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 六二四年葉月三日。


 その日、暁闇城は異様な緊張に包まれていた。

 理由が理由なだけに、当然密議が行われる広間には、主要な人物が勢揃いしている。普段は面倒な話し合いなど仮病でトンズラこく長老らも、その筆頭である翁の手前大人しくはしているが、今にも中心にいる人物に噛みつかんばかりの形相だ。対して、翁は白い眉毛の奥でどちらとも取れぬ飄々とした表情をし、その人物と紫苑を値踏みするように見つめている。

 紫苑の隣に座る呉陽は、この状況で何食わぬ顔をして、悠々と椅子に腰かける紫苑に戦々恐々としていた。別にかしこまる必要もないが、羽織を引っかけただけの常と変わらぬ姿で現れるとは思いもしなかった。ここに来る前に紫苑を取っ捕まえて、強制的にでも着替えさせるべきだったことを、今さら悔やんでも仕方ないが。仕方ないが、するべきであった。

(おぬしは、なぜいつもいつもだらけた格好ばかりしておるのだ)

(面倒臭い)

 耳打ちしてみるが予想どおりの答えが返ってきて、盛大に溜息をつく。紫苑にとっては服装よりも、目の前の人物のほうに関心があるらしい。だが、あながち呉陽も関心がないとは言い切れまい。ようやく、『死の軍師』と異名を取った男のご面相を拝めるのだから。

 四方から囲われる状態で中央に座る男二人は、両方とも三十代後半で、もう一人より少し前に座る気が小さそうな男が徽趙佶。伝え聞いていた武勇とは、似ても似つかぬ男だ。こちらを見て顎が外れそうなほどの大口を開けて、視線を右往左往させている。まあ、自分も紫苑を初めて見た時、そうなりかけた。気持ちはわからぬでもない。

 その後ろで主の趙佶よりも遥かに落ち着き払っている、穏やかそうな面差しの男が、高蓮。本当に見た目だけは、人畜無害そうな面をしている。しばらく高蓮の様子をじっと観察していると、ふと視線が合った。高蓮はにこりと微笑む。あまりにも余裕そうなその笑みに、逆に呉陽のほうが毒気を抜かれる。

(男の色香に当てられてどうする、阿呆)

(や、やかましい! そんなことではない!)

 蝙蝠の裏で、紫苑が楽しそうに笑っているのがわかる。どこまでも小憎たらしい女だ。変な情け心を出して、紫苑の身を心配してやったのが阿呆らしく思えてきた。

「……して、徽殿」

 静かだが、深みのある声が落ちる。決して非難しているわけではないというに、宋鴻のその圧倒的な雰囲気に呑まれれば、誰もが萎縮する。現に、趙佶は見るからにうろたえていた。

「此、度は、……え、謁見をお許し、頂きまことに、きょうえ……」

 しどろもどろの挨拶は何を言っているのかわからず、趙佶の額からは異常なほどの脂汗が滝のように流れている。あまりの上がり様に本当に目の前の人物が趙佶なのかと、居並ぶ長老らは胡乱な目つきになった。自分も紫苑も然り。だが、宋鴻はそれを容易く切って捨てた。

「堅苦しい挨拶は結構。徽殿、単刀直入に聞く。貴殿は叔父上の主力軍を担っていると私は記憶していたのだが、主君に背信してまでなぜここへ?」


 *


 六二四年文月二十日。


 宋鴻宛てに一通の文が届いた。しかも、厳重に封がされ、正式の使者ではなく後をつけられる心配のない忍びを使って送りつけられたそれは、極秘の親書。若干の気まずさを残したまま宋鴻の許へ急行した呉陽と紫苑は、その親書を宋鴻から直接手渡された。折り畳まれた紙を勢いよく広げると、武人にしては流麗な字が連なっていた。ざっと斜め読みをし、親書を床に置く。

「して殿のお考えは如何に。まさかこの馬鹿馬鹿しい提案をそっくりお受けになるわけじゃありますまい」

 親書の中身は、見ずともわかっていた。――宋鴻への鞍替え。

 宋鴻と紫苑が生還したことで勝機を逸したと知った高蓮は、すかさず次の一手を打ってきたということ。抜かりのない鮮やかな一手は、敵ながら称賛に値するが、懸念は過ぎる。先ほどの紫苑とのやり取りといい、神の如くと謳われる紫苑とまるで同じように先を見通せる、その才に。ちらと見た紫苑の横顔には、それとわかる感情の起伏はない。

「無論、我らに対して真の恭順の意はないであろう。私と紫苑があのまま生死不明であれば、高蓮は何食わぬ顔で叔父上側についていたに違いない」

「某も同意見ですな。あの高蓮ともあろう者がそうそう忠誠を誓うはずがありますまい。勝機を逸した今上に見切りをつけたのでしょう。いつまた何をしでかすか知れぬ、そんな不穏分子を受け入れるべきではない。しかし……」

 呉陽が言葉を濁した先を、紫苑が続ける。

「されど、徽軍の寝返りはあちら側にとって多大なる損失に他ならぬ。それゆえ、我らが手を下す間もなく、勝手に瓦解してくれるというならば結構ではないか。まあ、すべて高蓮の手の内というのは気に食わぬところではあるが、戦の短期終結と引き換えならば悪くはない」

 トントンと床に置いた親書を紫苑が指し示す。宋鴻と呉陽は一様に渋面な顔つきになった。

 戦は確かに連戦連勝。だが、それも宋鴻の拠点を軸にした都外での戦の話だ。都を攻め落とすとなれば、未だ戦力が充分とは言えず、都の内通者も足りぬ。それが都に攻め入れられぬ一番の理由だが、まだ他にも解決すべき懸案がある。

 都には民たちの他に、戦乱のどさくさで逃げられては困る貴族や高官たちがいる。私腹を肥やし、政を疲弊させてきたそれらの連中は、確実に粛清されなければならぬ。その連中を効率よく捕らえ、かつ一人も逃さぬには内部の協力者は不可欠であった。無論、すでに内通者や忍びを放ってはいるが、集められる情報には限りがある。都を守る軍の高官、しかもその総指揮官を自軍に引き入れられれば、絶大な戦力となるのは間違いない。

「悪くはない、か……紫苑にして生半可な言い様だな」

「ええ、わたくしも少しは考えを改めたのです。馬鹿と鋏は使いようとも申しますゆえ、上手く遣ってやればよろしいのでは」

「しかし、ここで奴らを遣えば後が厄介だぞ。奴らは此度の戦を終わらせるためには必要だが、いざ戦が終わってしまえば大きすぎる功労が足枷になる。褒賞だけで満足するはずがない。中央での官位を欲したら、もはや手に負えんぞ」

 最後の一手を指す駒が膿んでいる。下手すれば、駒どころか盤すべてを腐らせるかもしれぬ。

「官位ならいくらでもくれてやればよいではないか。斯様な実も伴わぬお飾りの地位で満足できるというのならば、その後如何様にも処分可能だ。下手に地方に居座られたままよりも、中央にいたほうがわたくしも手を下しやすい」

「おぬしという女は……、それでどこをどう考えを改めたというのだ。始めから殺す気しかないではないか……」

「容易く主を見限るような輩は好かぬでな。誰の思惑かは推して図るべしだが、己の参謀の口車に乗せられているようでは、どうせ生かしたところで物の役にも立つまい。なれば、我らの踏み台になってもらったのち、束の間の夢でも見せてから殺せばよいではないか。それくらいの情なれば、わたくしにもあるというもの」

