得
(はぁ、はぁ……)
後ろを振り返ることすら恐ろしくて、ただがむしゃらに走り続けていた。
(はぁ……はぁ……)
長着の裾が絡まり、上手く足を動かせぬ。容赦なく私を追いかける何かから逃げ出したくとも、無情にも裾が重りを得たかのようにさらに重くなる。
(もう、赦してく(――誰が、赦すものか)
片腕が掴まれて、ぐいっと後ろに引かれる。恐怖に慄いた目で振り返れば、血に塗れて腐りかけた人の手が私に縋っていた。
(ひいっ……!)
必死になってその手を振り解こうとするが、尋常ではない握力ゆえに、どうしても離れぬ。その間にも、追いかけてきた手が私目がけて次々に群がってゆく。私の必死の抵抗を嘲笑うかのように、身に着けていたはずの白を血と腐肉に染め穢して色を失わせる。――還るべき場所を見失わせる。
(お願い……赦し、て……)
幾手にも増殖した何かは私の身体を掴み、物凄い力で私が逃げてきた場所に引き摺り込もうとしている。暗くて闇ばかりの冷厳なる『無』の世界へと。
(お前はそうやって赦しを乞うた者を殺めた)
(これは報い。お前を地獄に堕とすまで、我らはお前を呪い続ける)
(やめて……どうか……)
『無』はもうすぐそこまで迫っていた。ほんの少しでも足掻くのをやめれば、囚われてしまうほどの距離で。
どこへ向かえばいいのかもわからずに、ただひたすらに上を目指して足掻く。なぜかはわからぬ。なぜか――上へ向かえば、『光』があると思った。温かくて優しい希望に満ちた『光』が。だが、その僅かばかりの希望すら、闇に塗り潰される。
(『光』などない)
(『光』はお前が殺した。お前が最善を尽くさぬせいで)
(嘘だ!)
やっと片方の手が自由になり、闇雲に上へと手を伸ばす。
ばしゃっ――何かの液体に手が触れた。次いですえた臭いが鼻を刺す。目で見て確かめずとも、私はすでにそれを知っている。ここへきてからというもの、幾度となくその液体を目にしてきた――そう、幾度となく。
(う、そ……だ……)
横たわるは、匠による美しき芸術の如き端正な横顔。高く通った鼻梁に、薄く引き結ばれた唇、扇のように広がった色素の薄いさらさらとした髪。
ぴくりとも動かぬその人に、必死になって手を伸ばそうとすれば、さらに血が辺りに広がってゆく。その血の量に驚愕して、私はもはや狂ったように叫んでいた。
(我が君! 我が君っっ!)
(報い……報い、報い、報い)
(お前のせいだ、お前のせいだ)
(我が君だけはどうか……許して……! わたくしはどうなろうとも構わぬ、ゆえにどうか! 我が君だけは……!)
(お前の願いは、すべての人を不幸にする)
(償え、罪を贖え。お前が殺したすべての者たちのために)
どろりと宋鴻の口から血が溢れ出す。
(我らはお前を決して赦さぬ!)
(いやああああああああああ!!)
*
六二四年如月十八日。
「紫苑!」
はっと目を開く。
荒い呼吸を繰り返し、鳴り響く鼓動が早鐘を打っていた。全身びっしょりと冷や汗をかいており、掛布団代わりの羽織を握る手が知らずに震えていた。
一瞬、宋鴻の口元から流れる血が、現実を掠めたような気がした。その現実があまりにも恐ろしくて、あまりにも耐え難くて、夢から還ってこられたことを未だに信じらぬ己がいる。
「大丈夫か? うなされていたよう「――我が君!」
視界の端に映った懐かしい顔に、瞬時に覚醒して飛び起きた。驚いた宋鴻にしがみつき、その身体の熱を知る。夢が現実にならなかったことを確認すると、心底安心してずるずると身体が崩れ落ちた。
「誠にどうしたのだ? 悪夢でも見たのか」
「い、いえ……なんでも、ありませぬ……」
嫌な汗を拭って、額に張りついた髪を耳にかける。その間も私の手は小刻みに震えていた。
久方ぶりに見た夢は、容易にあの頃の恐怖を呼び戻した。胸の内に焼きついて離れぬそれは、ふとした瞬間に何度でも蘇る。まるで死ぬその時まで、己の罪の証を忘れさせぬために。
唐突に伸びてきた宋鴻の手が、震える私の手を取る。「我が君」と呼びかけた私を無視して、宋鴻はしばらくの間そのままにしていた。言葉を交わすこともなく、ただ静かで緩やかに時が流れてゆく。仮初の休息に過ぎぬことはわかっていても、それだけで不思議と震えが収まっていった。
「……申し訳ありませぬ、我が君」
なんだか気恥ずかしくなって、俯いたままぼそぼそと呟く。こんな情けない姿など誰にも見せられぬ。
「なんだもうよいのか? せっかく国一番の美貌を謳われるそなたの手に触れられて、役得だと思っていたというに」
私の動揺には一切触れずに、宋鴻はからからと笑った。理由を言わずに済んだことにほっとしながらも、「姫に言いつけますよ」と憎まれ口を叩いてしまうのは私の性だ。案の定、顔を青くした宋鴻が言い訳がましく反論し始めた。
「私は別に下心があってそうしたわけでは、というよりそなたが……っ! あいたたた……あっ」
肩を押さえた宋鴻が瞬時に私の顔を見る。しまったという顔をしているのがありありとわかって、一度溜息をつく。明らかに今の私は、苦虫を噛み潰したような表情をしているに違いない。
「我が君……今日こそは傷を治させていただきますよ。何度でも申し上げますが、傷から他の病を引き起こす可能性もあるのです。それが原因で、我が君のお命を危うくすることだけはあってはなりませぬ。我侭も大概にしてくださいませ」
肩を出してくださいと促したが無視された。宋鴻があからさまに不機嫌になる。
「軟弱なそなたと一緒にするな。毒消しはさせてやったのだ、この程度の傷なら放置しても数日で治る」
「ですから、その数日で治るはずの傷が治っておらぬゆえ、重ねて申し上げているのです。目に見えぬ何かが、我が君の身中で害をなしているのやもしれませぬ。早々に傷を治すのはもとより、我が君の全身をくまなく調べねばならぬと、あれほど「あーうるさい、うるさい。まったくどの口がものを言う。私をほったらかして、五日も寝込んでおった奴が」
痛いところをつかれて、ぐっと言葉に詰まった。確かに転位を終えたのち意識を失った私には、数日間の記憶が飛んでいる。
あの時の私は器の限界点を超えて力を行使した。意識を失う直前の魂切る激痛が、今でも背に残っている。それを癒すためには鴉の力を借りるか、長時間意識を底に沈めるしかすべはない。だが、鴉を宋鴻の前に出すつもりがない以上、鴉が異変に気づいたとて駆けつけることは許されぬ。ようやく器にある程度の力が戻り、眠りから覚めたが、まさか五日も過ぎていたとは思わなかった。
