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 六一一年如月十三日。


 その日、星が堕ちた。天命という名の星が。

 皇后が崩御された年と同じ、如月の冷たく身を切るような風が吹く、その日。歴史に名を残す稀代の妖女――(てい)宣喜(せんき)が入宮した。

 皇后の侍女であった宣喜は、憔悴する王を献身的に支え、いつしか寵愛を受けるようになるまで、それほど時は要さなかった。皇后に対する裏切りだと罵った同じ皇后の侍女たちが、人知れず姿を消した頃には、宣喜の地位は揺るぎないものになり、結果宣喜は名実共に後宮の主となった。

 宣喜は始めからこれを狙って王に近づいたのか。むしろそれよりも怖ろしいことを――皇后すらもその手にかけたのか、と誰もが噂したが、真実はついぞ明かされることはなかった。だが、薄闇の紗の向こうに隠された真実を、いや――天の意志を知っていた者たちはいた。


 宮城の奥深く、そびえる高楼を擁して、星空を掬い取ったかのような濃藍の神泉が夜を呑み込む。その神泉が細波のように波紋を生み、淵に立っていた老齢の術者の靴を濡らす。だが、彼にとってはどうでもいいことであった――そう、靴が濡れることなど()()()()()()。その先に待ち受ける悪夢を思えば。

 あの妖女が引き連れてきた凶星が、不気味に赤く点滅していた。皇后がぎりぎりところで抑えていたものを残らずぶち壊して、そうしてこの世界に悪夢をもたらそうとしている。そして、それは図らずとも王の天命すらも堕とし、守護の薄まった世界を覆い尽くそうとするかのように、もう一つの凶星が瞬く。

 これはすべて運命(さだめ)なのだ。

 最愛の娘が皇后として後宮に上がる時、あれはすべてを悟って微笑んでいた。先見の明を持ち、大巫女にまでなれる神力を有していた我が娘。だが、その力を以ってしても、転がり落ちる石を止めることはついにできなかった。

 己の無力さを感じる時、人はこれほどまでにやるせなく、そして奈落の底に突き落とされたかのような絶望を思い知るのだろうか。

「なぜ……なぜ……」

 虚空に響く声は悔恨に滲み、何かを掴もうと伸びる手に、もはや得られるものなど何一つありはせぬ。

 何をすればよかったのか。自分は一体何を間違えたというのか。何を間違えて――娘を、()()()()()()()たった一度きりの機会を失ったというのか。

 高楼を見上げて、天に呟いた名が音になる前に強く風が吹いた。安易にそれを囁こうとした彼を諌めるかのように。


 *


 ふわふわと雲のようで温かな陽が差し込む――失った記憶はそんなもので溢れていた。

 幼き頃、四季折々の花々が咲き乱れる玻璃宮の庭園は、賑やかな声で満たされ、混沌も闇も何一つそこにはなかった。

 厳格だが心から尊敬していた父、穏やかで優しく美しい自慢の母。母はたまに「内緒よ」と言って、不思議な力を見せてくれた。それを見た私は心底仰天して、もう一度と母にねだった。

「我侭はいけませぬ」と苦笑した叔父が私を肩車して、実にたくさんのことを教えてくれた。草花の名や春夏秋冬のこと、国の成り立ちや政のこと。しかめ面で難しいことばかりを言い連ねる博士たちと違い、叔父の話はとても面白く、何時間聞いていても次をせがむ私に、父が「たまには余にも聞け」とやきもちを妬いていた。

 そこに在った穏やかな時間は、悠久に続いてゆくものだと、あの頃の私はなんの根拠もなくそう思っていた。父は熱心に政に取り組み、母も叔父もそんな父を助け、何もかもが上手く廻っていた。発展してゆく街と、賑やかな民の笑い声を聞くのが至福なのだと言って、笑っていた父の姿が今でも心の奥に残っている。


 そんな日々が唐突に終わった日のことを、私は今でもよく覚えている。

 元々丈夫だったはずの母が、風邪に似た症状を見せてからひと月――病は治るどころか悪化の一途を辿り、ついに母は床から起き上がることすらままならなくなった。いつもは表情を変えぬ父が、血相を変えて主治医に怒鳴り散らし、府庫に籠もった叔父が不眠不休で治療法を探す日々が続いた。

 幼く無力であった私は、ただ弱ってゆく母の手を握っていることしかできなかった。日に日に痩せ衰え、満足に食事も喉を通らず、もはや死人のように青褪めた母の顔。目を逸らす勇気すらもなかった私に、母は「強い子ね」と言って笑っていた。

 そして、懸命な治療の甲斐なく、母は青白い月の光に抱かれるようにして静かに逝った。

 初めて目にした父の慟哭が虚空に響き、叔父は崩れ落ちるように泣いて意識を失った。死ぬ間際の苦しそうな顔からは、想像もつかぬような穏やかな笑みを浮かべ横たわる母を見て、母はようやく楽になれたのだと知った。そう思えば――そう思い込めば――宋鴻の瞳からも、ようやくぼろぼろと涙が散ってゆく。