 紫苑のあまりの言い様に、呉陽は呆気に取られるしかない。対面に座る宋鴻も引きつった苦笑いを浮かべている。紫苑の情とは、今際の際の苦しみの度合いでしか反映されぬらしい。

「そ、そんなに簡単に済む話か! それなりの官位にある者をあっさり不審死で片付けられぬものなのだ。おぬしがやったとすぐ露見するであろうが!」

「では、戦乱のどさくさに紛れてでもよいではないか。戦を免罪符にすればすべてが許されるのが、この世の罪業であろう。何か問題でも?」

 本気で首を傾げてみせた紫苑に、思わず殴りたくなる衝動を抑える。呉陽はあえて盛大に咳払いをして、埒が明かぬ話の流れを変えることにした。

「死人に口なしとも申すではないか。関係者の一人であろう趙佶をさっさと殺してしまえば、真相は闇に葬られかねん。おぬしと同等の力を持つ可能性のある人物を野放しにはできんのだ」

 なぜ今その話を蒸し返すのだと、露骨に紫苑の顔が歪む。ひたひたと着実に忍び寄る怒気に背筋がぞっとしたが、傍若無人を地でいく紫苑であってもさすがに宋鴻の御前でならば言い逃れできぬであろうと踏んで賭けに出た。呉陽の捨て身の賭けに気づいてか、宋鴻の顔がニヤつき始める。

「私抜きで、なんぞ面白い話でもしていたのか? 随分と仲良くなったものだな。放っておくとすぐに喧嘩し始める臣下を宥めねばならぬ主君としては嬉しい限り」

「誰が斯様な偏屈で退屈極まりない男と仲良う「紫苑が力のことで、興味深いことを話したのです」

「ほう?」

「呉陽殿!」

「紫苑の結界を破るほどの力を持つ者が、他にいるかもしれぬと」

 もう恐ろしいので、紫苑のほうを見るのはやめた。明らかな殺気がこちらに向けられている。しばらくは宋鴻か紅玉の傍にへばりついておらねば、本当に殺されかねぬなと思って、心底肝が冷える。

「それは誠なのか? 紫苑」

 確かに真剣ではあるが、宋鴻もどこか面白がっているのは目に見えてよくわかる。それでも、その宋鴻の問いに答えずにはいられぬのが、紫苑の弱いところだ。

「未だ、確証を得ぬ推論に過ぎませぬゆえ……、殊更に我が君に申し上げて、心労をおかけするほどのことではございませぬ。どうか呉陽殿の戯れと思い、お聞き逃しください」

「心労なぞ、己の立場を自覚した日から、降り積もる毎日よ。今さら一つ二つ増えたところで大した違いはない。勿体つけておらなんだで、早く申せ。呉陽が進言してくるくらいなのだから、余程のことなのだろう。その者は、今後我らの脅威となり得るほどの力を持つというのか」

 しばらくの間、沈黙が流れる。紫苑が宋鴻の問いに逡巡するとは珍しい。不意に衣擦れの音がして、紫苑の横顔を見てしまえば、そこに宿る不穏な気配に心急く。つと紫苑が小窓の向こう、赤く染まる夕暮れの空を見る。

「――この世のすべては、一寸先は闇。我らの存在はその中でもさらに、不確かで曖昧で、雲を掴むようなもの。わたくしを凌ぐ術者がたとえ存在したとて、不思議ではない。それがどれほど不可能なことに思えても、存在するというのなら、……消さねばなりませぬ。必ずやわたくしが、この手で」

「それはそなたを以てしても強大だと?」

「ええ。その者は……――」

 紫苑が消え入りそうな声音で呟いた言葉。隣に座っていた呉陽だからこそかろうじて聞き取れたそれは、さきほどの話の核心に迫る言葉ではないのか。視線を戻した紫苑が、己を見つめていた呉陽に気づく。呉陽のわずかな身じろぎで、己の呟きを聞かれてしまったことを知って、いっそ畏れすら抱いているように思えた。あの紫苑が。

 その紫苑の姿に重ねて、以前に交わした宋鴻との会話が唐突に蘇る。あの時の呉陽はまったく取り合わなかったが、今はそれが荒唐無稽なものでもないような気がした。自分や誰がどう言おうとも、紫苑は女であるのだということを。

「此度の申し入れは、確実に高蓮の差金に違いあるまい。だからこそ、帰順を隠れ蓑にした狙いが他にあるはず。たとえば、そう……紫苑、おぬし自身と」

 言い淀んだのは、なぜだったのか。紫苑の視線に耐えきれなかったなどという、陳腐な理由で赦されるのならそれでもいい。だが、そうではないことを今の呉陽は気づいてしまった。

「嗚呼……、紫苑の婿の話か。確かにあり得るやもしれんな」

 言葉を継いでくれた宋鴻にそっと胸をなでおろす。どんな反応を示すかと、恐る恐る隣の紫苑を盗み見て、呉陽は危うく吹き出しかけた。呉陽の諸々の葛藤も吹き飛ぶほど、当の紫苑は間抜けな顔をしていた。己の結婚話なんぞ一度たりとも考えたことがなかった、というような阿呆面だった。

「……記念に絵師に描いてもらいたいくらいの阿呆面だな」

「だ、誰が阿呆面だと」

「おぬしのことだ。ふん、おぬしの年頃の女は、夫がいても別段おかしくなかろうが。しがない町娘ならば、相手は勝手にしろと思うが、おぬしを下手な相手に娶わせるわけにはいかん。天地がひっくり返ってもおぬしが是と言うはずはないと知っておるがな、殿を盾に取られれば話は別だ」

「いや、何を申しておるのだ……。このわたくしが婿? 斯様な馬鹿げたことがまかり通るとは思え「そなたとて、知るところだろう。宮中ほどおぞましき場所はない。それこそ戦場よりもな」

 宋鴻の発言は、あまりにも的を射ていた。生涯の大半をその場所で過ごしてきた宋鴻にとって、それは揺るがぬ事実であると同時に、残酷な現実でもある。それゆえに母を喪った宋鴻にしてみれば、なおのこと。

「そうは申せ、私はこの件でそなたに強要するつもりはない。呉陽は得心がゆかぬだろうが、紫苑の身を案じる想いは呉陽も同じはず」

「べ、別に某はこやつを案じたわけでは……」

 ぶつぶつと文句を言う呉陽の横顔が、わずかに朱に染まっている。

「自らの片割れは、己で探すべきだ。私が紅玉を選んだように」

 そう言った宋鴻は、紫苑にもそうした相手を見つけてほしいという純粋な願いだけが籠められているように思えた。それでも、その願いの先に紫苑はただ微笑むことしかしなかった。


 *


 趙佶は脂汗をだらだらと流しながら、視線を彷徨わせている。何かを言おうと口をパクパクさせているのはわかるが、それは金魚を連想させはしても一軍の将は否だ。情けなくて、天を仰ぎたくなる。