「それは事実ですが……、それと我が君のお怪我は別の話にございます! あれから七日も過ぎました。わたくしの力とて戻ってきております」
「今もうなされておったそなたが? 何度も申したろう。――ならぬことはならぬ」
溜息をついて、宋鴻はごつごつとした洞窟の壁に寄りかかった。ここまで頑なになってしまえば、宋鴻はてこでも動かぬだろう。
私が宋鴻の命令を跳ね除け、断行した転位は、結果的に最悪ともそうは変わらぬ事態を招いた。転位が成功したとはいえ、本陣がある遍照城とはかけ離れた場所で私は力尽き倒れてしまったのだ。転位は他の術式よりも、術者の精神と器の双方に依っている。それゆえに、普段ならば水を呑むように容易に操れるはずの力が暴走し、結果着地点を見失った。
(っ……――)
微かな反応を感じ、さっと顔を上げる。洞窟の外に張ってあった侵入者を察知する結界が揺れたような気がしたが、どうやら野生動物の類であったらしい。
敵陣の只中に落ちることだけはなんとか防げたが、だからといってこの森が安全という保証はない。むしろあまりにも検討違いな場所過ぎて、必死になって探しているだろう祥然らが見つけ出せぬ可能性のほうが高い。
呉陽が宋鴻の不在を洩らすまいと善処しているだろうが、おそらく高蓮にそれは無意味だ。高蓮はこうなることもすべて予測し、あの矢を放ったはず。なれば、絶対的な総指揮官を欠いた遍照城を総攻撃するのと同時に、弱った宋鴻を確実に亡きものにするため数え切れぬほどの兇手を放ったに違いない。
事実、結界に引っかかった数人の兇手と、突破しようとした術者崩れを幾度となく始末してきた。結界の種類を『忌避』に変えてから、ここ三日ほどは襲来もなくなったが、そのからくりを解き明かされてしまえば元の木阿弥だ。
(嗚呼、ままならぬこの身体が憎い……)
あまりにも強大過ぎる力が身の内で沸騰している。表面上は何一つ変わらぬように見せても、その実、今の私は力の制御に心血を注いでいた。このままの状態でもし再び力を暴走させるようなことが起きれば、今の器では蝙蝠も防ぎ切れぬ。
ならば、道は二つに一つだ。四六時中警戒してこれ以上気力を磨り減らす前に、宋鴻の怪我を回復させ一人だけでも遍照城に転位させるほうがいい。
「なにゆえ拒まれるのです……わたくしはもう我が君に触れる資格もない、という意にございますか」
だが、当の宋鴻がそれを拒む。
転位させることはおろか、何度懇願しても術による治療の一切を受け入れぬ。果ては勝手に力を使わぬようにと、蝙蝠まで奪われる始末だ。
「なれば……わたくしは一体、何を……」
宋鴻が火打ち石に手を伸ばす気配がして、私は積み上げた枯れ木にそっと火を呼ぶ。洞窟に頼りなげな光が灯り、お互いの顔がよく見えるようになったが、なぜか宋鴻は眉をしかめ、怒った表情をしていた。
「そうやって安易に力を使うな。そなたは私のために力を使い過ぎている。あの時の転位だとて、私の命令に背いて力を使いおって……。転位後、見当違いな場所でばったりと倒れたそなたを介抱したのは誰だと思っている? 私も怪我しているのだ、これ以上手を焼かすな」
宋鴻の眉間がさらに深く刻まれる。流れた髪を耳にかける動作すらからも、宋鴻の静かな怒りが深々と伝わってくるようだ。
やるせなく項垂れ、唇を食む。その拍子にばらばらと散らばった黒髪が情けなさを増長させる。今の私には何も言えぬ。たとえあの時はあれが最善で他にすべはなかったとはいえ、この状況は己の短絡さが招いた不覚だ。
自力で脱出するすべを持たぬ二人が、深い森を彷徨えばどうなるかは知れている。兇手に見つかるが早いか、野犬に襲われるが早いか――それとも宋鴻の体力が尽きるのが先か。己の身は己で守らねばならぬこの世界で、その三つの選択肢はごくありふれたものだ。だからといって、ここで宋鴻を死なせるわけにはゆかぬ。たとえ道半ばで己の願いを捨てることになったとしても。
「……それならば、わたくしなど捨て置いてくださればよろしかったのです。捨てて、我が君だけでも……生きねば……」
ぞわりと冷気が這い寄る。先ほどの夢の欠片が現実を浸食してゆくようで、酷い頭痛がする。
「馬鹿か……何を弱気になっているのだ、そなたらしくもない。そなたを捨てたら怪我をした私が、どうやって遍照まで辿り着けるのか。私を守るのはそなたの務めだ、それを果たせ」
「だからこそです……! わたくしが我が君の傷を癒して差し上げれば、我が君はご自分の力のみで脱出できましょう! 斯様なところに迷い込んでしまったのはわたくしの落ち度ゆえ、力尽きたわたくしを捨て置いてくださっても本望にございます。我が君をお救いできるのなら、わたくしは己の命など厭いませぬ!」
強く拳を握りしめて、地面に突き立てる。
「わたくしは……悔しゅうて、悔しゅうてならぬのです……! 我が君の望むままに力を尽くすことこそ、わたくしがここに存在する意義ではございませぬか!」
駄々をこねるこどものような、なんという言い草だ。臣下としてあるまじき発言。そんなことは百も承知で私はただ捲し立てていた。主君として宋鴻が私の庇護もやむを得ぬという言動をすればするほど、目も眩むほどの己の未熟さを覚える。
強大な力を持っているはずの私が、守るべき主君に守られ、必要な術を行使する許しさえ与えられず、主君を刻一刻と危険に晒している。これほど無力で愚かなことがあろうか。いや、きっとあの人ならば、こんな事態を引き起こす前にすべてを解決できたのだ。ゆえに私は誰にも必要とされぬ。あの人と交わした約束すらも果たせぬまま、ここで朽ちよと亡者どもが囁く声が聞こえるよう。
「わたくしを厭う、言葉など……わたくしはいら「……――なれば、そなたは何を欲するのか」」
咄嗟に息を呑んで、俯いたままの顔を上げられなかった。
深々と降る森の中の深雪のように、どこまでも静かな声が私を心の底から震えさせる。その震えがうつって手すらも震えていることに、己だけが気づいていなかった。
「命を捨てるなど二度と申すな。私は紫苑に命を捨てさせるために仕えさせたのではない。そなたが見たいと申した世界を見るために、その手を取ったのだ」
宋鴻の無骨な手が強制的に私の顔を上げさせた。抗うこともできずに見上げた天から、宋鴻の今までになく厳しい瞳が降ってくる。そのあまりの強さに、『紫苑』がぼろぼろと壊れてゆく。
「紫苑と初めて会った時、そなたは申したな。そなたには見たい世界があると。そのために私の許へきたと」
*
六二二年卯月二十四日。
嵐が吹き荒れる夜のことだった。
