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「君は、私のようになる必要はありません」

 振り返った黒髪が揺れている。ゆらゆらと、どうしようもなく。

 突然そんなことを言った人に、私は呆れるでもなく溜息をついた。髪が戻る前に、「何を今さら」と呟いた私へ今度はその人が溜息をつく。

「その道を選んだとて、君の望むものが手に入るわけではないでしょう。むしろ、遠ざかる」

 私の長着と同じ白が薄く透けて、淡い光を湛えている。それはすべてが白に沈むこの世界で唯一の光。唯一の、命。

「それしかできませぬ。……――の術者たるわたくしには。たとえ求めるものゆえに、己の命をすり減らしたとて、それしか……」

 ――できぬ。

 何度目かの夜。何度目かの闇。何度目かの、血。

 ぎりっと左手で右手を強く掴む。溢れ出しそうになった何かを押さえ込もうと、必死に張る虚勢に似て、それは冷たくあまりにも重い。だが、その心情を吐露できるのも、もはや白ばかりの世界に佇むこの人の前しか残されていなかった。たとえ吐露したことによって、彼が私を叱責しようとも。

「紫苑、君はあまりにも不器用ですね……」

 だが、珍しくも彼は怒らなかった。真綿でくるむように腕を広げて、私を包み込む。大した抵抗もせずにそれを受け入れたのは、そうされねばもう自分が壊れてしまいそうなことに気づいていたからなのかもしれぬ。そして、それを知りながらなお、何も言わずにいてくれる彼だからこその、たった一息ほどの休息。

「君が幾人と知れずその手で人を殺めても、大丈夫……。私だけは君のすべてを知っていますから。そして、宋鴻殿もきっと君を欲してくれる。どれほど君が自らを傷つける道を選ぼうとも、宋鴻殿はそんな君を癒し、与えてくれる」

 ないはずの彼の体温が心に沁みて、ほろほろと突き崩してゆく。完璧に演じていた『術者(しおん)』としての自分は、彼の前ではあまりにも無力で。

「ゆえに、まだ諦めてはなりません。その(とき)は未だきていないのですから」

 優しいはずもない声が降ってきて、力なく瞼を閉じる。その裏に浮かぶのは、私を囲む数百の将兵の命を一度に奪った、あの残像。――もうあと何度。

「繰り返せば……――終わるのでしょうか……」

 何度痛みを知り、何度人を傷つけ、何度人を殺せば終わるのか。

「わたくしは、何を……」

「ならば、死になさい。奪った人の命を償い、己の罪を悔いて」

 ――嗚呼、この人ならば、きっとそう言うだろうと思っていた。

 やるせない笑みを浮かべて、そっと身体を離す。失われたぬくもりを嘆いても、もはや戻ることはない。

「慰めていただけるのかと思えば、やはり冷酷なお人……呆れました」

「それこそ今さらでしょう?」

 確かにと乾いた笑い声を残して、颯爽と立ち上がる。もう、時間だった。

 髪を掻き上げて、その人の視線の向こう、白に埋め尽くされた世界の終わりを見る。ここに囚われ、()()()終わりを迎えるその時までここから出ることすら叶わぬその人は、それでも悔いた顔一つ見せることはなかった。ゆらゆらと揺れて、主となる宋鴻と出会ったその日にここへきてしまうほど愚かな私と違って。

「それでも、君は宋鴻殿を選びました。その選択こそが私にとっても、そしてこの世界にとっても、何よりの慰めとなるでしょう」

「それがこの選択でも、ですか」

 霞みゆく視界の端に、白の袂が揺れていた。私の胸に手をついて、躊躇うことなく強く突く。その衝撃に私は再び瞳を閉じた。

「やはり、どこまでも冷酷ですね……――『師匠』」


 *


 六二四年如月十九日。


 連日の徹夜で、心身共に呉陽は疲れ果てていた。

 ごろりと床に横になって瞼を閉じる。だが、異常に冴えた目が眠ることすら己に許さぬ。拠って立つものが、たかが数週間見えなくなっただけでこの様だ。情けないにもほどがある。

 祥然らを捜索に出してから、もう半月が経つ。だが、これといった報せが一向に届かぬどころか、こちらの手薄を読んだかのようにこの連日の猛攻撃だ。広栄が浴びた霊障も治癒させる間もなく、ほぼすべての将が遍照城の防衛に当たっている。

(くそっ……!)

 些細なものでもいい、朗報さえあれば――先の見えぬ今の状況を打破するきっかけとなろう。暁闇城が落ちたあの日から、我が軍を取り巻くのは絶望だ。城内の者たちの中には、畏れ多くも宋鴻の生存を諦めている者たちさえいるという。――まさに月が落ちた後の闇。暁を待つことしかできぬとも、闇が深過ぎて進むべき道が見えぬ。


 呉陽は唇を強く噛んだ。その薄い皮を破って鉄の味を飲んだとて、それが何ほどのことか。漠然とした目の前の現実に比べれば。

 するべきことは山ほどあった。考えるべきことも。

 自然の山城に近いこの城を落とすのは、たとえ高蓮を以ってしても暁闇城のように容易くはゆくまい。倍以上の勢力に対してなんとか侵入を防げているのは、一重にこの遍照城の立つ地形ゆえ。

 城の背後は断崖絶壁、正面は林立する木々に視界が阻まれ、随所に施された仕掛けによって側面からの攻撃を防ぐ。天に向いて仰ぐ鴻の如き白亜の漆喰で装われた美々しさに相反して、難攻不落の名声をほしいままにしてきた天下の名城。仏の光明が世を遍く照らす――遍照城と名づけられたそれは、元は何年も前に廃寺となって打ち捨てられた寺の跡地に建てられたものであった。なんの因果か宋鴻がこの地を選んだのは、まさしく天の配剤としかいいようにない。

 だが、それも今や過去の栄光に成り果てようとしている。たとえ昨日までの事実がそうであろうとも、今日の事実とならぬのが、『死の軍師』と呼ばれる高蓮が指揮を執るということだ。悔しいが己の力量では防戦一方で、打ち負かすには到底及ばぬ。もし高蓮に対することができるとしたら、ただ一人――蜉蝣に似た、あの白。

(何を馬鹿なことを……)

 ないものを期待しても何も始まらぬ。それよりも問題は宋鴻だ。宋鴻は必ずここへ帰らねばならぬ。我々が戴く御方はただ一人――その一人を喪えば、すべてが脆くも崩れ去る。

「……呉陽」

 はっと顔を上げると、開け放った格子戸の傍に一人の女性が立ってこちらを見つめていた。

 蘇芳色に小花があしらわれた(じゅ)に、白鼠(しろねず)(くん)を合わせた質素な装束をまとってはいるが、零れ落ちる美貌と気品はそれに収まりきってはおらぬ。本来なら、薄く細長い披帛(ひはく)を肩からかけているはずだが、面倒やらなんやら文句をつけて、彼女が用いているのを見たのは数えるほどしかない。戦の只中の城で女手の足りぬ今、当然といえば当然なのだが。

 少し陽に焼けた瓜実顔の整った眉宇が思案げに歪み、簡素な結髪から垂れる銀の簪が抗議の音を立てる。匂い立つ白檀の香も、今日に限っては如何ばかりか怒っているようにも感じられる。