「……宋鴻様、発言をお許しいただけるのならば、私から申し上げたき由がございます」

 それまでただなりゆきを見守っていた高蓮が静かに声を発した。趙佶では話にならぬと諦めたのか、宋鴻は肩を竦め頷いた。

 その途端、趙佶はあからさまにほっとしたような表情を浮かべ、もはや己は関係ないとばかりに口を噤んだ。それだけでも、この一件が趙佶の本意ではないと知れるが、高蓮ほどの有能な男が戴く男がこれでいいのかと疑心は募る。

「私の主徽趙佶は、今上陛下を主君として今までお仕えして参りましたが、近頃の陛下の目に余る行為の数々、……主は心底失望したのでございます。天命を失った王は、もはや王に非ず。斯様な主にお仕え申し上げても、先の未来を見通すことなどできません」

 高蓮はどこか面白がるような風情でくすりと嗤う。般若の如き形相の長老らに囲まれて、よくもそんな余裕綽々に嗤えるものだと感心する。いや、私も同じものか。

「しかし、私の父上も叔父上とそうは変わらぬ。私が申すのもなんだが、父上も天命を有する王とは思えぬ」

 いいえ、と高蓮は首を横に振る。

「主は前王陛下ではなく、宋鴻様に新たな主を見出したのでございます。宋鴻様はこの国の王たるに相応しい皇子であらせられます。きっと宋鴻様がお創りになる国は、大層素晴らしい国におなりでしょう。沈みゆく船にではなく、明日に向かう船に乗りたいのは、人の道理にございます」

 かなり婉曲に言ってはいるが、要するに今上は役に立たなくなったゆえ切捨て、将来性のある宋鴻につきたいということだ。その歯に着せぬ物言いに天晴れと大笑いしたいところだが、二人を囲む長老らは一様に顔を険しくさせ、今にも飛びかかっていきそうな勢いである。無駄に年だけは重ねているため、その顔は能面の般若よりも恐ろしい。趙佶などはひっと飛び上がったが、高蓮は涼しげな表情を崩しもせぬときた。

 宋鴻の長い指が思案げに頬を滑り、引き結ばれていた唇の口角がわずかに上がったのが見えて、宋鴻が笑っているのだと知る。神にも等しいこの国の王を容易く侮辱するとは、この男ならばやるだろうとは思っていたが、本当に実行に移してきた。味方であれば、これほど面白い男もおるまいに、とでも思っているに違いない。

「貴殿らがここへ来た理由は相わかった。真実私に忠誠を誓うと申すならば、そなたらの申し出……受けてやらぬでもない」

 瞬間的に辺りがざわつく。てっきり問答無用で叩き出されると思っていた長老らは、予想外の言葉に目を剥いた。

「宋鴻様! 何を仰られるのです?!」

「こんな無礼極まりない若造など、即刻叩き出すべきではござらぬか!」

「主を裏切るような輩が、忠誠なんぞ誓うはずがありますまい!」

 たまにはまともなことを言うと内心笑う。

 口角泡を飛ばしながら食ってかかる長老らは、だんまりの私と呉陽をちらちらと見ながら、「おぬしたちもはよ反論せぬか」と目で威嚇してきた。それでも素知らぬふりを決め込むが、隣に座る呉陽に肘で突かれた。蝙蝠の裏でじとっと視線を呉陽に向けると、「おぬしが最初に賛同したゆえ、どうにかしろ」といわんばかりの視線が返ってくる。

(長老らと話すと、ただでさえ長い話がさらに長うなる)

(色目でも使って黙らせればいいだろう)

(それで黙るような玉ではなかろう。あの古狸共は)

「何やらうち自慢の美姫直々に、話したい由があるようですぞ」

 二人でこしょこしょと責任の擦りつけ合いをしている最中に、翁から唐突に振られる。ずるりと滑りそうになった身体を立て直し、椅子に深く座り直す。意地の悪い顔で笑いを堪えている翁が視界に入って、歯軋りしたい気分になる。

 面倒な役回りをするつもりなど毛頭ないにもかかわらず、すでに長老らは私が何かを話すのを待っている。助けを求めるつもりで宋鴻をちらと伺うが、涼しい顔で笑い返された。「ほれ、早くこの場を押さえてみせぬか」とその目はありありと語っている。――仕方がない。背に腹は代えられぬ。

 扇いでいた蝙蝠を閉じる。パチンと乾いた音がその場に響いて、空気が一瞬にして引き締まる。長老らの恫喝に怯えていた趙佶は、こちらを向いて魂が抜けた顔をし、高蓮はただ静かに瞳を巡らす。すべての視線が集まる中で、私は妖美に微笑んだ。これ以上ないほどゆっくりと。

 その笑みを見た呉陽は性格を知らねば、これほど絶世の美女もおるまいにと心底思った。

「皆が到底信じられぬのも、道理。そなたらは命を賭して守るべき主を、すでに裏切った不義の臣ゆえ。斯様な者を受け入れて、獅子身中の虫になられたら本末転倒。本来ならば縛り上げ、考えていることを残らず吐かせ、その後首を刎ね、見せしめに城門に晒すのが最善の策であるが、……我が君はそれを望んではおらぬ」

 小首を傾げ優雅に笑う様は、どれほど世に美しい女を並べ立てても、決して紫苑に敵わぬだろう。花のような紅唇から紡がれる言葉は、それに反して背筋が凍るほど恐ろしいが。

 何が恐ろしいのかといえば、宋鴻がそれを望みさえすれば、紫苑は一言一句違えずにそれをやってのけるだろうことがここにいる全員がわかっているからである。その証拠に敵の趙佶はおろか、味方すら震えおののいている。

「なれば、その言葉信じるに足る証を。決して裏切らぬ忠義と共に我が君に捧げよ」

 見据えるは、高蓮ただ一人。高蓮が宋鴻に忠誠を誓うことはないと始めから知っている。高蓮も私たちが心底自分たちを信じてくれていると思えるほど、おめでたくはないだろう。互いの利益のために、互いを利用し尽くす。どちらかが、どちらかに食われるまで戦いは終わらぬ。

 高蓮はなんの戸惑いも見せず、むしろ涼やかな目元を歪ませて清絶に笑ってみせた。

「天地が滅ぶその時まで、我が一族打ち揃いて宋鴻様にお仕えいたします。その永劫変わらぬ忠誠の証に、最も高貴なる方の御首を御前に献上いたしましょう」

 手を組み替え、正式な恭順の礼を取った高蓮に、趙佶も慌ててそれに続く。

「ならば受けよう、徽趙佶。その言葉、しかと貫いてみせよ」

 宋鴻の言葉が上から降り、趙佶は縮こまるようにさらに頭を下げた。にやりと宋鴻が笑うのが視界の端に見える。

 最も高貴なる首。それは果たして今上なのか、神宗なのか。それとも宋鴻なのか。その答えが出る日は、きっと近い。

「最後に……宋鴻様への忠誠が誠であることの証に、私から提案したき由がございます」

 話は終わったとばかり思っていた私たちは、再度顔を上げた高蓮に疑惑の眼差しを向けた。何を言い出すつもりかと、気づかれぬように身構える。だが、高蓮が言い出したのは、私の言葉を見事に逆手に取られた提案とも言えぬ脅迫であった。

