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六三一年卯月二十三日。


「そちが、鴛青じゃな」

聞き慣れぬ声が己を呼ぶ。

虚ろな(まなこ)に何かを映すのは久方ぶりなような気がした。はじめのうちは揺らいでいた視界の先に、見知らぬ女性の姿が映し出される。遠くに控える従者の数と召し物の雅やかさで、位の高い女性だということはなんとなくわかったが、鴛青は一瞥をくれただけで、立ち上がることもしなかった。

「妾の名は、紅玉と申す。紫苑から聞いたことぐらいあろ」

その名に自然と身体が跳ねる。息をするのも忘れて、ただ指先だけが喪ったものの大きさを知って、震えていた。もう誰もかれもがその名を忘れたのだと思っていた。新しい時代にそぐわぬ埃を払うかのように、要らぬものは闇の中に打ち捨てて、そうして今日という日を寿いでいる。

いつまでも動こうとせぬ鴛青に溜息をついて、紅玉は勝手にその隣に座り込んだ。二人にとって、一人分空いた隙間に誰を想うかなどわかりきっていた。去っていった美しい人は、今どこで何をして、この愚かな自分を見ているのだろうか。

「……鴛青よ。そちはいつまでそうしているつもりや? 主を喪ったこの邸でただ一人、同じように朽ちてゆきたいのか」

紅玉の言葉が、心に波紋を呼ぶ。

かつてここに在った、あの壮麗な紫苑の邸を、今や偲ばせるものは何もない。屋根が落ち、柱は崩れ、鮮やかな朱塗りは色褪せて、誰も手入れすることなく荒れ果てた庭も生気を失っている。その中でただ桜だけが、変わらずに今も散り続けている。桜を愛した人はもはやこの世には居ぬというに、なおも滾々と散りゆく。

それに比べて今の己は、情けない姿を晒しているのだろう。こうして誰かが訪ねてくるまで、愚かにも泣くことしかできなかったのだ。しがみつくように、それに縋ってただ嘆いていた。血に汚れた、その白に。

「今日という日を、誰でもない紫苑こそが待ち望んでいたのじゃろ。そちが拒んでいかがする。……まあ、そちの嘆きはまさに(わらわ)のそれと同じじゃがの、たとえ己の命より大切だと想い慕う者が永遠に喪われても、残された我らは生きてゆかねばならぬのじゃ。それが、どれほど残酷であろうとも、人の運命(さだめ)だと言うのならばな」

いつになく華やいだ通りを見やる。紫苑の邸周辺は気味悪がられて、常ならば近くの住人くらいしかその声を聴くこともなかったが、しきりに通り過ぎてゆく人の波がどうにも浮足立っている。

今日、宋鴻は民に望まれて王位を継ぐ。

戦に政変、暗殺、謀反――数え切れぬほどの動乱が去っては訪れ、希望という言葉が忘れ去られようとしていた暗黒の時代が、今ようやく終わりを迎えようとしていた。誰もが皆、これから到来するであろう希望に満ちた日々を思い浮かべている。それの代わりに差し出された代償に思い至りもせず。

「……このままではならぬと……、わかってはいるのです。紫苑がすべてを懸けて……守ってくれたこの世界を……、紫苑がいなくなった今、私が守ってゆかねばならぬと……わかって、いるのです」

わかって、いた。逃がれられぬ紫苑の死を。それでもいいと、限られた時間の中で紫苑を愛し抜くと覚悟を決めて。だが、本当は何もわかってなどいなかったのだ。愛する人の存在が、この世から消えてなくなるという、その意味を。

今でもよく覚えている。冷たくなってゆく紫苑の身体を離すまいと抱きしめていた己の腕から、呆気なく消えていった喪失感を。紫苑が着ていた衣だけを残して、あとはほんの一欠片すらも鴛青から奪い去って、遠く遠く散っていったあの日の絶望を。

手の中の白を強く握り締める。戦闘の名残で染みた血の跡も、すでに茶色く変化しているというに、鴛青の目には今も鮮やかに紫苑の姿が蘇るのだ。もう二度と、これを着た紫苑が鴛青の前に現れることはない。何よりも白い羽織を翻して、果敢に戦う紫苑と共に並び立つこともない。それは儚い蜉蝣のように、二度と――