「紅玉姫」

 鋭い燐光の一滴ですべてを従えられる威光を放ちながらも、あえてそれを使おうとはせぬ。だが、それでいて呉陽は宋鴻にするのと同じく、紅玉へ貴人に対する礼を取った。

「……そちも少しは休め。そちにまで倒れられてしもうたら元も子もない。ずっと寝ておらぬのであろ」

 厳しい表情で呉陽が礼をするのを見届けていた紅玉が、呆れたように呟く。

「某のことなどお気に召されずに。一刻も早く殿をお探しせねば」

「そんなことは端から承知じゃ。じゃがの、(わらわ)が休めと申しておるのじゃ。つべこべ言わずにさっさと部屋に戻って休め。広栄が前線を指揮しておる今しか、そちが休める時はなかろうが」

「それならば、なおさら休むわけにはいきますまい。殿不在の今こそが正念場です」

 盛大に溜息をつかれる。何を言っても引くつもりがないことを見抜かれたのだろうが、紅玉は始めからそれを知りつつここへきたこともわかっていた。

「まったく……そちは我が背の君と似て、強情じゃな。心配せずとも、紫苑が必ずや守っているであろ。あれはそういう女よ」

 紅玉は、おそらく何気なくその名を口にした。当たり前の事実を、息をするようにごく自然に言葉にして。だが、呉陽にしてみれば、その名はすでに禁忌。

 あの状況で宋鴻の許に行けたのは紫苑しか居ぬ。宋鴻の安全を考えるならば、当然の選択だ。事実、あの時の自分も広栄も、大して反論することなく紫苑を見送った。たとえ混乱させるような言葉を紫苑が発した直後だったとしても、宋鴻に関することでそれ以上に己を冷静にさせるものはない。

 だが、自分は何がなんでも紫苑を一人で行かせるべきではなかったのだろうかと、今さらになって思う。紫苑を殴るなりなんなりして馬に括りつけ、広栄と三人で帰還すべきだったのか。なんの感情もなく、配下を見殺しにしたばかりの紫苑に任せるというのは、それは果たして最善であったのか。

 戦場で突然姿を消したのは、紫苑がよく使う術の一つでもある転位を強行したということ。常ならば、姿を消すのと同時刻くらいに目的地に着く。にもかかわらず、半月近く経っても、宋鴻はおろか紫苑すら姿を現さぬ、その意味。

 ――紫苑の裏切り。

 紅玉は能面のように表情が固まったままの呉陽をじっと凝視すると、眉間にでこぴんを食らわした。突然のことに身構える間もなかった呉陽は、額を押さえて涙目になる。

「……そちが何を考えているかなどお見通しじゃ」

 紅玉は腕を組んで、眦を吊り上げていた。彼女も紫苑に負けず劣らずの迫力の美女であるため、呉陽は不覚にも息を呑む。

「女はな、心底惚れ抜いた男のためならば、すべてを懸けられるイキモノなのじゃ。男は国だ、権力だに目を奪われて、愚かな回り道と道草の果てに、大切なものを結局は手に入れられぬとんまで間抜けなイキモノじゃが、女はすべてをスッ飛ばして大切なものの許に駆けてゆけるのじゃ」

 だいぶ酷いことを言われたような気もするが、呉陽は懸命にも反論はしなかった。

「紫苑は必ず背の君を連れて帰ってくる。それがあの者の宿命であるがゆえにな。そちも少しは紫苑を信じてやらぬか。紫苑は多くを語らぬが、あれが抱く信念は本物よ。それくらいはそちもわかっているであろ」

「……その宿命とは、一体なんなのですか。紫苑はなぜそれに縛られねばならんのです?」

『宿命』という言葉が耳に引っかかって、紅玉の言葉を黙って聞いていられなくなる。紫苑と別れたあの夜、紫苑自身も口にしていたその言葉。どうしてか気になる。なぜかその言葉こそが答えを導くような気がしてならぬ。だが、そう言った呉陽に、紅玉は心底呆れたような表情で溜息をついた。

「ほんに……そちのその頭でっかちには、兵法書しか詰まっておらぬようじゃな。軍師としては有能でも、人の心の差異を見抜けねば、将来人の上に立つことはできぬぞ」

「……それと紫苑の宿命の何が関係あると仰られるのです?」

「関係ない。単にそちを馬鹿にしただけじゃ」

 ぷるぷると拳が震える。紅玉に遊ばれるのはいつものことだが、今はそんなことをしている場合ではないというに。難しい顔つきになった呉陽を宥めるように紅玉は笑った。

「まぁ……妾も紫苑のすべてを知っているわけではないが、あれが強制されたことに黙って従うような女だと思うか? 紫苑ほど自由に生きている者はない」

「自由に……?」

 それこそ意味がわからぬと、呉陽は瞳を揺らした。紫苑のこれまでを思えば、自由に生きているとは到底思えぬ。女の身では考えられぬような辛苦を、紫苑はこの二年の間甘んじて受け続けてきたと思う。連日力を使い、男に舐められぬよう身体を鍛え、束の間の休みには兵法書を読み漁る――それがこれまで見てきた紫苑の姿であった。

 誰よりも宋鴻のためにあろうと努力し、だが、その努力を自分も含め多くの者が得体の知れぬというだけで訝しみ、必要以上に近づこうともしなかった。そんな生活が心地いいはずがない。それにもかかわらず、紫苑が誰よりも自由に生きていると……?

「某には姫の言葉はわかりかねます。なぜ紫苑が……――っ!」

 紅玉の真意を聞き出そうとしたとき、城が衝撃に揺れた。

 傾いだ紅玉を助けようと手を伸ばすが、瞬時に遮られて視線が交錯する。「早う行け」と、紅玉が短く呟いた頃には、(こうべ)を垂れて呉陽は部屋を飛び出していた。引き絞った矢の如く唐突に出てきた呉陽に、伝令兵が驚き短く悲鳴を上げたが、そんな可愛げなんてものはこの城で必要とされぬ。

「何があった!!」

 呉陽の怒号に近い大声に、伝令兵は慌てて背筋を正した。

「敵軍による総攻撃ののち主要門大破! 花副将応戦中とのこと。至急将軍の後方支援を望む、と!」

 広栄が支援を望むとは、想定以上に分が悪い。まだしばらくはもつだろういう己の甘い見通しに歯軋りをする。しばらくどころか主要門を落とされた今、今日一日もたせられるかどうかの瀬戸際だ。

 柄を握りしめ、一時瞑目する。

 なぜかその時に思い出したのは――翻る白。今はもう憎たらしいのか、望んでいるのかすらもわからぬ、あのふてぶてしい声。


『そなたはそなたのすべきことをせよ』


(――うるさい、わかっておる……!)

