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最愛

「わたくしは妃殿下と取引をしに参ったのです。次代のために」

そう言って微笑んだ紫苑に、権淑妃はたじろいだ。何かしらの要求のために生かされているのだろうとは思っていたが、紫苑との取引だ、何を要求されるかわかったものではない。

「斯様に警戒せずとも、取って食いやしませぬ。座られたらいかがか」

愉快そうにくすくすと笑う様は、酷く普通に見えた。これまで聞き及んできた紫苑の悪評を根底から覆すような。

権淑妃は恐る恐る椅子に腰かけた。逃げ出したい恐怖には変わらぬが、紫苑の姿に一瞬だけ興味が首を傾げてしまったのだ。

「なぜ取引と……?」

それにしても、一体何を要求されるのだろうか。城も権力も失った今の自分に差し出せるものなどたかが知れている。これから天下を獲ろうとする宋鴻の配下である紫苑が、今日この日に訪ねてきた理由はなんなのか。

「その前に一つ、昔話をしましょうか」

「昔話?」

そんな権淑妃の不安を感じ取ったのか、あえて紫苑は本題に入らず、それを話し出したように思えた。紫苑はゆったりと背もたれに身を委ね、その瞳は闇を切り取ったかのように暗く遠い。まるで神の御前で懺悔をするかのような息苦しさで、権淑妃までもがその闇に呑まれてしまいそうに感じた。

「わたくしはこれまでの生を、破壊の術者として生きて参りました。……世界が誕生してより、連綿と続いてきたすべての物質、概念、思想、そしてありとあらゆる生命の一切を破壊する者。ゆえに、人はわたくしを『白妙の羅刹』、鬼と呼ぶのでしょう」

自らを鬼と称しながら、天女の如き(かんばせ)で微笑む。それは、まるで表裏一体。光と闇と、悦びと苦しみと、善と悪と、その危うい狭間で紫苑は行きつ戻りつを繰り返している。「あなたはその、破壊の術者以外に生きることはできなかったのですか」と、口をついて出てしまったのは、それを憐れんだわけではないが、不思議に思ったのだ。自らを鬼とすることに、一抹の諦念が浮かんだように見えたからかもしれぬ。

その瞳の奥に揺らいだそれを隠すようにして、紫苑は一つだけ瞬きをし、再び微笑んだ。

「術者というものは、それぞれに特性を持つのです。後天的に力を得る者は、己がこれまでしてきた修行や思想に拠るものが多いですが、わたくしのように先天的に力を得た者は……、選ぶことができませぬ。与えられた宿命に逆らうことができぬように」

「与えられた宿命……?」

「わたくしに与えられた宿命は二つ。一つは、『すべてを捧げられる主との出会い。そして、それと引き換えの一切の喪失』」

はっと息を呑む。

「そして、もう一つは我が師より託された願い、ともいえましょうか……、それは何を犠牲にしてでも為さねばなりませぬ。長い時が過ぎる間に歪に変わり果ててしまったこの世界を、根本から正す――それが、『世界の修正』。本来、わたくしはそのためにここに在るのです」

何気なさを装ったその言葉は、底知れぬ絶望を含んでいた。紫苑がまとうこの深い水底に似た静かな哀は、それを表していたのだろうか。だが、その哀が凪ぐまでに、紫苑はどれだけのものを諦めてきたのか。

一体、どれだけのものを失えば、権淑妃だけではなく、他の誰もが手に負えるはずもないであろう、その無情な哀が凪ぐのか。

紫苑は少し遠くを見るような瞳をしていた。その瞳に宿る色は、やはり哀を堪えている。透明で、見ているこちらまでもが心震えてしまいそうな、涙の紺青。

「いずれ、すべてが明らかになる時が来るでしょう。今時代は変遷の時を迎え、わたくしの死と共に一切が良き方向に向かう。それが静羅人より静葛が継ぎ、陰陽省が繋いできた――最後の希望。絶やすわけにはゆかぬのです。希望を喪うということは、彼らの願いを無碍にするということ。落日の時は、確かに迫っているのですから」

「な、なぜ……それを私に告げるのですか……。大事なことなのでしょう? あなたがその命を懸けるほどに。敵方である私に漏らせば、すべてが台無しになるかもしれぬではありませぬか」

絞り出した声は、いつになく乱れていた。常に冷静であろうと、取り乱してはならぬと言い聞かせていた己の声ももはや聞こえぬ。

対して、紫苑は少しも取り乱した様子はなく、ただ権淑妃の手を取った。思わぬ確かなぬくもりに、権淑妃の心が跳ねる。

「破壊の後には、必ずや再生がありましょう。傷つき、疲弊した世界は新たな王を戴き、千年のちも続く未来へと時を刻み始める。……どれほど希望に満ちた世界が待っているのか……。わたくしはそれを夢見るだけで充分なのです。……そう、充分だと思っていた。――今日、これまでは」

言葉を詰まらせた紫苑は、権淑妃の瞳を正面から見つめてきた。

「権淑妃殿下は、明日死ぬべき運命(さだめ)……。本来、それは変えるべきではない。定められた歴史を変えれば、必ずや新たな歪みを生み、さらなる破壊をもたらすやもしれませぬ。それでも、わたくしは……願ってしまったのです。あなたを生かすという、あるべき運命とは違う道を」

「私が生きる、と……?」

「不思議なものです……。わたくしの中に、未だ良心があったとは」

苦笑するように笑った紫苑の手は温かかった。権淑妃だけではなく、すべての人が紫苑を誤解していたことに気づく。これほどに温かな人が『鬼』であるはずがない。

「あなたを生かすことが、わたくしに残った最後の良心。――そして、最後の一手」

紫苑が広げた右手に、忽然と白い蝙蝠が現れる。呆気に取られた自分に紫苑はそれを差し出した。

「この蝙蝠には、わたくしの力の半分が封じられております。あなたを守り、その時まで導いてくれるでしょう」

「その時……?」

途端に険しい顔つきになった紫苑は、細めた瞳でちらと蝙蝠に視線を向けた。

「おそらく敵は一つに非ず。そして、もしわたくしの不安が当たれば……、戦いは困難を極めるでしょう。これから相手にしようとする者は、それほどの敵。されど、あれはわたくしに力があるうちは、決して姿を現しはせぬでしょう。狡猾な男です。生半可な策では、あれを謀ることはできぬばかりか、こちらも危うい。ゆえに、それを逆手に取り、敵を誘き寄せるための策です。あなたにはこれを守っていただきたい」