『私の力でも、……やはり駄目、でしたか……私は知って、いたゆえ……もう、いいですが……宋鴻、あなただけは……どうか、……つが……の、……――様、どう……か、宋……鴻を……』


 私の耳元で母の最期の言葉が鳴る。

 母は私がいたことに気づいていたのか、今となっては確かめるすべもない。夢現のまま呟いていたその言葉の意味を、あの時の私がもし知っていたならば――決してあの女を父の妃とは認めなかった。

 誰もが涙を流す中で一人闇に染まり、にいっと赤い唇を歪め、嗤っていた女。母が死んだばかりだというに、平気で父の傍らに行こうとしたあの女――


 今はもう戻ることのできぬ日々が、ただひたすらに遠い。


 *


 一介の術者に過ぎぬはずであった羅刹が、陛下の守り神ならぬ邪神とも揶揄される術者となっていったのは、その無敗ゆえである。神をも凌ぐ先見の明は、すべての事象に通じ、一騎当千の大将軍亮呉陽と共に戦場に名を轟かせた。されど、その彼女が唯一敗北を喫した戦がある。

 如月の頃、両翼不在のまま陛下御自ら総大将として、出陣される。果敢にもそれに対したのは、敵軍屈指の軍師高蓮が指揮する一団であった。この戦は熾烈を極め、誰もがこの戦の勝利の先に、何年も続く終わりのない戦の終結を夢見たほどであったと云う。

 なおかつ敵軍にとっては、両翼不在の今こそが陛下を亡き者にせん絶好の機と捉えたであろう。されど、突如両軍の境に降った白光の雷により、羅刹帰還の知らせがもたらされることとなる。

 膠着状態にあった戦況は一気に陛下へと傾き、宙に浮かぶ羅刹の姿に敵軍は皆畏怖した。これにて、すでに勝敗は決したようなものである。それゆえに、勝利の杯が羅刹の手から零れ落ちたのは、偏にその慢心ゆえか、それとも死の軍師との異名を取った、高蓮の鬼謀ゆえなのか。

『羅刹抄』


 *


 六二四年如月六日。


 自軍を囲む広範囲の結界を張り終え、悠々と降りてきた私を宋鴻の不敵な笑みが出迎える。たったそれだけで、これからしようとしていた報告の結果を知っているのだと気づく。敵わぬと苦笑して、馬上の宋鴻へ略式の跪拝を済ませ、顔を上げる。

「申し訳ありませぬ。わたくしがついておりながらこの体たらく、面目次第もございませぬ。どうぞ如何様にもご処断を」

「馬鹿を申すな。そなたを処断して、どうやってこれから戦をするのだ。呉陽ならば、この際に首を刎ねろと言いかねぬがな。その呉陽と広栄はどうした」

「転位後、すぐに雷術と結界術を使うには邪魔でしたので置いてきました。道に迷っておらねば、夕刻にでも到着するでしょう」

 宋鴻の護衛の一人が連れてきた青毛の馬に飛び乗る。(おう)祥然(しょうぜん)という名の一見むさ苦しい男だが、これでいて人情に厚く義理堅い。かつて家族のために横暴な領主を殺めた咎で死刑寸前となっていたところを、気まぐれで救ったのが私の運の尽きであった。以来、金魚の糞のようにくっついてくるこの男を宋鴻の親衛隊長に抜擢したのは、広栄にも引けを取らぬ武勇を買ったというよりは、むしろ厄介払いに近い。

 だが、祥然の活躍はそれこそ目を瞠るものがあった。元が百姓ということもあり、始めのうちは他の者たちの反感を買ったが、持ち前の誠実な性格ゆえか、それとも本人すらも知り得ぬ優れた統率力の賜物か、今では以前よりも親衛隊の精度が上がったともっぱらの評判だ。

「祥然、我が君に万に一つもお怪我などさせておらぬな?」

「勿論でございます」

「ならばよい。このままそなたらは我が君をお守りせよ。結界を張った以上、ここまで攻撃が及ぶことなどまずないが、これからわたくしは『()』を使うゆえすぐには戻れぬ」

 祥然は御意と頷き、部下たちに指示を飛ばした。呉陽と同じような黒一色の装束に身を包んだ彼らは宋鴻の周りに散開し、不審なものは一つも見逃さぬよう鋭い視線を四方に巡らせてゆく。そして、親衛隊長である祥然は自ら宋鴻の前に馬を進め、盾の如くその大きな身体で陣取った。