すべての従者を下がらせ、一人で御仏の前に座した。轟々と唸る風が不気味に響く以外、無駄な音の一切がせぬ場所でただ無になる。
堂に籠もる前に受けた報告は、ちょうどいい口実となった。呉陽には悪いが、常にある人の目を避けてどうしても一人になりたかった。
じじっと蝋燭が唸り、虚ろにその向こうを見る。僅かばかりの心許ない燭台でしか照らされておらぬというに、御仏は自ら光を生み出し不可侵の神々しい光を放っていた。神の化身の一族と担ぎ上げられた宋鴻とは、まるで違うのだと思い知らせるように。
――すべては、過ぎた過去だ。
虚しい虚構は唾棄され、栄光は地に堕ちた。かつて金色に輝く都で極めた栄華も、すでに遠い。外見だけを取り繕って、必死に張った虚勢に意味はない。飾り物の玉座にのうのうと座るだけの王も。だが王は、気づきはすまい。
漏らした嘆息が傍らの蝋燭の火を揺らした。ゆらゆらとした曖昧な煌きに、ふと昨夜の夢の残像が蘇る。
その夢は今まで見た夢のどれとも違っていた。自分は夢だと思っているが、もしかすると夢ではなく幻視の類だったともいえる。宋鴻は朧げな夢の中で、若い女と年が判別しかねる男の会話を聞いていた――いや見させられていた、と言ったほうが正しいのかもしれぬ。現に、二人は宋鴻の存在に最後まで気づかなかった。
すべてにおいて不可解な夢が醒めた朝のことを、宋鴻はよく覚えている。とうに泣くことも忘れて、涙も枯れ果てたと思っていた己の両目から、堰を切ったようにほろほろと熱い雫が零れ落ちてゆく。その熱が頬を焼いて、どうすることもできずにただひたすら嗚咽に堪えていた。これほどまでに泣いたのは、幼い頃に母が亡くなって以来だと思う。
何がそれほどまでに心を打ったのか。揺らがぬことを信条としていた己を呆気なく壊すほど――何が、その夢にあったというのか。
だが、その答えは出ぬ。
宋鴻が夢の欠片を手繰り寄せようとすればするほど、掌からすり抜けて霞みの向こうに消えてゆく。覚えていたはずの話の内容さえ満足に思い出せなくなり、残ったのは蜉蝣のような曖昧な残像だけ。ともすれば、その夢を見たことすらも、宋鴻の中から消えようとしていた。己ではない何か説明できぬ力で記憶が改竄されてゆくのを知りながらも、それを阻むことなど不可能であった。それでもたった一つだけ、失われずに済んだ言葉がある。
その時。地を裂くかのような凄まじい雷が落ちた。まるで雷神の墜落の如きそれは、地上にあった一切の音を奪う。
宋鴻は本能で目を瞑っていた。それほどに凄まじい音だったのだ。だが、それよりも――つい先ほどまで、やかましくも容赦なく降っていた雨や雷鳴の一切がやんだことのほうが不気味であった。獣や虫の気配すらもない。皆が息を潜めて、その降りてきた何かを畏怖している。
宋鴻は意を決した。この世に起きることに偶然などない。定められていた必然なれば、それに身を任すことこそが次なる道を開く。ゆっくりと両目に世界を映す。足元に落ちていた視線を確かめてから、そのまま面を上げると、その途端に息を呑む。
深々と降りやまぬ雪の如き、白。それが御仏の傍らにて、その影となるように闇の中に堕ちていた。耳に痛いほどの静寂がばら撒かれて、影を引き寄せるように闇が増殖する。そのねっとりとした黒を全身にまとい、白がぬっと光の中に出でる。
床板が軋む音すらも立てぬ完璧で優雅な挙措。それでいていっそ呆れるほどに、高慢。一瞬にしてこの堂の空気を支配した白の衣が揺らぎ、高雅な黒方が宋鴻の自我をも絡め取る。
人でありながら、まさしく人に非ず。気配を読むのに長けた宋鴻にすら気取られずに、唐突に現れた女。驚きもしたが、それよりも勝るのは安堵。嗚呼、これ以上忘れずに済むのだと思った、あの夢の切れ端を。
「お初に御目文字仕ります。前王神宗の第一子でありながら、その叔父に廃嫡された元太子、李宋鴻殿」
闇に潜む鈴音。神楽のようにどこまでも荘厳でいて、どこまでも冷淡な声。
女は羽織の裾を繰って滑らかに頭を下げたが、膝をつこうとはしなかった。再び上げた顔にも、それに対しての感情はない。
(……当然、ということか。面白い)
宋鴻の名と地位を知りてなお、膝をつかぬどころかこちらを挑発するような不遜な物言いだ。宮城であれば、不敬罪で即刻首をカッ飛ばされたかもしれぬが、ここはそうではない。そして、自分もそれに値する場所から追い出された身であった。かつての呉陽を思い出す。あの男も最後の最後まで自分に屈しようとしなかった。
「私に何用であろうか。いずこからきた白き衣をまとう女よ」
怒ることもせず淡々と告げた宋鴻に、女はくすくすと鈴を転がすような声で笑った。その硬質な瞳の奥がとろりと微かに溶ける。
「すでに承知の上、でしょうか」
「知らぬ者などおるまい。私の傘下の者も手打ちになったようであるしな」
「嗚呼……斯様な者たちがまさか貴殿の臣下とは存じ上げず、とんだ失礼を。せめて骸をお返ししとうございますが、どうにも数が多過ぎますゆえ」
口にする謝罪とは裏腹に大して悪びれもせぬ上、馬鹿にしたように嘯く。端から回収しにゆくつもりなどないのが手に取るようにわかる。
「これ以上そなたに手間をかけさせる気はない、無用だ。あれらは父上に押しつけられた最後の厄介者ゆえ、私の臣下でもない。近々処分する予定だったのが、少しばかり早まっただけのこと。むしろそなたの手を煩わせて申し訳ない」
当然のように謝罪を口にした宋鴻に、女はぱちりと瞼を瞬かせた。まるで珍しいものを見たとでもいうように。
「……貴殿のような御方が、斯様な言葉を口にするとは」
「謝罪に、身分も何も関係ないだろう」
迷いなく簡潔に言い切った宋鴻に、女は少し驚き、そして満足そうに笑った。もう一歩光へと踏み出した女の裾から、さらに黒方が強く香る。
「わたくしは貴殿が真実どのような御方であろうとも、お仕え申し上げるためにここへ参りました。――それがわたくしの宿命、逃れられぬ運命であるとすれば、そこにわたくしの意志は介在せぬと。されど、……ただお仕え申し上げるのと誠の忠義を尽くすのとは、また別の話にございます」
にやりと赤い唇が歪む。
「わたくしがここへ参ったのは、遥かに重要なある一つの誓いのためであり、わたくしの力も本来はそれに因るもの。ゆえに、貴殿にお仕え申し上げるのも、そのための一つの手段に過ぎませぬ。――されど」
剥がれ落ちた軽薄な笑みの下にあったのは、信念という名の熱情。鮮烈な意志を宿す黒曜石の瞳に、宋鴻はあの夢を思い出す。夢の中でも、この女はこうして前を向いていた。ただひたすらに、前を。