 かっと目を見開く。

「城内のどこかに翁がいるはずだ! 寝腐っている長老共も残らず叩き起こせ!」

 伝令兵に指示を飛ばし、愚かな迷いを吹き飛ばすように両手で頬を叩く。

 紫苑が何を考え、何を想い、何をしようとしていたとしても――今、己がすべきことは決まっていた。宋鴻が還る地を、宋鴻が次代を切り拓くために拠って立つ地を守らねば。かつて誓った忠誠に恥じぬ生き方を。

 右足に力を籠めて、ぐんと勢いよく駆け出す。慌てふためいた兵らが、呉陽の微塵も揺らがぬ姿を認めて安堵し、再び奮起してゆく。獲物に向かって突進する猪のようだと紫苑は馬鹿にするが、呉陽のこの凄まじい覇気と闘志は時に宋鴻をも凌駕する。

 駆け足で階段を下りながら、手早く武装を整えてゆく。ある程度の武具は、宋鴻が消息不明になってより片時も外しておらぬゆえ、今付けているのも着脱が簡単なものだけだ。それでも焦りからか籠手の紐が上手く結べぬ。

 その時――二度目の衝撃が走った。先ほどのよりも桁違いの威力だ。思わず呉陽もよろけて壁に手をつく。

「なんだ、何が起こっ「将軍っっ!!」

 階段を抜けたところで、配下の将が血相を変えて呉陽を呼んでいた。さては次の門を破られたかと一抹の不安を覚え、指令台へと走り出す。だが、わらわらとそこに群がっていた者たちの目に、不思議と不安は浮かんではいなかった。その先にある何かを指差し、口々に歓喜の声を漏らしている。不穏に思いながらも彼らを押し退け、最前列に躍り出た呉陽はその光景に一瞬だけ息を呑んだ。

 林立した木々は焼き払われ、黒く燻った煙が幾筋も立ち上る。折り重なった屍、折れた槍、破られた旗の向こう、無惨にも崩壊した天に向かいて反る美しい屋根を要する主要門。そして、それを守るように凛と立つは――戦場に似合わぬ優雅な白き衣。

 風に流れる豊かな射干玉の髪が、彼女を囲む凶刃の残忍な輝きに照らされて、なお一層の艶を生む。血を呑んだような真っ赤な紅唇が皮肉に歪み、白魚のような繊手に握られた漆黒の蝙蝠が彼女にとってお遊びに過ぎぬ戦いの終わりを告げる。

「……あいつめ、一番いいところを掻っ攫ってゆくつもりだな……!」

 呉陽は結局結べずにこんがらがった籠手の紐を引き千切り、後方に投げ捨てた。彼女が再びその姿を現したのだとしたら、もうこんなものも必要ない。

 なぜか頬が緩む。恐怖、嫌悪、嫉妬、希望――安堵。様々な感情がないまぜとなって、呉陽に押し寄せてくる。だが、不思議とそれまでの侮蔑という感情はない。

「憎たらしい奴だな……まったく」

 ただ呆れ果てて、笑うしかない。一本取られたような気がして、なんとなく悔しい。一度天を仰いで息を吐いてから、再び紫苑に向けた瞳は柔らかく弧を描く。

 ――紫苑の帰還はその劇的な勝利と共に、鬱々と沈んでいた戦況を一気に引っくり返したのであった。


 *


「軍師殿! 軍師殿!」

 慌しい声に閉じていた重い瞼を押し上げる。

 先ほどの衝撃で、何が起きたのかは薄々感づいていた。大地をまるごと抉り取るような凄まじいそれを、彼女以外の誰が成し遂げられるというのか。だが、それを()()()()()としても、現実になるのとはまた別の話だ。

 匂うはずのない黒方を想い、わずかに眉宇が歪む。

「軍師殿大変です! あの女が……あの鬼が……! 姿を現しました!!」

 まろぶように天幕に入ってきた伝令兵を横目に、高蓮はなんの動揺もせずに羽扇を扇ぐ。

「ようやく主要門を落としたというのに、間の悪いことですね……。仕方がないといえばそうですが……」

「軍師殿! そのようにのんびりしている場合ではありませぬぞ! 次の策は「そうですね、撤退させましょうか」

 いきり立った司令官は言われたことが理解できなかったのか、間抜けにぽかんと口を開けた。高蓮はうんざりした様子など微塵も見せずに、柔らかく微笑んで念を押すようにはっきりと告げる。

「いいですね、撤退してください」

 高蓮は怠惰に羽扇を仰ぎ、平然と立ち上がった。それはあまりにも平常過ぎて、周りを囲んでいた者たちは先刻の報告を聞いたことすら幻であったかと疑ってかかったが、再び天幕の外から聞こえてきた爆音に皆我に返る。

 先ほども高蓮に意見した年嵩の司令官が、到底受け入れられぬその命令をなんとしても撤回させようと息巻く。たかが山間の城一つ落とすのにどれだけの犠牲を払ったと思っているのだ。これ以上戦が長引きでもして、約束されている地位と報奨が逃げていったらどうしてくれる。

「撤退ですと?! 何を考えていらっしゃるのか……主要門を落とした今、遍照を落とす絶好の機ですぞ! 嗚呼、なるほど……邸に引き籠もるしか能がない主を戴くようなあなたに、こんな大軍を指揮することなど端から無理だったのでしょう」

 鼻息荒く捲し立て、あの高蓮に意見してやったと得意げに胸を張る。そんな彼をそうだそうだと盛り立てる者もいたが、圧倒的に少ないそれに彼はやっと己の発言の浅はかさに気づいた。

「――……司令官、聞こえなかったのですか。私は三度も同じことを申すつもりはありません」

 冷え切った声が冷気となって、むさ苦しい彼の背筋を舐める。ぞっと震え上がった肩は、無意識に歯向かうべきではない相手を見抜いていた。

 目の前の三十を少し過ぎたばかりの優男は、彼が一度(ひとたび)本気で殴りかかれば、あっけなく征服できるであろう。何も難しいことはない、両の拳に力を籠めればそうすぐに……――。だが、ゆったりとした羽織の裾を繰るその手と感情の見えぬ瞳は、まるで優雅な獣が束の間の狩りを愉しんでいるかのような様を思い起こさせた。

「何を震えているのですか? あなたほどの人が……」

 音もなく近寄ってきた高蓮が、羽扇でそっと顎を掬い取る。怖ろしいほどに空虚な瞳に射抜かれ、ひっと短い悲鳴を上げて後退った。それすらも高蓮は愉快であるといわんばかりに、薄い唇をとろりと歪め嗤っている。

「……な、なんでもありませぬ……。すぐに撤退の命を……出します……」

 半ば言葉を投げつけて、逃げるように天幕から飛び出す。あまりの恐怖に司令官は後ろを振り返ることすらできなかった。――改めて思い知る。誰もが畏れる彼の二つ名を。

「あれが……、『死の軍師』か……」

 そして、その謂れを。


 *


 六二〇年長月十九日。


 神宗が玉座を追われる三年前――六一二年に入宮した宣喜の横暴が表面化し、その皺寄せが各地で群発し始めた小規模の暴動として、国政に陰りを落とし始めていた。

 それらの事の元凶は、その地位に見合わぬ者が形振り構わず、すべてを欲したがゆえの因果応報である。分不相応という言葉があるように、人には何事も越えてはならぬ分というものがあり、それを越えようとするならば相応の何かが必要なのだ。だが、それを『金さえあればなんとかなる』と浅はかな勘違いをした者たちがいた。

 稀代の妖女、鄭宣喜を生み出した鄭家は、元々大官になれるような人材を輩出できる家ではなかった。商人から成り上がった新興貴族であり、財産はあっても今ひとつ家格が低いというのが彼らの唯一の泣き所であった。現に宣喜に対する神宗の寵愛が名実共に明らかでありながらも、后妃に立てぬのはそれが所以である。