 私の命令となれば、祥然は宋鴻を守るために、微塵の躊躇いもなくその命を挺する。それを承知で彼を親衛隊長にと推したのは、何も私の一存ではない。

「毎度のことながら、祥然のそなたへの忠義は素晴らしいものよ。無論そなたの忠義には負けるがな」

 感心して頷く宋鴻は、すべてを知った上で祥然に命を預けている。

 己のために無為に命を懸けさせるのを本来ならば厭う宋鴻だが、祥然の決して揺らがぬ覚悟を見せつけられればもう断れぬと、以前苦笑しながらそう言っていた。

「当然でございましょう。わたくしの我が君への忠義は海よりも深く、山よりも高きものにございます。ですから、呉陽殿と共に放り出すのだけは、もう二度とご容赦を。あんな小うるさい男との行軍に勝る苦痛は他にありませぬ」

「なんだ、まだ根にもっていたのか? 仲直りさせようと広栄と仕組んだのだが失敗に終わったようだな」

 広栄も共犯だったのか……あの男、そんな素振りなど微塵も見せなかった癖に。

 見るからに残念そうな宋鴻とは裏腹に、私はがっくりと肩を落としたくなった。次に広栄と顔を合わせたら、目にものを見せてくれる。

「我が君……斯様なことばかりされておりますと、わたくしうっかり姫に洩らしてしまうやもしれませぬぞ」

 じろりと睨みつけると、わかったわかったと宋鴻は両手を上げた。だが、その後小声で、「紅玉だけはならぬ。決してならぬ」と切羽詰った顔で言われたので、「我が君次第です」と私はつれなくそっぽを向いた。

「紫苑様、敵軍が攻撃を再開したようです」

 前をずっと観察していた祥然が、背後の私たちに声をかけた。瞬間的に顔を引きしめた宋鴻と連れ立ち、祥然の隣に馬を進める。

 先刻の術で混乱していた敵の陣形が、徐々に立て直されつつあった。本来ならば、ある程度修正したのち攻撃を再開するのがもっとも効果的なのだろうが、ここは戦場だ。そんな悠長なことは言っておられぬ上、敵軍の司令官もおそらく高蓮だけではないのだろう。すべての指揮系統を統一するには、敵軍の数が膨れ上がり過ぎている。

「将兵らに盾を捨てさせろ。こちらも総攻撃を仕掛ける。紫苑、全体の様子を偵察したのち結界の補強にかかれ」

「御意。祥然、我が君を頼む」

 祥然が頷いたのを確認してから、私は鞍の上に立ちそこから宙へと飛び上がった。

 常ならば、千里眼を使うのに宙にいる必要などないが、なにぶん戦場だと雑音が多い。それに宋鴻の指揮が末端まで行き届いているか、己の目で確かめたかった。

 宋鴻の近くにいる将兵らから順に、手に持っていた盾を捨て始めている。身軽になった彼らは剣一つで敵軍に突っ込んでゆき、中には重量のある鎧すべてを脱ぎ捨てている強者もいる。

 この状況は敵軍にとって狂気の沙汰としか映るまい。始め私がこの策を提案したときも、呉陽はあまりの奇天烈さに腹を抱えて転げ回った。「戦に鎧、盾は当然のもの。それなしでどうやって攻撃を防ぐのだ?」と、そう誰もが言い募ったが、今やこの有様だ。

(結界に頼り過ぎではないか、まったく……)

 ぶつぶつと文句を言いつつ、滞空姿勢を安定させるため足元に小さな円陣を作り出す。それに乗り、私は大きく左右に腕を広げた。

 私の結界は、防御の性を持つ。弓矢の攻撃がまったく効かぬのは当然のこと、ある程度の剣戟も相手の動きを鈍らせることができる。それを宋鴻軍全体に張っているため、結界の及ぶ範囲から外れぬ限り、効果は戦闘終了まで持続する。

 だが、そんな大掛かりな術式は、一回でも私の意識が途切れるようなことがあれば容易に決壊する。それに両陣営の主力軍がぶつかるこれだけの大戦に対しての術式は今日が初めてであったため、私は想定以上に()を消耗していることに未だ気づいていなかった。

 額に珍しく玉のような汗が伝う。『眼』を開くだけだというに、あまりにも身体が重い。鴉がいればだいぶ違うのだが、それも叶わぬ願望だ。

(焼きが回ったものよ……。たった二年、酷使した程度でこの有様か)

 己の情けなさに呆れる。今でこれなら()()()どうするのか。

 蝙蝠を開いて瞼を閉じる。その裏にある人物の顔を思い浮かべた。――だが、それも会いたくて堪らなかった男の面さえ拝めれば、少しは和らぐだろう。

 一気に『眼』を開く。露のように朧な映像が映っては消え、見えるはずのないものが目の前を過ぎ去ってゆく。その波を掻き分けて、ただ一人の顔だけを捜し求める。

(どこだ……どこにいる、高蓮……!)