「ですが……、私はあなたのような力を持たぬ只人なのですよ? どうやって守るというのです?」

自分にはなんの力もない。淑妃としての地位すらも失えば、権淑妃できることなど皆無に等しい。にもかかわらず、そんな大切なものをどうやって自分に守れというのか。だが、紫苑は不敵に笑っていた。

「それこそが敵を欺く一手なのです」


 *


 目も開けていられぬほどの白光の中、李人は一瞬私からも視線を逸らした。その一瞬の隙を私は見逃さなかった。

 すべてはこの時のため、あの日から戦いは始まっていたのだ。

 白光が途切れた瞬間、一気に李人との距離を縮める。李人が遅れたわずかな間に、隠し持っていた懐剣で李人の肩に深く突き立てた。

「ぐあああああっ!!」

 傾いだ李人の身体を地面に突き飛ばし、動けぬように全体重をかけて跨る。だが相手は男、凄まじい握力で首を掴まれ、体勢を一気に逆にされた。絞め殺すといわんばかりの力を籠める李人を私は嗤った。

 すべてはもう決したのだと、嘲笑って。

「何を笑っている?! 武器を隠し持っていたとは盲点だったが、この程度の傷で私が怯むとでも思ったか!」

「気づ、かぬ……か。なにゆえ、わた……くしがこの、時を待って、いた……か……」

「なんだと!」

「ちか、らを……わけた、のは……なん、のため……か」

 李人の目が限界まで開き、首をしめていた手が緩む。激しく咳き込むが、すぐさま李人の腹を蹴って、李人の魔手から逃れる。

 そこに降りてきたのは白き蝙蝠。空中で形を変え、光の玉のようになったそれは私の身体に溶け込むように戻った。どくんと心臓が大きく鼓動を打ち、放出してばかりだった力が急速に私の中に戻ってくる予感がする。そして、かちりと何かが嵌る音ともに感じたのは、懐かしくて温かい光。あの人そのもののようなそんな魂のきらめき。

「まさか……父の魂を、その身から取り出していたのか?! そのような身体で戦えるはずがない! 自殺行為だぞ?!」

「そなたを誘き出し、始末するためなれば手段は厭わぬよ。結果そなたを殺せるのだ、権淑妃殿下には感謝せねばなるまい」

 後方で心配そうな表情をした権淑妃を見る。彼女は立派にやりおおせてくれた。ならば、次は私の番だった。

「そうだ……権淑妃はあの時死んだはずだ。どうやって、私を欺いた?!」

 なおも興奮したまま語気が荒い李人に、始めの冷静さは欠片もなかった。

 だが、その言葉で確信する。李人は歴史のすべてを高蓮のように詳細まで熟知しているわけではないことを。今までは趙佶に化け、知らずに情報を流していた高蓮から歴史を得ていたのだろうが、李人の正体を知った高蓮は、その重要な事実を李人に言わなかった。

「まさか……本当、だったとは……」

「高蓮様?」

 首から流れ落ちる血に朦朧としながらも、一部始終を見ていた高蓮は笑った。その傍らに立つ権淑妃に、過去より脈々と続いてきた歴史というものの偉大さを肌で感じながら。

「民間、伝承に……過ぎませぬが、権淑妃で、んかが……人知れず、生きのび……羅刹の、助け……となった、という話、を……聞いたことが、あります」

「高蓮。もう、話してはなりませぬ。傷が……」

 膝を折り、自分の手を取った権淑妃に言葉にならぬ想いが込み上げる。

 本当に起きるとは思っていなかった。権淑妃の死を悼んだ民たちが創り上げた、ただの御伽噺の類に違いないと。だがそれでも、李人に言わなかったのは希望を捨てられなかったからだ。そして、その希望は現実となった。

 権淑妃が生きていた――それが、この世界を救ったのだ。


 *


「この蝙蝠があなたの手に渡れば、私は力の半分を失い、残りの力も急速に減らすでしょう。敵は必ずやその瞬間を狙い、姿を現すはず――その時こそが、好機。なくなったと見せかけていた力を取り戻し、一気に敵を葬り去ります。……されど、もし敵に気づかれれば、私の力を得ようとあなたが狙われることになる。それでも私は……あなたにこの蝙蝠を受けて欲しいと思っているのです」

 紫苑にとってもそうであるように、自分にとっても一か八かの賭け。露見すれば、二人共命はない。

 なぜそんな大事な、すべての要ともなる鍵を人となりも大して知らぬ自分に託すのかと思うが、権淑妃の中に迷いはなかった。あったのは、懼れだった。

「力というものは、半分なくなっても……生きていけるものなのですか? あなたの身体に、何か支障が……」

 そう問いかけて、支障がないなんてそんなはずはないのだと知った。

 何かを覚悟した者のまっさらな表情を浮かべた紫苑は、ただひたすらに美しかった。涙が再び零れるほどに。

「私は良心だといいながら、あなたを利用しようとしているのです。……誠に、『白妙の羅刹』の名に相応しき残酷さでしょう。ゆえに、私を心配召される必要はございませぬ。私は私のすべきことを、するまでにございま……」

「そのような物言いはおやめなさい! あなたは生きねばならぬ人です」

 つい大きな声が出てしまった。自分はこんな声が出たのかと驚くが、紫苑もそれは同じだった。

「わたくしもわたくしのすべきことをしましょう。どうせ一度は死を覚悟した身の上です、恐れるものなどありはしませぬ。この国の淑妃としての責を、守るべき者としての責を果たしましょう。……ですから、あなたも生きるのです。生きて、希望に満ちた世界を見るのです」

