのだ? 以前は、周りの者が害を被るほどの犬猿の仲で「今でも犬猿の仲で相違あらん」

 無表情かつ即答で、ずばんと言い返される。冗談の通じぬ男だと知っているが、そこに嫌悪はない。それすらも驚いて、必然的に宋鴻は首を傾げた。「心境の変化でもあったのか」と問うと、呉陽はどちらともいえぬ反応を浮べた。それにまさかと思い、どくどくとうるさい心臓を落ち着かせるために一度深呼吸をする。

「……呉陽。私は別に人の恋路にあれこれ申すつもりはないが……、まさかとは思うが……紫苑に「懸想したらこの世の終わりですぞ」

 じろりと睨まれながらも、なぜかほっとした。まあ、確かにこの二人がくっついたら、ただでさえうるさい日常がさらにやかましくなるに違いない。そうなると周りの被害が甚大だ。

「懸想したのではないのなら……、喧嘩で負けて仕方なくこき使われているとかか?」

 我ながら紫苑に対する酷い評価だとも思うが、それ以外に思い浮かぶ理由がない。だが、呉陽の表情はいつになく神妙で、からかえるような雰囲気ではないことに今さら気づく。

「ただ……信じると決めたのです。……それだけです」

 呉陽は手酌で酒を呷り、茜空の向こうを見やった。

 なぜにと問おうとしてやめた。これ以上、安易に探るような無粋な真似をしたくなかった。紫苑と呉陽が良好な関係を築けるのなら、宋鴻に言うことはない。

「それならば良い……これからも、二人で私を支えてくれ」

 呉陽が注いでくれた酒を目の前に掲げ、同時に飲み干す。「言われずとも」と自慢げに頷いた呉陽は、渋い顔ばかりの常とは正反対に、晴れやかな面差しを湛えていた。いつもそうしていればいいと思うのだが、それも叶わぬ現状だ。呉陽はすぐさま厳しさを取り戻す。

「まあ、そんなことはどうでもよろしいのです。……それよりも問題なのは、昨日のこと」

「嗚呼、そうだったな……父上は勝手が過ぎる。避難先の山へは一切情報を遮断させていたはずにもかかわらず、どこから情報が漏れたのか……」

 此度の太和殿での一件は、その一切が神宗には伏せられていた。勅書は神宗の名によるものだが、とうに政を放棄した王の手に玉璽はなく、戦の当初より宋鴻の手元にあったため、神宗不在で勅書は作成されたのだ。本来ならば勅書偽造の罪に問われかねぬ大罪だが、そもそも大半の人間が神宗の玉座を疑問視し、戦を導いてきた宋鴻の即位を望んでいる節があるため、誰も口を挟むことはなかった。そもそも叔父が反乱を起こす前から、その段取りは決まっていたようなものともいえる。

 だからこそ、昨日の神宗の行動は不可解だった。今さら玉座にしがみつかんとでもするかのような真似を、女に溺れきった無力な男が考えつくだろうか。いや、否だ。

「山にではなく、我々の手が届く場所で監禁でもしておくべきだったろうか。まさか今さら父上に取り入ろうとする輩がいるとは」

 確かにすべての者が宋鴻の即位に賛成しているわけではないだろう。神宗の許でうまい汁を吸っていた連中はわずかだが残っている。その中の誰が秘密裏に神宗へ情報を渡したとて不思議ではない。だが、そこに国を憂う想いは皆無だろう。これほどの戦を引き起こし、数え切れぬほどの民が命を落としたというに。

 昨日は宋鴻の立場を不動のものとする大事な式だった。喪われた民の命に報いるため、敵方である高蓮らの力を借りてでもこの日を急いた。にもかかわらず、戦を招いた張本人に我がもの顔で己の手柄かのように喧伝されるとは、なんたる屈辱か。

「……父上がおかしい。まるで人が変わったかのようだ。己の不利な状況を一挙にひっくり返し、攻勢に持ち込む鮮やかな手腕……。此度の一件、情事に溺れていた人間が考えつくような手ではない」

「式でも、王は喪服をお召しになっておりましたな。以前ならば、ご自分の目の前で何百、何千人と死体が積み重ねられようとも、気にも留めぬ御方であったはず。途次、王の動静を調べましたが、……殿のご懸念どおり、二つほど厄介なことが」

 呉陽は懐から一つの書簡を取り出すと、宋鴻に手渡した。無表情のままそれを受け取るが、その内容に目を見張る。

「式典の最中に、全国で恩赦令が出され、また今年の年貢の額も去年の半額に引き下げられておりました。――それもすべて王の御名で。勅令を発布した者を問い詰めたところ、勅書を届けた者が殿の使いを騙り、それを疑わなかったため、実際に勅令を発布する時にようやく文書を開いたその者が、署名が王となっていることに気づいたと。ですが、時すでに遅く、事の発覚を恐れたその者は、某が問い詰めるまでこの重大事を隠蔽しようとしておりました」

 そんな重大な失態を隠しおおせるはずもあるまいが、おそらくは冷静に思考できる許容を超えていたのだろう。それにその者を責めたとて、問題は他のところにある。

「殿が為されようと準備していたことが、寸前ですべて王に掠め取られた。これはどう見てもおかしい……、あの王にこんなことを考えられる正気があったとはどうにも思えんのです」

「……真実、民のことを想い、父上がそうなされたのなら、私とて何も申すことはない。しかし、此度の一件、父上は民のことを省みて、推し進めたわけではあるまい。……人はそう変わらぬ、王ともなればなおさらな。……高蓮はどうしている?」

「放っていた忍びによると、高蓮はあれから一度も邸を出ておらんと」

 考え込むように宋鴻は唸った。何かがおかしい。神宗の一連の行動も、静か過ぎる高蓮の動向も。

「ですが、大司馬のお役目を……、逆手に取られましたな」

 悔しげに顔を歪めた呉陽が八つ当たり気味に酒を呷る。宋鴻もそれには同意せざるを得ぬ。

 この戦の根本的な責任は、神宗と宣喜にある。たとえこの戦が終結し叔父一派を片づけられたとて、当初の問題は解決していない。万が一にも神宗と宣喜が宮廷に返り咲くなどということになれば、元の木阿弥だ。