「どうぞこの私を、あちらの美しき御方の婿に取られますよう、お願い申し上げます」

 そう言って高蓮が指したのは、紛うことなき私であった。


 *


「どういうつもりだ。冗談にしては、演技が臭過ぎるぞ」

 城門から出ようとしていた高蓮を、そちらを見ることもなく引き留める。律儀にも一人で出てきたのは、私がここで待っているという自信でもあったのか。

 密議の場で、あんな発言をしたばかりとは思えぬほど落ち着き払っている。馬鹿にしていると長老らが文字どおり大噴火し、もみくちゃになって掴みかかる様は、私が見ていても凄まじいものがあったというに、なんたる可愛げのなさよ。

「失礼ですが、あなたが慕われているのには驚きでした。噂とは当てにならないものですね」

「わたくしが慕われておる? 何を馬鹿なことを。長老らにとってわたくしは大事な駒ゆえ、手放し難いだけよ」

 確かに呉陽や広栄よりも、長老らがまっさきに怒りを爆発させたのには驚いた。これ幸いといわんばかりに、差し出すかと思っていたが。「こればかりは私が教えて差し上げる義理はありませんね」と含み笑いを浮かべる高蓮が、何か気持ち悪い。

「言いたいことがあるならば、早う申せ。わたくしは気の長いほうではない」

「いえ……存外にお可愛らしい御方だと」

「…………は?」

 言われ慣れぬ単語に、一瞬思考が固まる。普段私に浴びせられるのは、鬼とか冷酷とか非情だとか、今考えても怒りが冷めやらぬものばかりで、可愛いなどあまりにもかけ離れ過ぎて――

「可愛いですよ」

 不覚にもこんな男の言葉一つで動揺している間に、高蓮に距離を詰められていた。咄嗟に離れようとしても、城壁へ追いやられていたことに今さらになって気づく。

「……そなたの目的はなんぞ」

 高蓮の身体を突き飛ばそうと胸に手を当てるが、逆に手を掴まれ引き寄せられる。細そうな見た目とは裏腹の力強さに柄にもなく戸惑い、そんな私の反応に高蓮は面白がって耳元で囁く。

「私の妻になってくださいますか?」

「寝言は寝て言え。このわたくしを伴侶に得ようなど、おこがましいにも程がある」

 高蓮の腕から逃れようとすればするほど、強く掴まれて身動きができなくなる。この私にこれほど強硬な態度を取ってくるとは、高蓮の思惑が今ひとつ読めぬ。いっそ術で昏倒させてしまおうかと目論んだとき、あまりにも自然に高蓮の顔が近づく。それも唇が触れるか否かの距離で。

「このまま衝動に負けて口づけをしてしまいたいですが……、それは()()()()()()()()()()の果報にすることにします」

「……わたくしからさっさと離れよ」

「名残惜しいことですねえ……」

 打って変わって、あっさりと手を放す。いつもの人の良さそうな微笑みを浮かべたままで、相も変わらず小憎らしい。何がしたいのかさっぱりわからぬが、とりあえず高蓮から距離を取る。

「心変わりは人の世の常と申しますゆえ、……色よい返事をお待ちしておりますよ」

「侮られたものよ、このわたくしもな。そなたの脅迫は、そなたを婿という体裁で質に取ることのできる我らが、一見有利に見えよう。されど、その実そうではない」

 高蓮ほどの男が、質で終わるはずはない。寝返ったと見せかけて、宋鴻軍の内部から侵食してゆくつもりであろう。さすれば、然したる地位を得ぬ私だが、実質呉陽と同程度の権力を有する女の夫という肩書きを、むざむざ高蓮に与えてやるということに他ならぬ。中身は質とはいえ、外聞は別だ。宋鴻が擁する神の如き力を持つ術者――今やその名は一人歩きを始めている。そんな女を妻にした男となれば、民は何を思うか。性別が逆でもあれば子どもを産ませ、その子どもを使い懐柔するという手もあるが、高蓮は男だ。女よりも扱いが難しい。

 現段階で高蓮を身内に引き入れるには、あまりにも危険だ。「下手な相手に娶わせるわけにはいかん」と言っていた呉陽の言葉が、今さらながら真実味を帯びてくる。高蓮は下手な相手どころではない、今考えられる最悪の人選だ。

「脅迫とは人聞きの悪い……。私はただ、この身を捧げることで忠誠を示すことができるのならば、と思ったまでのこと。それにそれほど悪い条件でもありますまい。あなたと夫婦の契りを交わす以上の喜びは他にありません。この高蓮、すべてを捧げたとしても」

 高蓮は初めて微笑むのを辞めた。なんの感情も映らぬ瞳に私を映したまま、何を得ようとしているのか。

 二人の間に、生暖かい風が流れる。ひたひたと近づく終わりの(とき)を思わせるそれは、私に感傷を思い起こさせることもなかった。

「生憎だが、人並みの愛が欲しいのならば、他を当たれ。わたくしは当にそれを切り捨て、鬼となった」

 ばさりと羽織を翻して、高蓮に背を向ける。その間際に見えた高蓮の瞳が、わずかに揺れたのは気のせいであったのか。

「……一つ、どこかで会った覚えはありませんか」

 何を言うかと思えば、くだらぬ。振り返ることすら厭わしくて、言葉だけを吐き捨てる。

「随分と使い捨てられた口説き文句だな」

 二度と高蓮を振り返ることなく、私はその場を過ぎ去った。ゆえに、高蓮がその時どんな表情をしていたのか、知ろうともしなかった。


 *


 六二五年弥生十日。


 後宮の一角にある部屋の隅で、後宮の主であるはずの男がうずくまり震えていた。顔色は青褪め、整えられていたはずの衣や髪も乱れたまま。「宋鴻が攻めてくる……もう、終わりだ……」と幾度となく呟いては、焦点の合わぬ瞳で執拗に辺りを警戒している。女官たちは気味悪がり、とうに近づくことすらしなくなったが、部屋の主である権花恭(かきょう)は別であった。

「主上……、どうかお気を確かに」

「余はもうすぐ……死ぬ、死ぬ……しか、ないのだ……!」

 花恭が王を助け起こそうとするが、己の妃すらも認識できぬのか、王は抗い、さらに部屋の隅へと引っ込んでしまう。困り果てた花恭がその後を追おうとしても、現実は待ってはくれぬ。

「淑妃様」

小梅(しょうめい)、きましたか……」

 権淑妃付きの女官である小梅が、手に書簡を携え控えていた。その書簡の色は、赤。火急を示すものだ。

「近く、宋鴻殿下に官位を授ける儀式が執り行われるようです」

 小梅から書簡を受け取り、中に目を通す。旧王都を守る副将軍からで、至急王に確認されたしと書かれていた。

「淑妃様、いかがなさいますか」

 花恭の指示を仰ぐようでいて、小梅は花恭が出す結論を知っているようでもあった。だからこそ、その瞳を見ることがつらい。

 如月の終わり、我が軍の要である徽趙佶が密かに朝廷を離れ、宋鴻軍に合流したという噂が立った。元々先の政変で、大半の武門は宋鴻と共に都を落ちていたため、今の朝廷は趙佶率いる徽軍に依存していた。その徽軍が万が一にも寝返れば、勝敗は決したも同然であると花恭は常々危惧してきたが、朝廷の重臣たちはあまりにも楽観視していた。現王によって取り立てられた恩義を仇で返すはずがない、所詮田舎の節度使風情が、一度手に入れた中央の官位を手放すはずがない、と花恭の意見を取り合うことすらしなかった。