 紫苑は瞳を揺らしていた。

 『白妙の羅刹』などとんでもない。紫苑はただの一人の女性だった。自分と同じように守りたいものがあって、必死に道を拓こうとしているただの一人の――勇気ある人だった。

「わたくしは、あなたの命ともいうべきこの蝙蝠を守ります。ですから、あなたも約束してください。……約束が果たされるまで、必ずや生きると……!」

 蝙蝠を受け取ると、見た目に反してずっしりと重く、人肌のようなぬくもりを感じた。これが命なのだと、そして自分はこれを守ってゆかねばならぬのだと改めて心を決める。

 不意に、手の上に落ちてきたのは透明な雫。驚いて顔を上げれば、紫苑の瞳からそれが零れていた。

「涙が……」

 拭おうとして、胸がしめつけられた。

 紫苑は己が泣いている理由をわかってはいなかった。戸惑い、権淑妃の手を逃れるように立ち上がろうとした紫苑の腕を取って、自らの胸の中に引き寄せる。

「権淑妃殿下……?!」

「どうか花恭と……わたくしの名です」

「……花恭、様……?」

 紫苑の身体は細く、頼りなかった。こんな身体に一体どれだけのものを背負い、生きてきたのか。

 人にはそれぞれの責任があるように、紫苑のそれを他の誰かが変わることはできない。それでも今この時だけでも、すべてを肩代わりすることはできずとも。

「わたくしはあなたと共に在ります。これからの日々、戦いに身も心も疲れ果て、何を忘れたとしても、それだけは忘れてはなりませぬ」

 生きることを諦めないで欲しいと願う。たとえ、その願いが紫苑に届くことがなかったとしても。今この時、紫苑の無事を願った人が確かにいたことを忘れないで欲しい。

「花恭様は……私が存じ上げる御方に、よう似ていらっしゃるのです。……ゆえに、私は……花恭様に死んでいただきとうはなかった。たとえ、それが歴史であっても、変えてはならぬ運命(さだめ)であっても……私の力は誰かを守るためにあったのだと、遺したかったゆえに」

 震える肩を抱いて、顔を上げる。込み上げてくる涙を必死にこらえて。

 いつの日かくるその時が、どうか最期にならぬことを権淑妃は願うことしかできなかった。


 *


「あの日、権淑妃殿下が飲んだのは、一時的に仮死状態にする薬よ。そなたがどこから見ているとも知れぬゆえ、我が君も含めすべての人の目を欺く必要があった。権淑妃殿下の御身は陰陽省にて匿われ、一切の魂の感知を防ぐため、今日この時まで仮死状態のまま生かされていた」

 だが、そのせいでいらぬ災禍を招いてしまった。主を喪い、凶行を繰り返した小梅を恨むことはできない。これもまた歪めた歴史の代償だとしたら、小梅は私の我侭に巻き込まれた被害者だった。

「ふ……なるほどな、どうりでお前の力の消耗が早いと思った……だが、これで終わりか? 力を取り戻したとて、所詮は半分だけ。一度定着したはずの魂を切り離すという荒業を行ったその身体は、もはやぼろきれ同然であろう」

「言ったはずよ。……そなたはすでに我らの術中にあると」

「何……? ぐあっ……!!」

 懐剣を刺した傷から黒い蔦が一気に芽吹く。それに呼応するように鴉が形成した陣からも同じ蔦が生え、李人の身体をがんじがらめに縛り上げる。地獄がこの世に具現化されたようなどす黒い渦の中心で、恐れおののいたような李人がこちらを見ていた。

「この術式は、まさか……」

 心臓の前で手を組み、最も忌まわしく最も惨いといわれる呪を叫びながら唱える。

 半円状の膜が陣の上に出現し、その上からも再び封をする。中のものが決して外に漏れ出さぬよう細心の注意を払いながら一言呟く。

「……仕舞にしようぞ」

 暗黒色を帯びた膜が電気を発し、李人の身体をしめつける蔦がなお一層勢いを増した。

 羅人からこの呪を伝授されたとき、まさかこれを使う時がこようとは夢にも思わなかった。それほどに邪悪な呪であり、本来ならば使うべきでもない。

 あの時の羅人が何を想い、私に伝授したのかはもう知れぬが、これを使う時がいずれ来ることを羅人は知っていたのだろうか。それが、実の息子である李人であったことは羅人ですら知り得ぬ、神のみぞ知ることだったとしても。

「ぐっ……さすがは、羅刹……! これを……使う、とは……しかも、蝙蝠は……」

「愚かなことをしたな。誰もが誤解しているようだが、蝙蝠は私の中の力を制御するために持っているもの。そなたは私に、自由に己を殺せと言ったも同じことよ。……わかっているだろうが、この術式はそなたの魂を完全に消滅させるためのものだ。そなたは二度と転生することは叶わぬ」

「ご大層な、ことだな……! だが、こんな……もので……引き下がる、私……では、ない!」

 李人から突如として焔が上がる。ごうごうと唸り声を上げて燃え盛る焔は李人を縛る蔦を燃やし、どす黒い黒煙を立ち上らせた。般若の如き顔つきで、李人は空に向かって咆哮し、己すらも焼く凄まじい焔はやがて蔦の勢いを失速させた。

――その光景は、まるで地獄の業火。

 飛んできた火の粉を払い除けながら、私は愉しげに嗤う。

「終わりなればこそ、足掻いてもらわねば……攻めばかりでは、つまらぬというもの」

 怒りにぎらつく瞳をした李人を涼しい顔で見つめ返す。

 炭化した蔦を切り落とし、両手が自由になった李人が未だ壊れぬ半円状の膜を破ろうとしているのが見えて、私は一飛びでそれの頂点に立つ。膝をつき、そこに紋様を書けば、膜の内に大量の水が発生し、焔を押し流そうと轟音を上げ、李人諸共呑み込んだ。

「羅刹っっ……!」

 その刹那、李人の絶叫が響く。苦し紛れに飛んできた光の矢が膜に刺さり、小さな亀裂を走らせる。それが次第に大きな罅となって、膜が崩壊しようとしたとき、亀裂が入った膜を覆うように、上からもう一つの膜が形成された。

 安堵して、深く息をつく。

「間に合うたか……朔方」

 私が創ったものよりも堅牢な膜が、今度こそ李人を閉じ込め、蔦の生命力を補う。再び勢いを増したそれが、引いてゆく水音の奥で李人を捕らえたのがわかった。

 私と李人の最大の違いは、助ける者がいたかどうかだった。

 もし、私を助ける者がなければ、李人の先ほどの矢はおそらく膜を崩壊させていた。そして、李人ではなく私があの蔦に捕らえられていたのだろう。それは些細な違いだが、結果は天と地ほども違う。

 その違いに李人が気づければ何かが変わったのかもしれぬが、再び蔦に身体を縛り上げられた李人の顔を見れば、それがあり得ぬのはわかっていた。

「最期に聞く。……そなたは、なにゆえそのようにしか生きれなんだ」

 気づけば、そんなことを口走っていた。同情をかけるつもりは今さらないが、それでも。

「聞いて、どうする? 私を助け、るか? ……そのようなは、ずは……あるまい。私と……お前は、どこまでいっても……わかり、合えぬ。……己が望むもの、も……忌々しい、宿命……も、生き方も……違う……ゆえに、お前を……心底、憎んだ」