 だが、幸か不幸か、彼らはどうしても埋められぬそれを他で埋める手立てがあった。ばら撒かれた金の額だけ愚を呼び集め、その結果招かれた災厄の重大さを彼らだけがわかっていなかった。

 金に糸目をつけず賄賂を送り、不正を揉み消し、鄭家に都合の悪いことは法さえ曲げて口を噤む。そうやって鄭家に阿ることでその地位を手にした者たちは、まるで彼らの小型版であった。それを糾弾したわずかばかりの真っ当な役人が職を追われるのは世の常とはいえ、命を奪われるまでもが平然と行われるようになれば、そこにあるのはただの地獄である。

 終わりの見えぬ現実ほど苦しいものはない。心は荒み、田畑は荒れ果て、明日の食べ物さえろくにありはせぬ。不毛な日々に疲れ果て、美しいはずの空を見上げても、落涙して目の前は朧に霞む。

 いつか誰かが、助けてくれる――そんな夢物語を手放しで信じられるほど民は愚かではない。そして、奪われたものを奪われたままにしておくほど甘くもなかった。悪しくもその年は軽微の不作が重なり、度重なる重税と鄭家の横暴、そして役人の腐敗に民の不満は武力と共に爆発することとなる。

 民たちの暴動を主に指揮したのが、辺境警備を旨とする節度使を二地方も兼任して強大な武力を擁していた、()趙佶(ちょうきつ)。そして、彼の軍師を務める謎多き男――高蓮。たかが辺境の一節度使に過ぎなかった趙佶にこの軍師ありと、そう彼の名を遍く世間に知らしめた伝説の一戦がある。


 ――それはいつもと変わらぬはずの戦であった。呼吸すらも躊躇われる不気味な静寂をまとう霧が視界を遮り、双方攻めあぐねていること以外には。

 攻めてきたのは、鄭一族に懐柔されている近隣の節度使が率いる一団。目先の欲に駆られ、指揮系統が分散した烏合の衆とはいえ、趙佶軍を凌ぐ大軍である。その上先刻より一寸先も見えぬほどの濃い霧が立ち込め、戦況は膠着状態が続いていた。この霧を利用して攻め込むことができれば、相手方に大打撃を与えられるのは百も承知だが、迂闊に手出しなどできようはずもない。

 その時、策があると進み出たのは他ならぬ高蓮であった。どんな策なのだと問うた趙佶に説明する手間すらも惜しんだ彼が望んだのは、わずかばかりの己の手勢だけ。危ぶんだ諸侯らが引き留める声も聞かず、高蓮は手勢を引き連れ霧の向こうに消えた。

 あまりにも呆気ない。たとえこれまで幾度となく武功を立ててきた高蓮とて、この霧の中では身動きも取れぬだろうに。しばらく何も動きがないまま一刻ほどが経った。唾を呑み込む音すらも、耳に痛いほどの静寂の中ではやけに響くような気がしてくる。

 きっかけは、静寂を切り裂く透明な笛の()。そして、始まるは――一方的な殺戮。

 霧の向こうから突如悲鳴が上がる。それはまさしくこの世のものではないものを見たかのような魂切る絶叫であった。趙佶を囲む諸侯らは互いに目を見合わせ、霧の向こうで何が起きているのか探りに行くべきだと主張したが、誰一人己が行くと言い出した者はなかった。

 二刻ほど経った頃か、しゃんと音がやんだ。次いでざくざくと土を踏む音が、こちらに向かって近づいてくる。誰もが一様に剣を構えたが、それは杞憂に終わる。姿を消した時と同じ穏やかな笑みを浮かべた高蓮が帰還したのであった。だが、彼がまとっていた装束の、その青碧(せいへき)の優しい色が全身返り血で緋に染まっているのを見れば、皆残らず息を呑んだ。

 一様に言葉を失っている皆の前で、彼はいつもと変わらぬ風情で微笑んでいた。それがなおのこと怖ろしい。「何をしたのだ」と問うことはあまりにも容易であったが、容易であったからこそその緋が目に眩しくて音にならぬ。だが、別に問わずとも、その惨状はすぐさま露呈されることとなる。

 あれほど濃く垂れ込めていた霧が嘘のように晴れてゆく。そして、そこに隠されていた――いや、隠しておくべきであったものを白日の下に晒す。

 一面の血。一面の屍。一面の地獄。

 思わず嘔吐した者は一人や二人ではない。戦場に慣れた強者たちに死の恐怖を呼び覚ます現実がそこには広がっていた。そして、高蓮が数十の手勢しか望まなかったわけが、ここになって明らかとなる。

 不気味な唸り声を上げて、地面を蹴り上げる筋骨隆々な牛たちの角に括りつけられていたのは、紛うことなき二本の剣である。そこから滴り落ちる鮮血と原型を留めぬほどに踏み潰された人間の頭が何を意味しているかに気づいて、皆再び恐怖に慄いた。遥か昔、これと同じ戦法を取った武将がいたというが、それを現実に行う者がいるとはついぞ考えもしなかった。

 そして、これほどの大勝利を挙げておきながら、誰一人として高蓮を褒め称えた者もなく、戦に勝った気すらも起きぬほどの舌の奥の苦味を知ることになろうとは、誰一人として知る由もなかった。


 この一件を境に、高蓮は軍師としての名声を高めてゆく。彼の主である趙佶やその領地を狙う者は一人として帰ることなく、その余波は企んだ者たちの家にまで及んだ。

 一見すると優しげな風貌に惑わされるが、彼に係われば死あるのみとまで畏れられた所以には、その冷酷極まりない手段にある。高蓮は一人の生存者さえ残すことをしなかった。罪を悔い改めた者すらも許さず、まるで花を手折るかのように淡々と命を奪うのだ。

 後世、『白妙の羅刹』とその残虐性をよく比較されるが、羅刹が女子供に手を出すことを厭い、意味のない殺戮を行わなかったのに対し、必要とあれば女子供も容赦なく手をかけ、生後数日の赤子ですらも地面に叩きつけて殺したという高蓮には、ある種常軌を逸した残虐性が垣間見える。

 また、彼の生い立ちはすべてが謎に包まれており、誰一人として知る者はなかった。どこから来て、どうやってそれほどの知識を得たのか。そして、そんな彼がなぜ趙佶を主としたのか――知る者は、ない。


 *


 六二四年如月十九日。


「口ほどにもない……、あれよあれよという間に引き上げていきおったわ。呉陽殿もまったく情けない、この程度の軍勢すら蹴散らせぬとは」

 見晴らしのよい宋鴻の部屋から眼下を見る。泡を食ったように引き上げてゆく敵軍の背がよく見えて、背後から近づいてきた男にちくりと嫌味を言う。

「おぬしのような規格外の戦い方と一緒にされても困る。それよりも、今まで一体どこで何をしていたのだ」

「その前に、そなたの部下の霊障を治してやったことに対する礼はないのか? まったく……そなたら主従は揃いも揃って情けない」

 おかげで鴉から新しい長着を受け取る暇もない。先ほど私付きの女官の香蘭に用意させた長着は借り物ゆえ、普段は着ぬ浅葱色がなんだか落ち着かぬ。

「…………礼を言う」

 てっきり嫌味や罵声の類が、どっさり飛んでくるものと思って拍子抜けする。眉をひそめて振り返ると、呉陽はばつの悪そうな顔をしてこちらを見ていた。珍しくもまっすぐと私の目を見据えている。