 二人は二度と再会できぬほどの遠隔地でそれぞれ生涯幽閉、国政に関わることを永劫禁じる――それが宋鴻たちの考える最低限の条件で、抵抗するようならば、処刑すらも厭わぬ覚悟もある。二人が招いた災厄を思えば、それでも生ぬるいと叫ぶ臣民は多いに違いなかった。

 ――だが、人の心というものは脆くも移ろい易い。つい昨日まで、神宗を血祭りに上げろと叫んでいた者でも、さすがにそれはやりすぎかもしれぬと妙な仏心を出してしまう。施されたからには、こちらも考え直してやらぬでもない、というような心持ちにさせられるのだ。本来どのような償いをしようとも、二人の犯した罪は償えぬ代物なのだが、終わりの見えぬ戦の最中、雀の涙ほどの善にすら救いを見出してしまうほど、今の世の中は荒んでいる。

 それを知ってか否か、神宗は先手を打ったのだ。混乱を平定させるためとして神宗自ら宋鴻を指名することにより、手柄の半分を持っていかれたような状態になってしまった。しかも、公式の場であのように謝罪の意を表明されてしまえば、いくら宋鴻や他の大官たちとて秘密裡に処刑に持ち込んでしまおうということはやりづらくなる。

 今の王にこうした絶妙な手が打てるはずがない。かつての王ならばあるいはとも思うが。神宗に取り入る臣下も、右に同じ。ならば、高蓮が神宗に接近したと考えるのが常道だ。だが、高蓮にそんな動きはない。

「呉陽、父と高蓮の監視を今後より一層強化させろ。万が一、二人が接触でもすれば、その時は」

 好都合だと言いかけたとき、バタバタと慌しく誰かが走ってくる音が聞こえた。紫苑が到着したのかとも思ったが、気配でそれとは違うとわかる。まもなくすると、一人の女官が裾を絡げて部屋に転がり込んできた。平時、決して挙措を荒げることのない女官に、宋鴻は何事かと杯を置く。

「宋鴻、様……! 早く、お出ましを!」

「どうした? 何かあったのか?」

 息を荒げた女官は落ち着かせる手間すら惜しんで、声を振り絞るように叫んだ。

「……姫様が、……紅玉姫、様がお倒れに……!」

 女官が言い終わる前に、宋鴻は猛然と部屋を飛び出していった。まるで猪が獲物に向かって突進してゆくようだと、呉陽は不謹慎にも思った。


 *


「紫苑はまだ到着せんのか!」

 呉陽は紅玉の部屋の前で腕を組み、行きつ戻りつを何度も繰り返していた。顔には焦燥の色が浮かんでいる。

 飛び出していった宋鴻の後を追いかけ、呉陽も紅玉の部屋に向かったが、正直紅玉が本当に倒れたとは信じていなかった。何と言っても()()紅玉なのだ。逆に病のほうが尻尾を巻いて、逃げ出すに違いない。だが、先に紅玉の部屋に入っていった宋鴻が、ぐったりとしたその手を掴み、何事かを叫んでいるのを耳にしたときには、己の耳を疑った。――本当に紅玉は臥していたのだ。

 こういう時のために、紫苑から預けられていた使い部なるものを使い、至急宋鴻の邸へ参上するようにと知らせを出したのは、つい先刻のことではあるが、つい気持ちが逸る。大病であったらどうすればよいのか。何もかもこれからという時になって、紅玉を喪うわけにはゆかぬというに。その時、空間が撓んで見慣れた顔がぼうっと浮かび上がった。それに安堵するとは、自分もかなりどうかしている。

「やれやれ、久方ぶりに自分の邸でのんびりしていたというに、これほど早くに呼び出されようとは」

 いつもどおり羽織を引っかけただけの紫苑は、気だるげに摺りかけたそれを掴んで、目の前に降り立った。呉陽はもはや驚くことも忘れ、怒鳴りかかる。

「遅い!」

「何を斯様に焦っておるのだ? まあ、呉陽殿はいつものことだが、焦っていても文に用件くらいは書いて欲しいものだがな。何事かと思い、転位してきたではないか。転位は疲れるのだよ」

「某のことはどうでもよい! 早く姫を……」

「姫? 姫がどうかした「紫苑!」

 中から呉陽よりも焦った宋鴻の声が飛んできた。呉陽に何が起こったのかを確かめる前に、問答無用で部屋の中に放り出される。

「紫苑! 早く紅玉を診てくれ! 何やら先刻から苦しそうなのだ」

 部屋の中に入るなり、宋鴻と数人の医官らしき者たちが、中央で褥に横たわる紅玉を囲んでいた。その様を見て、さすがの紫苑も状況を呑み込んだ。遠慮なく無能な医官を押し除けて紅玉の傍に寄ると、蒼白な宋鴻よりもむしろ紅玉のほうが健康そうに見えるという、これまたなんという摩訶不思議な。などと突っ込みを入れたいが、宋鴻の形相が如何にも般若で無理だ。

「……えっと、何が……」

「普段、病気一つせぬ紅玉が倒れたのだ! 何か大病に違いあるまい。紫苑がくるまで医官たちには指一本も触れさせてはおらぬ。早く紅玉を診てくれ!」

 ちろりと押し除けた医官たちを見やると、殺気の籠もった氷の視線が突き刺さった。そりゃそうだろう。医官の面目丸潰れも甚だしい。無能だと思ったことを一度心の中で反省してから、咳払いをして気を取り直す。

「……姫、お身体はどのような」

「なんでもない。背の君がただ騒いでおるだけじゃ」

「なんでもないわけないだろう! 落ち着け!」

 むしろ、落ち着いて欲しいのは宋鴻のほうである。私はこめかみを揉んで、渋い顔になった。

「……我が君、姫はわたくしに任せて、しばらく外にお出になってください」

 宋鴻がいたままでは、ろくに診察もできやせぬ。納得しかねる宋鴻を医官もまとめて外に叩き出した。ようやくうるさいのがいなくなり静かになると、緊張の糸が切れたのか、紅玉の顔が苦しそうに歪んだ。