 自分に向けられる純粋なる憎悪。

 それは別段不思議なことではない。今までもよくあったことだ。

「私と同じように……宿命に縛られ、生きているはずにも……拘わらず、お前は……望むものを得た……すべてだ……父からの、信頼も……生きる、意も」

 だが、李人のそれは違っているように思えた。

 憎悪を向ける先が――私の中。静かに焔を燃やす、もう一つ魂。

「お前の望む、未来を……破壊し、お前が非業の、哀しみを遂げる、時こそ……私は、やっと宿命から……逃れられる……と」

 それでも、やはり同情することはなかった。むしろ私は呆れ果てていた。

 どこまでも身勝手な、その生き方に。

「どこまでも幼稚で、独善的で……人間の屑のような男よ。そなたに命を奪われた者も、これでは報われぬというもの……そなたは己の宿命を、一つの方向からしか見なんだ。ゆえに、その宿命の意にも気づかぬまま多くの運命を歪め、さらなる罪を招いた。それは誰のせいでもなく、そなた自身の過ちよ」

「何をわかった、ような口を……お前に、私の何が……」

「そなたの『縛られる生』には、続きがあろう。そなたは都合よく忘れてしまったのやもしれぬがな。――『縛られる生、そしてそれにも勝る強き翼』。そなたは言葉に縛られ、自ら罪を犯したのだ」


 *


 まだ、生きていた頃だった。己の宿命の意味も知らず、それでも愚かに人間臭く生きていた頃。

 偉大なる陰陽師、静羅人を父に持つ麒麟児――長年そう言われ続けていた。羅人の一人息子として将来を期待され、その期待以上の力を発揮していた自分にはただ一つだけ恐れるものがあった。

 羅人は、決して自分を認めようとしなかった。偉大な父、人間としても術者としても到底敵わぬ存在。それがどうしても恐ろしかった。

 父と子として埋められぬ溝は年を経るごとに広がり、もはや修復は不可能であった。それでも李人はおろか、羅人すらもその溝を埋める努力をしようとはしなかった。別にそうする必要もない。羅人は人ではない、ゆえに人の感情も理解できぬのだと決めつけ、そして完全に決別した。

 李人は、やがて羅人とは違う道を選んだ。羅人と同じ道にいては、いつまでも超えられぬと痛いほどわかっていたゆえに。だがそれ以上に、羅人の傍に常に控えていた葛が酷く憎らしくて、逃げるように去った。羅人が引き留めてくれた記憶はない。

 新たに得た道は、李人を生まれ変わらせてくれたようだった。

 木が水を吸うように、李人はこれまでよりも多くの知識や術式を吸収し、その道で李人に並ぶ者はおらぬと称されるまでになった。必然的に羅人と対立するようになり、双方に甚大な被害が及んだ。それでも李人はやめなかった。

 羅人を殺せば、自分は自由になれる。羅人の息子といわれ続けることも、羅人の次に甘んじ続けることも、もうたくさんだった。ゆえに、李人は禁じ手と呼ばれる一つの術式を使おうとした。

 その時だった。羅人が数年ぶりに李人の前に姿を現したのは。

「――李人、やめなさい。何をしようとしているのかわかっているのか」

 記憶している羅人より、年を取ったと思った。白髪が増え、どことなく疲れ切ったような表情をしている。それを自分のせいなのだと心を痛めるには、すでに何もかもが遅かった。

「久方ぶりですね。ですが、あなたの言葉に私が今さら従うとでも思っているのですか? 随分、おめでたい人だ」

「君の意見などどうでもいい。ですが、その術式を使うのだけは許しません。君も愚かではないはずです。それを使った術者が辿った末路をよく知っているでしょう」

 何を言うのかと思えば、羅人はあの頃とまったく変わっていなかった。李人の言葉など始めから聞く気すらない。

「私や他の術者たちが精魂込めて創り上げてきた世界を、君の愚かしいまでの幼稚な正義で壊すつもりですか。私が憎ければ、私自身に攻撃すればよい。そこに他の人を巻き込むことだけはあってはなりません」

「変わりませぬな……あなたは」

 額に手を当て、苦笑する。今の自分はどれほど皮肉に満ちた顔をしているのだろうかと思う。

 羅人は何もわかっていない。己の世界だけで手一杯で、他の世界を何一つ見られていない。ゆえに、今の李人がいるというのに。

「今の私は、離魂姿のあなたなど容易く消せるのです。なんなら、消すついでに呪の一つでも刻み込んでやりましょうか。どのみち、私とあなたは平行線です。言うだけ、無駄」

 話は終わったといわんばかりに、視線を逸らした。

「……君はどこで道を間違えてしまったというのか」

 溜息と共に聞こえてきた声。瞬時に怒りが湧き起こる。

 間違えた? いや、間違えてなどいない。

 常に世界のことばかり考え、他のすべてを差し出してきた羅人。誰にも感謝されず、挙句の果てには化け物だと罵られ、それでも世界のために尽くそうとする羅人のほうこそ間違っている。そんな生き方になんの価値があるというのか。

「……私は、あなたとは違う世界を目指す。力で支配し、人を統率する新たな世界。それこそが私の理想、平和ばかりに腑抜けたあなたには得られぬ世界です!」

「君は何もわかっていません! そんな世界ではいずれ人は疲弊し、何も生まなくなる。力など本来必要ないのです……この世界は、人が人自身で守っていかねば」

「そのような考えだからこそ、あなたは何も為せぬのでは? 私は確実に世界を変えている。力を持たぬ哀れな人は、力ある者に従うほうが楽で何も考えずに済むと知っているのですよ。私は人のごく普通な欲求を満たしてやっているだけに……」

 履き捨てた言葉が音になる前に、身体の自由を奪われたことを知った。即座に対処術を行うが、びくともしない。

「何をしたのです……!」

「君が改心するなら、何もせぬまま帰るつもりでした。……ですが今の君を野放しにしておけば、おそらく世界は壊れる」

 淡々と告げる羅人にせせら嗤う。

「己の理想のために、息子である私を殺すと?」

 羅人の瞳は一片の揺らぎすら見せなかった。まさかと思って、背筋に冷たいものが走る。

「息子であることを先に放棄したのは、君です」

 何かが心臓を貫く。目を見開いたまま下を向けば、羅人の腕が己の身体を貫通していた。なぜか痛みもなく、ただ呆然と羅人を仰ぎ見る。

「な、ぜ……」

 愚かにもそんなことしか言えなかった。

 なぜ、自分を殺すのか。自分の子よりも、羅人の目指す世界のほうが大事だというのか。

 なぜ――父であることを放棄したのは、羅人が先ではないか……!