 ぎゅっと唇を噛みしめる。――いずれくるだろうと思っていた日が、ついにきてしまった。

 今の国の状態で政をしようとせぬ王に、趙佶がいつまでも縋りつくなどと浅はかな考えだ。重臣たちは現実というものをまるでわかっていない。いや、わかりたくないのか。今ある権力が風前の灯火であることを認めたくないがために。

 だが、そのツケを払うときがついにきたということだ。何倍もの痛手となって。

「ここまできてしまえば、状況が好転することは最早ないでしょう。ですが、わたくしたちは指を咥え、座して待つわけには参りません。小梅は今一度脱出路を確認したのち、わたくしの実家に使いを。有事の際、宮女たちを確実に逃がすためには、父上の協力を仰がねばなりません」

「その時がきたら淑妃様も、ご一緒に脱出なさいますよね……?」

 やるせなく首を横に振った花恭に、小梅は衝撃を受けたような顔をした。

「いいえ、わたくしはここに残ります。主上と共に」

 最近何度も見るようになった、悪夢。愛すべき宮城が焼け落ち、守るべき民がどうすることもできずに死んでゆく様が、瞼の裏に焼きついている。人々の泣き叫ぶ声に絶叫して、飛び起きた日もある。――逃げられるわけがない。王を置いて、己の罪を置いて、この国の淑妃として在る自分自身の責任を置いて。

「そ、そんな……それはなりませぬ!」

「わたくしは、わたくしの責を果たさねばなりません。この後宮に部屋を賜ったその時から、わたくしが果たさねばならなかった責を……、今ようやく果たせるのです。わたくしは命ある最期の時まで、主上と運命(さだめ)を共にします」

 後宮へ入る時、父に言われた言葉を思い出す。


『王を支え、民を守り、国を統べる御方の妃として、恥じぬ生き方をしなさい』


 自分はその言葉を守れなかった。前王の政を最も嫌っていたはずの王に同じ道を辿わせ、それらすべてが崩壊する今の今まで、止めることができなかった。だからこそ、王を支えるということだけは最後に貫き通したい。花恭ではなく、永遠に喪われてしまった人を愛し続けていた王であっても。

「なぜですか! 主上がこうなられてしまわれたのは、淑妃様の咎ではありません。淑妃様は、毎日毎日……主上のお世話をして差し上げ、政を補佐し、寝る間もなく働いてこられたのに……なぜ淑妃様が主上のような御方のために、その御身を犠牲にせねばな「――小梅。言葉を慎みなさい。主上の御前です」

 酷く傷ついた表情で唇を噛みしめた小梅を、花恭は腕の中に引き寄せた。どれだけ小梅が自分のことを想ってくれているのかがわかる。それこそ泣いてしまいそうなほどに。

 乳兄弟として共に育ち、後宮に上がった後もよき友人として、小梅は花恭と共に在った。それがどれだけ心の支えになってくれたか。小梅がなければ、戦が始まってからの苦難の日々を乗り越えることはできなかっただろう。

「小梅がわたくしのことを想ってくれるその心だけで、わたくしは充分なのです。幼少の頃より、長き時に渡ってよく仕えてくれました。使いから戻ったのちは、……暇を取らせます。わたくしの父が良きように取り図ってくれるでしょう」

 だからこそ、せめて小梅と後宮に仕えてくれていた者たちだけは守ってやりたい。後宮を預けられていた者として、それが最後の務めだ。

「いいえ、いいえ! 淑妃様を残してゆくことなど私にはできません! どうか、お願いです……私を傍に置いてくださいませ……」

 小梅が聞き分けのない子どものように、胸の中で抗う。

「わたくしが共に逃げるなど、端から無理なこと。宋鴻殿下が朝廷に戻ったのち、真っ先に行うのは粛清でしょう。当然、わたくしもその一人です。粛清対象者であるわたくしが小梅たちと逃げれば、罪のないあなたたちまで、危険な目に合わせることになるのです」

「それでも淑妃様……花恭様、嫌です……お願いです、どうか一緒に……」

 花恭。――懐かしい名だ。

 ただの花恭であった頃の自分に戻りたい。優しい父と母と、小梅と小梅の母で暮らしていたあの一番幸せだった時に。だが、花恭はもう『権淑妃』である自分から逃れられぬことを、己が一番よく理解していて、そして逃げるということは己の誇りをも傷つける行為であった。

「行きなさい。そして、これから先……たとえ何があったとしても、誰も恨んではなりません」

 恨んだところで失った幸いは戻らぬ。己の精神をすり減らし、もしかしたら用意されていたかもしれぬ幸いすら、自ら手放すことになる。そんな人生を小梅にだけは送って欲しくない。

「……殉死したいというのなら、好きにさせたらいいだろうに」

 突如、背後から声が背を叩く。

 反射的に振り返ると、自分のちょうど真後ろの衣装箪笥に、飄々とした表情を浮べる男が腰かけていた。声がするまで気配一つ感じさせなかったその男に、瞬時に言い知れぬ恐怖が沸き起こる。

 記憶する限り、面識のない男だ。後宮の宦官でも重臣たちでもないとすれば、宋鴻や趙佶の間者か。だが、どうもおかしい。男の容貌はこの国の人間と違い過ぎている。豊かな銀色の髪がやけに目を引く。

「無礼者! 誰か、淑妃様の部屋に狼藉者が「叫んでも無駄だ。衛士は皆殺した」

「なんですって……! 淑妃様、後ろに下がっていてくださいませ。私が男の相手をしますから」

「小梅何を……」

 小梅は懐から暗器を取り出すと、胸の前で構えた。

 男はくつくつと嗤いながら、腰を上げた。優雅に腕を組み、人を小馬鹿にするような笑みを浮かべている。その笑みだけで、この男が決して心を許してはならぬ類の人間だと直感的に悟る。

「随分と主人想いのいい従者ではないか。羨ましいことだ、私はそんな人間にとんと恵まれた試しがない」

「何が目的でしょうか。王はここにはおりませんよ」

「狂った王になど用はない。私が会いたかったのは、権花恭お前だ。聡明で慈悲深く、堕落した王を支え続ける健気な妃、実に美しい筋書きだ。人は悲劇を求めてやまぬ。宋鴻や紫苑の手で手折られる花として、お前はあまりにも相応しすぎる」

「紫苑?」

「嗚呼、名は知られていないのか。だが、二つ名のほうなら聞いたことぐらいあるだろう。宋鴻が擁する女術者、鬼よりも美しく残酷な、『白妙の羅刹』を」

 花恭は、『白妙の羅刹』の真名が紫苑であることを、今この時初めて知った。紫苑は秋の野山に咲く、可憐で優しさに満ちた花だ。美しい人は名まで美しいのだと、そんな暢気なことを思う。

「自らを聖人君子であるように見せるのがそれほど愉快か? 結局、そんなことをしても何も手にできなかったろうに。お前は美貌も才能も器量も誰にも負けぬくらい持っているが、紫苑には何一つ敵わず、あれにすべてを奪われる。……命も地位も、行く末さえも」