「姫、失礼いたします」

 幾重にも衣が重なった首元と、鳩尾を圧迫する帯を緩めてから、身体のあちこちを診察し始める。そして、下腹部に感じた違和感に、ふと気づく。

「姫、まさか」

「……そちもそう思うか。そのまさかじゃ、紫苑」

 悩ましげに紅玉は溜息をつく。つい綻びそうになる顔を押さえて、私ははっと息を呑んだ。

「では、姫「まさかとは何事だ!」

 外で聞き耳を立てていたのだろう、宋鴻が部屋の中に転がり込んできた。えらい剣幕で迫り寄ってきた宋鴻に、私は思わず降参というように両手を挙げてしまった。その様子を見て、紅玉がさらに溜息をつく。

「ほんに騒々しいな、背の君は。ややができたのじゃ」

 紅玉はあっけらかんと告げた。三軒先の軒下の猫に子どもができたぐらい、本当に適当に。

 それゆえに、宋鴻はあまりにも唐突に降ってきたその事実を、すぐさま理解できなかった。かろうじて残っていた威厳を掻き集めて、阿呆面を下げることはなかったが、それに大概近い。父親である当の本人がその有様であったために、一番始めに正気に返ったのは、外にいたはずの呉陽であった。

「誠にございますか! 誠に、御子が!」

 飛び込んできた呉陽は、同意を求めるように私の許に迫ってきた。その様は先ほどの宋鴻とそっくり同じで、私と紅玉は堪え切れずにぷっと吹き出してしまう。

「嗚呼、誠だ。我が君の尊き血を繋ぐ御子が、姫の身の内に宿っておる」

 そう言った瞬間、なぜか呉陽が滂沱と涙を流し始めた。「なにゆえ、そなたが泣くのだ」と、半分呆れながら呉陽の顔を覗き込もうとすると、じろりと睨みつけられる。

「う、うるさい! ほっとけ」

 私に背を向け、その場に乱暴に座り込む。それでも、その顔が喜びに綻んでいるのは容易に知れる。――待望の第一子。私ですら無条件に心が高揚する。その危うさを知っていてもなお。

 ふらふらと宋鴻は紅玉に歩み寄り、その傍にへたりと座り込んだ。何を言おうか迷い、ふと己の手を見つけ、躊躇いがちに紅玉を仰ぐ。

「触ってもよいのか」

 子ができたと聞かされて、第一声がそれかと紅玉は半ば呆れたが、仕方がないというように微笑んだ。宋鴻が恐る恐る己の手を紅玉のお腹の上に伸ばす。じんわりと生まれる穏やかぬくもりに、知らずに身体が震えた。

「……私の、子だ。私の……」

 搾り出すように落ちた声は、己のものではないかのように温かい。無骨な手の上に華奢な手が重なる。ふっと顔を上げると、紅玉がただただ優しく微笑んでいた。

「……紅玉」

「喜ぶのはまだ早いわ。せっかちな父上じゃの」

 刹那、宋鴻は思わず紅玉を抱きしめていた。

 この時ばかりは王の皇子という立場も、大司馬という位も、何もかもを忘れた。ただ、一人の男として、人の子の父として、この上ない喜びに打ち震える。

「紅玉……」

 そんな二人を目にして、私は呉陽を追い立て、静かに部屋を出た。様々なものを背負う二人が、今この時だけでも何もかもを忘れられるように。御簾を下げるとき、宋鴻の震える声で聞こえた、『愛している』という言葉が、何よりも私にとって祝福に思えた。


 *


 六二五年葉月三十日。


「あなた様は何を願っておられるのでしょうかのう」

 棺の前で立ち尽くしていた私の背に、聞き覚えのある声が投げかけられる。その者が足を踏み入れた瞬間、ふわりと空気が柔らかくなったのは、その者が元来持つ『気』に拠るものなのだろう。――私とは、まるで違う。

 振り向くことはしなかった。何を今さら、それを知らぬわけでもあるまいにと。

「そなたもおかしなことを訊ねる。わたくしがここに存在する意を、そなた以上に知る人間もおるまいに」

 青褪めた陶器のような肌に、すうっと指を這わせる。顎の曲線を過ぎ、か細い首にかかるはぐれた一筋の髪の毛を丁寧に払ってやると、なぜだが急に嗜虐心が芽生えた。抵抗されることもなく、呆気なく奪えるだろう儚き命を、今私は指一つで弄んでいる、と。

「わたくしはまた一つ、愚かな決断をした……。人を助けたとて、なんになろう。それ以上に深い業を背負うてまで」

 頼りなく揺れていたのは、闇を照らす灯火か。それとも、誰かの魂が過ぎる幻影なのか。

 そろりと引っ込めた指が冷たい。身体の先から冷えて、心までも凍てつかせるような痛みは、もう己では痛いとすらも感じぬようになっていた。深々と降り積もってゆくそれで、いつの日か発狂するまで、私はもう立ち止まることも許されぬ身。それが幸か不幸かは知らぬ。知りたくもない。

「それでも、何かの慰めにはなりましょう」

 ゆっくりと瞬きをした間に、世界は色を変える。

「誰かを救いたいと願う心に、貴賎はのうない。たとえ、あなた様が選ぼうとなさっておられる道が修羅であろうとも、……辿り着く場所は、きっと同じでしょうから」

 差し込んできた朝日が、闇を切り裂く。白く柔らかなその光は私の足元まで届いて、闇の中にいる私をそっと連れ出そうとしているかのよう。

 一歩踏み出せば、まだ戻れるのか。まだ、間に合うというのか。

「それと同じことを、わたくしに説いた人がいた。されど、……時は行き過ぎた」

 ――もう、戻れはせぬ。動き出した(とき)が私の手を離れ、歴史を改変させようとしているように。

 光とは正反対に爪先を向ける。滑らかな羽織の裾が床を舐める音を聞きながら、魂が身体に戻る気配を感じ取る。四肢を形作っていた幻影が揺らぎ、闇に溶け込むかのように泡沫になりゆく最中、もう一度その者へと視線を向けたのは、諦念。

「そなたはわたくしに問うよりも前に、すべきことがあるのではないのか。古来より繋いできたその名に、恥じぬ生き方をせよ。わたくしが今のそなたに申せるのはそれだけだ、――静朔方、静の名を継ぐ者よ」