「……仕方ない」

紅玉が唐突に手を鳴らす。

紫苑との思い出から急に引き戻され、頭がぐらぐらと揺れているような気さえする。鴛青は額に手を当て、紅玉を見上げると、不覚にもはっと息を呑んだ。かの人と似た強く真摯なその眼差しに圧倒される間もなく、門の傍に控えていたはずの屈強な男らに、むんずと両腕を掴まれた。そして、有無も言わさずに、その場から強引に連れ去られたのであった。


 *


「……ここは、どこですか」

 訳もわからぬまま紅玉に連れてこられたのは、即位式が行われる正殿がよく見通せる東屋であった。

「そちが動かぬゆえ、強制退去させたまで。ほれ、ここならば人々に近づかぬでも、よう見えるであろ」

「……王のご正妃ともあろう御方が、こんなところにいてもよいのですか」

「よい。背の君も知っておる」

 よいはずはないのだが、紅玉は至極真顔だ。仕方なく鴛青も少し距離を開けて、その隣に腰を下ろす。ちょうど一人分のそれに、紅玉は明らかに不満そうであったが、結局は何も言わずに正殿を見下ろした。

 僅かも経たぬうちに、煌びやかな行列が正殿に入場してくるのが見えた。その最前列を、目にも彩な正装を身にまとった宋鴻が堂々たる歩みでゆく。それは、まさに人々が待ち望んだ王に相応しき人徳をすべて兼ね備えた、王の中の王が誕生した瞬間でもあった。

「――辛かったな」

 二人で並んで、それを見ていた紅玉がそっと呟く。知らずに力んでいた全身を、僅かでも緩めさせるように。

「紫苑は、人生の伴侶として選ぶには難しい女じゃ。あれは、己を顧みることを知らぬ。いつ何時でも、己よりも背の君を優先してしまう」

「……そう、ですね。私に与えてくれたのも、ただ一夜と死ぬその時だけでしたから」

「やはりな……。紫苑らしい」

 紅玉も容易に想像できたのか、口元に手を当て、苦笑した。

 紫苑の中で、宋鴻の地位は揺るがぬ。たとえ目の前で鴛青が苦しんでいても、紫苑は迷わず宋鴻を選ぶだろう。それを嫉妬せぬと言えば嘘になるが、そんな紫苑の直向さを愛していたのもまた事実。信念なくしては、紫苑ではない。それゆえに、鴛青は愛する人を喪ったとしても。

「それでも、私にとっては――人生最良の時でした。あのようにすべてを懸けて愛せる人は……もう二度と得られぬ」

 宋鴻が今まさに玉座に座ろうとしている。それを見ていると、なぜか無性に心が苦しくなった。

 紫苑は居ぬというに、宋鴻はすべてを手にし、栄光の玉座に座っている。鴛青は愛する人を喪ったというに、人々は紫苑を鬼と呼び、その名を貶め続ける。――なんだ、この理不尽は。なんだ、このやるせなさは。

 それでも、鴛青はこの世界を一人で生きてゆかねばならぬというのか。

「これは私への罰なのでしょうか……。仙女を得ようとした愚かな人間が……、これからの長き時を、たった一人で生きてゆかねばならぬ恐怖に耐えることが……? 嗚呼……、いっそ私も共に「紫苑殿がそんなことを許す方ではないことを、あなたが一番知っているのではないのですか」

 唐突に聞こえた声に、横っ面を容赦なく張り倒されたかと思った。

 背後を振り返ると、若い官吏が立っていた。微かに怒りを忍ばせた、そんな冷ややかな視線を鴛青に投げかけている。

「お初にお目にかかります、王妃様。私は御史の公孫策と申します。以後、お見知りおきを」

 紅玉にきびきびとした礼を尽くす様は、年齢に似合わず堂々としたものであった。今の情けない鴛青とはまったく逆の姿に、心にちくりと痛みが走る。

「そちが策というのか……。背の君から聞き及んでおるが、何用か」

「はい、陛下よりそちらの方にご伝言を預かって参りました。……仕える気があるならば、早々に我が許に馳せ参じよ、とのことです」

 鴛青は目を見開いた。

 始めは知らなかったとはいえ、鴛青は李人に組みする者であった。紫苑に矢を射かけ、結果的に宋鴻の命もみすみす危険に晒した。その上、自分は兇手だ。金さえ貰えれば、どんな悪事にも手を染めてきた自分を、宋鴻は使うと言うのだろうか。――いいや、そんなことがあっていいわけがない。