 どれほど捜しても一向に高蓮の姿が見えぬ。だが、そんなはずはない。あの庵に居ぬことを己の目で確認した。私の術であれほど乱れた陣形を立て直したその手腕、高蓮以外にありはせぬ。

『眼』を長時間開き過ぎていることもわかっていたが、なんとしてでも高蓮を見つけ出し、確実に命を取らねば――あの者たちが死んでいった意味がない。

 その時。何かが私の『眼』に衝突してきた。あまりの衝撃から追い出されるように『眼』が閉じて、そこでようやく異変に気づく。

(なんだ……この空気は……? 苦しい……)

 肩の上に何かが乗っているかのように空気が重く、それを吸い込んだ身体が内から吐き気を催す。咄嗟に口に手を当てるが、嘔吐物が出てくる様子はない。

「我が、君……!」

 はっと顔を上げて、円陣から一気に舞い降りる。まさか宋鴻にも同じ症状が出ていたとしたら、祥然では防ぎ切れぬ。

 慌てて降りてきた私に宋鴻が気づいて顔を上げた。「どうしたのだ」と暢気な宋鴻に、私は血相を変えて詰め寄る。

「我が君!! お身体は大事ありませぬか!」

 あまりの必死な形相に宋鴻はぽかんと口を開ける。

「大事……? 見てのとおりなんの問題もないが……」

「それは誠にございますね?! 誠にどこにも異常がないと?!」

 何が起こっているのかもわからぬ宋鴻は、私の気迫に押されてこくこくと何度も頷いた。

 それに多少冷静になった私は宋鴻の全身をくまなく観察したが、確かにどこもおかしなところはなかった。宋鴻の周りを囲んでいた護衛や他の将兵らを見渡してみても、得体の知れぬ何かに表情を曇らせている者はない。

 私の取り越し苦労かとも思うが、私自身の不調は拭い去れてはおらぬ。むしろ地上に降りてからというものなお一層空気が重い。

「……どうしたのだ? 顔色が悪い、力を使い過ぎたのか? それとも何かそなただけが感じるものがあるのか」

 努めて冷静な宋鴻の声が問う。おそらくは返ってくる答えもすべて予測した上でのその言葉に、薄く笑みを浮かべ、肩を撫で下ろす。

「なに、お気に召されますな。この程度のこと、わたくしにとって如何ほどの足止めにもなりはしませぬ。おそらく件の庵に手を加えたのと同じ術者か……それと同等の者を用意させたのでしょう。高蓮らしい抜かりのなさです。……まあ、我が君に上げた手なれば容赦いたしませぬが、わたくしだけであれば詮無きことです。……では、再び高蓮を捜します」

 宋鴻が何かを言いかけるのに気づいて、逃げるように再び空に戻ろうとする。その程度で言葉を紡ぐのをやめるような宋鴻ではないと知ってはいても。

「――すまぬ。それでも、そなたに戦場を離れて良いと言えぬ私だ」

 馬鹿なことを、と思う。

 宋鴻は何を気にする必要もない。()()にいて、その傍で仕えることを選んだのは私自身。結果、私の身に何が起ころうとも、それは宋鴻には与り知らぬことだ。だが、その宋鴻の在り様こそが、今の私を救ってくれているのもまた事実。

「なればこそ、早う戦を終わらせてくださいませ。それだけがわたくしの願いゆえ」

 結界を補強する言葉を唱えながら、再び宙に浮かび上がる。宋鴻が心配そうに見上げている視線に気づきながらも、それを無視してさらに高みを目指す。

 私は『紫苑』だ。私は己のすべきことを決して忘れはせぬ。


『愚かな』


 驚く声は音にならず散った。井戸の底に似た仄暗い冷気でぞわりと背筋が凍る。

 一瞬、何が起きたのかがわからなかった。

 風を切る音が耳元でして、気づいたのはその衝撃に全身がぐらりと傾いだ時だった。目を見開いたまま視線を下に移すと、先ほどまではなかったものが私の肩を貫いていた。そして、真白な衣をじわりと染める赤。唐突にその事実を理解すれば、今まで感じたことのない激痛が全身を駆け巡った。

「紫苑っっ!!」

 宋鴻の絶叫が辺りにこだまし、驚いた馬が前足で砂埃を蹴立てる。

 私はあまりの痛みに、前屈みになりながら地に落ちてゆく。それはさながら羽をもがれた鳥の墜落ように。蒼白な顔をした祥然が何かを叫んでいる。荒々しく差し出された筋骨隆々な腕にしがみついて、崩れ落ちるように鞍に跨る。たったそれだけの動作でも身体は激痛に悲鳴を上げ、視界にちらつく黒塗りの矢が自らの身体に突き刺さるその現実を思い知らせた。

 伝い落ちた汗が目に沁みる。だが、痛みなどよりも私を覚醒させたのは怒りであった。

(くそったれ……)