「貴殿がわたくしの存じ上げる『人』であるのなら、わたくしの願いを……見せて、くださる『人』であるのなら。わたくしは貴殿を選び、そして心から膝下に屈しましょう」
顔色一つ変えず、女は淀みなくそう言い切った。なんの畏れもなく宋鴻を見上げて、同等であるかのように己の言葉を見事音にしてみせた。その心意気に宋鴻は憤るより、笑い出したくなった。――なんと見事な女よ。
「忠誠を誓うかどうかは私次第……と、いうことか。随分と己を高く買っているようだが、果たしてその言葉に見合う働きを誠に私に捧げられるのか。すでに己の在る場所を決めたそなたが」
鎌をかけたつもりであったが、女は微塵も揺らぎはせぬ。むしろ宋鴻の一挙手一投足のすべてを観察し、愉しんでいるようにも見える。
「わたくしをお疑いであるのなら、今すぐにでも貴殿が望む首級を御前に献上いたしましょう。平原に群がる雑兵を、最も惨い方法で一掃いたしましょう。それでも足らぬと、仰るのなら――この首を、今ここで掻き切ってご覧にいれましょうか」
女は蝙蝠で首を斬るような仕草をした。実に愉快であるというような表情で。ゆえに、「わたくしの在る場所は、未だ空白のままにございますれば」と、小さく小さく呟かれた声は、それに似つかわしくないものであった。日頃から感覚を研ぎ澄ませている宋鴻でしか聞き取れぬような声で、一体何を――悔やんだのか。
偽りの表情を浮かべ、誠の言葉を吐くこの女は、あまりにも危うげで不確実であった。常であれば、この女を笑い、鼻であしらいこそすれ、忠誠を誓わせることはない。人間の浅ましき本性を宮城で見続けてきた宋鴻にとって、容易に他人を信じることがどれほど危険なのか、嫌というほど知り抜いている。だが――
(この者の、願いか……)
人は誰しもその胸中に願いを抱く。それは宋鴻も同じこと。たとえ、女の望む答えを返せずとも、女は必然の如く宋鴻に仕えるのだろう。ただし、決して膝はつかず、表面では敬うような態度を繕いながら心の内で宋鴻を嘲笑い、もはや駒としての価値しか求めぬ。
(太子に向かって、なんたる言い草よ……)
それでも、不思議と不快ではない。女にとって、宋鴻は太子であるゆえに仕えるのではないのだ。ただ一人の人間として仕える価値を見出し、今ここにいる。
宋鴻は一つ息を吐き、顔を上げた。その向こうで射干玉の髪が微かに揺れる。
「私はこの戦に勝つために在る。この戦に勝ち、その先に待つ平安の世を実現するために、私は考え得る限りの手を尽くし、時に手段をも問わぬだろう。ゆえに腹に一物を隠し持った者だとて、その手を取るのにいささかの迷いはない。私はどうしても戦を終わらせたいのだ、これまでの己が民から目を背けてきた贖いのためにも」
女は蝙蝠で顔の半分を隠しながら、宋鴻の言葉に耳を傾けていた。その瞳には、まだなんの色も浮かんではおらぬ。期待か落胆か。それともそのどちらでもないのか。
「そなたのその力、あまりにも強大で魅力的だ。間違いなく戦を終わらせる鍵となろう。そなたが在れば、一人でも多くの将兵らを戦場に送らずとも済み、民たちの受難をこれまで考えていたよりも早く収束させられるやもしれぬ……そして、それは私の願いでもある。平安を得たい。だが、得るために流れる血が少なければ少ないほど、その平安に価値がある。そなたはその私の願いを叶えられるか」
先ほど女が口にしたことは一つの事実だ。おそらくそこになんの偽りも驕りもない。女が持つ不可思議な力は、まさに人間があるべき領域を遥かに凌駕した、『神の如き力』。その力は必ずや、泥沼の争いに終止符を打つ光明となるに違いない。
「ええ、叶えましょう。それがわたくしに課せられた宿命ゆえ。その代わりに、貴殿はわたくしに何を見せてくださいますか」
女は実に淡々と答えた。そのあまりに淡白な物言いに忘れてしまいそうになる――『宿命』という言葉の、その意味。女は頑なに明かそうとせぬが何か壮絶な覚悟を以って、ここに立っている。何一つ迷いのない瞳で立ち、宋鴻に問うている。
その覚悟を宋鴻は未だ知らぬ。この先知れるのかもわからぬ。だが、闇にちらつくのは夢の切れ端。泡沫の向こうに消えるはずだったそれは、今この時になってようやく鮮明に色を放つ。
「……夢を、見た。今までにない不思議な夢であった。その夢の意を、ようやく理解したような気がするのだ」
凛と立つ女の横顔はただひたすらに美しかった。外面の美というよりも、内面から滲み出る静謐さが。運命を受け入れてもなお、前を見続けるしなやかな強さが。
――その時、何かがかちりと嵌る音が鳴る。
「……――優しい、世界を」
初めて女の表情が変わる。なぜそれを知っているのかというような顔だった。それを見て、宋鴻は確かに自分がこの女の琴線に触れたことを知った。すべてが曖昧に薄れゆくばかりの中で、唯一消えぬ言葉。それは宋鴻の想いと通じるものがあったからこそ、忘れずに残っていたのかもしれぬ。
「ならば答えよう。それは、是だ」
*
六二四年如月十七日。
わざと衣擦れの音を立てて入室した高蓮に、主はあからさまに身体を震わせた。何にそれほど怯えているのか、知りながらも言葉にすることはない。
「御館様」
だだっ広く、無駄な装飾の一切が省かれた部屋。武官に相応しく簡潔に帰結しているこの邸だけは、唯一評価し得るものだ。それを持つ主がたとえようのない愚者であったとしても。
「御館様」
再び名を呼ぶ。聞こえていることはわかっていた。それでも、一向に高蓮を見ようとせぬ主に溜息をつく。
もう一度びくりと震わせた肩は、それに似合わずがっしりとして、歴戦の猛者を窺わせる。主が一度本気で手を上げれば呆気なく屈するだろう高蓮に、何をそこまで怯える必要があるというのか。怯えるくらいならば、その手で縊り殺してしまえばいい。高蓮は大して抵抗することもなく、死の誘いを喜んで享受するだろう。
「あの女と宋鴻様は、未だに行方知れずとのこと。私は今から全軍を率いて、遍照へと向かいます」
――御館様はどうなされますか。
と、聞くのも煩わしい。実際そう訊ねられなかったことに、主は見るからに安心して肩を撫で下ろしている。――いつから、こうなってしまったのか。そんなことを考えても、過ぎた過去が戻るわけでない。
無言のまま頭を垂れて、さっさと踵を返す。もう用はないとでもいわんばかりな高蓮の背を、ようやく止めて声を発したのは、すでに渡り廊下へと足を出しかけたときであった。
「み、視えたのか?」
今聞くべきことはそれなのかと、憤ることもしなかった。諦念に似た微笑を浮かべて、ゆっくりと振り返る。そっと衣擦れの音が罪を囁く。