「李人……忘れたのですか……君の……」

 羅人が何かを言っていた。だが、もう何も聞こえなかった。もう何も、聞きたくなどなかった。

 そして、李人は力尽きた。


 だが、李人は再び生を受けた。

 自分も、おそらくは羅人すらも知らぬ力のために。

 二度目の生は、羅人が死んで百年が経った頃だった。なぜ再び戻ってこられたのか、この時はまだわからなかったが、三度目の生を受けたとき、はっきりと李人は悟った。己の中に存在していた、『転生』というその力を。

 それを知って自分が喜んだのかは、もう覚えてはいない。それほどの時がすでに経った。

 確実なのは、羅人への憎悪だけだった。自分を呆気なく切り捨てた羅人への捨て切れぬ怒りが、転生を繰り返すたびに己を歪め、さらなる闇を引き寄せた。そして、幾度目かの転生ののち見つけたのが紫苑だった。

 羅人が契約によって呼び寄せた人間の一人。始めはその程度の認識しかなかった。どうせ、紫苑も羅人の捨て駒でしかない、哀れな犠牲者が再び出たのかと、李人はほくそ笑んでいた。だが、羅人がついに命を終え、その魂を紫苑に与えたと知ったとき、李人は猛烈に怒り狂った。

 己の息子はさっさと殺しておいて、他人に譲り渡すだと? どこまでコケにすれば気が済むのか。

 李人の存在を完全否定するようなその行為に、羅人に対する憎悪のすべてが紫苑に向かった。

 紫苑をもこの永劫なる地獄に引き摺り込んでやろう。愛する者も己の望みも、羅人より託されたこの世界も、すべてを奪い殺してやる。

 それが、羅人への復讐。もう自分に、それ以外の望みはない。


 *


「翼はなんのためにあるのか。縛られるのがそれほど嫌ならば、なにゆえその力を以て己の運命(さだめ)を切り拓く努力をせぬのか。……なにゆえ父の言葉を聞こうとはせぬのか。師匠はそなたに言うたはずよ」

 羅人は何も言っていない。この小娘は何を言っているのだ。

 平気で息子を殺す羅人が何を自分に、言うはずが――


『李人……忘れたのですか……君の……』


 唐突に蘇るのは、あの時。

 死の間際、今までに聞いたこともない震えた声で羅人が囁いていた言葉。羅人はあの時、なんと言っていたか。


『君の翼は、天にはばたくために……あるのです。父に囚われる必要など、なかったというのに……李人よ――すまぬ』


 なぜ自分は忘れていたのか。羅人のその言葉と、己の宿命の誠の意味を。いつ以来かもわからぬくらいに羅人が呼んだ、己の名を。

「私は、今まで……何を……」

 黒い蔦が一気に李人の視界を覆い尽くす。

 青いはずの天が遠のき、一切が闇に還る。ようやくの死の訪れを呆然と理解したとき、瞼に浮かんだのはいつも見ていた懐かしい後姿だった。

 大きくて遠くて、届くはずもない距離にあったその背。だが、かつての自分はそれを超えようとただ必死に、純粋に駆けていた。いつの間にそんな自分を捨てていたのか、今ではもうわからない。

「ちち、うえ……」

 一瞬にして李人の身体は粉々に砕け散り、塵と化した。

 暗黒色の膜が急速に縮まり、唯一残った李人の魂を囲う。それは蔦にがんじがらめにされ、死しても逃れられぬ煉獄を意味していた。私は陣の中心に降り立つと、左手より焔を呼び、魂ごとすべてを焼き尽くした。

 燃え盛る焔を前にして、私は何一つ言葉も祈りも発しようとは思わなかった。

 本来、転生の力は忌むべきものだ、と羅人は言った。その力を得た者の魂は死んでも死ぬ切れずに、魂の砂漠を彷徨い続ける。死という安らぎを得ることのできぬ魂は、やがて降り積もった痛みに耐えられず、発狂する。それを思えば李人もまた、哀れな生であったのかもしれなかった。

 わずかに目を伏せ、焔に背を向けた。それでも李人が行ってきたことは許されるものではない。


 陣の外に、ぐずぐずに腐った小梅を支える権淑妃が見える。使役していた李人の力がなくなり、小梅の身体はすでに崩壊寸前だった。そして、鴛青に抱えられた高蓮もまた、命の灯を絶やそうとしていた。

「紫苑……! 高蓮様が……」

 彼らの許に降り立った私を、すぐに鴛青が見上げた。

 高蓮の傷に当てられた布は、鴛青の衣の切れ端だった。仮にも恋敵である高蓮を見放すことなく、必死に命を繋ごうとしていた鴛青にそっと微笑む。

「すまぬ……私の不注意で、高蓮様を……」

「……よい。この男は少し頭がおかしいのだ。さもなくば、己で首を掻き切れるか」

「ひど、い……言いよう、ですね……」

 苦しげに息をする高蓮を見下ろす。その視線が絡んだとき、私は高蓮の心を知った。気が遠くなるような痛みにも拘わらず、高蓮はただ穏やかであった。

 高蓮の額に手を置き、痛みを和らげる術をかける。今の自分には、もうこれしかできることはなかった。

「高蓮、説教は後だ。もう少しだけ耐えよ」

 すべてを理解し微笑んだ高蓮を見て、私は権淑妃と小梅に向き直った。

「権淑妃殿下。まずは、感謝の意を申し上げたい。妃殿下のおかげで敵を永劫に葬り去ることが叶いました。なれど……私のいたらなさゆえに巻き込んでしまった、小梅のこと……どう、詫びればよいのか」

「何も、言ってはなりませぬ」

 小梅を腕に抱いた権淑妃は泣いていた。それでも決然とした眼差しは、あの頃と一つも変わらなかった。

「誰も恨んではならぬと申したのは、このわたくしです。……敵に操られたとて、小梅は自らこの姿になることを望んだのでしょう? ならば、その罪を小梅自身が償わねばなりませぬ」