 結界は矢を通さぬ――その事実が覆されたのだ。しかも、当の本人である私自らが、それを大勢の将兵らの面前で証明してしまった。

 恐怖と不審が生まれることなど容易い。それは細波のように広がり、すぐにも大波となって将兵らを呑むだろう。そうなってしまえば、もはや戦えぬ。突如として舞い込んだ一筋のなんの変哲もない矢に、私が積み上げてきたものを一挙に瓦解させられたのを知った。

「紫苑! 傷は?!」

 宋鴻の声にはっと我に返る。

「我が君……何を、されているの、ですか……」

「手当に決まっているだろう! 祥然手を貸せ、まずは矢を抜かねば」

「我が君!」

 矢を抜こうとしていた宋鴻の手が怯む。大きく咳き込んだ私を支えようとした祥然の手すらも遮って、きっと顔を上げる。

「わたくしに、構うている暇など……ございませぬ! 我が、君なれば、ご承知……のはず」

「しかし、傷を負ったそなたを置いてなどゆけるものか!」

「いいえ……! 置いてゆかねば、なりませぬ! それがあなた、様のお役目に……ございましょう……! 祥然!」

 準備はできておりますと祥然は矢に手をかけ、私の肩を強く抑えた。呼吸を安定させるために深く頷いてから、未だ決心のつかぬ宋鴻を追い立てるように声を張り上げる。

「我が君! 早う……!」

 宋鴻は誰よりも優秀な指揮官であり、己の肩にかかる重責をよく理解していた。死ぬ傷でもない私に構って、この戦場を落とすことだけは決してあってはならぬこと。

 宋鴻は一度強く瞼を閉じたのち、悲痛の表情を顔からすべて消し去った。そして、振り切るように馬首を私とは逆に向け、前線へと檄を飛ばしながら走り出した。

「そなたら、も……早うゆけ……。命を賭して……我が君、をお守りせよ」

 護衛たちはさすがに動揺も見せなかった。私の命令に頷き、宋鴻の後を追う。徐々に小さくなってゆく彼らの背を見送り、私は悔しさを滲ませ、矢を睨みつけた。

 宋鴻が指揮を取る戦で、己が足を引っ張ることになってしまった申し訳なさと、見破ることができなかった情けなさ。そして、何よりも宋鴻を守るはずの自分が、宋鴻から離れねばならぬ状況を作ってしまったことへの――怒り。

「……祥然、構わぬ……。矢を抜、け」

「かなり痛みますぞ」

 祥然の手にぐっと力が籠もる。

 痛みなど大した問題ではない。――そう、己の失態で戦に負けるくらいならば。

 痛みに備えて、奥歯を噛みしめた。鞍の端を握る手が微かに震えていることに、どうしようもなく笑いが込み上げる。どうやら私も人間であったらしい。痛みに怯える可愛らしさがまだ残っていたとは。

 矢が僅かに引かれただけでも、迸るような痛みを生む。どれほどの強弓で放たれた矢か、肩口に食い込んで私の肉体から離れようとせぬ。

 考えるべきことは山ほどあった。それでも、祥然が息を詰め、矢を一気に引き抜こうとしているのを感じれば、すべてが痛みに霧散してゆく。ほんの一時、愚かにも思考を手放してしまうほどに。決して破られるはずのない完璧な術式が、たったこの一本の矢で私の身体をも傷つけた、その事実すらも。

 迷いのない力強さで矢が引き抜かれるやいなや、得体の知れぬおぞましさに全身が総毛立ったのを感じた。傷口から何かがずるりと這い出て、漆黒の蛇にも似たそれは、紛うことなく私の首筋へと噛みついた。

 不思議と痛みは感じぬものなのか。黒蛇を振り払おうとしても、幻影如き消え去り、後に残るは己の意識を縛らんとする目に見えぬ鎖だけだ。それに絡めとられたが最後、二度と目覚められぬ人の無意識の奥底へと引き摺り込まれてゆくしかない。大抵の人間はそうして廃人となり、術者の傀儡と成り果てる。ただし、それも相手の術者が己を上回っている場合のみに限る。ゆえに、意識を縛る鎖を壊すのは私にとっては容易い。

(斯様なこともわからぬ愚か者、と断じることはできぬな、腹立たしいことこの上ないが。この呪でわたくしの注意を逸らす気か)

 そう、この呪の目的は私を傀儡にすることではない。呪が破られるのを前提に、ほんの一瞬私の意識を途切れさせればいい。どれほど優秀な術者であっても、自らの意識を縛られた鎖を壊すためには、そちらに意識を向けねばならぬ。それだけで相手の術者の目的は達成される。瓦解させるには十分だ。膨大な力を注ぎ込んでいる結界術であればこそ。

「紫苑様どうなされたのですか?! 傷を早く手当せねば「祥然」」

 矢を抜いた途端、尋常ならざる様子の私に祥然は少なからず動揺しているようだった。無理もない。ふらついた肩を支えようとした手を取って、ただ覆すことのできぬ事実を告げる。