 男の低い声が謳うように耳元で響く。それを不快に感じても、なぜか思うように身体が動かなかった。それは小梅も同じなのか、暗器を動かそうと躍起になっている。

「憎らしくないのか? お前からすべてを奪ってゆく紫苑が。奪い取られたまま黙って犬死しても、何が得られる? 美談になるのがせいぜいだろう。いや、あの羅刹のことだ……、誇りとやらを重んじるお前を、後世王を誑かし、国を傾けた悪女などという汚名を着せ、死んだ者すらも貶めるのを厭わぬに違いない。それでも、お前は運命(さだめ)を享受できるか。むしろ運命を変えてしまいたくないか。……そのための力を、私が与えてやるぞ」

 男の紡ぐ言葉は、まるで悪魔の囁きのようだった。花恭も娘時分ならば、男の言うことを真に受けて、その手を取ってしまったかもしれない。それほど真実味があった。

 だが、そこまで考えてふと思う。花恭にとっては真実ではないが、()()()()()()()()()()()()()()()と。

「……何かを望めば、その代償を差し出さねばなりません。生憎とわたくしの大切な持ち物から、あなたのいうことのために差し出せるものは何もないでしょう。王の妃たる女の願いとは、もっと大それたもの、侮らないでください。憎しみに染まったあなたに、叶えられる願いも、与えられる力も何一つありません。あなたの復讐にわたくしたちを巻き込まないでくださいませ」

 男の顔色が変わる。ピリピリと肌を刺すような凍てついた空気がその場に漂う。男の怒りに触れたということは、花恭の言葉があながち間違いでもないらしい。

「私に盾突くとは可愛げのない女よ、黙って従えばいいものを。まあ、いい……本命はお前ではない」

 男は怒気を隠すこともないままに、花恭たちに近づいてきた。小梅が花恭を守ろうとするが、身体は動かないままだ。長い銀髪をなびかせ、男は花恭の前に立ち、優雅で獰猛な獣に似た瞳で花恭を射抜く。

「悔やむなら、己の浅慮を悔め。機会は与えてやった」

「あなたが何をしようともわたくしの誇りを挫くことはできず、そして彼女にも敵わぬことでしょう。地獄でお待ちしております」

「最期まで浅はかな」

 呆れるほどに優美な動きで、白く長い指を花恭の首に這わせる。ぐっと力が籠められ、花恭の唇からくぐもった声が漏れた。隣の小梅が半狂乱で花恭の名を呼び、必死で男に飛びかかろうとしているのが、掠れていく視界の端に映る。

 男の姿が掻き消えたとともに、その場に花恭の身体が崩れ落ちた。


 *


「何を迷うことがあるのです? 時はすでに満ちたというに」

 揺らめく白の向こうに、影が染み出す。

 己の感情を言い当てられて、とっさに不機嫌になる。彼はそんな私の幼稚な反抗を意にも返さず、長い指を操って私の頤を持ち上げた。その指のあまりの冷たさに、思わず睫毛が震える。

「なんて美しい……。赤く熟れたその唇は、果実ように甘く美味で、男を狂わせる麝香なのでしょうね」

「ふざけないでください」

 彼の手を振り払おうとするが、それよりも前にさっと引かれてしまう。残り香をその場に残して去ってゆく、つれない恋人に似せた猿芝居か。私を感情的にさせようという魂胆ならば、それに乗ってやる義理はない。

「わたくしはただ時を待つだけにございますれば。わたくしが手を出さずとも、事はなるようになりましょう」

「その優柔不断さで、君はあれほどの失態を犯したというに?」

「あれは……!」

 弁解など意味がないと知って、悔しげに唇を噛む。何を言おうとも、私の甘い見通しで宋鴻に傷を負わせたことは事実だ。――それが、たとえ歴史にない事実だとしても。

「君は未だ己が置かれている状況を理解できていません。単に、『世界の修正』をするためだけに、君ほどの術者が必要になると誠に思っているのですか」

「師匠がそう仰られたのではありませぬか……。なにゆえ今頃になって、そんなことを……」

 彼の眉宇が歪み、耳がぴくりと動く。そうした行為を取る時の彼は、決まって私に隠し事をする時だ。だが、なんの隠し事なのか。私にすら言えぬほどの事態が起ころうとしているということなのか。

「……よく考えなさい。君はなぜここに在るのか。その力は何に必要とされているのか。何を生かし、何を滅ぼすべきなのか。そして、宋鴻殿はその過程で、なんの役割を与えられているのか」

 白が朧に霞む。何か答えを与えようとしてくれているのだとわかっていても、なぜか酷い眠気に襲われて、意識が朦朧とする。

 何かに阻まれているのか。だが、何に? 私と彼の会話を妨げられるような者など、もう誰も居ぬというに。

「――脅威が迫っています」

 彼の最後の言葉を聞く前に、意識は唐突に途切れた。


 *


 六二五年弥生二十日。


「しお、……しおん……紫苑、紫苑! おい、起きろ!」

 誰かに揺り動かされて、頬杖をしていた手がぴくりと動く。ぼうっとした思考はそれだけでは元に戻れず、しばらく瞼を閉じていようとしたが、迷惑極まりない隣人はそれすらも許さぬ。

「阿呆か、紫苑! こんな場所で居眠りこくとは何事だ!」

「別に寝ていたわけでは「実際、寝ていただろう!」

 目を瞑って()ていただけだと反論しようとしたが、怒れる呉陽の前ではまったくの無意味だ。仕方なく姿勢を正して、椅子に座り直す。

「わかったゆえ、そのやかましい口を閉じろ。うるさくて敵わぬ」

「居眠りする奴が悪い」

 もう反論するのも面倒だ。私は窮屈な首元を軽く緩め、ぱらりと蝙蝠を開いた。

 久方ぶりに聞けた『声』を途中で聞き逃してしまうとは、信じられぬ失態だ。隣人がこのように口うるさく乱暴者とはいえ、先ほどは確かに別の力が働いていた。一度、ぐるりと辺りを見渡す。だが、怪しげな何かは感じ取れぬ。

「物珍しそうに見るな。そういえば、おぬしがここへ入るのは初めてか。随分立派なものだろう」

 何を勘違いしたのか、仰々しい顔つきをした呉陽に窘められる。ふざけるのも大概にしろと憤りたいが、ふと視界に入った呉陽の出で立ちに毒気を抜かれた。着慣れぬはずの官服を堂々と着こなして優雅に髭を梳いている。その様は実に粋で格好よく、本人に似合っていたが、それを認めるのは何か癪であった。

「……何が立派なものか。この古都を獲るために、一体どれだけの犠牲を払ったと思っている。古都の太和殿でなければ、官位を受けるのもままならぬとは、非効率にもほどがある。人の屍の上に成り立つ不吉極まりない場所で、我が君の晴れ姿を拝まねばならぬとは……、不愉快だ」

 ふんと鼻を鳴らした私に、わずかに呉陽の窘めが遅れた。ええかっこしい態度ばかり取ろうとしても無駄だ。昨晩、やんやと文句を垂れていたのを知っているぞという含みを込めて、にやりと笑う。すると、わざとらしい咳払いが飛んできた。

 ――その日の太和殿は、かつてないほどの熱気と歓喜に満ち溢れていた。過度な装飾は極力控えられているとはいえ、充分に豪華な装飾がなされたそこは、人々の切実な想いが如実に現れているといえよう。