「――ええ」
*
――あれから時は過ぎ去った。まだ二年しか経っておらぬはずのあの日を、随分昔のことのように懐かしく思い出してしまうほどに。
「私はまだ……そなたにその世界を見せてはおらぬ。ゆえに、そなたはまだ死ねぬ、そうだろう?」
先ほどまでの激しさを壊して、宋鴻の瞳が優しく緩み、微笑んだ。へたりと全身の力が抜けた私をそっと抱き起こして、自らの前に座らせる。宋鴻と同じ目の高さで。
あの日誓った言葉を今でも忘れてはおらぬ。その誓いがあるからこそ、この御方の傍で私は生きていられる。そんな価値すらない私であったとしても。
唇を噛みしめて、ひたすらに堪える。ふとすれば、暴走してしまいそうになる――今まで不要と切って捨ててきた、愚かな人の情が。
「されど、我が君が喪われれば……、何も為すことができなくなるではありませぬか。わたくしは我が君をお守りし、運命を変えねばならぬのです。わたくしの望む世界は、その先にこそあるのですから……」
「人はそう易々と死にはせぬ。そなたにこれ以上力を使わせたくないという、私の気持ちも少しは汲んでくれ」
「されど、我が君……!」
一向に態度を変えようとせぬ私を尻目に、宋鴻は静かに溜息をついた。呆れられてしまったのかとも思うが、宋鴻の瞳に浮かぶ色はそれではない。
「私は今の今までそなたの手を取ったのは、そなたの見たい世界を見せてやるだけだと思っていたが……、どうもそれだけではなかったらしい」
仕方がないというように、宋鴻は大きな手で私の頭をぐしゃりと撫でる。
「こんな今にも命も未来も何もかもを捨てて、どこかへ飛び出していってしまいそうなそなたを、引き留めようとしたかったのかもしれぬな。……確かにそなたも死ねぬが私も死ねぬ。そなたの見たい世界以上に、私には守らねばならぬものがある」
私から手を離すと、宋鴻の瞳は遠く虚空を彷徨う。私の瞳が黒曜石にたとえられるとすれば、宋鴻のそれは輝銀鉱のよう。黒く、そしてきらきらと輝きを放つ瞳の先に映る未来を見るのが、私は好きだった。
「戦をして、私は知ったのだ。……私は国を治める王の太子でありながら、国を支えてくれる民の声を耳にしようとしてこなんだ。ゆえに、我らは都を追われ、天の報いを受けた。天命を失った王はもはや王に非ず――しかし、私は今の王にも天命があるとは思えぬ。あれほど父上を糾弾した叔父上は、今や父上と同じ穴の貉に過ぎぬ」
そこに滲むのは、明らかな悔恨と――望郷に似た二度と帰れぬ日々を愛おしむ虚。
一度、瞳を伏せた。その瞼の裏に朧げに映り込んでは消えてゆく、いくつかの刻に哀を視る。
宋鴻の父、神宗はかつて改革を多く行い、国を豊かにしようとした野望多き王であった。
精力的に政務に励み、国の水準をそれまでとは段違いに押し上げたといっても過言ではない。優秀な弟がその傍らで多くの知恵を以って支え、二人の兄弟に統治されたこの国に影など一つとしてありはしなかった。――最愛の后妃が夭逝するまでは。
聡明で美しく、民に愛されていた若き后妃。本来、后妃に立つような家柄の姫ではなかったと聞くが、神宗たっての熱望でようやく認められたという。彼女が晴れて正式に后妃となった日、間違いなくこの国が最も幸いに満ちた日であった。
そんな絵に描いたような幸福は、早過ぎる后妃の死と共に脆くも崩れ去った。后妃が嫁いでから十年の月日が流れた頃、彼女は謎の病を患い、数ヶ月後あまりにも呆気なくこの世を去ることとなる。――享年、二十八歳。
悲嘆に暮れた神宗は寝食を忘れ、后妃の廟で日がな一日を過ごし、無論政からも遠ざかった。その間、弟が政を一挙に引き受けたが、この一件を境に元来仲のよかった兄弟は道を違えることとなる。
追い落とす者と、追い落とされる者とに。
*
六一八年神無月二日。
「兄上、兄上!」
ばさばさと裾が抗議の音を立てるのも厭わずに、どんどん奥へと踏み込んでゆく。
すでに後宮の衛士は手中にある。家財を小脇に抱え、逃げ出そうとしている女官や侍従たちの悲鳴がやかましい。まるで人形でも扱うかの如く乱雑に押しのけ、最後の扉の前で陣取る女官長を見据える。
「女官長、その扉を開けよ」
「なりませぬ」
間髪入れずに返ってきた返答に、思わず顔をしかめる。年ふれた大樹に似た堂々たる威厳を醸し出す女官長を動かすには、自分では役不足であるとわかっていた。
だが、彼女が己の職に誇りを持ち、そうして今自分と対峙しているように、自分にもこれ以上譲れぬものがある。そう――これ以上、許せぬものがある。
「お前も鄭貴妃をよくは思っておらぬだろう。あの妖女が兄上に取り入ってからというもの、この三年間……! 兄上と私が築き上げてきたものすべてを壊したのだ!!」
かつて后妃の一侍女に過ぎなかった、鄭宣喜という女。
百合や撫子、桔梗のような儚く可憐な花にたとえられた后妃に対して、宣喜はまさに大輪の牡丹のような女であった。彼女は自らが最も美しく見えるすべを熟知し、踊り子の衣装を真似た薄く露出の多い装束はそれの最たるものだ。
艶かしい肢体に誘われるがままに、后妃を喪って悲嘆に暮れていたはずの兄を篭絡させ、まんまと妃の座を手中にしたのが三年前のこと。そこから坂を転げ落ちるように、すべては悪化の一途を辿った。
兄は宣喜に溺れ、完全に政を放棄した。これまではどうしても王が採決せねばならぬ案件だけ、なんとか引っ張り出していたが、宣喜が後宮を牛耳るようになってからというもの、それすらも叶わなくなった。いつしか後宮に引き籠もるようになった兄を、この一年姿すら垣間見ておらぬ。
だが、それだけならまだいい。――まだ、よかった。最悪の一歩手前でも、結局は自分たちが丸く収めれば済む。数年したら隠居という名目で兄を退位させ、即位してもなんら遜色のない年齢となった宋鴻を新しき王として擁立する――それが自分の、いや朝廷全体の意志であった。だが、事は考えていた以上に膿んで、国の根本から腐らそうとしていた。
「王がその力を自らと女のために使い始めたら、国はもう仕舞だ。お前もそのせいで、大事な宮女を殺されたのではなかったのか」
女官長の瞳が僅かに曇る。
女官長が我が子同然に目をかけ、次の女官長として目していた若く優秀な宮女が、宣喜の機嫌を損ねたとかよくわからぬ理由で処刑されたのは、未だ記憶に新しい。
兄の寵愛をいいことに、宣喜はその降って沸いた権力を我がものと思い込む、典型的な『女』であった。後宮を掌握したのを手始めに、宣喜は政にまで口を出し、下級貴族でしかなかった鄭一族に破格の官位をあてがい始めた。宣喜や鄭一族に歯向かう者はことごとく排除され、良くて左遷、最悪処刑される始末となり――結果、佞臣や奸臣が跋扈し、国は乱れた。