「なんだ、その不満げな目は。某が意を決してだな……」

「狐にでも化かされたか。それとも狸「そんなわけがあるか!」

 ならば、頭でも打ったのだろうなと、勝手に解釈する。そうでなければ、宋鴻と共に一月弱姿を消していた私を責めぬはずはない。

 風で乱れた髪を耳にかけて、格子窓から離れる。溜息をつくことがなかったのは、珍しく呉陽のうるさい声を聞かずに済んだからだろうか。

「聞きたいことがあるのだろう。さっさと申すがよい」

 跳ね上がった眉で、その言葉に呉陽が意表を突かれたのがわかる。確かに自分でも不思議であった。すべてを話すつもりは無論ないが、それでもこうして呉陽と話す機会を得たこと自体が珍しい。お互いに何かが変わったのだろうかと、不本意ながらも認めざるを得ぬ。

「わたくしは……我が君をお守りできなんだ。尊いその玉体に傷を負わせ、それでものうのうと生き続ける我が身が口惜しい。……ゆえに、そなたがその責を問うと申すのなら、わたくしはそれを甘んじて受けよう」

「おぬしのその命を以って償えと申しても、おぬしはそれに従うつもりか」

 呉陽のその言葉に私はからからと笑った。「それはできぬな」と呟いて、無造作に床に放り投げていた羽織を手に取る。

「我が力、我が命はすでに我が君へと捧げられたもの。それをそなたにくれてやることはできぬ。わたくしを生かすも殺すも、すべては我が君の御心次第。ゆえに、わたくしが呈せられるものはわずかだ。わたくしから力を取ってしまえば、あとは何も残らぬ」

「ならば、誠を」

 自嘲気味に笑おうとした私を遮って、呉陽は呟いた。咄嗟に言葉が詰まり、喉の奥から苦しげに息が漏れる。

「おぬしの『宿命』とは、何か。それが聞ければ、某はもう何も申さん」

 ふざけているわけではないと容易にわかる。激情し易いはずの呉陽が私を詰るどころか、こうして普通に会話していることすら本来あり得ぬというに、一体呉陽はどうしたというのか。だが、それを常のように軽くあしらうには、呉陽のその凛々しい眉の奥に鎮座する力強い双眸があまりにも真摯過ぎた。その直向さに、うっかりほだされてしまうほどに。

「まさか斯様なことを聞かれるとは、な……」

 そんなことを聞いてどうするとも思う。聞いたとて、人の手ではどうにもできぬものをなぜと。

 羽織に焚き染められた黒方が強く香る。その香りの先を追って微かに視線が泳げば、必然であるかの如く呉陽の姿が映り込む。己よりも幾分か年上の勇壮なる彼の()を知って、一度だけ瞼を閉じる。

 嗚呼、それからはもう逃げられぬのだと知った。――迫りくる終わりの『(とき)』から。

「わたくしの宿命は、……『――――』」

 時も人も過ぎてゆく。留まることなく、刻々と。そうして、刻まれた時を人は歴史と呼ぶ。だからこそ、それに手を伸ばそうとする私は、誰よりも罪深いと知っていた。


 *


 六二四年如月二日。


「こら、紫苑! もう少し休んでいろと言っただろう!」

 宋鴻の傍に馬で駆けてゆくと、怒号が飛んできた。私はそれを気にする素振りなどちらとも見せぬ。

「休んでいてばかりでは、身体が鈍ります」

「そなたは少々鈍っているくらいでちょうどいいのだ。大術を使わせたばかりで間もない、無理するな」

「無理などしておりませぬ。あの程度でくたばるわたくしだとでも? 舐めないでいただきとうございます。わたくしの心配はするだけ無駄でこざいますから、どうぞ我が君は戦況の心配だけをしていてくださいませ」

「……可愛げのない女だな、まったく!」

「承知しております」

 ずばんと言い切った私に、宋鴻は苦虫を噛み潰したような顔をした。そして、何を言っても無駄と諦めたのか、私が柵の脇から侵入しようとしていた敵兵を手も動かさず吹き飛ばしても、もはや何も言わなかった。視線は射殺されそうなほどに険しいが。

「……今日も勝ったな」

 遥か前方で敵軍が撤退の合図を出しているのが聞こえる。一気に引いてゆく敵軍を深追いもせず、綺麗に自軍の手綱を引きしめた呉陽の腕前は見事としか言えぬが、本人の前で認めはすまい。部下の広栄までもが、調子に乗るのが目に見えている。

「あまりにも呆気ない。わざわざ我が君にお出ましいただく必要もなかったかと」

 平原に転がる骸を見渡して、ふんと鼻を鳴らす。今日も我が軍の被害は軽微で済んだようだ。――無論、当然とも言えるが。

 まずは奪われていた暁闇城を奪還したのが、先月の二十五日のこと。それを皮切りに我が軍は連戦連勝し、破竹の勢いで敵軍を攻め立てていた。そろそろ、暁闇城の周辺地域を拠点とした宋鴻の軍門を総動員し、都に攻め入る日も近い。だが、ここ最近の我が軍の快勝には、ある一つの理由がある。

 手綱を引き、馬を宥めてから、千里眼を発動させる。戦場をくまなく探してみるが、今日もあの男の姿はない。心の中で舌打ちして、眼を閉じた。

「今日も、高蓮は戦場に出ておらぬようです。無論、徽軍も」

「……やはりな」

 宋鴻軍の快勝は、節度使としての能力を買われ、今や今上の主武力を担う徽軍が、主趙佶の病を理由に参戦を辞退しているためだ。当然の如く、趙佶の軍師である高蓮も趙佶の看病のためとか抜かして、宋鴻が戦場に復帰して以来戦場から姿を消している。

 どう考えても不自然だ。宋鴻が行方不明の折は、猛攻撃を極めた呉陽から聞き及んでいる。あの呉陽ですら、城に籠もって防戦するしかなかったほどの一斉攻撃。にもかかわらず、宋鴻が復活した途端、あまりにもあっさりと手を引いたその意味は――

「……高蓮は何を考えているのか」

 宋鴻がぼそりと漏らした声は、風に紛れて消えた。ざわざわと這い寄る不気味な影を、その身の内に隠すかのように。

 後方から馬の駆ける音が聞こえてくる。おそらく呉陽に違いない。

「我が君、呉陽殿が参ったようです。戻りましょう」

 宋鴻は何かを言いたげな瞳で、束の間地平を見つめていた。

 ここからでは見えるはずもない遥か彼方の都に大手をかけても、宋鴻の心に宿るのは安堵ではない。ようやく戦の終わりが見えてきた今だからこそ、それが終わりではなきことを――むしろ、終わりの先に待つもののほうが真の戦いなのだと、皆が気づき始めていた。