 いつもは適当な格好しかせぬ私や、地味な装束しか着たためしのない呉陽ですら、正装に身を包んでいるのはそのためである。式典の場で、宋鴻の面目を潰すわけにはゆかぬ。ただし、私が着ているのは紛うことなき男装ではあるが。

「しかしまあ……役人どもは、よく斯様な窮屈で暑苦しいものを着て、仕事をしていられるな。苦行をするのが趣味なのか」

「ならば、女装束にすればよかったではないか」

「……女装束のほうが、より窮屈で暑苦しいのを知らぬのか。そもそもわたくしがあれを着れば、道行く者が皆わたくしに見惚れて、式典の進行に支障をきたすであろうが」

「よくそれを自分で言うな……。まあ、事実なのだが」

 呉陽も一度、紫苑の女装束を見たことがあるが、確かにあれは凶器だった。仙女と見紛うばかりの美貌はせめて男装させ、わずかでもその輝きを曇らせねば、最悪人を殺しかねぬ。世のため人のため、あれは世間様に「しかしまあ……役人どもは、よく斯様な窮屈で暑苦しいものを着て、仕事をしていられるな。苦行をするのが趣味なのか」

「ならば、女装束にすればよかったではないか」

「……女装束のほうが、より窮屈で暑苦しいのを知らぬのか。そもそもわたくしがあれを着れば、道行く者が皆わたくしに見惚れて、式典の進行に支障をきたすであろうが」

 呉陽も一度、紫苑の女装束を見たことがあるが、確かにあれは凶器だった。仙女と見紛うばかりの美貌はせめて男装させ、わずかでもその輝きを曇らせねば、最悪人を殺しかねぬ。世のため人のため、あれは世間様に晒してよいものではない。

 そうはいっても、男装姿とて妙な輩を惹きつけそうな代物ではある。宮廷のような魔窟では特に。先の密談の折、趙佶があれほど動揺していたのは、自らの趣味にど嵌りだったらしい紫苑の男装で、途中まで本当の男だと思っていたためらしい。まったく傍迷惑な美貌だと溜息をつくが、それも耳障りな雑音にすぐさま掻き消された。

 紫苑の姿に気づいた者たちが、ひそひそとざわめいている。それは素直に紫苑の美しさを称えるものでは到底なく、そこにあるのはただの嫌悪だった。「仙洞官ですらない術者風情が」、「身分を弁えぬ女が」と、あえてこちらが聞こえるように陰口を叩く大官らに、呉陽はかっと頭に血が上り、席から立ち上がりかけた。

「おぬしら、いいかげ「呉陽殿」

 隣から投げかけられた声に、咄嗟に言葉が出なくなる。紫苑が自分の腕を引き、椅子に座り直させる。

「ああいったくだらぬ輩が申すことを、いちいち真に受けるでない」

「だが、おぬしが馬鹿にされるのを黙って聞いているわけには……!」

「常日頃、わたくしを馬鹿にしておるのはそなたではないか。所詮、己の不甲斐なさを他人で憂さ晴らしするしか能がない、ケツの穴が小さい野郎共よ。相手をするのも阿呆らしい」

 まったく意に介した様子も見せず、当の紫苑は欠伸を噛み殺す。

 だが、呉陽は納得いかぬ想いで、「紫苑が許すとは珍しいな」とぶつぶつ唸る。常ならば、口にしたことを後悔させるような仕打ちを、何倍にもしてやり返すというに。いや、その行為が良しというわけではないが。むしろ、悪しだが。

 唸り続ける呉陽を見て、紫苑は悪戯っぽく笑う。

「誰も許すとは申しておらぬが?」

 蝙蝠がさっと下から上に翻る。その瞬間、陰口をほざいていた数人の冠が、ものの見事に吹っ飛んだ。中には鬘だった奴もいたらしく、悲鳴も虚しく冠はかつらごと飛んでゆき、挙句にやっと捕まえたと思えば、自らの裾を踏んで盛大にスッ転んだ。――無論、そこにいた全員の大爆笑を誘ったのは言うまでもない。

「あの爺、ヅラを被るならもっと巧妙にやらぬと、わたくしのような者に吹っ飛ばされるぞ」

 蝙蝠の裏で、至極底意地の悪そうな笑みを浮かべる紫苑は、凄まじく生き生きとしている。紫苑以外に吹っ飛ばす奴なんぞいるかと呆れながらも、呉陽もただ笑うしかなかった。

 笑いの渦が覚めやらぬ中、ようやく主要な人物が出揃い、この日のためにこちら側で勝手に任命した吏部尚書が式次第を読み上げ始めた。呉陽もなんとか笑いを噛み殺すと、紫苑の視線がつっと太和殿の最上座へと向かったのを見て、自然と倣う。通常、王が臨席するはずの中央の玉座は空いている。だが、それを無視したまま式典が行われようとしているのを、誰もが不思議に思わぬこの状況を、かの人を見ているのだろうかと思う。

 必要とされる王の息子と、必要とされぬ父王。

 もうその時点で、すべては決しているのだろうが、かの人はそれこそ己が死ぬまでそれを認めぬだろう。そのせいで何百何千の人が命を落とすような事態になろうとも、かの人の中に在るのはただ己の欲のみ。

(天命を失った王は、もはや王に非ず)

 吏部尚書の言葉が終わると共に、正面の扉が滑るように開く。

 誰もが息を呑むその先に、決意を瞳に秘めた宋鴻が武官の正装に身を包み立っていた。深い水底を表したかのような美しい紺青に、銀の装飾が映えて、宋鴻の髪色ともよく似合っている。この日のために新調されたそれは、宋鴻の強い希望でその色にしたと聞き及ぶ。紺青は民が流した涙、そして銀は振りかざされた刃をもう二度と鞘から抜くことはない、という宋鴻の誓いである。

 一歩踏み出すごとに、辺りを払う圧倒的な威厳が大官たちに突き刺さる。思わず膝をつきそうになったのは、一人や二人ではない。完璧に表情を消した宋鴻は玉座の前にまで進み出ると、歩みを止めた。重厚な鎧がかしゃりと鳴る。

 その時、鳴るはずのない銅鑼がその場に鳴り響いた。


 *


「――権淑妃殿下にあらせられるか」

 鈴が鳴るように涼やかな声が、自分を呼ぶ。後宮の渡り廊下を小梅を連れて歩いていた花恭は、その声がどこから聞こえてきたのかわからず、辺りを振り返る。すると、何本か先の柱の影から白い頭巾を目深に被った人影が姿を現す。途端に辺りに奥ゆかしい黒方の香が漂う。

「何奴!」

 咄嗟に小梅が声を上げる。

「怪しい者ではないと言いたいところだが、斯様な形では説得力もないか。されど、これだけは始めにお伝えしたい、わたくしは妃殿下に害をなすつもりでここへ参ったのではないと」

「そんなこと誰が信じ「わたくしに何か用でしょうか。ここにはわたくしと小梅しかおりません。他の女官を連れずに出てきて正解だったようですね」

「淑妃様! こんな見るからに怪しい人間の申すことを信じるのですか!」

 小梅の主張は尤もだ。だが、なぜか花恭には頭巾の女が悪いものとはどうしても思えなかったのだ。根拠のないただの勘としかいえぬが。

「わたくしが申すのもなんだが、その従者のが正論ぞ。なにゆえわたくしの言葉を聞こうと思う?」

 相手も呆れているらしい。頭巾の女は怠惰に腕を組んだ。

「なぜと聞かれましても、ただなんとなく……としか申せませんわね。強いていえば、黒方はわたくしの父も愛用している香で、それと同じ香を焚き染めた方に悪い方はいないような気がしたのです」