「されど、小梅は……!」

 やるせなく首を振った権淑妃に戸惑って、言葉を失くす。

「たくさんの人が、死にました……あなたも償うべき罪があるように、小梅もまた同じなのです。……されど、守ってやれなかったのはわたくしの罪。ですから、せめて小梅が安らかに逝けるように、わたくしは何を失っても構いませぬゆえ、どうか……!」

 必死に懇願する権淑妃の涙は、透明に輝きただひたすらに美しかった。その中の一滴が、動くこともなくなった小梅の瞼に落ちる。すると突然、そこから淡い光が放たれた。

「な、何が起こって……?」

 驚いた権淑妃の腕から、小梅の身体がゆっくりと浮き上がる。留めようとした権淑妃の腕を遮りながらも、私はこれから起きようとしていることを全身で感じていた。

 小梅から発される光に呼応するように、燃え尽きた焔の跡から陣が再び蘇り、白光を放ち始める。今までにないほど急速に己の身体から力が流れ出し、そのすべてが陣の中央に集約されてゆく。白光を放つ陣はさらに大きさを増し、光の道がこの世界全体へと根を伸ばす。

「ようやく、為ったか……」

 激しい眩暈に身体を支え切れず、地に手をつく。だが、横からふわりと身体を抱きかかえられた。

 視線に入るのは、黒い羽。驚愕して、私を支えようと伸びてきた腕を掴み、顔を上げる。

「か、らす……?! そなた……生きて……!」

「勝手に、殺されては……たまりませぬ。……主より……先に逝ける、ものですか」

 満身創痍で自慢の黒い翼も傷つき、それでも鴉は不敵に笑った。

 李人の攻撃をもろに受け、もう駄目かもしれぬと覚悟していた私は不覚にも泣きそうになる。

「愚か者が……! 私のために甘んじて攻撃を受けるとは、私も舐められた、ものよ!」

 自分の結界を出た瞬間、それに気づいた。

 鴉が作り上げた陣には、私の力を補完する術が重ねてあった。その術をかけるために、鴉はあえて李人の攻撃を受け、倒れた。その術がなければ、今どうなっていたかはわからない。だからこそ、さらに怒りが込み上げる。

「過ぎた、ことは……よいではあ、りませぬか。それよりも……早く、完成……させねば」

 惚けた顔をする鴉に、後で覚えておけと心の中で叫ぶ。鴉が生きていて心の底から安堵している私を知りながらやっているゆえに、なおさら質が悪い。

「……そなたは反対側を支えよ。この機に、すべての片をつける」

「御意」

 飛び去った鴉の背を睨み、陣の反対側に立つのを見届ける。お互いに差し出した掌から光が走り、術式をより強固なものにしてゆく。

 膨大な力が己から失われてゆくのがわかる。だが、もうあと少しだった。あとほんのわずかですべての綻びが修正される。私が為すべきことのすべてが、終わるのだ。

「ここで……倒れてなるものか」

 耐えようとする己の意志に反して、膝が震え出す。

 駄目だ、今ここで倒れては鴉にすべての負荷がいってしまう。傷つき、立っていることすら奇跡でしかない今の状態の鴉にそんなことをすれば、今度こそ命はない。


『私を……使って、くださいませ……』


 突然、耳に響いたのは以前に聞いたことのある声だった。

 浮いていたはずの小梅の身体が目の前で崩れ落ち、内包されていた魂だけが清らかな輝きを放つ。あまりにも純粋なその輝きに目を細め、仰ぎ見る。

「もしや、その声……小梅か? 意識を取り戻したのか」

 同意を示すように、光がちかちかときらめく。

「それど、そなた……己が言ったことの意をわかって……聞くだけ、無駄か」

 苦笑して、手を差し出す。その上に、転がるように小梅の魂が乗った。

「……私に魂を預けるとは、そなた憎くはないのか」


『花恭様を、救って……いただいた。……それだけで、もう……いいのです』


 小梅のその答えは、私と似ていると思った。私の宋鴻に対する想いと同じように、小梅もまた権淑妃を心から慕っていた。


『約束を、守れず……申し訳ありませぬ、と……どうか、花恭様に』


「嗚呼、必ずや伝えよう。……そなたも、もう眠るがよい」

 鴉が言ったように、小梅を救ってやることはできない。そして、人柱となることを望んだ小梅の魂は、次の世に生を受けることも叶わない。

 涙は流さなかった。ただ救えなかった一つの命を惜しみ、天を見上げる。完成された術式が、世界を包む光の洪水となって各地に広がってゆく。その光の中にそっと小梅の魂を放した。

「もう、苦しまずともよい。……夢を、見よう。いつの日かの邂逅を」

 叶わぬ夢だと知っていても、それでもなお願わずにはいられない。

 今さらになって思い知る。命の尊さと、その儚さに。人はその前で、あまりにも無力だった。


『いいえ、あなたは……無力では、ありません。……こうして、私を救ってくださったでは、ありませんか』


 優しく微笑む声が聞こえる。

 零れそうになった涙を必死に堪え、凛と顔を上げた。小梅の最期の言葉は、その美しい光と同じように私の心を照らし、救ってくれるものだった。

 小梅の魂が脆弱だった術式を繋ぎ合わせ、さらに光を溢れさせた。きらきらときらめく光を浴びて、泣き笑いのように微笑む。

「終わったか……」

 『眼』を開かずとも、わかる。この世界に満ち始めた清浄な気が。淀んでいた悪意が失われ、少しずつ希望が生まれてゆくのを。――これほどにも、深く安堵したことはない。

 ようやく、終わったのだ。長く人々を苦しめ、この世界を壊していた、戦いやその他の何もかもが。

 暗雲が立ち込めていた天は光を受け入れるように晴れ渡っていった。そこから導かれた一筋の光が、ある人を包む。振り返った私に、なんの未練もないような穏やかな眼差しを向けて。