「私はこれ以上、黙って見ているわけにはゆかぬ。これ以上、民や臣下が苦しむのを黙って見過ごすわけにはゆかぬのだ!」
「それがあなた様のご本心にございますか」
「何……?」
女官長は微塵も揺らいだ様子もなく、自分を見上げていた。何かを問うようなその瞳から、一瞬逃げ出したい衝動に駆られる。
「ご崩御された后妃様を、蔑ろにする陛下が許せぬのではありませぬか」
一気に体温が引く。まるで冷水を浴びせられたかのようで、わなわなと唇が震え、言葉をなすことすらままならぬ。
「あなた様は今並べ立てた理由のどれでもなく、ただ貴妃様を陥れたいだけなのではありませぬか。后妃様を死に追いやった貴妃様を亡きものにしたいがために」
「黙れ!!」
びりびりと鼓膜が震えるほどに声を荒立ててから気づく。
黙れと叫ぶのは、認めるのと同じことであった。私怨ではないと己に言い聞かせたにもかかわらず、こうして武力を以って後宮を制圧しようとしているのを見れば、それは明らかだ。
自分はおそらくただ一つのためだけにここにいた。そのためだけに朝廷をも丸め込み、今日この日の許可を得た。――兄から玉座を奪い、すべての元凶である宣喜を、己の手で確実に彼岸へと送るために。
刹那、柔らかくて温かい風が過ぎていったような気がした。二度と取り戻すことのできぬあの美しい日々を包んでいたような、愛しくて今はもう哀しい涙の紺青を孕んだ風。引き止めようとしたのか、それとも――
「二度は申さぬ。女官長、扉を開けよ」
一度瞼を閉じて、再び開いた両目に迷いはなかった。追いついた近衛兵が背後で鞘を抜く音がする。
女官長はその残忍な刃を見ても、やはり微塵も動揺などしなかった。とうとうこの日がきたかと、長い溜息を一つ吐いて、決然と手を広げた。その先にいる、彼女にとっては仇ともいえる相手を――だが、女官長としての誇りを、それこそ最期の時まで失わぬよう――守るために。
「何度でも申し上げましょう。私の名にかけて、ここを通すことはまかりなりませぬ。どうしても通りたいと仰せになるのなら、どうぞ私の屍を越えてゆかれませ」
双方譲る気はさらさらなかった。
たとえ後宮がすでに制圧され、女官長がその扉の前を退いても退かぬでも、大して結果は変わらぬと解していても。女官長が職責を全うし、それゆえに首を落とされたとて、気にも留めぬ主だとしても。それでも、己がすべきことに変わりはない。
「ならば、よかろう。お前の生き様、確かに……見届けた」
近衛兵が一歩前に出ようとしたのを遮り、自らの剣を抜く。この結末を知りながらなお、この手段を選んだ者として、最後に負うべき責から逃げる気はない。
蒼白い影が不気味に刃の上で舞い踊る。ゆらゆら、ゆらゆらと当てもなく彷徨い踊り続ける虚構が柄を握る指に触れた。ずるりと何か黒いものに引き込まれたような気がして、気づけば勝手に腕が動いていた。
互いに言葉を交わすこともなく、剣は一閃し、終結した。べちゃりと後味の悪い音と共に、老いた女官長の首が地に落ち、虚ろな瞳がずっと空虚なままであった己の内側を覗く。
近衛兵らが乱暴に扉を暴き、その奥へと踏み入ってゆくのをぼんやりと瞳に映していた。様々なものが腐り落ち、それを隠すような媚香が鼻につく。悪趣味な装飾が目を焼き、どろりとした闇がけたけたと嗤いながら手招きをしている――王にとって最後の楽園ともいうべきその部屋は、すでにもぬけの殻であった。
最期の時まで、王とその寵姫を守ろうとした数少ない味方をさっさと切り捨て、己の命を守るためだけに逃げたのだと、何を考えるまでもなく容易に解した。何を守るために女官長は死んだのか。なぜこんな者たちのために、女官長は己の誇りを懸けねばならなかったのか。そんな価値は一切ないというに。
背後でかたりと不気味な音がした。反射的に振り返った自分を、あの瞳が再び問うていた。虚ろな眼差しを悲哀に染めて。
――それがあなた様のご本心にございますか。
*
六二三年水無月十日。
豪奢な輿が門前に着いたことを知らせに、年老いた家令が彼女の部屋を訪れた。
すでに準備を終えた彼女が家令の声にそっと振り向くと、思わず溜息が漏れる。それは彼女の目映いばかりの美しさに対してなのか、それとも彼女がこれから負うだろう道の難さに対してなのか――おそらくはその両方。家中の誰もが同じことを思い、彼女をどうしても行かせたくないという願望からきているのかもしれぬ。
「また溜息をついて。幸せが逃げていってしまうわ」
彼女は陽だまりの福寿草のような笑顔で優しく微笑んだ。
家令が何を思い、どれほど自分を心配してくれているのか。すべてわかった上で、そうやって微笑んでくれる彼女を誰もが愛していた。
「お嬢様……」
「何も言わないで。わたくしはわたくしのすべきことをするために行くだけだわ」
「そのとおりだ、花恭」
礼服に身を包んだこの邸の主が、立派な髭を撫でながら部屋に入ってきた。辺りを掃うような物静かな威厳に、家令は必然の如く頭を垂れる。
「ですが、旦那様。今上は前王陛下とあまりにも似ておいでです……。あれほど妃を召し上げることを拒否なさっていたにもかかわらず、亡き后妃様と面差しが似ているというだけで、お嬢様を後宮に召し上げようとなさる御方ですよ? お嬢様が幸せになれるとは到底思えません」
家令の意見にも、主は別段気を悪くしたりはしなかった。それはあまりにも当然のこと――言葉にせぬだけで、主も、引いては朝廷全体も同じことを思っていた。それでも、一度動き出した歯車が止まることはない。
「最後に決めるのは花恭だ。花恭が嫌だと言うのなら、私はどんな手を使ってでも、今日という日がくることを回避したであろう。……しかし、花恭が決めたのなら、もう私に言うことはない」
その言葉どおり、花恭が願いさえすれば、父はどんな手段も厭わず王の命令を退けさせたのだろう。何をも叶えられる実力と手段を持ち得ながら、父は何もしなかった――それはただ娘のために。
「己の行く末は、己にしか決められない、……そうですわね、父上」
耳環のさやぐ音で、花恭が椅子から立ち上がったことを知る。
「ですから、わたくしはゆくのです」
凛とした立ち姿は、すでに妃足るものであった。
光を浴びてきらきらと輝く玉飾りよりも、つるりとした光沢の柔らかい絹の花嫁衣裳よりも――花恭の花恭たる証、その心映えこそが何よりも美しい。その心を以って、花恭は一人戦いに赴こうとしているのだ。家令の瞳からぽろりと涙が散る。