 目を見開き、朔方は明らかに惑っていた。わなないた唇がようやく音を紡ぎ出したのは、その名に籠められた懇願だったのか。それを受け入れてやる情など持ち合わさぬ私に、なすすべはないというに。

「どうか……、紫苑様……。……――」

 無情にも時はくる。明けぬ闇を住処とする私は、すでに立ち去る時間であった。高楼に納められていた神器が一斉に啼く。

「わたくしは道を遺すだけのこと。何を選ぶかは、人間次第だ。……望むのなら、すべてを懸けて足掻け。さもなくば、沈黙せよ。たとえ、その行いゆえにどんな結果を招こうとも、それもまた人間の選択だ」

 ゆえに、私は戦う。すべてを懸けて、立ち塞がる運命に足掻くために。

 今度こそ朔方を振り返ることなく、私の魂は天翔る。去り際に見えた朝日が、憎らしいほどに美しかった。


 *


 六二五年長月十四日。


 あちこちの霊山や社を巡り、久方ぶりに宋鴻の邸に戻った私は己の目を疑った。

 宋鴻から命じられ、滋養に良いもの、安産に効くものを掻き集める旅――旅とはいっても三週間しか空けておらぬが――に出る前は、邸の半分が廃墟同然の姿のままであったはず。それが今やどうだ。まだ足場材などは所々に残っているが、元の壮麗な邸に戻りかけている。私は宋鴻が自分以外の術者を雇ったか、仙人でも現れたに違いないとちょっと本気で思った。

「紫苑ではないか、戻ったのか!」

 邸の修理を監督していたらしい呉陽が、遠くから私の姿を認めて、大股で歩いてくる。私が背負っているものに気づくと、「その大荷物、豊作だったようだな!」と、満面の笑みでばんばんと背を叩かれた。痛い上に、その笑みが気持ち悪いことこの上ない。

「殿が今か今かと待ち侘びてい「いやいやいやいや、それよりもこれはどうしたのだ?! わたくしが邸を空けて、まだ三週間ほどしか経っておらぬだろう。もしや、どこぞの怪しい妖術使いに騙されたのではなかろうな……!」

 堅牢な結界は張っていったはずだが、万が一ということもある。呉陽がついていながら、そんなことにも気づけぬのかと詰め寄るが、呉陽は露骨に馬鹿にしくさった表情を浮かべ、あまつさえ鼻で笑った。かちんときた私が鉄拳を食らわそうとした瞬間、どこからか呆れた溜息が聞こえてくる。

「将軍も、どこまで幼稚な意地悪をなさっておいでですか。子どもじゃないのですから」

 案の定、口うるさい広栄の登場に、呉陽が途端に嫌な顔をする。

「宋鴻様が身重の姫のために、修理を急がせたのです。早く終われば終わった分だけ、褒美を出すと約束してね。まあ、あれだけ世話になった姫のためです、それとは関係なく彼らは凄まじい気合と速さで完成させたというわけです」

 いつだったか、ごろつき崩れの青年たちを紅玉が助け、仕事を世話してやったことがある。だが、堪え性のない彼らは幾度となく脱走を図り、――そのたびに私が般若の形相で、首根っこを掴み、連れ戻していたが――そんな彼らを紅玉は叱咤激励し、何度でも送り出した。ようやく土木の仕事に落ち着いたのちは、意外な才能を開花させ、これまた意外にちょっと有名な職人になったというのだから、人は見かけによらぬものだ。もちろん、宋鴻の邸も彼らに修理が任されたため、件のとおりになったというわけらしい。

「つまり、そやつらに姫のご懐妊のことを漏らしたと……? あれほど我が君より厳秘にするようにと、重々言い含められたではないか!」

「そんなことは端から承知しておる。殿ご自身が内密に伝えられたのだ。それに奴らは姫のためにならんことは死んでも口を割らんだろうよ。そういうごろつきなりの義は、未だに忘れておらんからな」

 その点に関しては、渋々ながらも納得せざるを得ぬ。その証拠が美しく修理された邸となって、如実に己の前にある。

「それと、おぬしが邸におらんのが何よりの励みになったらしい」

「……なにゆえ」

「さあ? 怯えなくて済むからじゃないか?」

 持っていた大荷物を呉陽の顔面目がけて押しつけ、どすどすと憤懣やるかたなく宋鴻の部屋に向かう。その背後で、こういう態度ばかり取るゆえ、怯える者が後を絶たぬのだと思う呉陽であった。

「我が君、戻り…………」

 部屋に近づくほどに、何やら盛大な物音がするとは思っていたが、これほどの有様だとは思わなかった。己の目を疑ったのは、今日これで二度目だ。しかも、こんな短い間に。

「紫苑!」

 こんもりと盛り上がった布団が乱雑にどけられ、褥の上で最高に機嫌の悪い紅玉が寝転がっている。その周りを囲むようにやたらと物が散乱し、足の踏み場すらない。

 紅玉の枕元で何やら怪しい書を真剣に読み込んでいた宋鴻が、私に気づくと即座に立ち上がり、両手を差し出した。紅玉とは正反対にその顔は期待に輝き、早く出さぬかといわんばかりである。

「……ご用命のものなれば、呉陽殿が持っております」

 宋鴻はすぐに呉陽が持っていた包みをふんだくると、意気揚々と紅玉の傍に持ってゆき、鼻歌すら歌いながら開け始めた。その光景に私は軽い衝撃を受けていたのだが、後ろにいたはずの呉陽が宋鴻と一緒になって包みの中を見始めたのを見て、さらに衝撃を受けた。ぎくしゃくと広栄に助けを求めると、悟りの境地に至ったかのような真顔をしていたために、これがここ最近の日常なのだと知る。宋鴻はともかく、呉陽の顔のにやけ具合が気色悪い。

 無言のまま紅玉の傍に寄れば、同じく紅玉も無言のまま視線だけで訴えてきた。「この頭がぶっ飛んだ阿呆共を、ここから一刻も早く叩き出してくれ……」と、その瞳はありありと叫んでいる。私はまたも無言のまま頷き、蝙蝠をさっと振った。

「な、なんだ?!」

 操り人形の如く宋鴻と呉陽の身体が、自らの意志とは関係なく動き始める。何やら抗議の声を上げていたようにも聞こえたが、それは広栄にすら無視されて、二人はそのまま強制退去の憂き目に遭った。ようやく静かになった部屋で、紅玉は心の底から安堵したような溜息をつく。