「それでも、わたくしは……終わりを見とうございます。来し方に戻ることはできぬとも、行く末に願いを託すことはできますゆえ」

 交錯した視線は弛むことなく、私をひたと見据えた。揺らがぬことを知らぬそれに、宋鴻が何を感じ取ったのかはわからぬが、はらりと落ちた髪の一房は優雅に嘘を吐く。

 宋鴻は一つだけ瞬きをした後、呉陽が来る方向へと馬首を巡らせた。無言のまま駆け出したその背を、食い入るように見つめる私は、愚かにも縋っているのだと知っていた。

 時がかたかたと不気味な音を立て、廻り始める。終わりの先へと向かうために。あと少しだけ、少しだけはまだ時間があると思って、手綱を握る手に力を籠めた。


 *


 その夜、私は久方ぶりに自分の邸へと舞い戻っていた。

 埃一つない艶やかな朱塗りの欄干に手を置き、深く息を吸い込む。『外』とは違い、清浄な空気が満ちたここでは、随分と楽に呼吸もできる。それも留守がちな主に代わり、邸内を整えてくれる鴉と式神の力があればこそ。

 主の帰館を喜んでいるのか、庭の木々や花々たちも妙に浮き足立っている。次々と現れ出でた式神たちに用を申しつけ、自分はそのまま庭を眺めながら、渡殿をそぞろ歩く。過ぎては寄せてゆく思考の波に絡め取られ、いつの間にか寝殿まで歩いていたことに気づいて、はっと顔を上げる。そこには身体を休める用意ではなく、文机と使い慣れた硯などが置かれていた。私がなんのためにここへ戻ってきたのかを正確に知って、完璧に設えられている。用意周到過ぎるのも考えものだなと苦笑するが、鴉の有能ぶりは今に始まったことでもない。

 羽織を乱雑に脱ぎ捨て、文机の前に座り込む。滑らかな所作で筆を手に取り、黒々とした墨に浸す。そして、何度も考えた文句を躊躇いもなく書きつけてゆく。最後にやってきた式神が干菓子と酒を準備し、私が脱ぎ捨てた羽織も綺麗に畳むと、それから先は一切の気配が去っていった。

 静かな宵だ。虫の啼く声すらも、今日は控えめに感じる。

 文を書き上げるのに、大して時間はかからなかった。あとは署名を残すのみ。皺の手触りがよく、厚手の見るからに高級な紙の上で、流麗な文字がこちらを覗いている。始めは慣れなかった文の書き方も、今やなんの苦もなく書けるようになった。時の流れとは、それほどに変えてしまうものなのかとも思うが、別に起伏するほどの感情はない。

 一気に署名まで書くことになんとなく躊躇いを感じ、一度筆を置く。ここで躊躇ったとて詮なきことに過ぎぬのだが、鬱々とした気分を晴らしたい衝動のほうがわずかに勝った。

 文机を怠惰に押し退け、何気なく開きっ放しになっている格子戸の向こうを見る。今宵は望月であるためか、随分と闇が浅い。白く透明な光に照らされた草花が、なんとも幻想的な美しさを見せているが、それよりも目を引くのはやはり、桜。

 ふと立ち上がった私は、気分転換に桜の許へ行こうと思い立った。先ほど式神が畳んでくれた羽織を遠慮なく持ち上げ、肩に引っかける。杏色の可愛らしい干菓子を口の中に放り込んでから、目の前の階を降りるが、当然の如く用意されていた下駄に、苦笑を通り越して呆れ果てた。

(一体、何手先まで読むつもりだ……)

 仕方なく足を通すが、鴉の思惑に踊らされているような気がして、なんだか面白くない。だが、そんな小さな不平も、月の光を遮るほどに巨大なその木の前ではあまりにも無意味だ。

 桜は遥か昔からそこに立っている。

 最も長寿の鴉に聞いても、その前からここに在ったと言っていた。本来桜の開花期間は一週間から十日ほどだが、この桜は四季を通じて花をつける。春がやはり最も豪奢に咲くが、その後散るにもかかわらず、花がなくなることはない。

(……不思議な桜よ)

 この木には、古の術がかかっているのかもしれぬと鴉は言っていた。だからこそ、力を持つ者ほどこの桜に惹かれ、この場所に導かれるのだと。

 どっしりとした幹に触れた手から、じわじわと熱が生まれるような気がして、身体に力が漲る。――そうかもしれぬ。この木は確かに普通ではない。とめどなく散りゆく様が私やあの人と似ている気がして、とても近しいものに感じられる。

「そなたは……ここにいて、覚えていてくれ……。わたくしの心の、在り処を」

 これからの私は、きっとそれを忘れることしかできぬゆえに。


 *


(あれは、誰だ……?)

 その男は冬の最中にもかかわらず、咲き誇る桜の下に佇む女を物陰から垣間見ていた。女はこちらに気づくこともなく、ただ桜を一心に見つめている。

 男はある人物の邸を探していたのだが道に迷い、とりあえず適当な邸に入り込んでいた。広い邸だが人の気配がまったくしなかったため、廃墟か何かだと思い、引き返そうとしたとき、寝殿から一人の女が姿を現した。男はその女を一目見て、顎が外れるかと思った。遠目からでもわかるほど、絶世の美女なのである。女は幽鬼の如く白い羽織を肩にかけた姿のまま、ふらふらと桜に向かって歩き始めた。

 何かを始めるのかとも思ったが、女は桜の幹に手を触れると、木を見上げたまま動かなくなった。何かを言っているようでもあるが、聞き取れる距離ではない。そもそも今の季節になぜ桜が咲いているのかと首を捻るが、男は深くは考えない性質でもあった。

(なんて顔をしているのだ……)

 それよりも男は女の表情を食い入るように見つめた。いや、目を離せなかったと言ったほうが正しいのかもしれぬ。感情をどこかに落としてきたかのようなその表情は、今まで男が見てきた浅はかな女たちのそれとは違った。

 見続ければ苦しくなるのはわかっているというに、なぜか目を離すことを己の身体が拒否する。それに白い衣を着ているからなのか、それが死装束のように見えて、なおさら男を苦しませる。――女を包むのは、底知れぬ孤独と絶望。そんな想いを男は味わったことなどない。

 思わず足を踏み出そうとしている己に驚く。不用意に姿を人目に晒すのは、愚かな真似だとよく理解している。また、先日射かけた女に面差しの似たこの女が、自分が探していた人物だとすると、姿を現すことはなおさら得策とは言えぬのもわかっていた。だが、一瞬それらすべてのことを忘れて、男は女に触れたいと思った。女の美しさやその表情だとかそういうことではなく、ただ何かが呼ばれているような気がしたのだ。

 はっと神経を尖らせる。恐ろしいほどの殺気が、迷わず自分に向かって近づいてくる。一瞬考えて、引き返すことに決めた。自分に太刀打ちできる相手ではない。

 最後にもう一度だけ振り返ると、女は変わらずに桜を見上げていた。後ろ髪を引かれるような思いで、男は塀を一飛びで飛び越え、夜の闇に姿を消した。


 *


「長年の目障りも、あとわずかの命か……」

 自分の背丈と同じくらいある大鏡の前で、男はほくそ笑んでいた。

 さらりと目映いばかりの銀色の髪が背に流れる。自分にとっては煩わしいほどに長過ぎる髪だが、群がる女たちを肉欲の網に絡め取るにはちょうどいい演出だ。その銀によく映える深紫の衣が肩から滑り落ちて、一糸まとわぬ裸体が顕になる。彫刻の如き均整の取れた筋肉が、美しく盛り上がる肢体は溜息が出るほどに見事だが、男が注視していたのはそれではない。鏡に走り去る男の姿が映し出されている。