 紫苑が命を懸けてまで望んでいた宋鴻による親政が、今ようやく始まろうとしているのだ。そこに必要なのは光であって、闇に生きてきた人間ではない。宋鴻が何を考えているのかは知らぬが、罪を重ねた一人の罪人に過ぎぬ自分が、紫苑の願いを壊すことだけはあってはならぬ。

「私は……兇手だ。本来ならば、李人と同じ、己の命で罪を贖うべき側の人間だ。なぜそんな私を王は「……そちは何か勘違いしているようじゃが、そちを生かすよう妾に進言したのは、紫苑じゃ」

 思わず絶句して言葉を失う。

 紫苑が自分を生かすよう進言した? いつの間にそんなことを――いや、それよりも紫苑は紅玉に会いに行ったというのか。

「そちは必ずや背の君の御代にとって必要な男になる。ゆえに、助けてくれと……。妾は、その紫苑の最期の願いを叶えてやっただけに過ぎぬ。……最後の最後まで他人の心配ばかりする癖して、自分の罪は決して許さずともよいとほざきおった、……馬鹿たれのな」

「紫苑殿……、らしいですね」

 懐かしむかのように策がそっと呟く。それを呆然と聞きながら、鴛青は戸惑っていた。

「なぜ……」

 自分は本当に最期まで紫苑に守られていたのだと知る。

 紫苑自身も、己の為すべきことだけで精一杯だったはずにもかかわらず、己が死んだのちも、鴛青が生きてゆける場所を作ろうとしていたのか。「酷い裏切りを働いたわたくしは、もう二度と会う資格はないのだ」と言っていた紅玉に願ってまで。

 鴛青は己の無力さに項垂れた。紫苑のその不器用な優しさを今さら知らされても、紫苑に何一つしてやれなかった過去が戻るわけではない。むしろ、より一層虚しさが募る。

「何もしてやれなかった……と、悔やんでいるのではあるまいな?」

 自分が思っていたことを直球で言い当てられて、心が冷える。鴛青の後悔を見透かしたような紅玉の眼差しから、思わず逃げ出したくなる。

「生前、紫苑に聞いたことがある。そちにも、かつては男がいたのではなかろうかと。……紫苑は笑って、こう答えおった。『その男から、記憶のすべてを奪いました。ゆえに、わたくしに斯様な男は存在せぬのです』と。……これがどういう意か、わかるか」

 紅玉の小さな手が、ぺちっと鴛青の頬を軽く張った。

「そちが紫苑にしてやれたことは、覚えていてやることなのじゃ。そちから記憶を奪うことなど、紫苑にしてみれば赤子の首を捻ることよりも容易なはずじゃ。にもかかわらず、奪わなかった。――奪えなかったのじゃ! たとえそちが苦しむことをわかっていても、覚えていて欲しかった。そちとの日々をなかったことにしたくないゆえではないか! ……ったく、紫苑も、何もこんな女心の一つもわからぬ阿呆に心奪われずともよかろうものを……」

 鬱蒼と立ち込める霧で、一寸先も見えぬほど朧げであった視界が、一気に開ける。ずっと長い間、何も掴めずに空を切っていた手に、初めて何かを得たような。その衝撃が涙を散らして、喉を焼く。

「紫苑殿にとって、自らのことなどどうでもよかったはずです。汚名を着てまでも、此度のことを成し遂げようとした紫苑殿の心意気を見れば、それがよくわかるはず。そんな紫苑殿が、初めて自らのことだけを考えた。残されたあなたの悲しみも厭わずに、ただ覚えていて欲しいという、紫苑殿の最初にして最後の……、我侭で」

 紫苑の、我侭? 気が強くて、一人でなんでもやってしまうあの紫苑が自分に、我侭を?