「高蓮……」

 ゆっくりと歩みを進め、その傍に座り込む。鴛青から高蓮の身体を譲り受け、そっと膝の上に抱く。

「ようやく……死が、来たよう……ですね」

 高蓮の身体は嘘のように冷たかった。これまで命を繋いでいたことが信じられぬほどに。

 なぜ、などそんな愚かなことを聞くつもりはなかった。高蓮が何を捨て、何を守るために死のうとしているのか、今の私にはよくわかっていた。

「……死ぬのか」

 酷く冷静であろう自分の声にも、動じた様子も見せずに高蓮は飄々と答えた。

「ええ……もう、心残りは……ありませんから」

「死ぬことは、許さぬと申したはずよ」

「……私は、幸せです……あなたに死ぬことを、引き留めて……もらえるの、ですから……もう、悔いはな……い」

「私がそなたの願いどおりにすると思うてか? 私はそなたに死ではなく、生を与えるやもしれぬぞ」

「あなたは……しませんよ。優しい、人ですから……」

 高蓮は少し疲れたように笑って、再び私に手を伸ばした。首元に触れられ、力なく引き寄せられる。

「私の、仙女……ずっと、ずっと……お慕いして、おり……ま、す……」

 はらりと高蓮の手が落ちる。妙に現実味のないそれを、私はただ見つめていた。

「高蓮……? どうしたのだ、いつものように嫌味の一つでも、言うてみよ」

 動かなくなった身体を揺らし、閉じてしまった瞼を必死に開かせようとする。

「なぜ目を開けぬのだ……? ……ほら、そなたがあれほど欲しがっていた、この私が申しておるのだぞ? 早う、開けよ……早う、起きよ!」

「紫苑……もう、高蓮様は……!」

「好いた女の身体一つ奪わぬで……そなたは死ぬというのか! どこまで腑抜けた男よ、許さぬ……高蓮、起きよ! 高蓮!」

「紫!」

 鴛青が取り乱した私を押さえ込む。その強さにはっと我に返る。

「高蓮様は、もう亡くなられたのだ……紫、わかっているだろう……!」

 呆然としたまま高蓮の顔を見る。生気を失い、青褪めたそれは生きている者の顔ではなかった。

 だが、高蓮は心底幸せそうな表情をしていた。身体中に傷を負い、わけもわからずこの時代に来て、そしてすべてを失った男の表情ではない。何かをその手に得られた男の、美しい死に顔だった。

 その生を誰が不幸だといえるだろうか。高蓮もまた精一杯生きて、そして潔く散っていったのだ。――桜と同じように。

 一気に身体から力が抜ける。後ろに倒れかかったのを鴛青が抱きかかえ、ようやく得たぬくもりに己を取り戻す。

「……すまぬ、私らしくもない……高蓮の思う壺ではないか……最期まで憎たらしい男よ……」

 私に惚れましたか? ですが少し遅かったですね、と高蓮が楽しげに言う声が聞こえるような気がした。誰が高蓮のような陰険むっつり男に惚れるか。首を洗って出直してこい。

 だが、心を占める空虚さはなんだったのかはわからない。認め合っていた好敵手を失ったような、そんな空虚さに似ているのだろうか。

「紫苑殿……」

 私の左手を取ったのは、権淑妃だった。目に涙を溜め、安心したかのように何度も頷いていた。

「権淑妃殿下……申し訳ありませぬ、小梅が……」

「よい……よいのです。聞こえていましたゆえ……小梅は、安らかに逝けたのですね……」

「はい……」

 よかったと呟き、私の手を強く握る権淑妃に私は微笑んだ。この御方を生かすという道を選んで、本当によかったと思う。そうでなければ、今ある未来は訪れなかった。そしてそれ以上に、私の心が救われることはなかった。

「やっと……すべてが……」

 私は今一度、言葉を唱えた。最後の言葉を。

 その瞬間、結界によって閉じられていた空間が開き、兵が一挙に雪崩れ込んできた。突然開いた扉に驚きつつも、それよりも何も変わったようには見えぬ外観と違い、崩壊し尽くした闘技場内に誰もが言葉を失っていた。

 その後ろに三つの馬影があった。惨憺たる現状に何一つ表情を変えぬまま、後ろに翁、呉陽を従えて、その人はただ私だけを見ていた。その表情からは何も読み取ることはできない。私に呆れているのか、それとも情けをかけるほどの資格もないと思っているのか。

「宋鴻様!」

 あと少しの距離のところで鴛青が声を上げた。私の肩を抱くその手に力が入る。

「許されぬことだとわかっております……罰ならば私のすべてを以ってでも、お受けいたします。されど……されど、どうか……紫苑の最期を私が看取ることを……どうかお許しください!!」

 宋鴻は馬上から鴛青を見下ろした。

 見たことのない青年だが、この者が出立間際に紅玉が自分に言った者なのかもしれなかった。精悍な顔つきに、意志の強い瞳が苦悩に揺れている。

「……鴛青と、いったか。そなたのすべてとは、命をも差し出すか」

 冷厳なる声に身が竦む。声だけで、畏怖を感じるさせる宋鴻に鴛青は思わず身震いをした。それでも、鴛青にとってそれだけは渡すことができぬものだった。

「いいえ――命だけは、宋鴻様がなんとおっしゃられようとも、差し出すことはできませぬ。この命を守るために紫苑が払った代償を、私は知っていますゆえ……命以外ならば、なんでも差し上げます。ですから、どうか……!」

「早く、行け……私は、その者の顔をこれ以上見たくはない」

 後ろで控えていた呉陽は、その時紫苑が深く微笑んだのを見ていた。

 背負っていた何もかもを降ろして、やっと、やっと――息をつくことができたかのように。それが死ぬ間際であろうとも、紫苑はただ安らかにあった。

 鴛青と呼ばれる青年がかけがえのないものを扱うかのように、そっと紫苑の身体を抱きかかえる。誰にも自分を預けることのしなかった紫苑が、すべてをその青年に預けていることの意味を知って、呉陽は唇を噛みしめた。紫苑の傍に、最期までいてくれる者がいたことを、ただただ天に感謝する。

 独りで死にに逝くには、あまりにも哀し過ぎた生であったから。


 鴛青は再び、視線を外したままの宋鴻に頭を垂れた。

 腕の中の紫苑は、決して宋鴻に話しかけようとしなかったが、それについて自分が口を出すべきではないこともわかっていた。頭を上げ、完全に変化した鴉に近づこうとしたとき、宋鴻の震える声が耳に届いた。