「……あの男、やりおったか……確かに、運命の(とき)は廻った」

 澄ました顔ばかりした男が、いつになく動揺する様を見るのは小気味いい。そして、その動揺が自分に筒抜けであることもまた、男の嗜虐心をくすぐった。残忍な微笑みを浮かべ、なぞるように鏡に手を這わせる。

「誠に宿命とは煩わしいものよ」

 自分ですら見つけられぬ紫苑の邸をこうも容易く見つけ出し、なおかつ紫苑の姿までも垣間見るとは。

「美しかったであろう、紫苑という女は……お前が散らしてやるがいい」

 すべては、己の手の内だ。

 変えられぬはずの宿命を捻じ曲げ、渾沌に満ちた世界をさらなる渾沌に導いてやろう。絶望の淵で跪き、自分に懇願する紫苑をこの瞳に映せば、幾ばくかの暇潰しにはなる。

 足元に落ちた衣を指で掬い、裸体を包む。手触りのいい絹が肌を滑ると、くつくつと嗤いが込み上げてきた。もうまもなく刻が廻る。その刻を待っているのは、何も紫苑だけではない。

「使いを出せ。さっさとこのくだらぬ戦を仕舞にせねばな」

 愚かで無力な人間同士の権力争いなど、男には始めから眼中にない。そんなちっぽけな戦は、自分と紫苑の戦いの舞台にまったく相応しくないのだから。


 *


 六二四年如月十三日。


「紫苑! 真面目にやれ!!」

「何を申しておる? わたくしは至極真面目だ」

 午前のうちに戦闘も終わり、久方ぶりに静かな夕暮れ――の、はずだった。なぜ自分はこんなへとへとになるまで動かされているのか。嗚呼、そうだ。紫苑に暇ならついてこいと呼びつけられ、「某を呼びつけるとは何事だ!」と怒鳴り込んでいったのが、そもそも間違いであった。

 結界の精度を試すゆえ存分に攻撃しろと言われ、日頃の鬱憤を晴らすいい機会だと、嬉々として請け負ったのはいつのことか。まさか、変な護符やらなんやらが貼りつけられた剣で、もはや何度目かもわからぬ攻撃を延々と繰り返させられる羽目になるとは思いもしなかった。

 広栄が、「やめておいたほうがよろしいのでは」と控え目に進言してきた時に、愚かにも一蹴などせねばよかった。もうすぐ夕暮れだというに広栄が止めにこぬのは、巻き添えは勘弁と決め込んでいるに違いない。なんという部下だ。

「某ばかりが動いて、頼んだおぬしが酒を呑んどるとは何事だ! 少しは動け!」

 結界の中で悠々と酒を呑む紫苑に、剣を放り出したくなる。これでは、一体どちらの頼みごとなのかわからぬではないか。

「呉陽殿が結界を破れぬゆえ暇なのよ。ふむ……この解法でも効かぬか。では、最後に……その矢で射てくれ」

 またかと思っても、もはや反論する気力もない。仕方なく、最後に残った一見なんの変哲もない矢を番え、あまりにも憎たらしい紫苑の顔を目がけて放つ。

 呉陽の狙いを違わず飛んだ矢は、紫苑を包む膜にめり込むように突き刺さり、ぱりりっと氷が割れるのに近い音がした。矢が突き刺さったその中心から細かい罅が走ってゆき、針に糸が通るようにすっと矢が結界を通り抜ける。

「紫苑!!」

 まさかあんな投げやりになって打った矢で、結界が破れるとはとんと思っていなかったため、呉陽は動転して咄嗟に手を伸ばしていた。だが、紫苑はそんな呉陽を気にする素振りも見せずに、片手を顔の前に掲げ、矢は吸い寄せられるように紫苑の掌で止まった。紫苑が苦虫を噛み潰したような表情している間に矢はぼろぼろになって、跡形もなく消え失せてゆく。

「紫苑、大丈夫だったかっ?! まさか、誠に通るとは思わなんだだな……紫苑?」

「いや……頼んだのはわたくしゆえ、気にするな。……それにしても、まさかこの解法が……いや、斯様なはずは……」

「なんだ、……芳しくない結果だったのか」

 紫苑にしては珍しく歯切れの悪い言い方だ。聞き返したくはないが、妙に気になる。

「……なんでもない、協力感謝する。あとは酒でも呑ん……」

 気づけば、縁側から立ち上がろうとした紫苑の腕を掴んでいた。その呉陽らしくもない行動に、紫苑は珍妙な顔をし、己も困惑するしかなかった。

 今まで呉陽の方から紫苑の領域に踏み込んだことは、ただの一度もない。紫苑に猜疑の目を向け、必要以上に近寄ることを避けてきたこれまでとは、まるで正反対の行動だ。それは紫苑を何かしらでも認め、知る努力をするということに他ならぬからこそ、互いにそ機会が唐突に訪れたことに衝撃を受けていた。

「いや、別に……協力したのだから、話すのは当然だろう。おぬしが話すまで腕を離さんぞ」

「……頭でも打ったのか?」

「失礼な奴だな! どこも打っておらん!」

 紫苑は呆気に取られた後、ぷっと吹き出した。よほどツボに嵌ったのか、笑いが治まる様子がまったくない。

「呉陽殿がおかしなことを申すゆえ……」

「おかしなこととはなんだ! いいから、早く話さんか」

 酷くばつが悪く、八つ当たり気味に紫苑の腕を強く引っ張り、再び縁側に座らせる。紫苑は未だ笑い続けていたが、一頻り笑うと観念したのか溜息をついた。その表情は、いつもと違い穏やかで、呉陽は一瞬どきりとする。

「そなたのことゆえ、誠に地獄の果てまでついてきかねぬな。その鬱陶しい鬼瓦のような面を拝むのは、現世(うつしよ)のみで充分よ。されど、そなたが理解できる話とは思えぬぞ?」

 そろそろと紫苑の腕を離し、呉陽はふんと腕を組む。

「理解できずとも結構。己が理解できることのみが、この世のすべてには非ず。……某は、ただ知りたいだけだ」

 紫苑を――とは言えずにそっぽを向く。それを言葉にするには、どことなくくすぐったい。

 呉陽は、これまで知ろうともしなかった。理解できぬからといって、知ることすら放棄した――それは平等ではない。呉陽が知らなかったゆえに吐いた言葉が刃となることもあるのだから。

「やはり頭をぶつけたろう? 医官に診てもらったほうが……」

 見るからに笑いを堪え切れておらぬ。諦めた呉陽は、ぶすっと不機嫌さを前面に醸し出しながら、紫苑が笑いやむのを待つしかなかった。

「……あり得るはずがないと、思っていた、のだよ……。それが現実として、目に見えてしまえば……、もう知らなかった時には、戻れぬ」

 いつの間にか用意されていた杯に紫苑が酒を注ぎ、視線で勧める。無言のままそれを手に取り、一気に流し込めば、喉が焼けたような気がした。

「先ほどの矢には一体何が?」

「特殊な呪よ。今までそなたらの前で使うたことはない。……いいや、使う必要がなかったと申したほうが正しいか」

「そんな呪でしか破れんおぬしの結界を、先の戦で破られたと?」

 沈黙が答えであった。再び紫苑が酒を注ごうとしたのを遮り、自分の分と紫苑の分を注ぐ。

「わたくしが見ていた行く末とは違う結果。そして、誰も使うことのできぬはずの呪。それが意するは、――未来の改変だ。それが何に因るのか、人為に因るのか否か、もし人為だとすれば様々なことを根本から考え直さねばならぬ。それにこれらの事象が星の意図するものでないとすれば……、術者としての禁忌をなんら顧みぬという面倒な輩が、この先確実に師匠とわたくしの創り出そうとしている『世界』の脅威となろう」