 自分は、紫苑から愛されていたのだろうか。傲慢な想いが、紫苑の何かを変えることができたのだろうか。伝う涙が熱い。忘れていた感情が再び息を吹き返す。


「……陛下と長官は、紫苑殿に対する処分を私に一任されました。紫苑殿を最後まで捜査した御史として、紫苑殿に最後の審判を下せと。――私は、選びました」

 ここにくる前に、宋鴻から直接下された言葉を思い出す。

 策にはもう、紫苑が嗤った甘さや弱さはなかった。情に流されて、真実を見失おうとしていたあの頃の愚かさは、すでに遠い。次なる道へ進むための一歩を、策は確かに踏み出していた。

「紫苑殿は、すべての罪に加担したわけではありませんが……、如何せん派手に動き過ぎました。状況証拠しかないにもかかわらず、皆は吊るし上げようとするでしょう。紫苑殿がそう望んだとおりに。……ですが、私も御史です。ありもしない罪で亡き人を穢すつもりは毛頭ありません。たとえ、それすらも紫苑殿の望みだとしてもです」

 紫苑は李人や高蓮が犯した罪も含めて、すべて自らが被り死んでいった。凶悪な鬼を打ち滅ぼした宋鴻の治世を確固たるものにするために。だが、そんなこと知ったことか。真実はそれではない。

「私は、これから誠の紫苑殿を探したいと思います。陰陽師でもなく、『白妙の羅刹』でもなく、人として生きた紫苑殿の生を。……正直、何年かかるかはわかりませんが、必ずやすべての真実を明らかにしてみせます。それが私の宿命――すべては、正しき真実を未来に繋げるために。未来に生きる者たちが、同じ過ちを繰り返さないよう道を示すため。それこそ私が選んだ答えです」

 紫苑が命を懸けて示してくれた道。

 望むことのために、他のすべてを捨ててでもやり遂げる覚悟。――生を生き抜くことの覚悟。失くしてなるものか、忘れてなるものか。喪われた命の輝きを。

「鴛青殿、あなたは何を望まれますか。これから先の生を、生きていくために」


 心は不思議と和いでいた。

 哀しみを忘れたわけではない。痛みは未だ己を蝕んでいる。紫苑が隣に居ぬ現実を、これから先受け入れられるのかもわからぬ。だが、掴むものはまだ己の手の中にあった。

 強い信念を瞳に宿し、そしてどんな状況にあっても、凛と顔を上げ続けていた紫苑を思い出す。


『わたくしは命のある限り、駆け続けよう。――それが、わたくしの生き様よ』


 その言葉どおりに、なんの躊躇いもなく生を駆け抜け、戦い生きて、そうして死んでいった紫苑。自分はそんな紫苑の強い生き様に、何よりも惹かれていたのだと今さらになって気づく。

 もう一度、眼下にて行われている戴冠式を見る。紫苑の望みの結晶が、そこにはあった。

「……陛下に、お目通りを願おう」

 紫苑と過ごした日々、遺された想い。すべてを胸に抱いて、立ち上がった。

 かけがえのない人が遺したすべてのものを、今度は自分が守り繋いでゆくために。



これによって、李宋鴻による治世が本格的に幕を開ける。

全土に残る戦渦の爪痕は瞬く間に立て直され、各地で経済が復興し、長らく停滞していた文化が花開いた。のちに類を見ない最盛期を迎えた都は、玉のように美しく輝く夢の楽園(まほろば)の名を取り戻した。

それと共に、朝廷も変革の時を迎える。

宋鴻の治世下で、監察御史、公孫策の主導により、不正官吏が次々と検挙され、それによって空いた管理職の位に、今まで埋もれていた若く力のある官吏たちが次々に抜擢された。

策はどんな権力にも一度として屈さず、不正を暴くことを己の信念とし、罪ある者は決して彼の追求から逃れることはできなかったと云われている。上司の包拯を越す名御史として名を馳せ、史上最年少で宰相に抜擢されるが、己の生きる道は監察と、決して首を縦に振ることはなかったと云う。

宋鴻の両翼として、終生変わらない忠誠を尽くした亮呉陽は大司馬まで歴任し、彼が後年残した膨大な軍略書は国を守るための常道として、後世大司馬に就いた者たちに脈々と受け継がれていった。

呉陽は大司馬という地位にありながらも、不戦の意志を決して翻すことなく、血気盛んな若い武官らが軽々しく命を懸けようとするのを見るたびに、烈火の如く叱りつけたと云われている。『生を安易に捨てるな』――それが呉陽の口癖であり、宋鴻の治世下において一度の戦も起こさないという偉業へと導いた。