「最後に贈るのは言葉だけだ。――王を支え、民を守り、国を統べる御方の妃として、恥じぬ生き方をしなさい」
最後にはっとするほど美しい微笑みを浮かべて、花恭は頭を垂れた。
*
「……――権淑妃が入宮してからの叔父上は、まるきり過去を繰り返した。兄である父上を追放し、父上を堕落させた鄭宣喜をあれほど憎んでいた叔父上が、……同じ道を」
引き戻された現実は冷たい。這い寄る冷気が手足の先から白を呑み込んでゆく。
「そうだ……叔父上も、結局は父上と同じであったのだ。しかし、紫苑は知らぬだろうな。二人は決して始めからそうではなかったのだ……私がそう思いたいだけなのかもしれぬが」
嘆息を漏らした宋鴻の横顔が、酷く疲れているようにも見えた。宋鴻にとって過去を思い出すということは、生涯癒えぬ傷を痛みに逆らって再び開くのと同じことなのかもしれぬ。
「私は父上ほど覇道に相応しき王を知らぬ。私は叔父上ほど王佐に相応しき宰相を知らぬ。しかし、……すべてが夢幻であったのか……もし母上が生きておられたら……――」
――何かが、変わっていたのか。
輝銀鉱の輝きが一瞬だけ曇り、はらりと滑り落ちた色素の薄い髪の一房が、宋鴻の綺麗な横顔を横切る。――いいや、何も変わりはすまい。
「わたくしは我が君ほど、次代に相応しき『人間』を存じ上げませぬ」
そう、何を悔やもうとも、何を選択しようとも、今日この日の色が変わることはなかったのだ。人はゆく先に用意された道を違えることなく歩むしかない。それが人の運命。
「わたくしがこの身を捧げるのは、生涯でただ一人。我が君以外に道はないのです」
だが、私はその運命を知りながらも道を変える。その禁忌の代償を知りながらも、なお。
宋鴻の手が伸びて、躊躇いがちにそっと私の頬に触れた。冷えた私の頬に熱を移すそれが、どうしても愛おしくて離れ難くなる。
「そなたらしい簡潔な答えだな。いや……私もわかっている、己が選ぶべき道も……そして、そなたに与えるべき言葉も」
どくんと心臓が高鳴る。宋鴻の薄い唇から漏れた言葉に、否応なく反応してしまう自分に嫌悪感が沸く。
(焦るな、まだ得たわけではない……)
引いていった宋鴻の手を名残惜しげに見つめて、詰めていた息をゆっくりと吐く。
「この戦は、父上が王位に返り咲くために始めたに過ぎなんだが、今の私は父上に王位を返すつもりなど毛頭ない。この戦禍を招いた王には須らく責任を取ってもらわねば。その名の下に散っていた多くの名を知ろうともせぬ王に、相応しき最期で」
未だどこぞの山奥で宣喜と共に酒宴に乗じているという、愚かな神宗を嘲る。こうなってしまった原因を考えることすらせず、息子にすべての責任を押しつけ、自らは民の血税でのほほんと生きている。多くの民が自らの名の下に死んでゆこうとも、神宗はそれがどうしたと言ってのけるだろう。
――天命を失った王はもはや王に非ず。王になるべく星を空に抱くのは、神宗でも今の王でもない。ここにいる宋鴻ただ一人。民のために、血塗られた道を歩むことになんの躊躇いもないこの御方、だけ。
「私は王位につく。それを阻む者あれば、誰であろうと容赦せぬ。たとえそれが叔父上であろうと、父上であろうとも私の意志は決して翻らぬ。……ゆえに、私は死ねぬのだ。何があろうとも」
辺りを掃うような覇気に、何もかも捨てて平伏してしまいたいとさえ思う。私が待っていた言葉を聞くまでもなく、宋鴻にすべてを投げ出してしまいたいと。それができぬことを知りながら、愚かにも本能に似た衝動で。
「紫苑」
不意に名を呼ばれて、どきりとした。驚くほどにまっすぐな声が、私を刺し貫く。
「ゆえに、本当に私が危うくなったら……今は気力と体力で意識を保っているが、それすらももたなくなったとき、……その時は、そなたの命をすべて吸い尽くしてでも、私は生きる」
刹那、息をするのも忘れた。宋鴻の言葉が心を打って、何一つ発することができぬ。――心が、震えていた。
「そなたのすべてを引き受けて、私は生き抜く」
宋鴻の迷いのない透明な瞳が、私を突き崩す。本当に呆気なく。ぼろぼろと。衝動に任せて、その場に突っ伏してしまいたい。そうして人目も憚らず大泣きして、ただ叫んでいたい――ついにこの日が、と。
(嗚呼っ……――!)
その時、私の中で何かがかちりと嵌る音が聞こえたような気がした。ずっと待ち侘びていた言葉を、それを与えてくれる私のただ一人の主を、私は見出すことができたのだろうか。本当にその日がきたと、もう迷うことも苦しむこともせずとよいのだろうか。
「……我が、君……」
かつての記憶が蘇る。私の心に適う言葉をくれた唯一の主に、私は――
夜の冷たい霧すらも、気にならぬほどの温かな想いに包まれたような気がした。知らずに握りしめていた拳を恐る恐る開くと、力が身体に漲ってくるのを感じる。それは今までに感じたことのない、力の高揚であった。
「だが、それは最後の最後だ。僅かでも希望があるのなら、決して諦めるな。必死で足掻け。目の前の現実から逃げてはならぬ。……――それが、生きるということだ」
力強く言い切った宋鴻の声に、心が震え上がるのがわかる。
それは生きることを諦めぬ者の、声。その言葉のとおりに、宋鴻は『今』という時を駆け抜けていた。大切なものすべてを守り抜くために。
「……仰せの、ままに。わたくしはもう二度と、安易に命を捨てるようなことはせぬと、……我が君に、お誓いいたしましょう」
久しぶりに心から笑えたように思える。二年の時の間に、知らずに少しずつ溜まっていた凝りが緩やかに流れ出す。それを合図に、私の中に残っていた最後の箍が外れたのを感じた。
理想とする主に出会うまでは決して外すまいと決めていたその箍。これでもう後には引けぬ。そんなことは始めからわかっていたにもかかわらず、未練がましくも宋鴻の姿を見つめてしまうのは、ただの欲だ。
「……紫苑?」
待ち侘びていたこの時を。ずっと、ずっと前から。
その時がきたら、感動に打ち震えるような喜びだけを感じると思っていた。だが、今の私の心にあるのは藍。寂寞という名の、藍。愚かだと思う。それでも、そんな感情を抱くほどに敬愛し、心を捧げてきた主だったのだ――李宋鴻という御方は。
「早う……帰りましょう、我が君。遍照へと」
私の中の藍が、宋鴻に伝わっていなければいい。私は『術者』のままで、宋鴻の許を去ってゆきたいのだから。最後まで『紫苑』を知られることなく、ただ静かに美しく、この世界の幕引きを。
「そうだな……戦場を離れ過ぎたし、そろそろ戻らねば呉陽に手柄をすべて横取りされかねぬしな」