 師匠と口にした時の紫苑の表情が、一瞬厳しいものに変わる。

「それの黒幕が高蓮であると? 高蓮もおぬしと同じような力を持っているというのか」

「あり得ぬ、と断言したいところだが……、わたくしにもようわからぬ。我らの力というものは、我らもすべてを把握しているわけではないのだ。ゆえに、誰に一体どんな力が発現するのかは、発現してみねばわからぬもの」

「つまりはおぬしが把握できんところで、未知の力が生まれている可能性もあるということか。厄介なことだな……」

「されど、高蓮に力が発現しているとはどうしても思えぬ。大抵の場合、血縁者やそれに近い者、高度の修練を積んだ者、もしくは宿命的なものを受けた者が力を得る。高蓮の生涯に、それに通じるものはない」

「ならば、考え方を変えるしかあるまい。我らは何事にも高蓮を基準で考えてしまうが、それゆえに高蓮は格好の囮ともいえる。おぬしだけではなく、誰もが高蓮の異常なまでの奇才を知っておるからな、それ以上の才はないと思い込んでしまう。さすれば、高蓮を隠れ蓑としたとき、おぬしの申す力を得る条件に、当て嵌まるような人物は他におらんのか」

 紫苑は口をつけようとした杯を止めて、眉をひそめた。「他に……?」と、言いかけようとした紫苑の瞳が一瞬だけ揺れる。滅多に感情を面に出さぬ紫苑が揺れるとは、幸先のいい事態ではない。

「誰か、思い当たる人物がおるようだな」

「そうではない、そうでは……。……嗚呼、急用を思い出したゆえ、わたくしは一度邸に帰る。しばらくは戻ってこぬゆ「ここまで話しておいて、一番いいところだけお預けはないだろう。それとも、某には話せん内容なのか」

 酒で満たされたままの杯を置いて、そそくさと立ち上がりかけた紫苑を制する。明らかに不満げな紫苑が、自分を見て難しい顔つきになった。

「……まだ憶測の域を出ぬ。だからこそ、戻る必要があるのだ」

「戻る前に憶測だけでも話せばよかろう」

「どうせ、それをすぐさま我が君へと申し上げるつもりであろう? 徒に我が君のお心を騒がせるのは好かぬ」

「おぬしが黙っていろと申すのなら、そうしても構わん。城を空ける理由も、某から適当に申し上げておく」

 今までの呉陽ならば、絶対言うはずのない言葉に、紫苑は驚くよりも不審に眉を寄せた。

「そなた……何か企んでおるのか? ここ最近態度がおかしい上に、今日もこれまでのそなたなれば、わたくしの用に付き合うはずもなかろう。薄気味悪くて寒気がする」

「薄気味悪い……とは、失礼極まりない奴だな。別に某はいつもと変わらん」

 見抜かれてしまうような気がして、思わず視線を逸らす。紫苑の瞳は、己の姿を有り体に映す磨き上げられた鏡に似ていた。それは呉陽の心の内を見透かそうと、逸らしたはずの顔さえも蝙蝠で強制的に紫苑のほうに向けさせられる。

 ぞくりと背筋が鳴る。こういう時の紫苑の視線は、獲物を狙う肉食獣のように攻撃的で、だがそれこそが紫苑の最も美しい目であることもまた、呉陽は知っていた。

「そなたの言葉は偽りよ。変わっておらぬと申すのならば、そなたはなにゆえここにいる? なにゆえ常と同じように、わたくしを疑いの目で見ぬ?」

「それは「それとも……――わたくしの宿命を知って、愚かにも情が湧いたとでも抜かすか?」

 はっと息を呑んだのは、罪悪感からか。もし、紫苑の蝙蝠を払い落として、その場から逃げ出せるのならば、呉陽は迷わずそうしていた。紫苑の責めるようなその問いの答えを、呉陽はまだ見出せていなかったゆえに。情が湧いたわけでない。そうではない。――そうでは、ない。それならば、なぜ自分は今ここにいるのか。

 紫苑はそんな呉陽の態度に、なおさら激情しているようであった。紫苑は何よりも同情を嫌う女だ。乱暴に胸倉を掴まれたとて、今の呉陽はなんの抵抗もできはせぬ。

「答えが出ぬのなら、わたくしが「亮将軍、紫苑殿!」

 びくりと身体が跳ねる。緊迫した空気は破ったのは、広栄。二人のただならぬ様子に気づいたのか否か、忙しない足音を立てて、こちらに向かってくる。

「宋鴻様がお呼びです! 至急、参上するようにと」

 宋鴻の名に紫苑が反応を示した。未だ胸倉を掴む紫苑の手は怒りで震えていたが、ようやく理性が戻ってきたのか、渋々その手を離す。

「何をしておられるのですか、お二人共……。大人気ないですよ、紫苑殿も」

 広栄が気づかぬはずはないが、あえてそう言ったのだと知る。それに最も救われたのは呉陽だ。広栄がこぬまま紫苑に追求されていれば、いらぬことまで話していた。取り繕うように頭を掻いて、「いや、ちょっとな」となんでもないことを装う。

「……ついに、きたか」

 酷く冷静な声にひやりとする。

 紫苑のその表情は皮肉めいたいつもの笑みで、それまでに見せていた穏やかさの欠片もない。その変わり身の早さはいつもながらに驚かされるが、呉陽の喉元にせり上がってきたのは、むしろ得体の知れぬ恐怖であった。

「呉陽殿、早うそれを呑め。これから酒を呑む暇すらないほど、忙しゅうなる」

 紫苑は何事もなかったかのように、杯を目の前で掲げた。呉陽の前であれほど感情を剥き出しにした己を、すでに消し去ったとでもいうように。

「……おぬしのほうこそ、某の倍は呑んでおるゆえ、殿の前でひっくり返るなよ」

 呉陽はそれに倣うしかすべはなかった。紫苑と同じ高さに掲げた杯を一気に飲み干す。その向こうに見えた紫苑に、それまで以上に距離を感じたのは気のせいであったのか。

 振り返れば、この時の紫苑はやけに饒舌であったと思う。自分が話せと迫ったのを別としても、今までの紫苑を考えれば、己の力のことや師匠の存在を話すなど、天地がひっくり返ってもあり得ぬことであっただろう。それに気づいたのは、随分後になってからのことで、呉陽は酷く後悔することになる。

 あの時、宋鴻のお呼びがかかるまでの時間がもっと長くあれば、なぜ自分が紫苑を知ろうと思ったのかを話していれば――何か、未来は変わっていたのかと。

 だが、何を後悔したとて、運命(さだめ)は結局変わらぬと、紫苑ならば言うのだろうか。

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