「大丈夫ですか、姫」

「大丈夫なわけがあるまい……そちが出ていった後から、四六時中引っつかれるわ、つわりがくれば怪しげな書を持ってきて、変なものを飲ませようとするわ……」

「そうですよ。姫の他にあの御二方を諌められるのは、紫苑殿だけですからね。この三週間、私がどれだけ苦労したことか……」

 見事にげっそりとやつれた広栄を見れば、その苦労のほどがわかる。

「こういったものも、紫苑殿の許可なしに持ち込むべきではないと、散々進言したのですが」

 散乱していたものを片付けていた広栄が、私に怪しげな書の一つを手渡す。対高蓮戦で霊障を負ってからというもの、広栄はこういった類のものに鼻が利く。

 見た目はなんの変哲もない黄土色の表紙の書だ。先ほど宋鴻が読んでいたものだが、確かに怪しいどころか得体の知れぬ術書である。顔をしかめた私に気づいて、広栄はあと何点か同じようなものを差し出した。それらは書であったり、薬であったりしたが、どれも物がまとう『気』が陰を帯びている。

「こうしたモノは悪いものを引き寄せます。ただでさえ今の姫のお身体は、少しの呪でも最悪の事態を招くことになりますゆえ……、わたくしからも我が君にきつく申し上げますが、今後一切わたくし以外の術者に因るものを手にするのも口にするのもまかりなりませぬ。一応、そういったものがこの邸に持ち込まれぬよう結界を張り直しますが」

 広栄が一箇所にまとめてくれたそれらの品物を左手に取り、紅玉に与えられる影響を危惧して、すぐさま呪を唱える。掲げた右手が触れたところから、細かい塵となって形が崩れ、最後には跡形もなく消し去った。あとで結界も張り直し、邸の中心に『種』を蒔けば、ここはもう私以外の術者は何人たりとも入ることができぬ。

 一連の行為が終わるまでの間、息を詰めていた紅玉は安心したかのように頷いた。聡い紅玉のことゆえ、何か得体の知れぬ気配に気づいていたのかもしれぬ。

「わかっておる。こういう時はのぼせ上がった男と違うて、女は冷静じゃからの。それにしても、その冷静なはずのそちまでも、こんなものを持ってくるとはの……」

 先ほど宋鴻が開けかけた包みから、野菜やら果物やら漢方やらが覗いていた。急に気恥ずかしくなったが、紅玉は容赦なくそれを暴いて、呆れた表情をする。

「滋養に良いものを選んできただけです!」

 あの馬鹿二人と一緒にされたくないと顔を赤くさせて反論した私を、紅玉は柔らかく笑った。

「そうじゃな……わかっておるゆえ、そう怒るでない。ありがとうな」

 よくやったと子どもをあやすように、頭を撫でられた。途端に心の中に温かな想いが沸き起こって、自然と笑顔になる。広栄が隣で唖然とした表情になっていたとしても、ちっとも気にならぬほどに。

「妾の傍にはそちがいてくれるのじゃ。下手な気を回さずとも、なんの問題もないであろうに」

 なんの疑いもなく言ってくれているとわかるその言葉に、私はことさらに微笑んだ。――心の中に生まれた翳りをどうにか気づかれぬように、と。

 私の中に在る力は、誰かを守るための力だ。()()()()()()()()()()()()()、それに偽りはない。だが、この後ろめたさはなんだ。誰からも祝福され、望まれ、生まれてくる命とは決して相容れぬもの。

 咄嗟に蝙蝠を遠ざける。――悪いものは蝙蝠(これ)であり、私自身に違いない。傍に在れば、爭いばかりを引き寄せ、喪うことしかできぬ。それが『紫苑』という人間だ。

 幸せそうにお腹を撫でるどこまでも幸福に満ちた紅玉の手と比べて、自らに力を籠める。

(何が、わたくし以外の術者のものに手を触れるな、だ……)

 我こそが、禍だというに。

「さて、何から食べようかの……紫苑?」

 私が持ってきた食材を嬉しそうに手に取りながら笑う紅玉が、なんだか眩しかった。手を伸ばせば触れられる距離にいるはずにもかかわらず、決して触れられぬ何かがそこにある。

「そうですね……つわりも酷そうですから、それを抑える薬膳を作って参ります」

 呆然と悟ったのは、束の間の幸いの、終わりであった。


 *


「……かり、……」

 何かを、呼ぶ声が聞こえる。

「……(ゆかり)。いつまで寝ているの……」

 その名は、知らぬ。とうに呼ぶ人もいなくなった。ずっと、ずっと前に己の意思で失くしたもの。

「……紫、起きて」

 温かいものが私の唇に触れる。それは、懐かしい感触だった。甘く溶けてしまいそうな熱がそこに生まれて、思考がほろほろと崩壊してゆく。

 重たい瞼をこじ開けてみても、視界はぼやけて、その人は見えぬ。唇が離れて、その人の手が私の頬に触れるのを感じた。そして、掠れた声で囁く。

「……紫、愛しているよ」


 *


 六二五年長月三十日。


 強引に思考に入り込んできた幻影にはたと立ち止まる。

 じわりと手のひらに汗を感じて、未だ冷静になり切れぬ己を恥じる。こうした卑怯な手口を使うのは、一人だけだと決まっていた。

「脅威が迫っていると申したでしょう」

 音もなく振り返る。あまりにも冷たいその声音は、彼が怒っている時のものだ。現に、その姿のままで私に話しかけるなど、そうそうあるものではない。

「誰かに見られでもしたら、どうします? 早うお還りを」

「構いません、その者を消せばいいだけのこと」

 彼ならば、やりかねぬ。それこそ、私よりもなんの躊躇いのなさでそうするであろう。

「怖ろしいことを仰いますな。すべての人間が、容易に消せるわけではありますまい」

「たとえば、君の主のように?」

 きっと睨みつける。私の一番弱いところを知って、そこを突いてくる底意地の悪さは健在らしい。私に言いたいことなど、始めから見当がついている。己の役目を忘れるなと、これまでも何度も忠告されていた。