高齢を理由に大司馬位を退いたのちも、名誉職である太傅(たいふ)を与えられ、臨終を迎えるその時まで、宋鴻の御代を支え続けた。そして、迎えた最期の時。『これで、友の願いを叶えてやれた』という意味深な言葉を、呉陽の跡を継ぎ大司馬となった息子に遺し、この世を去っている。

そして、呉陽と共に武勇で名を馳せたのが、浪鴛青という若き俊英。かつては反逆者静李人に与していたが、改心したのちは宋鴻に絶対の忠誠を捧げ、その傍らで御身を守り続けた。神懸った武術の腕であったが、宋鴻を守るためだけにしか真剣を抜かず、戯れでも血を流す行為を嫌ったと云う。時として、鴛青は戦前に活躍した宋鴻の両翼の再来と謳われたが、鴛青自らがそれを認めたことは一度としてなかった。

また、鴛青は大層な美丈夫で、当時美麗王とも異名を取った宋鴻に負けず劣らずの人気を博していたが、鴛青は生涯ただ一人の妻を愛し続けたと云われている。その妻が夭逝したのちも、一人として女性を迎えることはなかったため、娘がいたとも伝えられているが、その娘が実の娘か養女なのかはわかっていない。

宋鴻の晩年、ある文書が御史台主導のもと極秘に製作された。長年の捜査により明らかになった真実を記したものとされているが、完成と同時に文書は忽然と姿を消し、その内容は長らく不明のままであった。

それと同時期に、宋鴻は死後自らに与えられる王としての名を『紫宗(しそう)』とすることを定めた。なぜその字を選んだのか宋鴻は多くを語らず、その後七十年の長きに渡った波乱の生涯を閉じる。

暗黒の時代からこの国の最繁栄期を築き、人々に平和王と愛された宋鴻の死に、国中がかつてないほどの哀しみに染まった。誰もが宋鴻の死を悼み、国葬に参列する人々で作られた葬送の列がどこまでもどこまでも続き、一つの時代の終わりを皆心から嘆いたと云う。

宋鴻の国葬は、鴛青の自邸に隣接する桜生(おうしょう)寺にて執り行われた。宋鴻の治世下に建立されたばかりのまだ新しい寺で、立派な桜の古木を鴛青邸と共有した不思議な寺である。生前、王妃である梁紅玉と共に幾度となく訪れた縁ある寺ではあるが、王家の慣例を破っての宋鴻と紅玉の強い希望にもかかわらず、その理由は明かにはされていない。

盛大な国葬も終わりに近づいた頃、涙を流すのを気丈に耐えていた紅玉が、何かに語りかけるように桜の幹に触れたと云う。すると、まるで泣いているかのように桜が枝を揺らし、多くの花びらを散らした。幻想的なその様に、人々は一様に涙を流し、偉大なる王の冥福とこれからのちも続く平和を祈ったという――俄かには信じ難い奇跡譚が残っている。

その桜が、今日『羅刹の桜』と呼ばれる史上最古の桜であると伝えられているが、戦乱の時代ゆえなのか、所以について書かれた書物は散逸し、詳しい伝承は残っていない。唯一伝わっているのが、『羅刹の桜』の管理を任されていた寺の少年が、幾度となく訪れ桜を見上げてゆく者は、誰もが皆懐かしい者を見るようなそんな表情を浮かべていたと、のちに書き残しているのみである。



我は、羅刹のすべてを知り得たわけに非ず。

されど、我が見聞きし、ここに記した旨に嘘偽りはなし。

羅刹改め、紫苑という素晴らしい力を誇った一人の陰陽師の生は、至極困難に見舞われ、幾つかの罪をも犯した。されど、その罪の多くは偽りである。我が生涯を懸け見出した紫苑の誠は、今記してきた旨に相違あらん。

いつの日か、この文書は明らかになるであろう。紫苑がそれを望まずとも、歴史は真実を探し求め、失われたその名を必ずや取り戻す。為すべきことを為すための覚悟を問い続けた我の生も、その時こそすべてが報われ、我はついに紫苑を超えよう。