「この戦、我らは負ける」

 祥然は声もなく瞠目した。

 血の気が引いてゆく予感と、結界に籠めていた己の力が戻ってくる気配に、すべてが終わってしまったことを知る。どうにかしてそれを押し留めようとしても、もはや決壊した力の渦を堰き止めるすべはない。刻一刻と近づくその時を前にして、戦場の狂騒がだんだんと遠ざかっていく。これから起きる惨状を如何すべきかも忘れて、弾け飛びそうなその泡沫を愚かにもただ見つめていた。そして、僅かな間瞑目する。思案したのは、たった一人の人間のことだけ。

 今のこの状況では、全体に結界を張り直す余力などない。さすれば、守るべきはただ一つ。そして、その答えを紫苑という人物の傍らに控え続けてきた祥然もすでに解していた。

「……そなたを守ってやることはできぬ、その意わかるな」

「心得ております。元よりこの命、あなた様に捧げたもの。三度目のご厚情をいただくほど恥知らずではございません」

 手早く止血を終えた祥然は、僅かに視線を下げた。それだけで祥然はすでに死ぬ覚悟を決めているのだと知る。だが、それを見事な生き様と思いこそすれ、止めてやることはできぬ。

「わたくしはこれから我が君の許へ向かう。そなたは後方の翁や将軍らに仔細を伝え、退却を支援せよ。この戦の勝敗は決した。なれば、一人でも多くの兵を逃がさねばならぬ。我が君の次のために」

 御意と頷いた祥然はすぐさま馬首を後方へと向け、走り出そうとした。ゆえに、その背に投げつけた言葉は、一縷の希望だったのかもしれぬ。

「必ずや生き抜いて、わたくしの許に戻れ。これは命令だ」

 祥然は少し驚いて、だがすぐに泣きそうな顔をして再び頭を垂れた。

 死にに逝こうとする祥然を止めることはできずとも、彼の行く末をほんの少しだけでも変えてやりたい。自らの部下すらも切り捨てる冷酷な女に心酔する愚かで、だがどこか捨て切れぬそんな男の行く末を。

 下手な情だけは持つまいと決めていたのに、これでは呉陽と同じではないか。自らに失望して嘲笑する。だが、次の瞬間にはそれすらも切り捨てて、『術者紫苑』としての顔に戻った。陶器で作られた精巧な人形のような美しさでありながら、どこまでも残忍で冷酷。人の世の末代までも語られるであろう、悪鬼にこそそれは相応しい。

 大量の弓弦が啼く音に、敵軍の緻密な作戦を知る。すでに結界が消失しているのもわからずに、それを嘲笑する自軍を憐れみはすまい。降るはずのなかった大量の矢に、真っ先に犠牲になるのは彼らなのだから。結界があってこそ成立していた宋鴻軍の戦法は、今や自らの首を絞める結果を招いた。

 身を守るはずの盾すら持ち得ず、全身に矢を貫かれ死んでゆく者。暴走した馬の下敷きにされ、内臓が飛び出た者。後方目がけて必死に逃げ惑い、されど残酷にも押し寄せてきた歩兵の軍勢に切り刻まれてゆく者――阿鼻叫喚の地獄絵図の中、私は自分の周りだけに結界を張り直し、宋鴻の姿を捜していた。たった一人のために他のすべてを切り捨てることなど、私にとっては造作もない。一つしか得られぬのなら、私が選ぶものはとうに決まっている。

 しばらく馬を走らせると、ようやく宋鴻の姿が見えてきた。護衛らが善戦しているようで、宋鴻自身に目立った傷はない。そもそも宋鴻は稀代の剣術の使い手でもある。容易に討たれるとは思っておらぬが、私を射抜いた矢のように今日は何が起きても不思議ではない。

 進路を塞いでいた五、六人の敵を瞬き一つの間に絶命させ、さらに宋鴻との距離を縮める。結界の範囲内に入るのももう時間の問題で、一先ずはそれで宋鴻を守ることができる。あとは宋鴻と護衛らと一緒に退却するか、転位をすればこの場は乗り切れる。

 そう安堵した刹那、視界の端に素早く動く影が映った。この大混乱の最中、それを見つけられたのは僥倖か、それとも奇禍でしかなかったのか。黒い影は矢を番え、その切っ先を紛うことなく馬上の主に向けていた。

 本能で馬の腹を蹴り、一気に距離を詰める。不幸にも宋鴻や護衛らは面前の敵を捌くのに必死で、差し迫った危機にまったく気づいておらぬ。

「我が君! 後ろを……!!」

 私の無駄な足掻きを嘲笑うかのように、叫んだ瞬間限界まで撓んだ弓が一気に放たれる。矢は無情にも宋鴻の背を目がけて、一直線に飛んだ。

 罵詈雑言を吐き散らし、蝙蝠を開くことも忘れてただ手を翳す。あとわずか結界の範囲内に届かず、矢の速度に馬は間に合わぬ。矢の軌道を変えるため風を起こそうとしたが、どうしたことかそよ風程度の風しか沸き起こらなかった。