「わたくしは己のすべきことを忘れたわけではありませぬ。必ずや果たします。……今はただ、時を待っているだけのこと」

「そうは思えませんゆえ、こうして現れたのです。君は失うことが怖ろしくなったのではありませんか? 今さらになって、己の宿命の怖ろしさに気づいたのではありませんか」

 瞬時に、心が冷える。忍び寄っていた冷気が、いつの間にか喉元に突きつけられていたかのよう。

 まさに心の内を言い当てられ、私は唇を食んだ。遠く渡り廊下の先に、呉陽の姿が見えたような気がして、慌てて彼に背を向ける。それよりも、これ以上彼の前にいることのほうが、苦痛なのだと知っていた。

「……呉陽殿が参ります。早うお還りくださいませ」

 語尾が震えている。

 私らしくもない。これほどまでに怯えているのは、本気になった彼が何をしでかすかよくわかっているゆえだ。それでも、こんな瀬戸際に追いやれるほど実行に移せなかったのは、偏に私の未練。

「君が手を拱いているのならば、私にも考えがあります。君がそうせねばならぬように仕向けるすべはいくらでもあるのですから。たとえば「わかっております! わかって、おりますゆえ……、わたくしのすることに口を挟まぬことが条件のはずです。わたくしは師匠の願いを叶えました。なれば、師匠も約束を守ってください」

 逃げるようにその場から走り出す。背中に突き刺さる無言の視線が、「その言葉忘れぬように」と言っているかのようで、私は一度も振り返ることができなかった。

「……まったく、君はいつまでも甘いですね」

 彼は腕を組んだまま、去ってゆく紫苑の背を見送っていた。

 紫苑がこれほどまでに渋っている訳は知っている。常に冷静で、状況を瞬時に悟ることのできる彼女を以ってしても、捨て切れぬ情。だからこそ、彼はすでに己が最期にすべきことを決めていた。

 背後から隙のない足音が聞こえてくる。そっと彼が振り返ったときには、『彼』の色はもうそこにはない。

「嗚呼、ちょうど用があったのですが……、『翁』」


 (とき)は廻り始めている。終わりの先へと続く、新たな刻を創造するために。


 *


「まだ起きていたのか。先に休んでいてくれと言っただろう」

 日付が変わったばかりの夜更けにようやく居室に戻ると、紅玉は微かな燭台の火だけを頼りに月を眺めていた。

「背の君一人を放っておくと、いつまでも仕事をやりかねぬ。たまには妾が諭さねば」

「……さあ、寝るか」

 誤魔化すように、真っ先に褥に滑り込む。

 大司馬としての仕事の他にも、王の代理で決裁をせねばならぬ案件が山のようにあるため、なかなか仕事が定時で終わらぬ。紅玉に寂しい想いをさせているのは自覚していたため、恐る恐る潜り込んだ褥から紅玉の表情を伺うが、紅玉は月を眺めたままであった。

「紅玉……」

 宋鴻は褥から這い出して、紅玉の隣に座り込んだ。冷えた小さな肩を抱き、そっと自分のほうに引き寄せる。

「戦が始まった頃から、背の君は常に申しておったな……。妾に楽な生活をさせてやりたい、できることならば、御簾の内に閉じ込めておきたいと」

「嗚呼……、ようやくそれが叶った。今まで苦労させた分、紅玉にはなんでもしてやりたいのだ」

「その癖、徹夜続きではないか。妾を邸に閉じ込めて、馬にも触れさせてもらえぬ。詰まらぬのう……、あの頃のほうがよほど好き勝手できたものじゃ」

 じろりと睨まれて、宋鴻は苦笑いを浮べた。相当、鬱憤が溜まっているらしい。

 それもそのはず、騎馬民族出身の紅玉にしてみれば、馬に触れるのは日常のことだ。それが宋鴻の妃というだけで制限されるようになれば、鬱憤も溜まるだろう。だが、妊娠中の身の上に何かあっては元も子もないため、宋鴻もほだされてやるわけにもゆかぬ。

「そうだ。子が産まれたら、久しぶりにそなたの故郷に帰ろう。孫の顔を見せてやらねば、義父上もへそを曲げかねぬからな」

「阿呆か。子ができたことを伝えておらぬだけで、今頃父上のへそはひん曲がっておるわ。酒浸りにされるのを覚悟しておくのじゃな」

「それはちょっと勘弁だな……」

 勇猛な騎馬民族を束ねる紅玉の父は、立派な黒髭を蓄えた豪快な人だ。国一番の度数を誇る酒を浴びるほど呑んでも、顔色一つ変えぬ酒豪で、紅玉を嫁に取るために出向いたときには、散々酷い目に合った。

 さすがに二日酔いならぬ四日酔いは、もう勘弁だ。美人に弱いと聞いたゆえ、今度は紫苑を連れてゆこうとほくそ笑んでいると、紅玉の繊細な手が宋鴻の無骨な手を包んだ。柔らかな体温が安らぎと共に流れてくる。

 宋鴻は紅玉の手が好きだ。普通の姫のような白魚の美しい手ではなく、地に足をつけて歩んでいる者の少し日に焼けた手が。この手の強さに甘えて、宋鴻はついつい紅玉に任せっきりになってしまう。紅玉という妻がいるからこそ、自分は戦場に駆けてゆけるのだと、ふと今になって思う。

「紅玉……、ありがとうな。そなたがおらねば、私は私でなくなる。そなたという妻がいて、私はようやく『宋鴻』として、生きてゆけるのだ」

 はらはらと何かが自分の手の上に散った。苦笑しながら、美しいその雫を拭ってやると、紅玉はさらに涙を溢れさせた。

 気の強い紅玉が、こうやって頑是ない子どものように泣くほど、自分は紅玉に苦労をかけている。それでも、紅玉がそれを外に見せることはない。誰にも弱さを見せず、宋鴻が『王の皇子』として在れるよう、『王の皇子の后』を全うしてくれる。