「ええ、呉陽殿には少々見境がないところがございますゆえ」
「そなたがそれを申すか? ……嗚呼、そうだ。もう、これは返してやらねばな」
宋鴻が懐から探り当てたのは見慣れた黒。それを両手で受け取ると、蝙蝠は安心したかのように私の手の中でその身を震わせた。宋鴻に蝙蝠を奪われた時、万が一を考えて気づかれぬ程度の軽い術式を仕込んでいたのだが、それが功を奏したらしい。蝙蝠を見る限り、宋鴻の傷は徐々に快方に向かっている。
ひとまず安堵して、私は長い羽織の裾を払い、立ち上がった。次いで宋鴻も立ち上がる。
「では紫苑、遍照に向かうとするか。ただし、転位を使ってはならぬぞ」
悪戯っぽく笑った宋鴻にがっくりと肩を落とす。
断崖に囲まれた遍照城を思う。自然の要塞を謳っているゆえに、一旦城の中に籠もってしまえば難攻不落で守りに適しているが、そこに至るまでの道程はたとえ味方にも甘くはないのだ。
「……我が君、わたくしにあの崖を登れと仰せになるのですか? どう考えても無理でしょう」
「何を申しているのだ。いつも使う道よりはよほど楽なのを……――っ!」
宋鴻が異変を感じ取って、瞬時に入口を振り返った。その野生動物並みの勘の鋭さに苦笑しながらも、宋鴻の構えを解かせる。
「我が君、よう気づかれましたね、結界にわずかに触れただけですのに……。大丈夫です、ようやっとわたくしの色を見つけたらしい」
用心深くも大胆に私の張った結界を通り抜けて、山を駆け上ってくる音が聞こえる。さすがは祥然、私の残した不確実極まりない言葉一つのみ信じて、この場所を見事探り当てたらしい。呉陽や敬徳にはできぬその芸当を成し遂げた祥然を誇らしく思うと同時に、あの凄まじい戦場を無事生き抜いてくれたのだと深く安堵する。
『そなたらは遍照にて待て……! じきに暁闇も落ちる、わたくしは我が君を……お連れするが、もし……もし! 姿なき時は、わたくしの……色を捜せっ!』
万が一の場合に備えて、私は自らの色である『白』を式神に乗せて、方々に飛ばしていた。遍照城からあまりにもかけ離れた場所ゆえ、祥然らの元に届くかは賭けでしかなかったが、どうやら上手くいったらしい。
「紫苑様! 紫苑様はおられますか!!」
もし間違っていたらどうするのかというくらいに勢いよく雪崩れ込んできた面々は、祥然以外一瞬呆けた表情を浮べた。式神についてゆくことを胡乱に思っていたが、本当に見つかってしまって信じられぬのだろう。まあ無理はないが。
「紫苑様……! よくぞ、……ご無事で……!」
まろぶように私の足元に跪いた祥然は、目に涙を浮べていた。別れた時にはなかったはずの大きな刀傷が、顔の側面に痛々しく走っている。おそらくは衣の下にさらに多くの傷を抱えているのだろう。
なぜか不意にやるせない感情が込み上げて、無意識に祥然の傷へと手を伸ばしていた。
「よくぞ……戻った、祥然。……褒美は何がよい? そなたが負った傷すべてを治してやろうか」
「い、い、いいえ……! わた、私はあなた様の命令に、従った……だけ、です……そんな滅相もない……!」
祥然はあたふたと両手を振った。控えていた配下たちが顔を赤くさせた祥然と、天地がひっくり返っても人を褒める言葉など口にせぬだろうと思っていた私を見比べて、目を丸くしている。
私自身もこんな言葉を祥然にかけるつもりなどなかった。だが、祥然の傷を見て、なぜか心が鷲掴みにされたような痛みを感じたのだ。かつて広栄が、私についてゆく将兵がいるとでも思っているのかと問うた時は、馬鹿らしいとあしらったが、今はその言葉の意味が少しだけわかるような気がした。
あまりにも自然と身体が動く。右手を祥然の左耳に添え、左手を右肩に置いて音もなく腰を屈めた。いつもならば婀娜めく黒方が香るのだが、それも叶わぬ今が口惜しいとそんな馬鹿なことを考える。目を見開いたまま固まっている無骨な男を見下ろして、触れるだけの口づけをその傷に落とした。
「なれば……しばしの、夢を」
身体を起こす刹那、祥然の視線と交錯する。信じられぬと叫んでいるそれを、私はこれからもこうして利用し続けるのだろうと思った。ゆえに、背後の宋鴻が、「残酷な女よ」と呟いたのはあまりにも的を射ていた。
「――報告を」
離れていった私の熱を確かめるかのように、傷に触れた祥然の手は心なしか震えていた。だが、そのわずかばかりの夢に浸ることすらも私は許さぬ。我に返った祥然が低頭したのを見て、その表情を知らずに済んでよかったと思う私は、どこまでも残酷であると知っている。
「……暁闇は落城し、……今は遍照を亮将軍がなんとか持ち堪えさせております……。ですが、途中で拾った情報によれば、遍照の主要門が落ちる寸前だと」
「なんだと、あの呉陽が押されているというのか?!」
「御意。敵は軍師高蓮を総指揮官に掲げ、連日猛攻撃を仕掛けているようです。何やら妖しげなものもその中に交じっているようで、亮将軍麾下花副将がそれに当てられたという噂も」
「妖しげなもの……?」
宋鴻と二人で顔を見合わせる。同時に思い浮かんだのは、私を射たあの矢のことであった。
「――我が君、もうわたくしをお止めにはなりますまいな?」
すでに蝙蝠を開き、転位の術式を開始する。やれやれと肩をすくめた宋鴻が、呆け顔の護衛らの尻を叩いて立たせ、一箇所に集めた。
「許さぬと申しても、もう聞くつもりもないであろうが。私と祥然、そして護衛三人まとめてやれるのか?」
宋鴻のその問いに、くすりと笑う。宋鴻はどれほど力のある術者を真に膝下に屈させたのか未だわからぬと見える。
「我が君、誰に仰せになっておられるのです? 術者紫苑、このわたくしに不可能などございませぬ」
――ただ一つ、己の宿命を除いて。
*
わたくしには、見たい世界があるのです。
誰も闇を畏れ忌むこともなく、理不尽な運命に甘んじることもない。愛する者とただ相生を誓う優しい行く末を、それを当たり前のように望める世界を。
わたくしはそれを叶えるためにここへ、宋鴻殿の許へ参りました。貴殿はきっと斯様な世界を創ってくださるでしょう。貴殿の眼差し、願い、そして意思。それらすべてがわたくしの存じ上げる『李宋鴻』であるのなら。
わたくしは貴殿の剣となり、盾となりましょう。わたくしは『李宋鴻』に待ち受ける運命を変えましょう。
わたくしが望むのは、ただ一つだけ。優しい世界を。
それを叶えてくださるのなら、わたくしは貴殿に膝をつき、この身が滅び、骸骨を乞うその時まで、心からの忠誠を誓いましょう。『我が君』――