 冷たい汗が背筋を走る。力を制御するための器が悲鳴を上げていたことに、今さらになって気づく。

「力が、なにゆえ今……我が君、我が君っっ! やめろっっ……!!」

 鈍い音が世界に響く。――この世の無情を、今この時ほど呪った日はない。


 *


「……案外、呆気ないものよ。然して面白くもない」

 今の今まで優勢を誇っていた宋鴻軍が、見るも無残に崩れてゆく。それを容赦なく追い立てる高蓮軍は、蜜に群がる蟻の如く敵軍を食い尽くそうとしている。

 逃げ惑う者共の断末魔の叫びは、いつだって耳に心地よい。これを聴くために、幾度となく舞い戻ってきたといっても過言ではない。

 放っていた(しもべ)の報告を聞きながら、いっそ傲慢なまでの挙措で煙管を口に運ぶ。精巧にあしらわれた銀細工の唐草模様が鈍く光を受け、羅宇の紫紺が闇の中で発色する。常に傍らにあったそれは、限りなく長き時を過ぎてしっくりと手に馴染む。

「ご苦労だったな。この距離を一発で仕留めるとはさすがよ」

「……命は取り損ねましたが」

 陰にもたれた男の肩には、磨き抜かれた強弓がかけられていた。詰まらそうに腕を組み、瞳を閉じている。顔半分を覆う布に、性別以外のものは何一つ判別がつかぬ。

「別に構わぬ。あれの命を頂くのは、まだ先のことよ。あれには働いてもらわねばならぬことが山ほどあるからな」

「では、なぜ私に?」

「必要だからよ」

 男が溜息をついて、木から背中を離した。

「次の仕事は長くなる。今のうちに身体を休めるといい」

 男の気配が林の中に消えてゆく。それを視線だけで見送ってから、眼下にて行われている戦を再び眺めた。夥しい死体が折り重なる平原のちょうど中心に、矢を射られた宋鴻を抱きかかえた紫苑の姿が見える。

「さて、お前はどんな舞を見せてくれるだろうか」

 燻らせた煙が、ゆらゆらと所在なさげに漂う。それは己の生と酷似しているような気がして、無意識に手が空を切る。だが、そんな己の行為に怒りが湧いた。何かが手に入るわけでもない。にもかかわらず、自分は一体何をしようとしたのか。

 認めたくはない感情を打ち消すために、再び煙管を手に取った。煙を吸い込み、深く吐き出す。それを幾度となく繰り返せば、心がようやく静けさを取り戻したような気がした。――だが、そんな生も直に終わる。

 返り血を浴びてもなお、白く輝きを放つその姿。それを菩薩のようだと崇めるには、すでに時は逸し、あまりにも多くの業を背負い過ぎていた。それでも、自らの生を省みるつもりなど毛頭ない。そんなことをすれば、己が歩んできたすべてを否定するのと同じことであった。

 今、心から欲しているのは――赤。血に染まり、すべてを失って絶望に彩られた瞳を蹂躙し、そして得る。その先に待つ愉悦を思えば、今から嗤いが止まらなかった。

「……これが私の答えですよ。――父上」


 *


 その人は、常に私に同じことを言った。


『我らの為すことに、決して失敗は許されません』


 守るべきものを己の手で壊したくはないでしょうと、自嘲気味に呟いたその人の横顔は消え入りそうに儚かった。まるで、蜉蝣――私は今でもそう思っている。

 もし本当の蜉蝣のように、たった数日の生を生きて死んでしまえるのなら、それでもよかった。ただ己の手の中にあるものだけを守って、そうして死んでゆけるのなら。

 だが、その人はあまりにも長い――いっそ残酷なほどに長い時を、一人で生きていた。番もなく、仲間もなく、たった一人の従者だけを連れて。気の遠くなるほどの(とき)と引き換えに『世界』を選び、そうして生きてきた。

 ゆえに、私はその人の願いを叶えた。共に生きてゆくことはできずとも、共に分かち合えるものはある。目指すべきものが同じであれば、辿り着く『世界』はきっと同じであるはず。

 消えゆくその人の口が弧を描いて、最後に吐息を漏らす。何を呟いたのか正確に知りながらも、私はそれを聞くのを拒み、泡沫の刻は露になって弾けた。


 *


 たとえ心の臓を射抜かれたとて、宋鴻から離れるべきではなかった。なんたる不甲斐なさか、なんたる失態か。己の浅慮を恥じて今すぐ自害してしまいたい。だが、それすらも許されぬ今は、迫りくる危機に逼迫していた。