「……紫苑、あとは私が……引き受ける。……安らかに、眠れ……」

 私は思わず息を呑んでいた。


『そなたのすべてを引き受けて、私は生き抜く』


 あの日の言葉を、宋鴻は今も忘れずにいてくれた。ただただ、心が震える。

 もう何も望まない。私は己が得たかったものを、ついに得られたのだから。

 黒々とした大きな翼が私と鴛青を守るように閉じてゆく。円形状の黒い光が地面に出現し三人を呑み込むと、その先に宋鴻や涙を流す呉陽の姿が垣間見えた。

(お別れにございます……我が君。どうか……世界をお守りください)

 そっと呟いた言葉が宋鴻に届く前に、一際の輝きを放った光と共に一瞬にして空に天翔ける。

 愛おしいものすべてをそこに置いて、ただ一人去ってゆく。流星のような生き様に、誰一人として引き留める者はなかった。


 *


軽い衝撃の後に訪れる、静寂。

鴛青の鼓動がいつもより早い。だが、その音は妙に心地いい。重い瞼をゆっくりと押し上げれば、透明な月の光に照らされた桜が私を待っていた。そのあまりの清廉さに、「桜の……終わり、か」と、うなされたかのように呟く。

そこは泉下の入口に違いない。私にとっても、鴛青にとっても。

花びらが幾重にも敷き詰められた桜の根元に、壊れ物を扱うかのようにそっと下ろされる。その間も、はらはらはらはらと絶え間なく、二人の上に降り続ける。

精一杯生きた、真白な花びらが。

「鴛青……、この世界は……美しいな……」

頼りなく伸ばした掌に花びらが舞い落ちる。何にも染まらぬ白のそれは、一切の罪の浄化。

「この世界は、これほどにも美しいというに……人は、それに気づかぬ。……自ら汚したそれが、決して元には戻らぬことすら、わからずに……。それでも、人が在らねば……何も始まらぬ。人が在るからこそ、そこに喜びが生まれ、悲しみが生まれる。……愛が生まれ、憎しみが生まれよう。それらは、すべて人が在るからこそ。……ゆえに、人は愛おしい」

あの時代を思い浮かべる。空気が淀み、酷く息苦しい世界であった。人は愛することを忘れ、傷つけることを厭わなくなった。それがさらなる痛みを招こうとも、もう誰も思い出すことはない。自分たちがかつて人を愛し、自然を愛して、羽のように軽やかに生きていたことを。――真実、桜はこれほどまでに美しく咲き誇っていたことを。

だが、未来は変わる。あの息苦しいまでの虚に溢れた世界は、もうこぬのだ。

「歴史は、変わる。……(とき)は廻った。人は選択し、神はそれを受け入れられた。……玉座は在るべき者の下に還り、そこから千年のちも続く希望へと……世界は、歩み始める」

瞼を閉じれば、鮮やかに見える。その希望に満ちた美しき世界が。その世界に触れたくて、どうしようもなく手を伸ばしても、闇に魅入られた私に叶う願いではない。

「それでも、わたくしは満たされている……。終わりの時に、こうして……そなたの腕の中に在れるのだ」

崩れ落ちそうになった手を鴛青が掴む。今にも泣きそうな表情をした鴛青に力なく微笑みを向ける。

「私は何も……貴女にしてやることが、できなかったというのに……?」

「何を馬鹿なことを。そなたが在れば……、この世界はそれだけで素晴らしい」

目を見開いた鴛青を愛おしげに見つめる。私がこんな言葉を吐くようになるとは、未だ信じられぬが、今日だけは確かに音にせねばならぬような気がした。

抗い切れぬ眠気が少しずつ忍び寄ってくる。目を閉じれば、すべてが終わってしまうことを、鉛のようの重くなった身体がそれを告げていた。

「ただ一つしか、得られぬ運命(さだめ)といわれながらも……わたくしは我が君と、そして……そなたを得ることができたのだ。それより他に何を望む……」

悔やむことなど、何一つない。私の願いはすべて果たされた。

それにもかかわらず、胸に渦巻くのは、今まで抱いたことのない感情。終わりの時になってようやく知るその願いの輝きは、何をも凌駕する切実な想いを照らす。――嗚呼、人というものはなんと愚かなることか。

「されど、人は欲深いものよ……。何も望まぬと、言いながら……あと少し、一日でもただ長く――そなたの、傍で生きていたいと」 

頬に涙が伝う。止めどなく流れる涙はどこへゆくのだろう。

命を懸け、戦陣を駆け抜けてきた日々は遠い。今ひたすらに強く願うのは、大切な人と共に生きてゆく未来。今まで生になんの執着も得なかったこの私が、消えかかった命の灯火の中で見出した、本当の想い。もう何をするにも、遅いというに。――私は、愚かだ。

耐え切れなくなった鴛青の腕が私を囚える。決して離したくない、死なせてなるものかと、全身で訴えかけるように。それでも、時はくる。

重く圧しかかる瞼をわずかに伏せて、息を吐く。指の先から身体に残っていた最後の力と共に、命の欠片が流れ出してゆく。私がこの時代に存在した歪みをなかったことにするかのように、身体の先から塵と化してゆくのを知る。それすらも鴛青に残してやれぬ己を悔いても、もうその背を抱き返してやることはできぬ。

すべての光が失われる刹那、私はただそれを見ていた。幽玄なる世界が宿主を喪い、悲痛な泣き声を上げながら崩れ落ちてゆく様を。そして、その中でただ一つ、喪われぬ白を。

桜が散る。絶えることなく、はらはら、はらはらと。どこまでも美しいそれに、最期の願いを託すことは赦されるだろうか。

「ありが、とう……」

永遠の散華は、私には必要ない。だからこそ、あなたに。愛を預けた最愛の人の上に降る花となれ。その生を少しでも慰めてくれるように。

いつの日か(よすが)となるように。



後に残った紫苑のぬくもりが残る衣を、鴛青はいつまでも、いつまでも胸に抱いていた。

膝をつき肩を震わせて、声も立てずに泣き続ける鴛青の背を見届け、鴉は長い時を過ごしたこの場所から飛び立った。もう二度と会えぬ、最愛の主を悼んで。


――世に無情は多なれど、人が生き歩む道に希望有り。

時流れ、季節は移ろい、そうして人も桜もいつかは散りゆこう。

されど、人の心に希望の灯が有る限り、慶び謳え、生の尊さを。

なればこそ、わたくしは逝かん。なればこそ、わたくしは願わん。

愛しき者たちよ、どうかその生に幸多きことを。

ありがとう、共に生き歩んだ者たちよ。

永久の別れを口遊み、桜を情けにいざ散りゆかん――

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