「なんじゃ……、何日か徹夜したくらいで、妾が寂しいと申すとでも思ったか。それに……今さら感謝などしても遅いわ、この戯け……」

 全然素直に喜んでくれぬところが、紅玉の愛おしいところだ。顔を真っ赤にさせて、憎まれ口を叩く紅玉にそっと触れるだけの口づけを落とす。

「紅玉、愛している」

 驚いた表情がどこまでも愛おしい。もっと触れていたいと思うのだが、残酷にも時間切れを告げるような何かがやってくる。

「愛して……い……」

 鮮明に映っていたはずの紅玉の姿が、徐々にぼやけてゆく。何かに引っ張られるように、意識が奥底へと沈んで、強制的に瞼が落ちる。薄れゆく意識の欠片はすでに曖昧で、現か夢かももはや定かではなかった。だらりと垂れた己の手を掴む、誰かの手――その血が通っておらぬ青白い手を、紗の向こうからぼんやりと眺めているような、それほどに現実味がない。

「背の、君……?」

 自分をどこかへ連れてゆこうとしているのは、なんとなくわかった。だが、不思議とそれに逆らう気は起きぬ。どこへとも知れぬ先だというに、宋鴻の意識は真実それを知っていたかのように、空白に浮かぶ世界へ堕ちていった。

 最後に耳元で鳴った声が、かつてどこかで聞いたものに酷く似ていた。


 *


 朝まだき、呉陽は紫苑共々宋鴻の邸へと呼び出された。

 何事かが起きたのは、紅玉からの火急の文で察していた。取るものもとりあえず宋鴻の邸に向かえば、紅玉の妊娠が発覚した時のそれとは、まるで比較にならぬほど邸内がざわついていた。そして、宋鴻の居室へと通された呉陽は、その衝撃の事実を己の目で確かめることとなる。

 宋鴻は眠っていた。いや、意識を失っていると言ったほうが正しいのか。

 昨夜、紅玉と会話を交わしている最中にこうなってから、何度呼びかけようとも、紅玉が手酷く冷水を浴びせようとも、決して目を覚まさぬのだという。現に、呉陽が宋鴻の枕元に膝をつき、何度か呼びかけたが、瞼一つ震えはせぬ。

「我が……君……?」

 背後でがたっと音が鳴る。完璧な挙措を誇る紫苑にしては、珍しく戸板にぶつかったらしい。だが、見たことがないほどに青褪めているその様を見れば、呉陽とて到底からかえはすまい。紫苑の唇が、わなわなと震えている。

「紫苑……! ようやっときたか……」

 項垂れていた紅玉が紫苑の姿を認めて、少しだけ表情を和らげた。紅玉は縋るようにその手を取る。

「い、……いつから、我が君は斯様なことに……?」

「夜更けから、じゃ……。のう、紫苑。背の君はどうしたというのじゃ。そちならば、わかるじゃろう……?」

「我が、君は……――」

 その紅玉への最初の問いに、一瞬呉陽は違和感を覚えた。そして、普段冷静な姿しか見せぬ紫苑が、蝙蝠を握る手に筋が浮き出るほど狼狽するとは、何かあるとすぐさま察する。あれほど宋鴻第一の紫苑が、宋鴻の傍らに駆け寄ることもせず、絶句しているのも明らかに不自然であった。

「――紫苑、これがどういうことなのか……、おぬしわかっておるな。おぬしのその狼狽加減から見て、もしや……殿がこうなられたのは、おぬしの咎か」

 呉陽の鋭い指摘に、紫苑はさらに目を見開く。反射的に紫苑は紅玉の手を振り払い、それは肯定と同じことであった。

「何? どういう意味じゃ……」

「なぜと問わなかったゆえです、姫。某も姫も、まず始めに殿がなぜこんなことになったのかと考えた。だが、紫苑はそれではなく、いつからと訊ねた。それは、すでに殿がこうなられた理由を知っているゆえに他ならん」

 そうなのかと紅玉が恐る恐る紫苑に視線をやるが、紫苑は唇を噛んだまま視線を逸らした。絹糸の如き黒髪が紫苑の心情を表すかのように揺れて、それまでの形を成さぬ。――それまでの紫苑の強い姿を、成さぬ。

「こんな状況を招いておきながらもなお、黙すつもりか! 殿を生ける屍にするのが、おぬしの本望「それは……! 違う……わたくしは、斯様なことを望んだのでは……」

 以前ならば、もっと罵倒していたに違いない。紫苑のすべてを踏み躙り、その弱みに付け込み、揺らいだ紫苑を見て見ぬふりをして。ここに広栄がいれば、迷わず広栄はそうしていた。

 ――だが、なぜか今はそれができぬ。ようやく人間らしい感情を見せた紫苑に、呉陽自身が戸惑っているのか。それとも、あの日から鳴り続ける『宿命』のせいなのか。己でもこの感情はままならぬ。

「……まだ、大丈夫だ……。まだ、……すべてを取られたわけではない」

 まるで己に言い聞かせるかのように、ぶつぶつと紫苑が呟く。

「どういう意だ? 殿はどうなされたのだ、はっきり申せ」

「今は……申せぬ。今は、まだ……。されど、わたくし自身がゆけば大丈夫だ、……力はもう、わたくしのほうが上だ……、なんとか取り戻せる」

「力は上? 何をする気だ」

 呉陽の問いかけにも答える余裕がないとは、よほどの事態だ。切羽詰った紫苑の目を見れば、手に取るようにそれがわかる。だが、紅玉は先ほど振り払われた紫苑の手をもう一度掴んだ。より強い力で。

「確かに……、背の君を助けては欲しい。じゃがの、そちがそれほど取り乱すとは、これまで背の君の命を救ってきた時と比べものにならぬほど、今が深刻であるということであろ……? 背の君も妾もそちの命を削ってまで、助かりたいとは思っておらなんだ。どれほど困難であろうとも、そちの命を削るくらいならば、従来の医術でなんとかする道を選ぼう。……――『あの時』のような想いは、二度と御免じゃ」

『あの時』が、何を示しているかに気づいて、呉陽は一度瞳を閉じた。

 今のこの状況で、宋鴻の容態が医術でどうにかなるものではないと、誰もがわかり切っている。それでも、迷いなくそう言い切れる紅玉であるからこそ、『あの時』の紫苑はあの方法を選んだのだと、不意に気づく。そして、紅玉のその言葉の意味にも。