「とにかく、ここから離脱せねば……」

 今はかろうじて張ってある結界のおかげでなんとか攻撃を防いではいるが、あの矢のことを考えれば、長くここに居続けるのは得策ではない。それに宋鴻の強靭な肉体に対して、本来致命傷にもならぬはずの矢傷一つで蒼白な顔色を見れば、射られたのが特殊な矢であった可能性もある。呪であれば、すぐに解法できる。だが、毒であるとすれば、もはや一刻の猶予も許されぬ。

 頭の中で素早く答えを弾き出す。何を第一に優先するのか、その問いの答えは二年前のあの日からすでに決まっている。

「我が君、わたくしに掴まっていてくださいませ」

「何、をする気、だ……」

 私は深く息を吸った。

 辺りを見れば、ここは戦場の中心に近い。先ほどの私の失態を持ち直すために、だいぶ深いところまで宋鴻は踏み込んでいた。それすらもすべてあの男の策略だったのかと思うと、己の浅慮を恥じると同時に一抹の不安が過ぎる。『視』ていたはずの行く末と違う、この結末に。

 何かが違う。何かが、私の知らぬところで起きようとしている。それを突き止めねば、今日と同じことが何度でも起きるだろう。だが、傍らの宋鴻に視線を注ぐ。――今やるべきことはそれではない。

「――ここから転位いたします」

 散り散りになった将兵らが逃げ惑う音が遠い。いや、すべての音が遠かった。

 宋鴻が驚愕の表情を浮べたのに反して、護衛らは意を決したように唇を噛んでいた。私が一人でここにきた段階で、すでにそれを想定していたのかもしれぬ。最悪の場合、私が迷わずその決断を下すだろうことも。

「馬鹿なことを申すな……!! そんな、身体で転位など行えば……」

 宋鴻は力加減も忘れて、私を突き飛ばした。じくりと肩の傷が痛む。宋鴻と同じ場所に傷を負うとは、なんとも皮肉なものだと思う。

 宋鴻が何を言わんとしているのかは知っている。そして、この状況で転位を使うその意味も。だが、それしか宋鴻を無事に城に帰すためのすべがないとしたら、私が迷う余地はない。

「わたくしはすでに決めたのです。我が君を生かすためなれば、手段は厭いませぬ!」

「やめろ……! 紫苑――」

 宋鴻が止めるのも聞かずに、私は術式を作動させた。その瞬間、ぶわりと身体中から汗が噴き出し、小刻みに身体が震え出す。それを押さえようにも、猛然と暴れ出した宋鴻を必死に食い止めるので精一杯であった。

「そなたらは遍照にて待て……! じきに暁闇も落ちる、わたくしは我が君を……お連れするが、もし……もし! 姿なき時は、わたくしの……――を捜せっ!」

 護衛らに向かって叫んだつもりであったが、霞がかってゆく視界の先に声が届いたのかはわからぬ。だが、最悪の場合を考えれば、今が最悪ではなくもっと底がある。

 嗚呼、息が詰まって苦しい。高蓮の庵から飛んだ時に比べて、遥かに力の消耗が違う。戦場に渦巻く負の怨念が――いや、私がこの手にかけてきた亡者共の憎悪が、そこから離れようとする私を引き摺り戻そうとしているかのようだ。

 私一人なれば、どうとでもするがいい。地獄よりもさらに惨い場所だとて、私は己の足でそこに向かうだろう。だが、今はならぬ。宋鴻だけは、そこに連れてゆくわけにはゆかぬ。私のただ一つの希望を失うわけにはゆかぬのだ。

 私は血が出るほどに唇を噛みしめ、術式が完成するのを辛抱強く待った。永遠にも思えるその時が唐突にやんで、ふわりと身体が浮く感覚がする。そして、その場から二人の姿が忽然と掻き消えた。


 *


 六二四年如月七日。


『宋鴻軍大敗。および暁闇城落城。宋鴻様並びに術者紫苑の行方、未だ知れず』


 その一報は、各地に激震を走らせた。無敗を誇る宋鴻が一方的に大敗した上、宋鴻はおろか同行していた術者すらも消息不明。そんな事態は、戦が始まってからというもの初めてのことであった。

 庵から舞い戻った呉陽らが目にしたのは――奈落。一面夥しい数の屍が幾重にも折り重なり、咽返るような血の臭気と蔓延する死臭が足を取る無常の最果て。血で穢れた大地に投げ捨てられた剣は折れ、全身に幾本もの矢を受けた者の悲痛な眼に、死肉をたかりにきた鳥たちの影が映り込む。地獄絵図などとはまだ生易しい、そこはまさにこの世の地獄であった。

 人々は誰もが噂した。人間が穢し尽した世界を神は見放し、そうしてそれを救おうとなさっていた宋鴻を、神の如き力を持った美しき死神と共にお隠しになられたのだと。この世界に行く末などないと人間にわからせるために。


 そして、それは現実となる。

 一週間経っても、宋鴻はおろか紫苑すら見つからなかった。二人の消息は、本当に神隠しにでもあったかのように立ち消えたのであった。

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