我々は忘れてはならん。我々が今享受するこの平和は、紫苑の屍の上に成り立つものであることを。されど、紫苑の遺志を継ぎ、この平和を絶やさんと願い、明日を生きることこそが、紫苑にとっての幸いであることもまた忘れてはならん。

紫宗陛下に心身を賭し、この国の闇を切り拓いた偉大なる陰陽師、紫苑に心からの敬意を顕し、我はここに記すものとする。


公孫策

『羅刹抄』



宋鴻の死後、三百年後――


「婆や! あのお話をもっかいしてー!」

小さな女の子が腰の曲がった好々爺然とした古老に駆け寄る。それを聞いた他の子どもらも、僕も私もと言いながら古老の周りに群がった。

「またかい? この前もしてやったじゃないか」

「いいの! あのお話が一番好きなんだもん」

女の子はせがむように古老の膝を叩く。「しょうがないねぇ」と溜息をつきながらも、木漏れ日のような穏やかな微笑みを浮かべた古老は、涼やかな目元の涙黒子をさらに歪ませて微笑んだ。

「……さて、話をしようかね」

懐かしくて、愛おしい昔話を。



いつの時じゃったろうか。

闇が、そこに早く在った。

国を統べるはずの主は政を忘れ、傾国と称された美姫に身も心も溺れ尽くしておった。それを正さんと立ち上がった者も、血は争えぬのか、同じ道へと歩み出したことに気づかなんだ。

やがて、唯一にして絶対の至高の座を得るためだけに、愚者と愚者による先の見えぬ争いが始まってしもうた。そこには国の主としてあるべき姿はなく、何に代えても守るべき民は、争いに勝つための道具に成り下がった。

安寧はどこぞ。平安はどこぞ。

我らは幽鬼の如き虚ろな(まなこ)で絶望を映し、血に穢された大地を這いつくばって、死を待つことしかできぬのか。

天は我らを捨てもうたのか。


じゃが、運命(さだめ)(とき)は廻る。

この地に一人の娘が降り給う。白き衣をまとい、まるで天女もかくやというその御姿。零れ落ちる美しさに、誰もがその娘に心奪われたそうな。娘は不思議な力を操り、闇を切り裂き、この地に光をもたらした。のちに名君と讃えられる王をその力を以って守り、次代を切り拓く礎となったと云われているそうな。

じゃが、時は有限であり、力もまた然り。

娘が望むものと引き換えに差し出した己の命は、刻一刻と磨り減り、何度目かの桜の季節を迎えた頃、ついにその時はきた。もう自力では立ち上がれぬほど憔悴し、玉のような白肌に幾筋も痛々しい傷を抱えた娘は、それでも何一つ悔やむことなく笑うていた。愛する者たちを守り、美しい未来への道筋を創ることができたと、ただそれだけを支えにしてのう。

そして、娘は最も愛した者の腕に抱かれ、その身体は塵に還った。


この地を救い給うた、神に愛されたその娘は、その偉業に反して娘を示すものは少なく、確かなことはその名しか伝わっておらなんだ。じゃが、その娘を語り継ぐ声はいつの時代もやむことを知らず、困難を自ら切り拓く力強い標として、今も人々の記憶の中に生き続け、愛されているのじゃ。

その娘の名を、紫苑と云う。


語り部知らず

こんにちは、紫苑と申します。

この度、無事に初作品「死ぬならばせめて桜の下で」を完結させることができました。

紫苑の人生を描きながら、なぜもっとハッピーエンドにならないのだろうと何度も思いました。私が作者ですが……

紫苑はとても不器用で、本当は愛に飢えた人。

だから鴛青の腕の中で最期を迎えられたのは、彼女にとって幸いだったと私は思っています。


この作品は、信念と忠誠がテーマとなっています。

己の望むことを叶えるために、必要な何か。

強い意思を持って、何かをやり遂げること。

誰かに、尽くすことの意味。

今の時代で、誰かに心からの忠誠を誓う、なんてことはほとんどないことだと思います。

だからこそ、私は書きたかった。

誰もが自分のために生きる時代にあって、自分以外の人にすべてを捧げられるその人生を。


最後になりましたが、拙い文章をここまでお読み下さり誠にありがとうございます。

皆様の生に、幸多からんことを。


紫苑

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