「……同じことを、我が君も、仰せに……」

 蝙蝠を握る紫苑の手が力なく垂れた。何かを挫かれたかのように、その瞳は呆然と虚空を彷徨っている。


「……――なればこそ、君は選んだのでしょう」


 なんの気配も感じさせなかった。呉陽ですら一瞬で身構えて、柄に手をかけさせたほどに。

 翁は散歩にきたかのような気軽さで戸板にもたれていた。いつもと同じ薄鼠の上着を引っかけ、優雅に髭を梳いている。だが、そこに在るのは翁であって、翁に非ず。

 瞬間的に、恐怖が背を舐める。翁と同じ姿、同じ声で言葉を操りながらも、それはまったく違う。第一、翁はそんな言葉遣いをしたためしなど一度としてないではないか。

「し……いや、翁……。やりおったな……!」

 何かを言いかけた紫苑が、噛みつくように翁に相対する。そこには、先ほどまでの揺らぎなど一切見当たらぬ。ようやくいつもの紫苑が戻ってきたような――いや、それ以上の怒りを湛えている。

「君がいつまでも決めかねているからですよ。そうやって大事なことを後回しにしようとする性格は、いつになっても変わりませんね……」

「ゆえに、我が君に……手を出した、と……?」

「ええ。警告はしたはずです」

 怒りの衝動に駆られた紫苑が紅玉の手すらも解いて、翁に向かっていった。なぜか止めねばならぬという勘が働いて、呉陽がそれを遮る。

「そこをどけ、呉陽!」

「一体、何が起きておるのだ? それを説明してからにしろ!」

「そなたに説明している暇などない!」

 不覚にも紫苑に突き飛ばされ、一瞬体勢を崩す。その隙に紫苑は翁との間合いを詰め、躊躇うことなくその首に手を伸ばした。だが、そんな事態にあっても、翁はなんの動揺も見せることはなかった。いつものように飄々として、髭を梳いている。紫苑の手が間近に迫っても、眉一つ動かしはせぬ。

 呉陽には、翁が動いたのかすら見切れなかった。唐突に床に倒れ込んだ紫苑を抱き留めたのは本能に近く、それまでは時が止まってしまったかのように身体が凍りついていた。

「何を……」

 意識を失った紫苑の身体は、か細く空気のように軽い。乱れ髪が首筋に貼り付き、妙な色気を漂わせている。

「それに惚れても、泥沼に嵌るだけ。やめておいたほうがよろしいですよ」

 そんなつもりは毛頭ないと叫ぼうとして、はっと顔を上げる。にやにやと意地悪く笑うその顔は翁だが、その言葉が違う。

「お前は、誰だ」

 紫苑を庇うように抱いて、翁の姿をした誰かを睨みつける。だが、それをまったく気にした素振りもなく、大仰に顎に指をついて、満足げに頷かれた。その仕草は武官のそれというより、貴族的な優雅さに似ていた。

「おや、紫苑にもようやく庇ってもらえる者ができたようですね。安心しま「もしや、……そちはいつぞやの黒い羽の……?」

 紅玉の声は、不思議と凪いでいた。目の前の得体の知れぬ誰かを恐れるような震えなど、微塵もない。『黒い羽』という聞き覚えのない単語に呉陽は首を傾げたが、翁は得心がいったというように微笑む。

「あれも、よほど紫苑に入れ込んだと見える……、自ら動くとは、ね。安心なさい、時はまだきておりません。私は去らねばなりませんが、あれはまだ共に在るでしょう。すべてが終わる、その時まで」

 言葉が終わるや否や、翁は突然その場に倒れ込んだ。すうっと何かが抜けていったかのように翁の表情が変わり、翁自身も意識を失っている。

 何が起きたのか把握できぬまま、呉陽は恐る恐る翁を揺り動かした。万が一、反撃された場合に備え、すぐにでも得物を抜けるようにしていたが、それも取り越し苦労に終わった。むむっと唸ったかと思えば、翁はぱちくりと目を開け、大欠伸をして凝った身体を伸ばし始めたのだ。唖然としている呉陽や紅玉をよそに一通りの動作を終えると、思い出したかのように呉陽を見て、今にも取って食いそうなその剣幕に目を丸くする。

「……どうしたのじゃ? おぬしのツケで呑んだことが露見したかの?」

「違います!」

 がくりと肩を落とす。というより、ツケってなんだ。

 翁は先ほどまでのことなど、まるで記憶にないようであった。翁のことゆえ惚けているだけとも考えられるが、どうにも違うように思える。何よりも先ほどの妙に優雅な話し方の時に醸し出していた妖しげな雰囲気が、それこそいつもの翁のものに戻っている。

「そんなにがっくりして、何かあったのかの?」

「何かと……仰られましても、どうも……」

「おぬしにしてはなんとも歯切れが悪いの。……なんじゃ、そこに寝転がっているのは紫苑かの」

 翁を揺り動かそうと床に置きっ放しにしていたのを忘れていた。紅玉が心配そうに乱れた髪を整えていたが、その脇から「失敬」と、興味深そうに翁が観察し始める。

「名を呼んでも、何も返さぬのじゃ……。紫苑は、一体どうしたというのであろ。それに背の君も……」

 昏々と眠り続ける紫苑は、それこそ精巧に作られた麗しい人形に似ているが、眉間に皺を寄せ、厳しい表情を浮べたそれはまさに人間のものである。翁は宋鴻のほうも同じように覗き込んだ後、大して深刻そうにもなくあっけらかんと答えた。

「宋鴻様と紫苑の身体は、このまま傍に置いておいたほうがよいじゃろ。そのほうが紫苑もやりやすかろうし、危険も少のう済む。あとは紫苑と……『あの方』、次第じゃろな」

「えっ?」

 思わず聞き返したのは、紅玉だけでなく呉陽も同じであった。

「紫苑は何をしようとしておるのですか!? それにあの方とは一体……?」

「まったく忙しない奴じゃの。順を追って説明してやるゆえ、そう急かすもんじゃのうない。……じゃが、その前に――姫」

 食ってかかった呉陽を面倒臭そうにあしらいながら、翁は威儀を正して紅玉に向き直った。鋼のように硬質な瞳が、紅玉を逃さんと射抜く。その鋭さに思わず呉陽が息を呑む。

「そろそろ、お話ししていただいてもよろしいのでは。……昨年、姫をこの城にお迎えする際に起きた事故と、そして……その後に何があったのかを」

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