「誠に斯様な理由で……?」

「ええ」

 隣の小梅も呆れているのが気配でわかる。花恭は今からでも尤もらしい理由を付け加えたほうがいいだろうかと考え直し始めたが、頭巾の女は毒気を抜かれたかのように、軽やかに笑い出した。

「……嗚呼、すまぬ。まさかこれほどまっさらな答えも他にないなと思うてな、驚いた」

 涙を拭うような仕草で、頭巾の女は泣くほど笑っているらしい。あまりに唐突な訪れに、淑妃らしい振舞いを一時忘れてしまったとて、誰に責められよう。

「その言葉を迷いなく音にしてみせた貴殿ならば、或いは……世界は変わるやもしれぬ」

「もし、今なんと……?」

 頭巾の女がさらに一歩、花恭たちへと近づく。頭巾から零れ落ちた射干玉の髪がしっとりと陽に輝いた。

「聡い妃殿下なれば、これからわたくしが申すことも理解してくださるはずだと思い……、それゆえに交わるはずのなかった道が交差し、我らは相見えている。近いうちに李宋鴻へ官位が授けられることとなるでしょう。当然ながら、今上の勅書によるものではないが」

 花恭はわずかに瞑目し、長く息を吐いた。

「では、戦が終わるということですね。ようやく戦が……」

 その言葉は、花恭の立場からいえば、正しくないのだろう。自軍が負けることを認めたも同じことだ。敵方の総指揮を執る李宋鴻が官位を得るということはそういうこと。

 それでも、勝るのは安堵だ。守るべき民であるという点では、自軍も敵方も同じで、王族や朝廷の思惑で争いを仕向けさせるべきではなかったのだ。

「戦が終われば、誰かが責を負わねばならぬでしょう。今上や前王も然り、わたくしも然り……そして、貴殿も」

 女の細い指が頭巾の縁に触れる。そして、そのまま音もなく取り払われた。

 女は、息を呑むほどに美しかった。後宮で数多の美姫たちを見てきた花恭ですら、女の美貌にはただただ驚くことしかできぬ。隣の小梅も同じように目を瞠っている。

「わたくしはずっと……貴殿に会ってみたいと、思うていた。建花恭の生き様を知った日から、幾度となく。会ってしまえば、勝手に募らせた期待が落胆に変わるだけやもしれぬと思いこそすれ、衝動ははしたなくも止められなんだ」

 女の吐露する想いは、切実だった。ともすれば女自身も戸惑っているように見えた。躊躇い、葛藤している。それは何故なのか、花恭にはわからない。

「迷うときは、すでに出ている問いの答えを受け入れ難いときなのかもしれません。それでも、己の心に宿った希望をなかったことにはできない」

 そう告げた花恭に女は泣き笑いのような表情を向けた。

「希望、か……」

 ずっとそんな言葉を待っていて、それでもその言葉をただ心のままに受け入れることもできずに、途方に暮れている。

 花恭はそんな女を無性に抱きしめてやりたくなった。誰かに守られることも、厭うてもらうこともなく、傷つくことを平然と受け入れる彼女のために。

「わたくしの名は、白妙の羅刹。妃殿下、わたくしと取引をいたしませぬか。――次代のために。」

 だが、とめどなく流れゆく時は些細な人の心情など汲み取ってはくれぬ。


 *


 突然、姿を見せた前王神宗に誰もが言葉を失っていた。

 戦が始まって以来、責任を取るどころか姿も見せず、寵姫と逃避行を続けているという噂は周知の事実。人間に恥を感じる心が備わっているとすれば、この場に出てくるはずがない。その上、軍の頂点を司り、事実上王に次ぐ大権を持つ大司馬という地位を王の承認なしで、しかも王を追い落す資格が充分過ぎるほどある宋鴻に与えようとしている場だ。神宗がいい顔をするはずがない。

 だが、皆が驚いたのは、神宗が出てきたことよりも、神宗の召し物の色とその後の発言である。神宗は喪服の色とされる白を身にまとっていた。

「余は此度の戦で流れた血を、喪われた尊き命を決して忘れぬ。この色は余の決意の証である。戦で混乱する世を早急に収め、平定に導くことが余の贖いであるのならば、その最善を」

 皆が何を言っているのかわからぬという顔で呆けていた。神宗のこれまでの行いを見てきた老齢の官吏や貴族たちは、ただ信じられぬというように。血気盛んな若い官吏や武人たちは、今さらなんのつもりだと憤って。

 呉陽は、瞬時に辺りに目を配った。その意志を汲み取った部下が、怒りを漲らせている者らを抑えようと動く。ここで暴動が起きれば、厄介なことになる。だが、それに気づかぬ神宗はさらに言葉を続けた。

「此度、余はここにいる我が息子、宋鴻に長らく不在であった大司馬の位を授ける」

 太和殿全体が衝撃に揺れる。予想だにせぬ神宗の行動に、呉陽は拳に力を籠めた。――やられた。

 今回の大司馬への就任は臣民が選び、臣民により与えられるものとしての価値を前面に押し出したものなのだ。だからこそ、神宗の臨席は元より願うはずもなく、むしろ不在のほうが好都合であった。それが、ここになってまんまとひっくり返された。

「……宋鴻。世の渾沌を晴らし、恒久の平和を敷くために、その才智を遍く発揮せよ」

 ざわめく大官たちをよそに、神宗は慇懃な声色で式辞を述べた。

 動揺した様子の吏部侍郎が、宋鴻に渡すはずだった大司馬の剣と、豪華な彫り物がなされた佩玉を乗せた盆を持ったまま右往左往している。どうすれば良いのかわからぬと、その顔はありありと語っていて、上司である吏部尚書に助け舟を請おうとするが、当の上司自身もお手上げ状態で、見て見ぬふりを決め込んでいる。

 宋鴻がどう返すのか。それにすべてがかかっていたが、もはやそこに『拒否』という二文字はないことを誰もがわかっていた。ここで宋鴻が拒否すれば、神宗の行為に怒りを爆発させた若い連中が、宋鴻から神宗を排する許可を得たと思い込んで、最悪暴走しかねぬ。

 誰もが固唾を呑んでなりゆきを見守る中で、宋鴻はなんの躊躇いもなく剣を掴んだ。その躊躇いのなさに誰もが、驚いてしまうほどに。

「天地神明に懸けて、謹んでお受けいたしましょう。――臣民の期待に応えて」

 瞬時に怒りを顕にしようとした神宗を尻目に、宋鴻は一瞬だけ不敵な笑みを浮かべた。

 王から直接位を貰っておきながら、王の期待ではなく臣民の期待に応えると、そう宋鴻は断言してみせたのだ。それは神宗への明らかな挑発。いつもながら宋鴻の大胆さに驚かされるが、呉陽は見逃してはいなかった。宋鴻側の人間や若い連中が一様に顔を険しくさせ、瞳をぎらつかせていたのを。

 もう一度、宋鴻の鎧がかしゃりと鳴った。

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